重みを軽んずる人々 III

オスプレイの話で書くのが遅くなってしまっていたが、僕の所属教会に関するグダグダな話の続きを書くことにする。

前回の話では、献堂50周年記念冊子を2部も送りつけられ、日曜に叩き返すつもりだ、というところまで書いたのだった。あの後、ただ叩き返しても連中は何も反省しないのだろう、と思い、手紙を添えることにしたのだが、ただ手紙を添えても黙殺されるだろうし、場合によっては逆ギレされて吊し上げを食らう可能性だってある(いや、連中は本当にそういう手合いなのだ……カトリックが聞いて呆れる、という話なのだが)。そこで、手紙のコピーに添状を付けて、教会の主任司祭にも送っておくことにした。以下に手紙と添状のコピー(一部加工してあるが)を示す。

土曜日の午後、例の冊子二部にこの手紙を添えた包み、そして手紙のコピーに添状を入れた封筒を携えて、僕は教会の事務に向かった。事務担当の O 女史を探したが、所用で席を外しているようだったので、包みに傷がつかないよう注意しながら、包みと封筒をポストに入れた。さあ、どうなることやら……しかし、U は淡々と、

「まあ、そんな手紙でどうにかなるんだったら、とっくに変わっているはずでしょう」

いや、そうなんだけどね……

そして翌日、僕はいつも通り9時半のミサに出たのだが、誰も何も言ってくる風でもない。これはおそらく手紙が黙殺されたに違いない……ということで、ミサ終了後、教会事務に行ってO女史に聞いてみると、

「ああ、あの包みは、献堂50周年記念冊子編集委員会の T さんにお渡ししましたよ」

なるほど、T 夫人か。いかにもこういう自分達に不都合なものを黙殺しそうな人だもんな。では T 夫人に……と、その前に、主任司祭の I 神父に仁義を切っておくことにしよう。

多忙でなかなか捕まらない I 神父だが、うまい具合に信徒会館の執務室に入るところを捕まえた。

「おお、Thomas 君か。お手紙、読ませていただいたけれど、他に何かあるのかね?」
「いえ、ただ、これで何か騒ぎになる可能性がなきにしもあらず、ですので、その時は神父様のお手を煩わせることになるかもしれないので、一言ご挨拶を、と思いまして」
「ほう、それはまたご丁寧に」

I 神父は、ここの信徒のグダグダぶりにすっかり絶望し切っているようで、我関せずの姿勢を崩さない。だからきっと今回も「Thomas 君、どうせ無駄無駄」とか思っていたのかもしれない。

聖堂の方に戻ってみると、T 夫人が正面入口から出てくるところだったので、

「T さん」

と何度か声をかけたが、ここでまさかのシカトである。僕をずっと無視して、友達らしき女性と facebook のことを話し続けている。それでやりすごせると思ったのだろう。しかし僕はそこまで諦めがいいわけじゃない。話が終わるまでそこに立って待っていた。

やがて、話相手の女性も去っていったので、再び声をかける。さすがに公衆の面前でシカトを続けることに体裁の悪さを感じたのだろう、ようやくこちらを向いた。

「ああ Thomas さん、手紙、見ました」

なるほど。読んだんじゃなくて見たんですね。あなたらしいやり方だよ。

「なんで2部送られてくるんですか?」
「え? あれはラベルを事務で印刷してもらったから事務の方の……」

おーい、事務室の O さん、あなたのせいにされてるよ。

「いや、重複チェック位しなかったんですか。それとも、それもできない位大量に送りつけたんですか?」
「……」
「とにかく、あの手紙、常任委員会の皆さんにも回して下さいね。特に信徒会長の S には、必ず」

はいはい分かりました、と言いながら、逃げるように T 夫人は立ち去った。

しかし、僕の手紙が連中に読まれたかどうか判然としない。S は未だに早口で祈りの言葉を先導するし、何ひとつ、グダグダぶりは変化していない。そして、後で聞いた話によると、この冊子の発送数は僕の予想を遥かに超えるものだったらしい。おそらく無駄に使われた金額は20万に迫らんとする程だろう。つくづく、信仰の彼岸にあるとしか思えない所業ではないか。

