Rikki Don't Lose That Number

自己紹介には書いていないかもしれないけれど、僕にとって Steely Dan (いつもこの名前を書くのに躊躇してしまう……なにせこの名前は、バロウズの『裸のランチ』に登場するストラップ付き張形 "Steely Dan III from Yokohama" から採ったものだから)は切り離せない存在だ。浪人していたときによく勉強するのに籠っていた、茨城県立図書館のサウンドアーカイブに(なぜか!)綺羅星のごときアメリカンロックの名盤がきっちり網羅されていて、僕は昼休みにあれこれしゃぶり尽くすように聴いていたのだけど、その中にあった Aja をきっかけとして、僕は Steely Dan にすっかりはまってしまったのだった。

あの頃、年長で音楽に詳しい人とたまたま Steely Dan の話になって、あーはいはい、Aja を最初に聴いた、そうか可哀想に、あれぁやっぱりアメリカンロックの文脈の中で聴くべきで、その上からするとやはり初期から聴いといた方がいいと思うけどね、などと言われ、そういえば初期って聴いてなかったなぁ、と思いつつ Can't Buy a Thrill なんかから聴きなおしたのだけど、(今考えてみればそうなるべくしてなったのだろうけど)3rd album の Pretzel Logic(英語的には「ドイツ人的ロジック」という意味なのだろうけど、何せ思わせぶりが身上の Donald Fagen だから、まぁ色々含んでいるのかな……ジャケットはそのまんまプレッツェル売りの屋台なのだけど)を聴いていて、がーん、となってしまった。当然、Rikki Don't Lose That Number (邦題『リキの電話番号』)を聴いたからである。

アコピの左手にリムショットのシンプルなリフ(これをジャジーと形容する人が多いのだろうけどそれは当たり前で、そもそもこのリフは Horace Silver の Song For My Father からの引用なのだから、つまりジャジーじゃなくてジャズだ)から始まった曲は、あのあまりにも有名なねじくれたフレーズでサビへと渡される。こんなスケールって、こんなコード進行ってありなのか?と、考えもしなかった方向からつぶてを食らったような衝撃を受けるのは Steely Dan の場合お約束なのだけど、その鮮やかさと、単に珍奇なだけではなく、それが必然であるようなその巧みな進行に鳥肌が立ったのを、今でも鮮明に記憶している。

で、今でもふと思い返して聞き返したりする。よくある話だけど、「今日の一曲」みたいなものがあって、一度頭にそれが引っかかると、その日に何度もそれを聴いてしまうようなことがあるのだけど、僕の今日の一曲が Rikki Don't Lose That Number だった、というわけだ。

この曲はすさまじいメンツで録音されている。詳細はWikipedia 英語版における解説をご覧いただければお分かりと思うが、あのピアノも実は Donald Fagen ではなく、西海岸のスタジオワークではあまりに有名な Michael Omartian(西海岸のスタジオワークではつとに有名で、Christopher Cross のデビューアルバム "Sailing" をプロデュースし、全米一位 → グラミー賞と獲得したことでも有名)が弾いている。Steely Dan のセッションではおなじみの Victor Feldman は、flopanda と呼ばれる電気マリンバで音場に幻想的な雰囲気をたちこめさせている。そして……あーそうだった、ドラムは Jim Gordon だったんだよな。

Jim Gordon という人は、西海岸のシーンの登場人物としては悲劇の人として知られている。あの有名な Derek & The Dominos のメンバーであり、その中でも Eric Claptonと『いとしのレイラ』を共作した人としてあまりに有名なのだけど、この人の人生は酒で無茶苦茶になってしまったのだ。あの『いとしのレイラ』(具体的には、coda のピアノの部分を彼が書いたといわれている)の作者としてクレジットされたことで、Jim Gordon は莫大な印税収入を得たのだが、生活の安寧を得たはずの彼は酒に溺れ、徐々に幻聴に悩まされるようになる。その幻聴は彼の母親の声で、幻聴に苛まれた彼はついにあるとき、狂気の中で確信してしまう:「母は悪魔なのだ」と。彼は 1983年に実母をハンマーで殴り殺してしまう。裁判の期間中、彼が統合失調症を発症していることが分からなかったために、彼は正当な弁護を得ることなく「15年以上の無期懲役」という判決を言い渡されてしまい……僕の記憶では、医療刑務所に収監されたままだったはずだ。

あれから彼はどうなっているのだろうか、と調べてみたら、恐ろしいことに、彼は未だに収監されたままらしい。出所すれば、莫大な印税収入で進んだ医療措置を受けられるはずなのに、それもままならない状態で、ネット上で減刑嘆願の署名が行われたりしているらしい。ひどい話である。

