詐欺師が何故人を上手く騙せるのか

まず最初に書いておくけれど、僕は世間の尺度で言うならば、かなりリベラルな方だと思う。南京虐殺も、中国などが挙げている数字は荒唐無稽だとは思うけれど、便衣兵を警戒して関東軍が民間人を大量に殺したという意味では「あったこと」だとみているし、慰安婦問題にしても、民間人の女衒の所為だとは片付け難い問題を孕んでいるとみている。靖国神社に対しては、宗教的アイデンティティの観点から十把一絡げの合祀には反対しているし、と、まあこれだけ書いても、どうです、かなりリベラルでしょう?

そんな僕ではあるのだが、民主党政権に関して何か口を開こうとすると、彼らを擁護するようなコメントを、どうやっても絞り出すことができない。これは一体どうしたことなのだろうか。

首相会見のポイント

 1、小沢一郎民主党元代表は自らの問題を国会で説明してもらいたい
 1、起訴された場合は、小沢氏は政治家としての出処進退を明らかにして裁判に専念すべきだ
 1、社会保障に必要な財源について消費税を含め超党派の議論を呼び掛けたい。6月をめどに方向性を示したい
 1、2011年度予算案に国会で多くの政党の賛成をいただきたい
 1、私の念頭には衆院解散の「か」の字もない
 1、環太平洋連携協定(TPP)の最終的な判断は6月ごろがめどだ
(2011/01/04-11:22, 時事通信社 元記事リンク

これらを見ると、菅直人の考えていることが実に明確になる。要するに、
  • 民主党に対して世論が否定的である原因は「政治とカネ」問題に尽きる。
  • しかるに、小沢氏を排除することによって世間への責任をとることができ、そうなれば世論の支持は回復し、政局も安定するはずだ。
  • 尖閣諸島問題などに関しては「政治とカネ」問題ではないので、それらを理由として自らや内閣が責めを負う謂れなど全くない。
  • 来年度予算案を通して、その後は消費税引き上げや関税障壁撤廃を早急に実現することが現政権の急務である。
これが、今年年頭の菅直人の主張である。

以前、ある人からこんな話を聞いたことがある。それは「詐欺師は何故ああもがっつりと人を騙すことができるのか」というものだったけれど、

「いや、簡単なことだよ。人は、嘘をつくと、どう取り繕ってもバレるものだろう?」
「ええ」
「だったら、バレないためにはどうしたらいい?」
「……嘘じゃなければ、そもそもバレることはないけれど……」
「いや、それで正解だよ」
「え?でも、騙すんでしょう?」
「だからさ、騙す側が、主観的に、心の底からそれを真実と信じ込むんだよ。最初に。そうすれば、どれだけ何を言おうが、それは主張する側にとっては真実になるんだから」

つまり「他人を騙す最良の方法とは、まず最初に自分を騙すことから始めることだ」というのである。これを聞いたときは、なるほどなあ、と感心したものだけど、去年の鳩山政権における「腹案」問題にせよ、去年から今年の年頭会見にかけての、菅政権の抱える一連の問題とその対応にせよ、それらを見る度に、どういう訳だか、この詐欺師の話が思い浮かんできてならないのである。

遅ればせながら

新年明けましておめでとうございます。

今年は伊達巻を焼いたのだけど、1回目はレシピを勘違いしてひどい代物が出来たので、初売りで材料を買い直してリベンジに臨んだ。

材料は、生海老150 g に対して、卵(全卵)が6個(小さいものならもう少し多くてもいいだろう)、砂糖が50 g、みりんが大匙3、酒が大匙1.5、醤油が小匙1.5、である。以下、作り方をメモしておく。

まず海老の摺身を作る。海老は全て背腸を抜いて、片栗粉と酒(上記分量とは別)を加えてボウルの中でよく攪拌して汚れを取り、水で何回かすすいでから水気を取る。本当はこれを当たり鉢で擦るのが一番いいのだけど、今手元に当たり鉢がないので、今回はフードプロセッサで挽いた。これに全卵をひとつづつ入れ、入れてはよく攪拌して……を繰り返し、全ての卵が摺身とよく混ざるまで繰り返す。

本当に売っているものと同じ水準のものを作りたい場合は、上の作業を当たり鉢の中で行い、卵液と摺身が混ざったものを裏漉しするとよい(ただし、相当手間がかかるのでご注意を)。フードプロセッサの場合も、目の細かいザルなどで漉すと出来上がりが良くなる。

