黄金の林檎

しばらく出先にこもることになりそうなので、この間使えるようになった US-144 を shannon に接続して、テストがてら過去の音源のリミックスをしている。不精(「無精」の間違いだろ?とか書く人がいそうな気がしてきたな……そういう人はこれを読んでください)をしてそのまま鳴らしてミックスしていたドラムを直すのがメインの作業である。

ドラムを不精して……ってどういうこと?と聞かれそう(これは聞かれて当然だろう)なので、もう少し詳しく書く。僕はAddictive Drumsというドラム音源を使っているのだけど、ドラムパートを打ち込んでこれを鳴らすと、ドラムキット全体がステレオミックスされたかたちで音が鳴る。僕はオールドスタイルなミクシングを好んでいて、ドラムも三点定位にする流儀なので、ハイハットとスネアのパンをセンターにして、そのまま鳴らして使っていた。まあこれでもちゃんとミックスダウンできるのだけど、細かいことを言うと、これではまだ不十分なのだ。

ハイハット、バスドラム、スネアの録音用に、各々に対応したモノラルのオーディオトラックと、モノラルの FX トラックをひとつ、タムとシンバルの録音用に、各々に対応したステレオのオーディオトラックと、ステレオの FX トラックをひとつ用意する。Addictive Drums のパネルで鳴らす音源を決めてやって、各々に対応したオーディオトラックに音を落としていく。これでモノラルで 3 ch.、ステレオで 2 ch. のドラムトラックができたことになる。

僕はさっきも書いたけれどオールドスタイルなので、ドラムはデッドな感じにするのを好む。だからハイハット、バスドラム、スネアにはゲートをかませて、付帯音を切ってしまう。細かいことをやっている場合はそこが切れてしまう可能性があるので、スレッショルドとリリースを慎重に決めてやる。バスドラムとスネアには更にリミッターをかける。

タムはリミッターだけ。今回はゲーティングする必要はなかった。金物もリミッターでダイナミクスを調整してやる。個々の音源の調整が終わったら、ミキサーに上げてバランスを取り、リバーヴへの送りを微調整してからバランスをもう一度取りなおす。大体こんな感じかな……まあ、もうこういう作業には慣れているので、そう時間がかかるわけでもない。

それにしても、技術の進歩というものは恐ろしい。僕がやっているのは、かつては録音スタジオで、24 tr. のアナログマルチと、Neve や SSL のラージコンソールを使ってやっていたことである。キーペックスのゲートの代わりに Cubase 付属のゲート、EMT-140 の代わりに Impulse Response 型の SIR2 を使っているけれど、昔なら億単位の金がなければ実現できなかったことが、なんとノートパソコン、それも DELL の高価でもなんでもないノートで実現できてしまっている。

高校生の頃、僕はよく音響関連の雑誌を図書館で漁っていたものである。吉田保氏が石野真子のシングルをレコーディングしているところを取材した記事を見て、チャンネルシートを必死になってチェックしたものである。あードラムはこう分けて録音するんだ、あーアイドルだとヴォーカルだけで4、5トラックも使うんだ……へーこれがキーペックスかあ、EMT のリバーブは?鉄板?へー金箔使ってるものもあるのか……なんて、どう考えても、手の届かない夢物語である。その筋の専門家になって飯を食っていけるならば触れられたかもしれないけれど、そうでもなければそんな知識が役に立つとは思えない。しかし……今、実際に自分が曲を録音するのに、あの頃仕入れた知識がそのまま役立ってしまっている。

僕らは黄金の林檎を手にしてしまった。夢物語と思っていたものを、現実に触り、使っている。けれど、あの頃輝いて見えた黄金の林檎の魔法は、今僕の手の内で、同じように輝いているだろうか?まあ……僕は輝かせているつもりでいるんだけど。これからも、手の内にしたこの林檎を、魔法使いになることを諦めてそう簡単に投げ出すつもりはない。今この林檎を手にしている人の中には、それが黄金だなんて思いもせずに、齧ってはポイ、齧ってはポイ、ってやってる人もいるけれどさ。

ようやく提出

ようやく提出した。国勢調査の調査用紙を。もう何日も前に書き終えていたのだが、どうも家を出る時に持つのを忘れてしまう。要するに、自分にとっての優先順位が低いということだろう。

しかし。国勢調査の用紙を出さずにいるのは、法律上はよろしくない状態である。というのも、統計法という法律があって、以下のような規定があるのだ:

