「秘すれば花」も通じない?

「秘すれば花」という言葉がある。この言葉は好きな言葉で、世阿弥の言葉だというのは頭に入っていたのだけれど、全文はどんなんだったかなあ、と思いつつ、検索をかけてみて、日本人の国語能力に絶望しそうになってしまった。

「秘すれば花」というのは、世阿弥が著した『風姿花伝』にある言葉で、その全文は、

秘すれば花なり秘せずは花なるべからず
である。この意味は、非常に深く重いものなので、もしご存知ない方がおられたらご自身でお考えいただきたい(その結果は、皆さんの生き方に必ず影響を与えるものになるはずである)。どうしても分からないという方は、『秘すれば花』というそのものずばりの題名の本を渡辺淳一が出している(現在は講談社文庫に収録されている……僕は彼の今の小説は大嫌いなのだが、彼の初期の歴史小説には上質なものが多いし、この言葉に対する渡辺の解説も――『プレジデント』での連載をまとめたものなので、やたらビジネス絡みに話を持っていこうとする傾向があるのは仕方ないのだが――そう悪くないと思う)。

で、だ。この言葉自体はいい。しかし、最近は各ポータルサイトで、ユーザの質問をユーザが答えるような場所があって、そこでの問答なども検索にひっかかってくる。その中に、これぁないだろう、というようなものを見つけてしまった。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011264840?fr=rcmd_chie_detail

いや、これはひどい。ひどすぎる。世阿弥が化けて出てきそうな程にひどい。これを見て、今日はすっかり気分が悪くなってしまった。

Yuming / Sugar Babe (unreleased) (備忘用メモ)

最初に断り書きをしておく。Sugar Babe というのは、ご存知の方も多いと思うが、山下達郎、大貫妙子、そして短い期間ではあったが伊藤銀次の各氏が在籍していたことで有名なバンドだが、このバンドはアルバムを1枚しか残していないために、数々の未発表曲が存在する。それらのいくつかは、山下氏や大貫氏のソロアルバムに再度レコーディングしたものが収録されていたりもするのだが、この "Yuming" という曲は、今後もおそらく reissue 盤などに収録されることはないだろう(山下氏や松任谷由実氏に何事かあれば分からないけれど、ファンとしてはそういうことは望みたくはない)。当時、Sugar Babe の曲は、ライブの度に詞が細かく直されることが多かったため、以下の詞も唯一のものではない。僕が持っている、ある音源に収録されているものを備忘用に、ここにメモしておくものである。

なお、著作権に関しては、実際には管理されていない可能性が大きいのだが、この曲の originator として山下達郎氏にあるものとして記述しておく。問題のある場合は公開中止する(ただし、Smile Company もしくは Wild Honey から申し入れがあった場合に限らせていただく―― JASRAC が管理対象としている「著作物」としてこの曲は世間に release されていないので、第三者経由で JASRAC からクレームが入ってもそれに応える必要はないと思われるので)。

Yuming / Sugar Babe
Words and music by Tatsuro Yamashita

ああ 街が静まる 今にも
ああ グッとイカした ベレット

胸の鼓動が 震え始める
みんな 今 君を待ってるよ


{さあ 歌っておくれ Yuming
{さあ 夜がこれから始まるから
{今夜の僕の時計は 12時半で止まるよ
{朝が来ないように

ああ 夜はいつでも 遷ろう
ああ 恋を灯した Lavender Rose

雨を降らして 風を呼んでよ
君の その 魔法の言葉で

*(繰り返し)

雨を降らして 風を呼んでよ
君の その 魔法の言葉で

*(繰り返し)

さあ 歌っておくれ Yuming
さあ 夜がこれから始まるから
さあ みんな一緒に
さあ リズムをいっぱい

Copyright reserved by Tatsuro Yamashita

懐かしいもの

『都会』(大貫妙子)スコア

懐かしいものが整理をすると出てくることがある。この曲は作曲・編曲・演奏・歌唱の全てにおいて、未だに旧さを感じさせない(というか、これに比べたら現在の商業音楽の方が余程ダルだ)佳作であるが、今はこれが僕の弾き語りのレパートリーになっているのだから、まぁ少しは進歩しているということか。

eclipse

今日は部分日食が見られる日なのだが、曇っていたため、半分観測は諦めていた。しかーし……薄い雲が逆に幸いし、手持ちのデジカメでの撮影に成功した。以下に画像を公開する。

eclipse20080722.jpg

さて、今回の日食は、沖縄の南などでは皆既日食が観察できる条件だったわけだが、僕らの業界で「皆既日食」というと、思い浮かべられるものは何か……多くの同業者は「一般相対性理論」と答えるであろう。

