ずれ

私用で使う文書を LaTeX で作成しているのだが、どうにもおかしなことがある。

LaTeX って何よ? と聞かれそうなので補足しておくけれど、これは「ラテフ」とか「ラテック」のように読む。Donald E. Knuth というコンピュータ科学者が作った組版ソフトで、主に論文とか、数式の入った文書などを体裁良く印刷するのに非常に便利なソフトである。僕はもう20年程、この LaTeX を公私共に使い続けている。

LaTeX を使うときは、文書に整形用のコマンドを挿入したようなテキストファイルを用意して、これを LaTeX に食わせる。すると LaTeX は DVI (DeVice-Independent) ファイルという中間出力ファイルを吐く。これを、昔は dvips というプログラムに食わせて PS (PostScript)形式のファイルを吐かせていたのだが、今は dvipdfmx というプログラムに食わせて PDF ファイルを吐かせている。PDF ファイルというのは、皆さんもご存知だと思うけれど、この十数年程の間、体裁を整えた電子文書の形式のスタンダードとして使われている。Acrobat Reader 改め Adobe Reader を使えば、無料で閲覧も印刷もできる。しかもセキュリティと暗号化の概念が規格に盛り込まれているので、たとえば閲覧はできるけれどコピペや印刷はできません、というようなファイルを生成することもできる。まあ、便利な代物である。

Adobe Reader は Linux で動作するものもあるし、もしそれがなくても Ghostscript があるので、Linux 上で PDF を扱うのには何も問題はない。しかし、僕が使っている CUPS のプリンタドライバで印刷をかけた場合、手元のインクジェットプリンタでは印字位置がずれてしまうので、生成した PDF ファイルを U の仕事用の Mac に送り込んで印刷するようにしている。

U の Mac には Adobe Creative Suite がインストールされているので、PDF の扱いには何も問題ない、はずだ。なにせ本家本元の Adobe のソフトである。PDF の印刷なんて Adobe Acrobat でさくっと……いけるはずなのだ。なのだが、どういうわけか、これがうまくいかない。まあ横書きの場合は何も問題なくいくのだけど、僕はしばしば pLaTeX を使って縦書きの文書を印刷することがある。これを Mac の Adobe Acrobat で印刷すると、もう目も当てられないような状態になってしまうのだ。

何が問題なんだろう……と、しばし考えてから、僕は Adobe の標準フォントを PDF に埋め込むことを考えた。Adobe の標準フォント、と言うと、何やねんそれは? という話になりそうだけど、要するに、Adobe Reader に標準添付されている小塚明朝と小塚ゴシックを明示的に指定して、これを PDF に埋め込んでやる。このファイルは、そのまま配布するのはフォントの版権上ちょっとマズいかもしれないのだが、こうやって印刷するためにだけ使うのであれば、特に問題はないだろう……ということで、LaTeX 側にちょこちょこっとマップファイルを書いてやって、改めて PDF を作成してやる。印刷すると……うーん。ずれる。ずれるんだが、まあ見られないこともない、と言える位の感じなので、これでやりすごしていた。

しかし、今日のファイルは強敵だった。もうずれまくりで、どうしようもない。かくなる上は……と、 Linux 上で昔ながらの PS ファイルを作成した。ただし、この PS ファイルは PDF ファイルを基にして、いわゆるビットマップ展開をかけたものである。これを Mac に送り込んで「プレビュー」で表示させると……うん、表示は問題ないな。では印刷は……と、見ると、今迄あれ程悩まされていたずれが、嘘のように解消されているではないか。

しかし、どうにも解せないのである。LaTeX / dvipdfmx で吐かれる PDF というのは、そんなに変なファイルではない筈なんだけど、どうして Adobe 純正のユーティリティできっちり印刷できないのだろうか。結局この謎は今に至るまで解けていない。

証左

政治家という職は、全うに務める上においては、実に大変なものだろうと思う。その理由は二つあるのだが、ひとつは、政治家の業績というものが専ら結果においてのみ評価されるものだからだ。どれだけ汗をかこうが、不眠不休で臨もうが、そんなことは国民においては何も問題にならない。国民の暮らしや、国の有り様、その未来など、国というものをある意味で決定付ける、その結果においてのみ、政治家の業績は評価される。傍目から見てどんなに不純に見えようが、あるいはハナクソでもほじって股座を掻きながら……みたいな不真面目な態度であったとしても、意義深い結果を残せる政治家は、社会において存在意義のある政治家なのである。