重みを軽んずる人々 II

先日、拙 blog 『重みを軽んずる人々』で、僕の所属教会のグダグダぶりを書いたわけだが、今日はその後日談を。これをどうしても書かずにはおれないのだ。

まず、所属教会の広報誌のようなものが毎月配布されているのだが、その今月号に、何の前触れもなく以下のような記述が出た。

tayori.png
毎度お馴染みの事後承諾である。さて……これを見て分かったのだが、例の押し売りの書状を送りつけられた人の数は、なんと720名にものぼるという。ということは、『重みを軽んずる人々』での僕の試算はほぼ妥当な規模だったということになる……つまり、この押し売りのために、20万円程の金が浪費された、ということである。

そして、僕のところにも記念誌らしきメール便が送り付けられた。その写真を以下に示す:

sasshi-01.png
sasshi-02.png
……何故2部も送り付けられるんだ?

要するに、こういうことなのだろう。先日僕が耳に挟んだ、発送の重複が実際にあったかなかったかというそれ以前に、僕は信徒会の名簿に重複記載されている、ということなのだろう。しかし、発送時にそういうことにどうして気付かないのだろうか? 名簿をチェックするときって、住所や名前でソートをかけてチェックしたりしますよね? まあそれ以前に、重複などがないようにチェックするのは基本でしょう。そういうこともできていない。ますますもってグダグダである。

さて。僕は今、この2冊の冊子の入ったパッケージ(もちろん信徒会の奴に叩き付けるのだから開封なぞしてはいない)を前に、これは一体どういう意図なのか、と考えているところだ。これは俺に、2000円以上寄付しろ、ということなのか? いやいや、そもそも寄付なんて自由意思なんだから、本来だったらこの2冊をそのままいただいて金なぞ振り込まなくても何も問題などない筈だ。倫理的に問題がある、と言われる方がおありかもしれないが、僕はその分を東日本大震災に寄付している。寄付というものは、その先を寄付する者が選択する自由が尊重されて然るべきだし、こんな冊子を作って、よりにもよってあの大震災から1年が経つ今年の三月十一日のその日に記念式典だなどと騒いでいた連中に、どうして寄付などする必要があるのだろうか? 僕にはその理由が何ら思い当たらないのだ。

まあしかし、こんな冊子に金を出したくない、というこの意志を鮮明に表明するためにも、この冊子は叩き返す方がいいに決まっている。今度の日曜、教会で、衆人環視の前で、僕はこの要りもしない2冊の記念誌を突き返してくることにしたのだ。ああ、日曜が楽しみで仕方がないぜ。

重みを軽んずる人々

教会というところに毎週行っていると、奉仕の作業をすることがちょくちょくあるものだ。僕も、子供の頃の侍者に始まり、掃除、鐘つき、献金集め……まあ当たり前の話なのだが、数え切れない程の種類・回数を行っているわけだ。

こういう奉仕をしていると、それまで気付かなかったことに気付かされて、色々と思うことも少なくない。いつだったか、クリスマスのミサで献金集めを頼まれたことがあったのだが、僕の所属教会では、木の柄の先に布の袋のついた献金袋(場所によっては丸いバスケットをまわすところもあるけれど)を各信徒の前に突き出して、そこに献金を入れてもらうシステムになっている。で、各信徒に袋を突き出しながら、聖堂の後ろの方になってきた。この辺りには、フィリピン人やブラジル人がたくさん座っている(堂々ともっと前に座ればいいものを、日本人の信徒が一人で何人分ものスペースを占有して知らん顔をしているのに、彼等は遠慮しているのだ……)のだけど、この辺りに来て、急に献金袋を持ち上げているのが難しくなったのだ。

僕は改めて、彼等の伸ばす手に目をやった。彼等は、皺くちゃの札を束にして固く丸めて輪ゴムで留め、親指と人差し指で作る輪程の太さになったものや、袋一杯に集めた100円玉などを、次々と袋に入れていくのだ。三交代の工場労働者や、夜の街で働いている人達で、おそらく経済的には日本人の信徒よりも恵まれていないであろう彼等が、そうやって入れる献金の重みで、僕は袋を引き摺らないようにするだけで精一杯だった。その重みで、僕は改めて思い知らされたのだ。自分の教会のために献金をするということの、その重みを。