(報告義務)
第十三条  行政機関の長は、第九条第一項の承認に基づいて基幹統計調査を行う場合には、基幹統計の作成のために必要な事項について、個人又は法人その他の団体に対し報告を求めることができる。
2  前項の規定により報告を求められた者は、これを拒み、又は虚偽の報告をしてはならない。
3  第一項の規定により報告を求められた者が、未成年者(営業に関し成年者と同一の行為能力を有する者を除く。)又は成年被後見人である場合においては、その法定代理人が本人に代わって報告する義務を負う。
第六十一条  次の各号のいずれかに該当する者は、五十万円以下の罰金に処する。
一  第十三条の規定に違反して、基幹統計調査の報告を拒み、又は虚偽の報告をした者
この間、池上彰の番組で、国勢調査に回答しなかった者には懲役刑が科されることがある、と言っていたらしいが、それは間違い。提出を拒んだり、虚偽の内容を回答した場合には、上のように五十万円以下の罰金刑が科される……とは言っても、実際にはこれが科されることはないのだけど(調査員が周囲からの聞き取りを行って提出することが認められている)。

今年は、東京都ではインターネットでの回答が試験的に行われたそうだが、早いところ全国規模にしてもらいたいものだ。あれ程(前)総務大臣が、馬鹿の一つ覚えのように「光の道」「光の道」って言ってるんだから、既存のメタルのインフラ込みでもシステムを早いところ回していただかないとねえ。しかし、民主党政権はそういうことをちゃんとやらないんだけど。

第三の男

これはメモも兼ねて書いておくことにする。民主党の細野議員が訪中した際、随行した二人のブレインがいた、という話は聞いていた。そのうちの一人が須川清司氏であることも分かっていた。しかし、あと一人が誰なのかが分からなかったのだ。

須川清司という人は、1996年から民主党における外交安全保障、金融、地方分権のブレインとして活動している。鳩山政権以降は、内閣官房専門調査員を兼務しているから、内閣官房のブレイン、つまり仙石氏のブレインだとも言える。須川氏はもともとは住友銀行にいた人で、シカゴ支店長代理、シンガポール支店長代理と務めた後に退職、シカゴ大学大学院で国際関係論で修士号を取得した後に民主党入りしている。外交通にしてアメリカ通ということで通っている人物なのだが、鳩山政権時代は、鳩山氏がこの須川氏と寺島実郎(財団法人日本総合研究所会長)氏にべったりで、官僚の持ってくる最前線の情報をまともに聞こうとしなかったために、対米外交(特に普天間問題)をしくじった……という話もある。

須川氏はシンガポール駐在経験者とはいえ、中国とそれほど太いパイプがあるとは考えにくい。中国で記者に捕まった時の細野氏の映像を探してもらえばお分かりになると思うが、細野氏ご一行は、中国政府のものらしきクルマに乗っていた。それもそのはずで、あれは中国外交部(日本の外務省に相当)の用意したものなのだという。ということは、中国に何らかのパイプを持っている「第三の男」が、今回の交渉で動いていたと推測されるわけだ。

で、今朝のテレビ朝日系列で放映された『サンデー・フロントライン』を観ていたら、この「第三の男」に関する解説を聞くことができた。彼の名は篠原令(つとむ)という。

篠原氏は早稲田で中国文学を学んだ後、南洋大学(現シンガポール国立大学)、ソウル大学へ留学した経歴を持つ。1980年代から、日本企業の中国進出におけるコンサルタントとして働いており、故小渕恵三氏が1999年に訪中した際に設立したという100億円規模の「日中緑化交流基金」(通称「小渕基金」)の立ち上げに大きく関わっているといわれている。

民主党が中国へのパイプを持たない、というのは有名な話だが、今回の交渉を行う上で、管 = 仙石ラインはどうやらこの篠原氏のパイプを使うことにしたらしい。しかしなあ……篠原氏の Amazon における著書一覧なんかを見る限り、一党独裁国家としての中華人民共和国とのやりとり、という面で、篠原氏にそこまで頼れるものかどうか、という印象は拭い去れない。先日も書いたけれど、日中関係に関して言うならば、フジタの日本人社員が一人でも拘束されている現状は、4人拘束されているのと大同小異というところなんだけど。そもそも、船長逮捕後のやりとりにおいて、もしこの篠原氏が絡んでいてあの状態だったとするならば、日本の今後の対中外交というものに、正直言ってあまり希望は持てそうにないなあ。

Mono

唐突かもしれないが、僕は「ものづくり」という言葉が嫌いだ。嫌い、というよりも、憎んでいる、と言った方がいいかもしれない。今の日本をこんな状態にしたのが、この言葉だと思っているからだ。