そしてもうひとつ、政治家は現在に対してのみならず、未来に向けて仕事をしなければならないからだ。まあこれは政治家に限定した話ではないのだけれど、先の「結果においてのみ評価される」ということを前提として考えると、これは逃げがきかない、ということになるわけだ。未来は誰にも分からない。しかし、未来に向けた布石が結果を残せるのか、ということで評価されるとなれば、これはキツい話である。

以前にも書いたことがあるけれど、僕は大学の教養部(この言葉も今や死語だなあ)時代に『西洋史学』という科目を受講していたことがある。講義していたのは堀井敏夫という人だった。この堀井氏、細身で背も低い、実に華奢な感じの方なのだけど、研究者としての心の強さをありありと感じさせる人だった。今でも鮮明に覚えているのだけど、堀井氏の講義中に、教室に中核派が2人、覆面にヘルメットというお馴染の格好で入ってきて、講義を無視してアジ演説を始めたことがある。このとき、堀井氏はゆっくりと彼らの方に顔を向けてこう言った。

「君達、覆面を取りなさい」

中核派の2人は、その言葉を無視するかのように演説を続けようとしたが、堀井氏はこう言葉を続けた。

「覆面を取りなさい」

彼らは、何を言うのか、この覆面は我々の闘争においては……と言い始めたのだが、堀井氏はこう言葉を続けた。

「レーニンや毛沢東が非合法時代覆面をしましたか? 覆面をして人々を説得できますか? 説得できる理論があって、それでも成功しないのが革命なんですよ。覆面なんかしてては革命は成功しません。」

この言葉に、彼らは返すことができなかった。彼らは教室を出、教室は喝采に湧いたのだった。

こんな堀井氏が、最初の講義のときに、受講者である僕達にこう聞いたのだった。

「皆さんは、歴史というのはどんなものだと思っていますか?」

皆が答えられずにいると、堀井氏は静かに話し始めた。

「私はね、こう思うんですよ……我々は、一台のクルマに乗って疾走している。そのクルマは窓を塗り潰されていて、我々は目前を見ることができない。目前に何が迫っているのか、確認することもできない、そんなクルマに乗って疾走しているような状況に、我々はあるわけです。しかし、このクルマは、バックミラーだけは見ることができる……歴史というものはこのバックミラーのようなものなんじゃないか、そう私は思うんです」

歴史というものの重要性を、これ程までに直感的に、端的に表現したことばを、それまで僕は聞いたことがなかった。この言葉には、革命前後のフランス史の研究者である堀井氏の魂が籠もっていたのだ、と今でも思う。

僕は一応自然科学者のはしくれなので、この堀井氏が言う歴史以外にも、我々が未知の未来に立ち向かうための術を挙げることができる……それは、科学的方法論だ。客観的なデータを集め、その中に普遍的に成立していることを見出し、それを基にして未来を予想する。もちろん、これは時として、外挿 extrapolation というものの持つ危うさを孕んでしまうわけだけど、その限界を熟知している限りにおいて、この科学的方法論は極めて有用性が高い。

そして、もうひとつ、我々が持つ術というものがある。それは、哲学だ。哲学というのは、対象を限定しない。この世に現存する、もしくは仮想される凡そ全ての事象に対して、それを理解するための試みの集成が、哲学と呼ばれるものの正体だ。それは決して空論でも知的遊戯でもない。そして、未知なる未来に人が立ち向かうときに、そのクルマをハンドルやアクセル、ブレーキでどのように動かすべきなのか、ということに対しても、それは重要な意味を持つ。誤解を恐れずに言うならば、先の科学的方法論だって、広い意味では哲学と呼ばれるものの一形態に過ぎない。哲学というのは、決して単なる空理空論ではないのだ。

たとえばフランス人は、このことをよく分かっているから、未だにバカロレア(大学入学資格試験)の初日の最初には哲学のテストが行われる。フランスでは、大学に入るため(だけではなく、高校卒業資格を得て有利な就職をするためにも、なのだが)には哲学が必須なのだ。しかもこの哲学の試験(だけでなく、バカロレアの口述以外の問題は皆そうなのだが)は論述式である。3問程度の問題に対して、各々小論文形式の回答をしなければならない。つまり、フランスにおいて「哲学がない」ということは、比喩ではなく「教養がない」ということに等しい。しかし、日本という国では、他の先進国と比較しても尚、哲学というものが信じ難い程に軽視されている。哲学について……と話し始めたら、ほとんどの人が話すことを拒否するか、笑って誤魔化すかのどちらかだろう。