こうして仕上げた液体に調味料を投入して、いよいよ焼きに入る。アルミフォイルで、巻き簀より一回り小さな縦・横寸のバットのようなものを作成して、内側にサラダオイルを塗ったところに液体を流し込み、予熱した200℃のオーブンで20分焼き、温度を180℃に落として更に数分焼く。これはオーブンの個体差で時間が変わってくると思うが、目視で焼き具合を確認されるとよかろう。

焼けてくると、生地が餅のように膨らんでくるが、これは竹串などで潰しておくと良い。焼けたら粗熱を取り、焼いたときの上面が巻き簀側に来るように巻き簀の上に伏せ、アルミフォイルを剥がす。剥した面に巻き簀の目に平行に何本か切れ目を入れ、断面が「の」の字形になるように巻き込んで、輪ゴムや糸などで固定して冷ませば出来上がりである。

伊達巻には特別の思い出がある。子供の頃からの好物で、正月になると、これを食べるのが楽しみだった。勿論、親もそれ程たくさん食べさせはしなかったから、一度一本丸ごと買ってきて一気食いしてみたい、と思っていたのだった。

高校生になって、楽器を買うためにマクドナルドで早朝のバイトをしていたのだが、懐具合が良くなったので、かねてからの企みを実行に移した。まあ結果は容易に想像できるわけだけど、半分位食べたところでうんざりしてしまった。何事も楽しむには程というものがあって、程を越えて欲望を拡張させても、それを享受することは物理的に不可能だ、ということを、そのときに学んだのだった。

大阪に住み出した頃、年末に「せめて伊達巻位は」と思い買いに行ったらどこにもなくて、大いに困ったのだった。大阪では、鱧などの摺身を使った上等な蒲鉾を伊達巻の代わりに食べることが多いようで、結局その年は伊達巻を食べられずじまいだった。大袈裟な話だけど、正月が来なかったような気がして、ひどく寂しく思えたものだ。

そして今。まあ、今年はとうとう自分で焼いたわけだけど、これも一人で抱え込んで食べるのはあまりに味ないわけで、U とちびちび食べているわけだ。まあ、こういう食べ方が、実際のところは一番いいのかもしれない、と思う。

OCR for Linux

先日 (1) を書いたザウアーブルッフ(ザウエルブルッフ)の件を書き続けるために、いくつか資料を用意していた。ほとんどは英語で書かれた医学史専攻の研究者による論文なのだけど、ザウアーブルッフの伝記として世に出ているもので数少ない日本語の文献がふたつあって、そのうちのひとつがこれである:

『危ない医者たち』: ロバート・ヤングソン,イアン・ショット 著,北村 美都穂 訳,青土社 ,1997.

しかし、この本の訳がもうひどいったらない。訳者の北村氏は既に鬼籍に入られているとのことだが、イギリス人の英語を日本語にし切れていないのが見え見えのひどい文章である。あまりにひどいので、ロンドンの Robinson 社から出ている原著 "Medical Blunders" のペーパーバックを取り寄せていたのだが、先日ようやく送られてきた。

ザウアーブルッフに関する記述はだいたい14ページ位の量なのだけど、僕は医学系の研究者ではないので、たとえば "oesophagus"(食道 esophagus)なんて単語が出てくると、さすがに首を捻ることになる。こういうときには、Emacs 上で英語の文章をテキストとして開いて書き換えるように訳して、不明な単語は sdic + 英辞郎で確認する、という作業をすると間違いが少なくていいのだけど、そうなると、このペーパーバックの文章を電子化する作業が必要になってくるわけだ。

14ページだから、本気でやっていれば手で打ち込めない量ではない。しかし、さすがにこれは楽をしたいところだ……しかし、これだけのために全ページをスキャンして OCR にかけるというのも面倒な話である。それに手元にはフラットヘッドスキャナ(後記:これは間違い。フラットッドスキャナ Flatbed Scanner が正しい)があるだけなので……うーん、どうしようか、と考えたのだった。

実は、フリーの OCR ソフトがないわけでもない。日本語の場合は、もう公開されていないけれど、かつては SmartOCR Lite Edition というのがあって、これは結構皆さん重宝されていたようだ。まあ、スキャンの手間もあるし、日本語で OCR が必要になるなら、外部業者にスキャン依頼した方が楽かもしれない。

では英語の場合は、というと、これが Linux で動くフリーのものが複数種存在する。今回は GNU Ocrad で作業を行うことにする。

まず、14ページの文書をスキャナで読み込み、pbm,pgm,ppm,pnm のいずれかの形式でセーブしておいて、

ocrad -F utf8 foo.pgm > foo.txt
などとすれば良い。標準出力に出てくるので、シェルスクリプトなどで大量のファイルを処理することも容易である。