そもそも「もの」とは何だろう。もちろん、これはもともと「物」だったはずなのだけど、まずこれをカタカナで「モノ」と表記するようになったのが、おそらくはそもそものはじまりだろうと思う。経済関連の業界では、物質的な「物」に留まらず、金融上の価値を持つ物、そして金融商品のような、物質的な存在を伴わないけれど経済的に存在意義のある存在を「物」であるかのように扱うわけだけれど、そういう存在は「モノ」と呼ばれ、文字にするときにはカタカナ表記することが多かった。その主体が物質的存在なのか、あるいは経済的存在なのか、を区別するために、後者が「モノ」とカタカナで表記され、この表現が便利なものとして定着したのであろう。

そして、「モノ」という表現がひろく認知されるようになったのは、ワールドフォトプレス社が1982年に創刊した『mono magazine/モノ・マガジン』によるところが大きい。この場合の「モノ」は、もともとは collector's item のニュアンスで用いられたのだと思われるのだけど、この雑誌は収集物の範囲を超えて、消費物一般に対してこの「モノ」という単語を当てはめた。コレクターが収集物や収集の形態でアイデンティティを主張するが如く、消費物の選択でアイデンティティを主張する……という、この雑誌が提案したスタイルは、やがてバブルの時期にひろく社会的認知を得て、雑誌は大きくブレイクしたわけだ。

そして、バブル以後……1990年代後半、どういうわけか、創造的な新規技術開発を「ものづくり」と称することが多くなった。僕は関わっていたことがあるので知っているのだけど、この手の流行に敏感なのが、実は国の省庁関係で、特に予算を獲得するための提案書類には、この手の流行語が用いられることが多い。僕が某研究所に着任したときの直属の上司は、申請書類の添付資料に「アメニティ志向」と書くのが大好きだったけれど、おそらくは「ものづくり」という言葉も、このような場において重宝に使いまわされたに違いない。

そして、1999年3月19日に公布・同年6月18日に施行された「ものづくり基盤技術振興基本法」と、2001年4月に開学した「ものつくり大学」が、「ものづくり」という言葉を世間に定着させるダメ押しとなった……と、「ものづくり」という言葉の歴史は、おそらくはこんなところだろう。

このような成立過程をみてみると、「もの」「モノ」という言い方が、物質的存在としての「物」を超えた何ものかが込められた存在を言い表すために登場したことがわかる。しかし、今の社会において、果たして本当に、そういう意味を込めて「もの」「モノ」が使われているのだろうか。むしろ、この言葉を向けたものが、すべからく「物質的存在としての「物」を超えた何ものかが込められ」ているかのように思い込ませたい、信じ込ませたい、あるいは自らがそう思い込みたい、信じ込みたい、そういうときに、この言葉が乱発されているような気がしてならないのだ。

そして、「もの」「モノ」という単語で記号化された対象は、その記号の単純さをそのまま反映した単純な取扱い方をされる。日本の企業で、この「ものづくり」という言葉を乱発する管理職はきっとたくさんいるだろうけれど、彼らは自分たちが生産している物に、本当に「物質的存在としての「物」を超えた何ものか」を込めるために、心血を注いでいると胸を張れるのだろうか。

僕も一応工学に携わる一個人なわけだけど、僕は、自分が創りだした物を「もの」とか「モノ」とか簡単に表記されたいなどと、とてもじゃないけど思えない。その言葉の軽さは、何事かを創りだす労苦にはとてもじゃないけれどそぐわないし、世に送り出された後に、自分は何も労苦に耐えなかったような連中にしたり顔で「これが『ものづくり』なんだよ」などと悦に入られるなんて、とてもじゃないけれど我慢ならない。平仮名5文字では語れない重さが、そこに込められていることを、「ものづくり」という言葉を乱発する連中が理解できるはずがない、と思うからだ。

「ものづくり」を海外発信するんだ、などという向きもあるらしい。日本で活動するアメリカ人ビジネスマンのジュリアン・ベイショア氏の2008年03月17日のブログによると……:

というように、monozukuri もしくは monodzukuri という単語がもう発信されてしまっている。これを mono-zukuri とスペリングしないところがミソで、mono-zukuri と書いて、mono →「単一の」という意味が想起されるのを防いでいるつもりなのだろう。しかし、「もの」と一言で片付けられない労苦や思いが籠っているものを創出する行為を、馬鹿の一つ覚えのように「ものづくり」「ものづくり」と言い表していること自体、僕にはただただ monotonous なものに思えてならないのだ。僕が創りだしたもの、そしてそれを創りだした僕の行為を、僕は決して「ものづくり」と呼びたくもないし、また呼ばせたくもないのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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