僕の所属教会には信徒会とかいう運営組織があって、そこの人々は、僕よりも余程、こういうものを見、感じる機会が多いであろうと思うのだが、どういう訳か、僕が感じたあの重みを感じることができないらしい。これは本当に、奇妙なことだとしか言い様がないのだが、彼等はあの重い献金から成る教会予算を、本当に無駄に浪費しているのだ。教会予算は、年に一回行われる信徒総会で予算案と決算の承認が行われることになっているのだが、この信徒総会では、毎年口があんぐりとなりそうな呆れた話がまかり通っている。

去年だったか一昨年だったか、総会で配られた決算を見ていると、「椅子」という項目があって、20万程の金がそこに充当されている。予算には計上されていなかったこの項目に関して質問しようと思ったら、

「あー、この椅子ですが、折り畳み椅子の中の何脚かが壊れていたので購入しました。事後承諾ということでよろしいでしょうか」

……いや、そんなことがまかり通っていたら、予算組むのもこうやって総会で承認取るのも意味ないでしょうが。大体、椅子なんて、毎年どれ位壊れるかはある程度予想がつくだろうから、今年は補充しておこう、というのなら、予算に計上して然るべき手順で買えばいい話である。しかし、皆興味もなさそうに、これを承認してしまうのであった。

僕は、公の機関でも企業でも働いたことがあるけれど、こういう物品購入に際しては、相見積を取るのが当然だった。できれば二通位の相見積を添付して、これこれこういう目的でこれがこれだけ欲しいです、相見積を取ったらこれだけになりました、とやるのが常識である。信徒会の人々だって、まさかこんな「社会的常識」を知らない筈がないと思うのだが、僕は少なくともあの教会で「常識的な」会計に関する説明を受けたことが、ただの一度もないのだ。

2年程前のことだったと思うけれど、「ソフト発注費」として60万程、「コンピュータ」として30万程の予算が計上されたことがあった。これは何ですか、と聞くと、

「信徒の名簿作成用の専用ソフトを作ります。ソフト運用のために高性能のコンピュータが必要ですので、この二件、よろしくお願いします」

はぁ? ここは大企業かぁ? 違うでしょ。たかだか何百人の名簿情報を管理するのに、市販のソフトを購入するんじゃなくて、オリジナルのソフトを発注する? しかも、高性能のコンピュータ? ますます意味不明である。これに関して糾弾しようかと思ったら、さらっと承認されてしまって、僕は呆れて言葉が出なかった。

つい先日分かったのだけど、このソフトの一件はどうも有耶無耶になったらしく、30万で購入した「高性能」のコンピュータは、全く使用されずに2年間放置された挙句、これもう OS とか古いし、廃棄しましょうよぉ、という話になっているらしい。

ちなみに、名簿情報を運用するのには、数百名規模だったら Excel でも十分用が足りる。個人情報の管理の問題があるのならば暗号化すればいい…… Excel には標準で暗号化の機能があるのだから。情報をもっとインレクチュアルに運用するのだったら、SQL でも使えばいい話で、Windows 上の MySQL でたかだか数百件の情報を扱うのに、高性能のコンピュータなど必要ないし、最新の OS だって必要ではない。買う理由の筋が通らないのと同様に、廃棄する筋もまた通らないのである。事務にでも使うんだったら、うまくやれば7、8年位使えるかもしれない。それを、2年……しかもこの2年の間に「このパソコン使わせて」という依頼が数々あったのを「これは専用に買ったものだから」と断り続けていたそうな……もの間転がしておいて廃棄する程に、その30万という金は軽いものではないはずである。

まあ、こんな感じで、とにかく僕の所属教会における予算の使われ方はひどいのだが、今年は特にそういう話が出てきそうな気配があった。今年、この教会は献堂50周年を迎えたため、教会の関係者は記念冊子を作るんだ、と盛り上がっていたからである。

この献堂50周年記念冊子なるものは、今年の春に印刷され、一口1000円以上の寄付と引き換えに配布が始まった。なんでもオールカラー印刷の結構な代物なのだそうだが、僕は最初からこんなものには興味はなかった。器が多少いい体裁であっても、この器の中身に、僕はほとほと嫌気がさしている。

また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ 2:22)
このたとえ話は、まだ醗酵が止まっていない新しいぶどう酒を、弾力を失った古い革袋に入れたらば、ガスで膨れて袋が破れてしまう、ということから、新しい救い主として世に到来したイエスが、ファリサイ人の旧来の風習である断食を行っていないということで咎められるものではないのだ、ということを言っているわけだ。新しいものには、それにふさわしい新しい様式があるべきだ、という意味で、よく引用される一節である。