で、さっそく変換してみると……うーん。変換精度が今一つ、という感じである。ペーパーバックなので紙質が悪くて画像にノイズが多いというのもあるのだけど、辞書チェックをがっつりかけているわけでもないようなので、それが大きいかもしれない。まあ、とりあえず全て電子化する作業を終えたけれど、校正するのがこれから一苦労、ということになりそうなので、ABBYY FineReader Engine CLI for Linux の trial version をこれから試してみようか、と思案中である。

聖書朗読が大切な理由

先週末は、3日連続で教会に行っていた。というのも、24日はクリスマス・イブのミサ、25日はクリスマスのミサ、そして26日が主日のミサ(いわゆる日曜礼拝というやつ)だったからだが、どうも最近、ミサに行く度にイラっとさせられることが多くて参る。

そのひとつが、ミサ中の聖書朗読がいい加減に行われていることである。どのように「いい加減」なのか、というのは、よくあるパターンそのままで、

  • 読み間違いが多い
  • 速過ぎる
  • さも感情移入している風を装ったあざとい読み方
というようなものなのだけど、受洗して何十年も経っていそうな人々までこの体たらくなのだから、お寒い限りである。

こういう人々は、おそらくミサ中になぜ聖書朗読が行われるのか、その理由が分かっていないのだろうと思う。それを知っていたら、とてもじゃないけれど、こんな読み方はできっこないのだ。聖書朗読がなぜ大切なのか、というのは、初期キリスト教の様相というものを思いやれば簡単に理解できる。

初期キリスト教というものの維持・伝播には、実は不思議な特徴がある。当時の社会において、かなりの割合の人が文盲であったにもかかわらず、キリスト教が聖書や書簡などの「文書」によって伝播し、維持された、という点である。キリスト教が「ことば」にいかに重きをおいていたのか、というのは、たとえば「ヨハネによる福音書」の冒頭部をみればよく分かる:

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。−−ヨハネ 1:1−5

この「言(ことば)」というのは、ギリシャ語では λόγος (ロゴス)、ラテン語では verbum (ウェルブム)と記されるが、このロゴスというのは、特に理知的・論理的な「言葉」を指す語である。つまり、神は理知的・論理的な言葉そのものである、と、上引用部は記しているわけで、これは神とその発した言葉の関係を神とキリストのそれになぞらえていて、しかも言葉と神が同一であると書いていることから、三位一体という概念に大きな影響を与えた記述とされている。やがてロゴスという言葉はキリストを指す語として使われるようになるのだが、これ程までに、キリスト教においては、言葉とその背景に湛えられた論理が重いものとして扱われているのである。

しかし、だ。我々は、キリスト教の成立当初において、それが社会的弱者のものであった事実を思いやらなければならない。彼らは充分な教育を受けることなど到底できなかったはずで、文字の読み書きなどできる者は極めて少数だったはずである。なにせ、聖書の中にも:

議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。−−使徒言行録 4:13
と書かれている。この時代、無学という言葉は暗に文盲を指すものだったので、十二使徒の代表メンバーであったペトロとヨハネですら文盲であったことが、ここから推測されるのである。

しかし、この時期に、パウロは夥しい数の書簡を各教会に送っている。そしてその中に、その書簡を読み聞かせるように書いているのである。

この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように、取り計らってください。また、ラオディキアから回って来る手紙を、あなたがたも読んでください。−−コロサイ 4:16
この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。−−1テサロニケ 5:27
このような記述が何を意味しているのか。答は簡単で、各共同体にほんの一握りだけ存在した文字の読める人が、このような手紙を音読し、皆に聞かせる役目を負っていたのである。その人は、自分の言葉としてではなく、パウロの言葉としてそれを読み、文字の読めない信者達はその内容を自分のものにすることができたのである。

これは聖書においても同様である。

ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。−−ローマ 10:14−15
ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。−−ガラテヤ 3:1−6
福音伝道が「読み聞かせ」たものを会衆が「聞く」ことによってなされていたのは、これらからも明らかである。つまり、聖書の使徒書や書簡、あるいは聖書の他の箇所を「読み聞かせ」るという行為が、教会成立当初からの、福音を分かちあう上での最も基本的で、最も重要な行為だ、ということも、やはり明らかなことなのである。

どうも最近、こういうことを何も考えずに聖書をただ読んでいる……いや、聖書すらチェックせずに、典礼用のパンフレットの引用箇所を、音読練習もせずにぶっつけで読んで、つっかえつっかえ無様に読んだり、はなはだしきに至っては、書いてもいないことを頭の中で勝手に補填して読んでいるような人が多数派になりつつあるのは、このような事実に目をやったことのある者からすると、もう苦痛で苦痛でたまらないのである。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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