特殊相対性理論の証明として有名なのは、いわゆる「マイケルソン・モーリーの実験」と呼ばれるものであった。これは、直接には、直行する二つの光路を通った光を干渉させ、干渉縞から二つの光路の光速度の差を求める、というもので、この実験(実際にはこの二氏の後も、レーザーなどを用いた極めて大規模・かつ高精度の追試が数々行われている)によって、光の媒質として仮想されてきたエーテルの存在が否定され、特殊相対性理論以外にこの問題を説明できる理論が存在しないために、特殊相対性理論の妥当性を証明している、とされている。

しかし、いわゆる相対性理論には、もうひとつ「一般相対性理論」というものがある。一般相対性理論は特殊相対性理論を、加速度運動を内包する場の理論として拡張したものだが、この理論では重力が時空連続体(いわゆる我々にとっての時間・空間を形成する場)に生じた歪みであると解釈され、重力で空間に歪みが生じている、ということを観測や実験によって検証することが求められていた。

あらかじめ位置が分かっている星の位置を、質量の極めて大きいものをかすめるような条件で観測してやって、観測結果から得た位置が既知の位置とずれていれば、一般相対性理論が証明されることになる。宇宙空間にある「質量の極めて大きいもの」としてもっとも手っ取り早いのが太陽だが、太陽は自らが強力な光を発しているために、通常はこのような観測は不可能である。

そこで……イギリスの天体物理学者 Sir Arthur Stanley Eddington は、1919年5月29日のアフリカ・プリンシペ島における皆既日食において、皆既食中の太陽とその近傍に観測される恒星を写真撮影し、恒星の位置を検討した。その結果は、ニュートンの万有引力理論における予想値の約2倍、恒星の位置がずれて写っており、これによってはじめて一般相対性理論の妥当性が証明されたのである。

もし、皆既日食という現象がなかったとしたら、このような観測による証明は非常に困難であったろう。日食の効能というのは、実は我々が考えるよりもはるかに大きな意味を持つものなのである。

土用の丑の日、それは自称グルメの試金石

この間の日曜は土用の丑の日だった。僕の家の近所に、江戸前の鰻を食わせる店があるのだが、この店の駐車場には、クルマの列が長く連なり、一度品切れになった鰻を店が業者に無理を言って入れさせ、一時中断した営業を再開してまでの大騒ぎをしていた。

愛知県人は行列が大好きだ。おまけに言うと、自分が「いいもの」を食べたことを他人に披瀝するのが大好きだ。某 SNS などでは、食い物と酒のことしか blog に書けないような輩がゴロゴロしている。だから、前述のクルマの行列などは、思わず頭を押えてしまう程に酷いものだった。

で、僕が鰻を食べたか、って?勿論、食べる訳がないじゃないですか。

そもそも、まっとうな仕事をしてくれる鰻屋の多くは土用の丑の日に休むのである。これは、鰻の養殖が盛んに行われている愛知県でも変わらない。名店と言われる(誤解なきように願いたいが、ここで言う名店というのは、メディアで有名な店というのとは全く異なる)店は、愛知でも土用の丑の日には休むのである。理由は簡単、いい鰻がまっとうな値段で仕入れられなくなるのと、いい仕事のできる状態でなくなってしまうからだ。

僕はいわゆるグルマンではない。しかし、どうせ何か食べるんだったら、落ち着いた場所で美味しいものを食べたい、と思っているだけだ。土用の丑の日の次の日、多くの鰻屋が休んでいる中、まるで殉教者のような気高さで暖簾を出している店は大抵静かだし、僕は少なくともそういう店の中に美味いものを出してくれるところを知っている。だから、平賀源内の広告戦略に今更乗っかって、鰻騒動の一部になるなんてのはゴメンなのだ。

