世間では、僕のように信仰を大っぴらにしているカトリックというのは、実は少数派である。というのは、それを大っぴらにしていると不愉快なめに遭うことが少なからずあるから、なのだけど、そういう不愉快なことをしかけてくるのは大抵が「半可通」だったり、某信濃町系(仏教と自称する)個人崇拝団体の関係者だったりする。
僕が遭った事例を思い返してみると、自称キリスト教通にいわゆる千年王国とか携挙とかの話をされて、はぁしかしカトリックの僕には関係のない話ですねぇ、とか言うと、「そんなことも分からないでクリスチャンぶっている愚か者め」というようなことを言われたり……とか、たまたま友達の家で同席した奴が信濃町系で、僕が先に退席するや、いかにキリスト教が「不完全」(何がどう不完全なのか要領を得ないし、そもそも人間崇拝者にそんなこたぁ言われたくないんだが)か、そしてそんなキリスト教の信仰を持つ僕がいかに「不完全」な人間なのか、滔々と語り出した……とか、まぁそんな感じだった。この手合いは、放っておけば自ら馬脚を露わにしてくれるから、別に深く関わるつもりもない。
では、どういうのが問題だと思うのか、というと、「キリスト教代表」みたいな顔しておかしなことを言う連中が出現したり、その手の輩の風説が流布されたりする状況が問題なわけだ。この手のもので一番皆さんが覚えておいでであろうものは、ちょうど3年前にメディアミックスがかけられた、いわゆる『パワー・フォー・リビング』であろう。アメリカで保険のテレホンショッピングで財を成した Arthur S. DeMoss が設立した財団によるこのメディア・ミックスの後、僕も複数の人から「Thomas さんもああいうのなんですか?」と聞かれて困ったものだ。
ここに明記しておくけれど、あの『パワー・フォー・リビング』の運動を行った Arthur S. DeMoss 財団というのは、アメリカのキリスト教右派の立場を取る宗派を超宗派的に援助する財団で、妊娠中絶反対とか、家庭婦人運動とか、そういうものに影から多額の援助をしている。そして、財団内部では Arthur S. Demos の遺族達が不明朗な会計処理を行っていたことが判明して、アメリカ当局から厳重な査察・注意がなされたという過去がある。内においても外においても後ろ暗いところのあるこうした財団と、正直言って同一視されるのは御免なのだ。
さて。今回の話をする前に、日本の多くの人が知らないことに関してフォローしておく必要があるだろう。東アジアで最もキリスト教が活発な国はどこか?という話である。答は「韓国」。かの国は、国民の3割がクリスチャンという一大キリスト教拠点である。おおむねプロテスタントとカトリックの比率は 2:1 というところだろうか。だから、国民の2割がプロテスタント、1割がカトリックということになる。
2月1日号の AERA に韓国のキリスト教に関する記事が掲載されていた (pp. 30 - 32) が、そこでは、韓国でキリスト教が広まった理由として、韓国・延世大の柳東植元教授の著書『韓国のキリスト教』の中からこのような箇所を引用していた。
- 日本の植民地からの解放や朝鮮戦争など、社会が激しく変動した時期に積極的に宣教した
- 朝鮮民族の有神論的な霊性が、部分的にキリスト教の信念体系に合致した
- 熱情的な祈祷会や伝道活動が民衆の宗教心をとらえた
いやそれは客観的でないコメントでしょうね。第一の理由はむしろ、朝鮮戦争後に、アメリカのミッションが多数入り込んで、国家復興と並行するかたちで伝道活動が行われたから、と書くべきで、日本植民地からの解放というのがダイレクトに結びつくという指摘は、これは明らかに不自然だろう。二番目や三番目も、「有神論的な霊性」とか「熱情的」と書くよりも、むしろ fanatic(狂信的)と書く方が適切だろうと思う。たとえば韓国由来のペンテコステ派の教会にでも行ってみれば、日本のキツネツキと見ため全く区別がつかない「異言」の様子をみることができる。現実はそうキレイなものではないのだ。
上述の AERA の記事では、韓国のキリスト教勢力の日本におけるムーブメントとして、「ラブ・ソナタ」に関して、そして、国際福音キリスト教会のセックススキャンダルに関して書かれていた。ここに明言しておくけれど、どちらもカトリックとは何も関係ありませんので、お間違いなきよう。
ラブ・ソナタであるが、これはソウルのオンヌリ教会が中心となって主催している、韓流からキリスト教伝道を行う団体である。2007年から活動している、というが……彼らが何者なのかは、彼らの自己紹介: 「ラブ・ソナタとは」を見れば分かる。ここにはこうある:
一番目、ラブ・ソナタは リバイバルです。