どうもうわさによると、Jim Gordon がこうなった背景には、彼が『いとしのレイラ』に貢献した分に見合わない利益をクレジットによって得ている、という周囲の下種の勘繰りがあるのではないか、と言われているらしい。しかしなぁ……スタジオミュージシャンというのは完パケ1テイクなんぼ、の仕事で、印税収入での安定した生活がなかなか得られない仕事だったりするので、彼にとって「いとしの……』の収入は、周囲にどうこう言われることがなければきっとプラスにはたらいていたはずである。それを考えると、何ともやりきれない話である……などと思い返しているうちに、どうも救いのない気分になってきてしまった。いけないいけない。まぁそんな感じで、曲ひとつとってみても、色々考えさせられることがあるのだ……知っている人間としてはね。

加藤和彦氏をしのんで

「「フォークル」加藤和彦さん自殺=遺書2通、知人に「死にたい」−軽井沢のホテルで」(時事ドットコム / 2009/10/17-18:31)

加藤さん、いや、トノバン。あなたに僕は、おそらく大きな影響を受けています。

最初にあなたを意識したのは、やはりサディスティック・ミカ・バンドでした。僕が高校生の頃、世間ではミカバンドの名前すら聞かなかった時期に、僕の友人が『黒船』と『ライブ・イン・ロンドン』を聴かせてくれたのです。そこには、YMO のソフィスティケイトされたイメージと全く異なる高橋ユキヒロ(あの頃はこう書いてましたよね)、とにかく音の太い、小原礼、そしてリアルタイムのイメージと全く違う高中正義、そして、ミカと並んで日本人離れした衣装に身を包んだあなたがいました。

ベースを弾き始めた頃の僕が、小原氏と、後期ミカバンドの後藤次利氏のプレイをさんざんコピーしたのは言うまでもありません。やはり当時僕達以外誰も聴いていなかった、はっぴいえんどやティンパンアレイでの細野晴臣氏、山下達郎に関わった岡澤章氏、田中章宏氏、そして伊藤広規氏。もちろんモータウンのジェームス・ジェマーソンは一番のアイドルだったけれど、あなたのバンドのシャープなグルーヴは、当時のリアルタイムの日本のバンドが失いかけていたもので、僕はそれを夢中で聴き、吸収しようと努めました。

数年間でしたが、あなたが学んだ深草のキャンパスで教壇に立つチャンスにも恵まれました。京都は僕にとっては日本の音楽の聖地のひとつで、そこで当時の更に30年前にあなたが闊歩していたであろう中庭を、まるで初雪の降った地面に足を下ろすように踏んだことは忘れません。

おかしな話ですね。僕は fanatic な存在としてのファンを嫌悪していて、自分自身も決してそうあるまい、と思いつつ今迄生きてきたはずなのですが、実際思い返してみると、自分もそんな音楽の渦の中に身を投じられそうな気がして、心が躍ったものです。それは今も変わっていません。僕は音楽をまだ続けています。

安井さんが亡くなられたとき、あなたは大変心を痛めていたと聞きました。62歳という年齢は、人間のホルモンバランスなどが変化する時期で、それがあなたの心を、躍る音楽の光から、タナトスという闇に誘ってしまったのかもしれません。あなたの盟友である北山修氏は、きっと今一番、あなたの死に悲しんでいると思います。あなたは罪な人です。

あなたの雑誌等での何気ない言葉は、僕を勇気づけてくれていたんです。ハイハットが打込みでどうしてグルーヴィーにできないんだろう、と思ったときに、あなたの「20種類以上の音源を使ってどうにか満足できるかどうか」という雑誌でのコメントを読んで「俺の音楽が腐っていたんじゃないんだ」と安心したこともありました。再発盤の『スーパー・ガス』を手に取って、あの空間プロデューサーを名乗っている四方義朗氏があなたのアルバムにギタリストとして参加されていることを初めて知って、驚かされた記憶もあります。あのときの僕は進路に少し悩んでいた時期でしたけれど、音楽で飯を食う厳しさを思い知らされたような気がして、今の稼業に専念するように背中を押してもらったような気が今でもします。

あなたは、老成しつつもロックミュージシャンとして生き続ける先駆者であり続けてほしかった。だから、僕に、自分を含む、音楽を愛する者、音楽で鬻ぐ者の代表として、一言だけ言わせて下さい:「どんなに老いぼれてくれたっていい、生きて音楽を続けていてほしかった」

僕の信仰する宗教では、自ら命を絶った者に天国の門は開かない、とされています。ならばせめて、音楽のように、流れて、人の心に何かしら跡を残して、また流れていく、そんな風に、僕達に、僕達の音楽に、何かしら痕跡を残し続けて下さい。あなたから受けた影響は、確実に僕の中にも存在しています。

いかにして僕が Todd Rundgren を聴くようになったか

僕が Todd Rundgren をよく聴くことを話すと、僕や僕の音楽を知る人は皆「え?」という顔をする。たしかに僕らの(そしてもう少し上の)世代の人々にとって Todd というと、やはり Utopia とかのイメージが強いわけで、あのプログレとハードロックの合成みたいな時代の Todd の音楽と僕とは、なかなか結び付けがたいものだろうと思う。