まあ、グルメぶっている(特に自分が何を飲み食いしているか披瀝しているような)連中、なんてのは、実際のところ、味が分かっているとはとても思えない。料理関連の業界に知り合いがいるので、その手の輩が集うイベントに参加したこともあるけれど、

  • 泥酔して入ってきて、ジントニックとジンリッキーの区別もつかない
  • 日本料理屋でまる(鼈、スッポン)の炊いたのが出てきたとき、大将を礼賛するようなことを散々言っていて、エンペラを「こんなの食べられない」と丸々残す奴
  • ちゃんと土用干しして塩で漬けた梅の味を知らないらしく、自家製の梅干しで作った梅肉を出されてその味が理解できず、塩抜きをして砂糖や蜂蜜などを含ませた梅で作った梅肉の味を延々大将に語って帰っていった奴
なんてのに何回もお目にかかった。ぺっぺっぺっ。飯も酒も不味くなるっての。

だから僕はグルメを自称する人々を軽蔑しているのだ。自分が食べることと、食文化だけでない広い文化、そして様々な国の風土、そして自分の心。そういった事々がリンクしてもいないんじゃあ、他人様の作ったものの味に物申す資格などないのだ。

メディアへの苦言(『北海道の夏山遭難に関して思うこと』補遺、追記あり)

まず下記リンク先を読んでからお読み下さい。


Date: Mon, 20 Jul 2009 08:47:53 +0900
From: Tamotsu Thomas UEDA
To: center@kachimai.co.jp
Subject: 『【緊急企画 夏山遭難】トムラウシ山の惨事』内容に関して

十勝毎日新聞社 読者センター 御中:

上田と申します。御社の web サイトにて標記記事を読ませていただき
ましたが、少々お伝えしたいことがありまして、メール差し上げます。

御社記事:
【緊急企画 夏山遭難】トムラウシ山の惨事(上)
http://www.tokachi.co.jp/feature/200907/20090718-0002104.php
中、

>  トムラウシ山に年7、8回は登るという、十勝山岳連盟の太田紘文会長
> (69)は「20−25メートルの風では、ツェルト(非常用テント)は
> もたない。テントもはじめから立てていないと無理」と語る。

とありますが、北海道警察が公開しているページ:
『夏山(7月から8月)遭難事故の防止』
http://www.police.pref.hokkaido.jp/info/chiiki/natuyama/natuyama.html
中には、このような記述があります。

> 山岳遭難事故を防ぐため、次の点に注意してください。
>  
> ★ 計画した時間に無理に合わせるのではなく、天候、自分の体力や体調に
> 合わせた登山をしましょう。
> ★ 夏の雪渓は、固く滑りやすいので、急斜面では簡易アイゼンを使用しま
> しょう。
> ★ 天候の急変などに備え、日帰り登山でも、雨具、ツエルト、ヘッドランプ、
                        ^^^^^^^^
> 携帯電話の乾電池式充電器、アマチュア無線機などを携行しましょう。
> ★ ヒグマの出没情報に気をつけるとともに、熊除け用の鈴など、音の出るもの
> を携行しましょう。
> ★ 登山計画は、家族や職場に知らせるとともに、登山計画書を最寄りの警察署、
> 交番・駐在所に提出しましょう。
(傍線は筆者)

このように、ちゃんと装備にツェルトを持つように、と明記されているのですが、
十勝山岳連盟の太田紘文会長なる方も含めて、風に対する認識が甘すぎるのでは
ないでしょうか?