しかし、もし、これが「新しいぶどう酒」でなく「腐敗したぶどう酒」だったらどうだろう。その発生するガスによって、やはり革袋は破れてしまうに違いない。そして僕は、そんなぶどう酒や皮袋のために、自らの1000円を費す気には、どうしてもなれなかったのだ。だからその分を、東日本大震災のための募金に入れ、この冊子のことは忘れてしまうことにしたのだった。

ところが、家にこんな手紙が送られてきたのである:

rotten-church.png

文面を読んで、怒りに手が震えた。これでは押し売りではないか。今迄も、たとえば大学の同窓生名簿みたいなものの頒布案内が送られることなどを何度も経験しているけれど、現物を送りつけて金を払え、なんていうパターンは経験したことがない。オフィスレベルでは、最新の研究動向をまとめた本をお送りします、よろしかったら御購入を……というのが送られてくることがあるけれど、こういった書籍には、必ず本と共に着払いの発送伝票が添付されているものだ。そういう業者でもやらないようなこと(「送るから寄付しなさい、要らないならそちらの金で連絡して来なさい」というような所業)を、よりにもよってカトリックの教会がやるというのである。

しかも、同じ文面の封書が、どういうわけか2通も届いた。これも訳が分からない。僕は何人かの教会関係者にあたって、この裏にどういう事情があるのかを調べてみることにした。

まず、この献堂50周年記念冊子というのは、信者や関係聖職者、あるいは、かつてこの教会に所属していたけれど、現在は遠隔地に住んでいる信徒……そういう人達に配布する目的で作成されたものである。だから、配るのに必要な部数はせいぜい数百というところであろう。ところが、信徒会上層部の面々からなる関係者は、何を考えたのか、この冊子を1600部も印刷した、というのである。

オールカラー80ページの冊子をオフセット印刷するのにどれ位の費用がかかるか。昨今の同人誌などのおかげで、中小の印刷業者でこの手の依頼を受けてくれるところはいくらでもあるけれど、無線綴じで作るとして、800部で30万円前後、というところだろう。これにハードカバーを付けたとしても、40万程度で受けてくれる業者がないわけではない。1冊1000円以上で頒布するならば、これは十分ペイするコストである。豪華にカラー表紙に PP コート……ということだと、1冊1000円ではペイしない位まで費用がかかってしまうかもしれないが。

では、倍の1600部刷ったらどうなるか。おそらく、800部の場合と比較して、十数万程度の追加で印刷ができる。オフセットの版を作るのに費用がかかるからだが、いくら十数万とはいっても、配るあてのない冊子を刷る必要があるとは思えない。余裕をとるにしても、1600部というのは、これは明らかに多過ぎるのだ。

ではなぜ1600部も刷ったのか、その理由を考えると、「どんぶり勘定」というのと「多く刷ってそれがはければ金が入ってくるから」というふたつしか思いつかない。前者は明らかな無駄遣いだし、後者ははける当てがなければやはり無駄遣いだし、そもそもこういう「赤が出なければよい」頒布物で黒字に執着するという辺りがあまりに卑しい(こういうことを考えるから、世間では宗教法人に課税せよ、という話があちこちから聞こえてくるのである)。そして、配布が始まって程なく、後者もただの無駄遣いに過ぎないことがはっきりした。部数がはけないのである。

もし僕だったらこんなときにはどうするか。おそらく書店や大学生協の書籍部などをまわって、店に置いて下さい、買い取りじゃなくていいです、在庫は確実に引き取りますから……と「営業」をかけるだろう。この辺には、印刷・放送による福音伝道を行っている女子パウロ会の書店もあるし、カトリック系大学である南山大学だってある。地元の宗教史に関わる冊子です、ということならば、置いてくれるかもしれないし「売れる」(もちろん本当に売ってしまったら課税対象になるので、寄付金との交換行為ということになるわけだが)かもしれない。しかし、信徒会などの人々がそういうアクションをした、という情報は、少なくとも現時点では何も入っていない。