しかし、先にも書いたような未来へ疾走するクルマの舵取りをする人々……つまり政治家ということになるわけだが、彼らにとって、この哲学というものは、比喩ではなく「必ず求められるべきもの」だろうと思う。もし人に「あなたの哲学は」と問われたら、まさに政治家としての資質のアピールをする絶好のチャンスに違いない。今風に言うならば「ドヤ顔」で、自らの理念を語る……そうあるべきものだろう。

さて、昨日の菅直人内閣総理大臣の会見において、そういう意味から、非常に興味深いやりとりがなされた。首相官邸のサイトで公開されている書き下し文から、該当部を以下に引用する:

(内閣広報官)

それでは、次の方。

島田さん、どうぞ。

(記者)

フリーランスの島田と申します。よろしくお願いします。3・11の後に、日本の国民性、社会性というものにいろいろな変化が起こったと、いろいろな言論が増えております。菅総理の中で3・11後、哲学が変わったこと、またそれをどう国民に、菅総理の哲学を伝え、それを指導していこうと思っていらっしゃるのか。その辺のご自身のご意志をお伺いしたいと思います。

(菅総理)

私はこの3・11、地震、津波、そして原発事故、これを体験した多くの国民、あるいは全ての国民は、このことを自分の中でいろいろな形で考え、そして自分の行動の中にその経験をある意味で活かそうとしておられるんだと思っております。やはり何といっても、こういった大変な災害が生じたときに、家族やあるいは近隣の皆さんとの関係、あるいは会社や自治体や企業や、色々な人間と人間のつながりこそが、やはり最も頼りになる、あるいは自分たちが生きていく上で重要だということを、それぞれの立場で痛感をされていると、そのように感じております。そういったことをこれからの日本の再生に向けて、是非色々な形で活かしていきたいと考えております。

先日も「新しい公共」、鳩山前首相のときから取り組んできたこの中で、NPO等に対する寄付金の控除を大幅に拡大する法案が成立を致しました。こうしたことも、今回の大きな事故、失礼、大きな災害というものから立ち上がっていく上で、国の力あるいは税金による支援と言いましょうか、そういうものももちろん重要でありますけれども、やはり一人ひとりの人たちがその気持ちを持ち寄ってお互いを支え合う、そういうことがもっともっと拡大するように、そういった税制度についても一歩前進が出来たと、このように思っております。

あまり思い出話をしても恐縮ですが、私が1年生議員の頃にアメリカに出掛けて、コモンコーズとかコンシューマーズ・ユニオンとか多くの市民団体を訪れました。ほとんどの団体は100人、200人という、給料はそう高くないけれども、給料を払って雇っているスタッフがおりました。そのお金は、ほぼ全て寄付によるものでありました。私は日本に帰って来て、そういう寄付文化について、日本でももっと広げられないのか。市川房枝先生の選挙などはカンパとボランティアと言われておりましたけれども、しかし規模において、アメリカのそうしたNPO、市民団体の財政の大きさとは、もう桁違いに違っておりました。それから既に30年が経過致しましたけれども、今回のこの大震災の中で、そうした助け合いというものが、例えば今申し上げたような寄付という形で、そうした具体的な形が広がるとすれば、私は大きな進歩ではないかと、このように考えております。

……この問答を読んで、皆さんはどのように考えられるだろうか。僕は、これこそ「菅直人はロジカルな問答ができない」ということ、そして僕が前から何度も何度も言っている「菅直人には哲学がない」ということの、これ以上はない証左だ、と思ったのだが。

お前が言うなや

世の中では、しばしば「お前が言うなや」と言いたくなることがある。たとえば、何処ぞの国の総理大臣が、原発事故前は自然負荷の少ないエネルギーとして原発推進の立場を表明していたものが、何時の間にか、自分は前から原発反対派なんだ、その筋のオーソリティなんだ、などという顔をしていて、そればかりでなく、脱原発に賛成か反対か、賛成ならば自分の政党に投票するはずだ、などという話まで出ているわけだが、まさに「お前が言うなや」という話である。

さて。今回の話はそういうことではない。まずは僕の使っている shannon というコンピュータの話で……この shannon は、Windows Vista Home Basic 64 bit と、Debian GNU/Linux sid という二つの OS で使えるようにしてある。普段はほとんど Linux で動作させているわけなのだけど、この何日か、ちょっと WIndows 上のユーティリティを使う必要があって、特に昨夜は一晩ずっと Windows を立ち上げていた。こういうときは、実は僕にとっては堪らなく憂鬱になる。