リバイバルとは何か。ここでの意味は、簡単に言うならば「聖霊のはたらきによる著しい信仰の目覚め」である。この「リバイバル」ということばがキーワードとして重要視されたルーツは、20世紀初頭のロサンゼルスであるとされる。程なくして「リバイバル」から「ペンテコステ」(聖霊降臨)を旗印としたペンテコステ派が誕生し、日本にも宣教師が来るようになった。現在のプロテスタントで言うならば、たとえば「日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」は、日本におけるペンテコステ派の古株、ということになる。注意しなければならないのは、そういう既存の宗派の中にあって、「いや自分はこう考えてるんだけど」と思う人は「私は私の派でやります」と、新しい教団を設立してしまうことが非常に多い。極端に言うならば、一人一派とでも言うような活動が行われていて、日本だけに限定しても、ペンテコステの範疇にある教団というのは枚挙に暇のない程に存在する。
このように分散していく運命にあるプロテスタントは、カトリックや東方正教などとは異なり、ひとつひとつが持つ力が小さいものとなってしまう宿命を負っている。だから、同じ派の中で大きな力を持つ派に与するかたちで、福音宣教活動を行おうとするわけで、今回のこの「ラブ・ソナタ」も、韓国の大教会に日本の教会が乗っかったかたちだ、と見るべきだろう。
近年、日本のキリスト教はこのような韓国勢力を頼みとするような向きがあるのだが、どういうわけか、彼らの中からセックススキャンダルをおこす牧師が散発的に登場する。異端とされているかの統一教会や「摂理」などもそうだけど、この10年程の間、大きな問題になりながら、ついこの2、3日前までメディアで問題提起されなかったのが、国際福音キリスト教会である。
この教会を日本に設立したのは、韓国長老派の牧師である卞在昌(ビュン・ジェーチャン)であるが、卞は1997年に日本で宗教法人小牧者訓練会なる団体を立ち上げている(先の国際福音キリスト教会は、この小牧者訓練会の傘下の教会である)。この団体は、国際福音キリスト教会以外にも、雑誌『幸いな人』、動画配信サイト『アガペー TV』などを傘下に有している。この団体は、一見すると「ディボーション」というキーワードを推進する団体であるかのように見える。しかし、その内実は、聖書精読から、教会のリーダー格を育成するための活動、と言う方がむしろ正しいだろう。分裂・小規模化するプロテスタント教会にとって、このような指導者育成活動が一種の福音(この比喩を使うのはあまりに皮肉っぽいけれど)であったことは想像に難くなく、実際、彼らが主催したセミナー「全国小牧者コンベンション」は、上述 AERA の記事によると、昨年中止されるまでに、約2000もの教会(これは全プロテスタント教会の 1/4 に相当する)の牧師・宣教師・信者が参加しており、主催者である卞牧師も、各方面の聖職者に高い評価を受けていたのだ、という。
ところが、卞牧師に関するセックス・スキャンダルが表面化する。Faith of Esther (FOE)なる団体が、「宗教法人「小牧者訓練会」による被害を受けた女性達の救出と癒しを目的と」して設立された。そして昨日、ついに卞牧師が逮捕されるという事態に発展した。当の国際福音キリスト教会のコメントは、というと、今日の段階では以下の通りである:
このように、プロテスタントの宗派の中には、しばしば分裂と混沌の中に没入するが如く、このようなスキャンダルや、個人や団体に向けた誹謗中傷などにつきすすんでいってしまうものがある。二千年の長きに渡って、人の犯す過ちをあらかた経験してきたであろうカトリックの人間として言うならば、このような問題はまず間違いなく「人が人を牧する(ここでは「司牧」と言うよりも「牧会」と言うべきであろう)」という構造に起因している。カトリックの司祭のように、世俗の欲望の対象物を遠ざけることを課していないプロテスタントの牧師が神との関係を忘れてしまうと、とたんにその牧師は神の名を騙った暴君になってしまう。しかも神の名を纏っているが故に、信者はなかなかそれに抗うことができない。それ故に、このような話は他の何ものよりも罪深いのである。そしてこのような話は、探せばいくらでもある……たとえばあのキング牧師でさえ、信者女性との不適切な関係があったことが知られているのだから。
もちろんカトリックが清廉潔白だと言うつもりはない。しかしカトリックには、過ちの歴史という「財産」があるのだ。人が人として犯すことは、この二千年の歴史をひもとけば、まず初出ということはありえない。そして僕達は、その歴史から学ぶことができるのだ。もしプロテスタントが「カトリックだから」という理由だけでこのような「学習行為」を否定したり、無意味なものだとこきおろすのならば……お願いだから、一緒にせんといて下さい。