# 私は今回、このツェルトの件に関してメディアが明確な指摘をしないことに
# 大きな疑問と憤りを感じております。現在の一人用ツェルトは、ビールの
# 350 ml 缶と同じ程度の大きさで、重さも 200 g 前後です。これと、樹脂に
# アルミ蒸着したコンパクトな防熱シートを装備していたら、おそらくひとつの
# ツアーで8人も死ぬなどということはなかったはずですから。

---
Tamotsu Thomas UEDA

[後記]なんと、十勝毎日新聞社から返事を頂いた。この手のメールは黙殺されることが多いのだけど、まずはちゃんと読んでご返事いただけただけでも感謝している。そのご返事と、それに対する返事をここに引用しておく


 上田様
 本紙の記事につきまして、ご指摘をありがとうございました。今後とも、お気
づきの点がありましたら、よろしくお願い申し上げます。
 なお、ご指摘がありました太田会長の談話の件ですが、太田会長が「もたない」
とお話しになったのは、「持って行かない」の意味ではなくて、「耐えられない」
の意味です。あるいは誤解されましたでしょうか。談話とはいえ、まぎらわしい
場合は言い換えなど、表現に留意していきたいと思います。
--
勝毎読者センター

勝毎読者センター 御中:

 上田です。まず……ほとんどのメディアはこの手のメールを出しても
無視されてしまうのですが、まずはご返事いただいたことに感謝します。

On 2009/07/21 9:15, 勝毎読者センター wrote:
>  なお、ご指摘がありました太田会長の談話の件ですが、太田会長が「もたない」
> とお話しになったのは、「持って行かない」の意味ではなくて、「耐えられない」
> の意味です。あるいは誤解されましたでしょうか。談話とはいえ、まぎらわしい
> 場合は言い換えなど、表現に留意していきたいと思います。

なるほど。「携行」の意味でないので、あえて平仮名表記で「もたない」
と書かれていたわけですね。私のように誤解する人は多いかと思いますが、
この場合は表現自体を変えるしかなく、しかもインタビューでご本人が
しゃべられた内容ということでしょうから、それがし難かったというのも
分かります。字数制限等おありでしょうが、もたない(耐えられない、の意)、
などのように併記して下さると有難いですね。

で、本当に「もたない」のか……という話ですが、ツェルトというのはそもそも
「袋」ですから、ポールなどを立てた本来の設営形態での使用は困難かもしれ
ませんが、飛ばされないように広げて、中に潜り込めれば、少なくとも風雨に
よって体温を奪われることはかなり抑制できたのではないかと思われます。
現在のツェルトでしたら、風速 30 m 位でも、風だけの為に生地が裂ける
等のアクシデントは起きないと思います。あくまで私の意見ですが、ご参考まで。

---
Tamotsu Thomas UEDA

愛知県人考(北海道の夏山遭難に関して思うこと 補遺)

先日の blog に書いた、北海道大雪山系のトムラウシ山における遭難事故の件だが、その後、ある事実が明らかになった。旅行代理店のツアーに参加して亡くなったのは8人なのだが、そのうちの4人が愛知県人なのだ、というのだ。

僕は、これは決して偶然ではないと思っている。今回のこの事態は、愛知県人のある一面を実に見事に反映していると思うからだ。

僕は、関東で20年弱暮らして、それから大阪で10数年を過ごして、愛知県で暮らすようになってからは数年が経つ。仕事柄、全国のあらかたの地方都市には行ったことがあるし、大抵は1週間ほどの滞在を何度かしている。だから、転勤族と呼ばれる人ほどではないけれど、それなりに、中立的な立場から、愛知県というところの気風を語れる、と思う。そんな僕にとって、この愛知県というところは……はっきり書いてしまうと、今まで滞在したところの中で、最も居心地の悪いところである。

僕は(今はほとんど呑まないようにしているのだが)もともと大酒呑みで、しかもべたべたした接客をする店で呑むのが大の苦手である。だから、いわゆる authentic bar と呼ばれるところや、落ち着いた蕎麦屋のようなところでしか呑まないのだけど、これは厭な気分で酒を呑みたくない、というのが第一の理由である。しかし、店から店へと移動したりするときに、残念ながら厭な気分にさせられることが多かった。もちろん、それは愛知県に来てからのことである。

誤解のないように書いておくが、愛知県にもいい bar はたくさんある。蕎麦屋は……まぁちょっと不作気味ではあるけれど、これもないわけではない。で、そんな場所で休みつつ美味い酒をゆっくり呑んで外に出ると……大概出くわすのが、酔ったスーツ姿の数人連れである。