丁度、U が似たような憂鬱を口にすることがある。U は仕事で使うスキャナがあって、これが Mac OS 9 でしか動作しない。U は何台か仕事用の Mac を持っていて、その中の1台の G4 が OS 9 と OS X のデュアルブートになっている。これを OS 9 でブートするのだけど、そうすると、ファンがそれはそれは喧しいのである。これには理由があって、G4 の筐体ファンは多段で回転速度が調節できるような仕様なのだけど、OS 9 ではこの調節が出来ず、回転速度が高回転側で固定されるのである。だから、OS X では静かなのに、 OS 9 だと、かなり凄い音がずーっと鳴っていることになる。

shannon の場合も、実は Windows で起動すると、CPU の冷却ファンが「グァー」っと回っている。しかし、shannon の場合、CPU ファンの調速は Linux よりむしろ Windows の方がうまくいっている、筈なのだ。つまり、この現象は、Windows の方が CPU の発熱が大きい、ということを示しているのだが、何か仕事をするときの動作は、Linux と Windows とで Linux の方が圧倒的に軽い。つまり、Windows の方が無駄にCPU の計算能力を消費している、ということなのだ。

Windows で普段回っているファンの速度位に、Linux での動作時にファンが回るときは……と考えると、深夜に git と GNU Emacs、そして Emacs 周辺ユーティリティのソースツリー更新と build を自動的に行うようにしているのだが、このときにそれ位回るだろうか。あとは……そうそう、kernel の build をしているとき位だろうか。まあ、意図的に CPU に負担をかけているとき(僕は make するときに、可能であれば -j オプション等でマルチスレッドで行うようにしているので)にはそうなるけれど、Linux を立ち上げているだけのときに、ファンの音が気になるような状態になったことはない。やはり、Windows は無駄に CPU リソースを食い潰しているのである。

さて。ここまで書いたところで、以下のリンク先をご覧いただきたい:

さぁ、皆さん、せーの、でいきますね。せーの、お前が言うなや、Microsoft !

暑い……

最近、起きると(朦朧としながら)ハーブに水をやるのが日課になっている。ローズマリー、スペアミント、スイートバジル、セージ、タイム、ミニトマト、そしてゼラニウムとペパーミント……という順番(別に偏執狂なのではなくて、水道のホースから近い順に水をやるとこうなるだけなのだが)を守って、水やりをした後に成長をチェックするのが、意外といい気晴らしになる。まさかこの歳で盆栽めいたことが気晴らしになるなど思いもしなかったのだが、実際にやってみると、確かにこれは悪くない。

この中でハーブに入らないミニトマトだが、もう 2 m 程の高さにまで成長している。放射性物質の影響か?(ってそんなことないの分かっているくせに書いてみる)と思って調べてみると、気候が合えばトマトはそれ位成長するものなのだという。しかも温暖な気候であれば多年生育するらしい。最初のうちに脇芽をちゃんと摘まなかったので茎が二又に成長してしまったが、先日思い切って、実のない茎をばさっと刈り取った。

トマトは、茎も葉も、そして未熟の果実も、あのトマトが嫌いな人にとっては耐え難いであろう匂いがプンプンしている。これはトマチンと呼ばれる成分で、若干の毒性があるらしい(トマトの自己防衛の手段なのだそうな)。少しでも葉や茎に触れると、指にこの匂いがはっきりと付くのだけど、この旺盛な生命力で、これからどんどん果実を齎してくれることだろう。

このミニトマトと対照的に、今年初めて種から育成しているバジルの方は、伸びが今一つよろしくない。保険の意味で苗から育てているのが一株あって、こちらは葉を取るのが間に合わない位に繁茂しているのだけど、ジェノベーゼのソースを山程作って冷凍保存する計画を立てているので、このバジルの伸び悩みが目下の悩みのタネである。

タイムもバジルと共に伸び悩んでいる。一度施肥したときにひょろひょろ伸びたのが倒れてしまい、そこから再度芽が出て今伸び始めているので、思い切ってハイポネックスと遅効性の肥料をやってみた(一般論としてハーブは施肥し過ぎると香りが落ちると言われている)。魚料理や鶏料理のためにも、早いところ育ってほしい。

タイムと同じプランターに育っているセージは、某修道会のコモンセージの芽をひとつ摘ませてもらって、それを挿穂して育成しているのだが、ここに来て成長が進んでいる。脇芽も出てきたので、このまま樹に育ってくれるだろう。タイム共々育ってくれれば、既に樹になっているローズマリーと合わせて、3大普段使いハーブに困ることはなくなるはずだ。

……うーむ。ここまで書いて読み返してみると、本当に盆栽オヤジみたいだな。しかし、こう暑いと、こういうこと位しか楽しみがなくってねえ……どうも、ね。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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