僕にとっての Todd の favorite album は何か、と問われれば、やはり "Something/Anything?" と "Runt: The Ballad Of Todd Rundgren" ということになる。この時代、Todd は顔に蝶のマスクをしてビラビラの服を着た、見た目は誰がどう見てもグラムロックの人みたいな格好をして、ピアノを弾きながらテレビで歌っていたりしたのである。あの Nick DeCaro が AOR の先駆けといわれる "Italian Graffiti" で "Wailing Wall" をカバーしていたりもする。こう書くと、実に意外に思われるかもしれない。いや、他ならぬ僕にとってもそうだったのである。

僕が中学か高校の頃に、藤井フミヤと RICACO(村上里佳子)が司会をやっていた、おそらく女子大生辺りをターゲットにしたと思しきテレビ番組があったのだけど、そのテーマソングを一聴して、僕はすっかり気に入ってしまった。しかし、この曲に関するクレジットが番組で出ることはなく、結局誰の何という曲か分からないまま、7、8年程前まで過ごしてしまっていた。勿論、その間もずっとこの曲を探し続けていたのだけど、どうしても見つからないままだった。

で、あるとき、仕事で秋田に行ったときに、夜に一人でバーで飲んでいたら、ふとした拍子にこの曲が有線でかかったのである。ただし、僕の聴いたものではなく、女性のヴォーカルであった……が、この声は間違えようがない。こいつぁ Keiko Lee だ。よし、手がかりができた。

その頃、ある CD 屋のチェーンが、店内のほぼ全ての CD の収録曲を試聴できるサービスを始めたところだった。聴きたい CD のバーコードをリーダーに読ませると、最初の10秒ほどを聴くことができるのだが、これでその店にあった Keiko Lee の CD を片っ端から聴いていくと……彼女の'98 年リリースの "If It's Love" というアルバムにその曲は入っていた。曲名は "I Saw The Light"。で、誰の曲だ、と見ると……なんと Todd である。その頃は僕も Todd といえば Utopia のイメージだったので、えー?となったが、とりあえず同じやり方で Todd のアルバムを探していくと……あの "Something/Anything?" の最初の曲なのであった。

このとき、ふと思ったのが、「最近の子達もこれ式の迷宮をさ迷わされそうな曲があるなぁ」ということであった。実はその少し前、あの曲たしかあのアルバムに入ってたんじゃないかなぁ……と、恐々 Lenny Kravitz の "Mama Said" を買って、"It Ain't Over 'Till It's Over" が入っていたのでほっと一息ついたところだったのである。最近の Lenny しか知らなかったら、彼がファルセットでこんな曲を歌っているなんて想像もできないに違いないだろうから(そういえば "Mama Said" に入っている "What Goes Around Comes Around" は明らかに Curtis Mayfield の "Pusherman" の影響を受けまくっているなぁ)。

まぁ、かくして僕は Todd を聴くようになったわけだ。ライブも行ったし。音楽にだけは飢えることがないのであった。

Smokey Robinson

最近、Wham! の音源を納戸の奥から出してきて(何故こんなものがあったかは謎なんだが)、iTunes / iPod に突っ込んで聴いていたのだけど、実は Wham! の音源の中には、R&B ファンがニヤリとさせられるカバーが入っている。一番有名なのは Isley Brothers の If You Were There のカバーだが、デビューアルバム "Fantastic" にもなかなかニヤリとさせられるカバーが入っている。George Michael という人は、ソウルや R&B が好きで好きで仕方がなかったんじゃないかと思うのだけど(最近のドラッグ絡みでの彼の状況には胸が痛むのだけど)、この "Fantastic" に入っているのは、The Miracles の "Love Machine" のカバー、というより完コピに近いテイクである。

この頃の The Miracles からは、既に Smokey Robinson は脱退しているのだが、クラブなどに通っていた人だったら、きっと一度は聴いたことがあるに違いない(って、僕はクラブ DJ には知り合いがいるのだが、クラブという場所自体にはほとんど縁がないのだけど)。そういえば、モーニング娘。とかいう集団が同じような名前の駄曲を出したときには、仲間連中で「名前までパクるかぉぃ」なんて話になったっけ。まぁ、The Miracles のそれとは、そもそも比較にもならないので、モー娘。なんてのはどうでもよろしい。

で、この流れで、無性に Smokey Robinson が聴きたくなった。で、音源を納戸の奥やらブラジルの密林やらから集めてきて、iTunes / iPod に突っ込んで聴いているところなのだけど……ううむ。自分でも、いつ頃から聴き親しんでいるのか分からないのだけど、Smokey Robinson ってこんなに聴いていたんだっけ、という印象である。確実に染み込んでいる。あまりに有名な "Ooo Baby Baby" とか、誰でもヴァースを知ってる "The Tears Of A Clown" とか、確実に子供の頃に聴いている、らしいのだ。うーむ。

で、今回再認識したのだけど、ソロになってからのヒットである "Quiet Storm"。これは今聴いても古くない。うん。まだまだ僕は音楽に飢える心配はしないで済みそうだなぁ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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