この手の輩は、どういうわけかそのほとんどが、皆で横一列になって、笑いながら歩いている。こちらは孤独に呑みたくて呑みに出ているのに、この手の輩に会って気分がいいわけがない。そもそも邪魔だ。

「ったく。こいつら『G メン '75』かぁ?」

などと心の中で毒づきながらすれ違おうとするのだが、当然のごとく、すれ違いようがない。で、接近してくる横一列をにらみつけながら直進する。こちらに気づいて避けるならそれでよし。しかし避けなければ当然ぶつかる。こちらも相当気が悪いので、つい言葉のひとつも出てくる。

「あんたら、小学校のときに、廊下や道路では横に広がらずに歩きましょう、って習わなかったのか。えぇ?」

などと言いつつにらむ……こともあったが、大抵はそれも面倒なので、不快感を露にした顔を向けるだけなのだが、この手の連中は、こういうときに謝意を示すことがまずない。彼らの口から出る言葉は決まっている。こうだ。

「あ」

あ。これで終わりなのである。いつでもそうだ。いや、酒がらみの話だけではない。例えば、新幹線に乗ろうと急いでいるときに、エスカレータを塞ぐように横に並んで立っているスーツ姿の二人組や、カートを持ったオバハン、なんてのに決まって遭遇してしまうのだが、

「済みませんが、急いでいるので、道を開けていただけますか?」

と声をかけると、やはり「あ」。「すみません」「ごめんなさい」「失礼」そんな言葉はまず出てこない。

とにかく、愛知県人は横並びが大好きなのである。自転車で帰る学生二人組までそうだ。危険なことこの上ない。

あるテレビ番組で、こんな実験をしたことがあった。ポケットティッシュの入った箱に「ご自由にお持ちください」と書いて街中に置いたとき、人がどう反応するか、というのを、各都市で観察する、というものだったのだが、大阪の場合、おばさま達は二個も三個もほいほい持って行く。ところが、愛知県では、まず最初は誰も手を出さない。誰か一人がティッシュを手にしたら、それを見るや否や、周囲の人達が箱に殺到するのである。要するに、横の位置に誰かいないと、皆動けないのである。

僕も、これに似た経験をしたことが何度かある。街中で、一方通行の車道を渡る横断歩道で信号待ちをしているとき、片方からクルマが来ないことを確認して、もう片方から自転車などが来なければ、信号など無視して渡ってしまっても特に危険はない。いわゆる J-walk というやつである。ところが、愛知県人は自ら率先してこういうことはしない。で、僕のような異分子がたまたま目前で道路を横断すると、まるで旧約聖書のモーゼに導かれる民のように、僕の後から皆渡りだすのである。

もちろん、愛知県人の全てがこんな手合いだというわけではない。しかし、その比率は、他の全ての地方都市や東京・大阪などと比べて、明らかに有意差をもって高いと言わざるを得ない。

簡単に言おう。多くの愛知県人は、行動の自決というものができないのだ。

山の話に戻ろう。大抵、日本で登山を趣味とする人は『山と渓谷』とか『岳人』位読んでいるはずなのだ。読んでいたら、北海道での登山の話や、石井スポーツ辺りの広告でツェルトを目にしたことがない、なんて、とてもじゃないけれど信じられない。そもそも登山というのは、様々なリスクを予想しつつ準備することも、その楽しみの一部なのだから、それを怠っている、というのは、登山に関して半可通であることに他ならないし、そもそも登山を楽しんでいない、ということだとしか思えない。

先の J-walk の話で、もし僕が渡ったから、と後に続いたとして、曲がりこんでくるクルマに注意していなくて事故に遭遇する、という可能性だって十分に存在するわけなのだが、僕の後ろについてきた人々は、全くそんなことを考えているようには見えなかった。要するに、先達たる僕がうまくやった、ということが、自分もうまくやれるということを保証してくれている、と、信じて疑っていないのだろう。今回の登山の4名の方の場合も、ツアーだから安心だ、と思っていた……としか、(申し訳ないのだけど)思えないのだ。