彼等がしようとしたことは、先にも書いた「押し売り」である。彼等は上の書面を用意し、発送用の封筒を印刷業者に発注した。教会の住所と、料金別納郵便のマークが印刷された封筒だ。これに宛名を貼り、書面を入れ、封をして……と準備しているところに、用意していた封筒を使い切ったらしい。彼等はとりあえず、今迄用意した分を郵便局に持っていき、発送した。

ところが、愚かにも彼等は、自分達が信徒名簿のどこからどこまでの人に書状を発送したか、チェックするのを忘れていたらしい。記憶だけでなく、用意した封筒の数などからも、そこそこ推測できそうなものなのだが、愚かなる彼等は、今度はたっぷりと封筒を印刷させ、名簿の最初から全員に書状を発送し直した。だから、僕のところには書状が二通来ていたのである(そうだよね、Thomas の名字は「う」から始まるからね!)。

だいたい、封筒の枚数から類推して、たとえば200人位には送っていそうだから、190番目辺りから送り直しましょう、なら、まだ分からないでもないのだが、二回目に発送するとき、愚かにも(嗚呼! 何度この言葉を使えばいいのか)、最初っから送り直す、というのはどういうことなのか。てんで理解不能である。

それに、料金別納郵便のマークというのは、各郵便局があのマークのゴム印を用意していて、発送時に局でペタペタ捺せば済むものなのだから、わざわざ印刷業者に発注して封筒に印刷する必要などはなっからない。そりゃ何千とか何万とかいう数なら印刷した方がいいだろうけれど、たかだか数百である。最初から多めに、住所だけ印刷した封筒を作っておきさえすれば、たとえ余っても汎用の封筒として使えるのに、そういう頭も彼等にはないらしいのである。

さて。で、今度は件の冊子を封筒に入れて、宛名を貼って発送しよう、という段になったわけだが、日曜の午後に、事前協議も何もなしで、いきなり宅配便業者に電話して、さあ集荷して下さい、と言ったらしい。ひとつやふたつならともかく、数百もある、という話に、さすがに業者も「いきなり言われても無理です」と、集荷を拒否したらしい。そうですか、仕方ない、では今日はこの辺で……と、彼等はその封筒を山にして、信徒会館に置いたまま帰ったらしい。おいおい。封筒に書かれた宛名は個人情報なんじゃないの? それ守るのに、数十万も出してソフト作らせて、とかいう話だったんじゃないの?

……というグダグダぶりなわけだが、僕はそれがグダグダだというだけで怒っているのではない。

  • 書状封筒印刷(おそらく2、300枚だろうから四千円位?)
  • 書状封筒印刷追加分(おそらく7,800枚だろうから七、八千円位?)
  • 書状封筒送料(おそらく重複分込みで7,800枚だろうから六万円前後?)
  • 冊子送料(クロネコメール便として1通160円、800部と仮定すると十二万八千円也)
……つまり、この一連のグダグダだけのために、下手をすると二十万円近くの金が浪費されたことになるのである。しかも、冊子を買った人も買わない人も、問答無用で送りつけられるのだ……自分の金で官製ハガキを買って断りを書かない限りは! 二十万使ってこの始末とは、一体どういうことなのか。

僕はハガキを書かなかったけれど、こんなことには法的拘束力も何もないだろうから、手ずから冊子を持って信徒会幹部に突き返すつもりだ。そもそも、こんなグダグダな事態のために、あのクリスマスイブのミサで献金していた人々が、あの丸めた札束や重い100円玉の袋を献金しているのではないのだ。そんな罪深い浪費に与するわけには、何としてもいかないのである。

そもそも、この冊子の何が問題だったのか……それは簡単な話である。この冊子にちゃんと定価をつけて、最初から売ればよかったのである。世間には、自分のところで印刷した書籍を amazon などで代行販売してくれる業者だってあるのだ。納税を面倒がって、寄付と引き換えの冊子ですよ、ということになると、これはおおっぴらに売ることもできないし、貰いっぱなしで一文も払わずとも、何も責めを負う理由がない。寄付もしない非道いやつだ、と言っても、自分はその分普段から献金しているんだ、とか、その分は東日本大震災に寄付しました、とか言われたら、反論はできない。なぜならば、この冊子は販売物ではないからだ。つまりは、そういういい加減な体制で、中途半端に金のかかる冊子を作った連中が、教会に対しても、そして信徒に対しても、これ以上はないという程の背信行為をした、というだけの話なのである。

dress code

教会に行くときにどんな格好で行くか。いわゆる dress code の問題なわけだけど、僕が子供の頃でも、できればスーツで行くべきだ、というのが暗黙のルールになっていたと思う。女性も、腕や肩などを出さないような格好で、という感じで、子供の僕でも、洗礼式のときにはブレザーを着させられたものだ。

実は、教会での、おそらく最古のものであろう dress code にこんなものがある。

あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。
……これは、新約聖書の『コリントの使徒への手紙 一』11章 2-16 節のくだりである。

これを以て「だからキリスト教は男尊女卑で」とか何とか言われるのもアレなので、一応補足しておくけれど、聖書の時代において、男性が頭髪を奪われるということは、何物にも勝る恥辱だった。旧約聖書を読むと、恥辱のシンボルとしての「髪を剃り落とす」というフレーズをあちこちで目にするし、子供に「はげ頭」と罵しられた預言者エリシャなどは、罵った子供を惨殺している:

エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。

列王記下 2:23-24

この記述は、聖書のトンデモな記述としてよく例に挙げられるのだが、この「虐殺行為」は、神の言葉を伝える預言者を通して、神に対してこれ以上ない程の恥辱を向けたことへの報い、と解釈すべきなのだろう(聖書を読まれたことのない方はえーっ? とか思われるかもしれないが、旧約聖書はこの手の神の怒りによるスプラッターな描写がてんこ盛りなのである)。

先のパウロ書簡の記述は、女性がヴェールを被る論拠になっているわけだ。しかし最近は、ヴェールを被らない女性信者がほとんど、という状況になってしまっている(「自分で判断しなさい」って書いてるからいいんだ、とか仰る方もおられるようなのだが、それはちゃんと読んでないよなあ……このパウロの言い分があまりに女性蔑視だ、と現代の女性が思うことには何ら反論するつもりはないけれど)。

まあでも、ヴェールを被らない、なんてのはまだいいのだ。僕だって彼女達のことをどうこう言えはしない。ジーンズに裾を出したシャツで教会に行くことも多いから(勿論、何かハレのときには相応の格好はするけれど)……しかし、最近はどうも、そんな僕から見ても「それはないでしょう」みたいな格好をしている人が多過ぎる。

たとえば、ホットパンツにノースリーブで教会に来る若い子達がいる。せめてショールでも一枚肩にかければいいものを、そのままで、堂々と聖書朗読をしたりするので、さすがの僕も気になってしまう。昔だったら年配の信者やシスターに追い出されていると思うのだけど……

拙 blog『暗黙のマナー』で丁度一年前位にも書いたけれど、ガールスカウトの子達の帽子も相変わらずだ。一応その子達も指導者(親らしいのだが)も信者らしいのだが、あの指導者達、一体、子供の頃にどんな風に教わってきたんだろうか……と、まあこんな感じで、ミサに行く度にイライラさせられて、精神衛生上、非常によろしくない。普段でもこんな状態なのに、今日のミサでは、見たくもないものを見て、非常に不快な思いをさせられたので、記録がてら書いておくことにしようと思う。

僕の座る席のふたつ前(ひとつ前は空席だった)に、若い男性が座っていた。体格は小太り、というか、全身に均一にムチッと肉が付いているというか、そんな感じである。この男性、Tシャツにジーンズという格好で椅子に座っていたのだが、立ったり座ったり跪いたりしているうちに、見るともなくこの男性の腰の辺りに目がいった。

腰の辺りが、どうも妙なことになっている。うん、これはいわゆるローライズというか、股上の短いジーンズを履いているんだろう……と納得しようとしたのだが、どうしても何か引っかかる。

普通、見せパンというとこんな感じであろう:

misepan-1.png

それが、どう見ても、こんな感じに見えるのである:

misepan-2.png

……これって、ひょっとして T バックってことか?

うーん。女性がジーンズを履くときに、パンティラインが見えないように T バックを履くというのは、聞いたことがあるような気がするのだけど、男性が、しかも見せパンとして T バックを履く、というのは、聞いたことも見たこともない。しかも、よりによって教会ですよ? ……ったく、一体ぜんたい何がしたいのやら。とりあえず迷惑なので、本当にこういうのは勘弁していただきたいのだが。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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