数年ほど、こういった風土の中で(しかも僕の居た某民間法人の親会社などではこんな風土がべったべたに定着していたし)「研究 = 未知の領域を拡大する」という行為で飯を食ってきて、僕の心はもうクタクタになってしまった。そんな僕が言うんだから、間違いない。多くの愛知県人は、行動の自決というものができないのだ。

Snake Oil Business を暴く(ゲルマニウム編)

土曜日の午後というのは、大抵の人は穏やかに過ごしたいと思っているのではないかと思うのだが、どういうわけか、訪問販売というのが、この時間に多くやってくる傾向がある。いや、うちの近所だけなのかもしれないけれど、家に確実に人がいそうな時間を狙うのは、まぁ当然と言えば当然であろう。

ちょっと前までよく来ていたのが、布団のクリーニングサービスの案内、というやつだった。しかし、僕の住んでいるアパートの女性住人のところで相当しつこい勧誘をやらかしたらしく、一時は警察がパトロールまでやったため、最近はほとんどこない。あと、この辺にはいわゆる「エホバの証人」王国会館なんてものがあるせいか、時々その信者がやってくるのだが、「私はカトリックだ」と言うと、こそこそ帰ってくれる(心中では「裁きの日に生き残れない可哀想な人」とか思われているのだろうが、手前勝手な聖書なんかをでっちあげる連中にそんなことを思われても痛くも痒くもない)。

しかし、だ。ついさっきやってきた奴は新手であった。

「あのー、ゲルマニウムを使いました健康関連の……」

どうも僕はこういうときに腹芸が使えなくていけない。思わず言ってしまった。

「あのですね。僕はドクターコースで二酸化ゲルマニウムの物性測定をしていたんでよく分かってるんですがね」
「おや、そうなんですかぁ(喜色満面)」
……ゲルマニウムやその化合物の多くが有毒なのはご存知ありませんか?ちょっと調べたらすぐに分かりそうなものなんだけど」

とぼそぼそ言ってやったら、口を濁して帰っていった。け。あー汚らわしい。

某歌手が使っていたので有名になった「ゲルマニウムローラー」以来、今に至るまでゲルマニウムは健康に効果があるかのように宣伝されている。デトックスに効くとかなんとかで、ゲルマニウム系の化合物の入ったお湯に喜んで浸る人も未だに多いようである。しかし、ちょっと待ちなさいよ。ちゃんと調べなさいって。

最近はありがたい(いちいちこういうことを書く手間が軽減されるので)ことに、こういう文書が公開されている:

「健康食品」の安全性・有効性情報〔独立行政法人 国立健康・栄養研究所〕
ゲルマニウムに関する情報 (Ver.090115):
http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail979.html

僕はもう十数年前からここにある情報に関しては知っていた。僕は材料科学でも基礎物性に関わる研究に従事していた時期が比較的長かったため、他人があまり触らない物質を触ることが多く、触る前には必ずアメリカの化学系の学会などが出している toxic database(昔は分厚い本だったけど、今はTOXNETのような便利なサイトがある)などで毒性をチェックする習慣があったためだ。

今はこんなに分かりやすくまとめた document が公開されているのにも関わらず、あんな風にゲルマニウム絡みの商売を続けている奴もいれば、その商品をありがたがって買ったり、果てには周囲の人に薦めたりする人までいるのか、と思うと、もういい加減にしてほしい、としか言葉がでてこない。あちこちで何度も書いているけれど、こういうものに関わる限り、無知は罪なのである。なんでも「知りませんでした」で済ませるなっての、ああやだ、ぺっぺっぺっ。

北海道の夏山遭難に関して思うこと

北海道大雪山系のトムラウシ山と美瑛岳において、夜間の風雨中動けなくなった登山者が遭難し、現時点で10人の方の死亡が確認されている。それにしても相変わらず、メディアはどうして事の状況と責任の所在だけを垂れ流すのだろうか。

僕の母は登山が趣味だ。趣味といっても、あの人のそれは通常の趣味の領域を完全に逸脱していて、冬の八ヶ岳は縦走するは、ヒマラヤにトレッキングに行くは(しかも僕がその事実を知らされたのはどちらも帰ってきてからだった)……若い頃忙しくてなかなか好きなことができなかったとはいえ、あの恨みを晴らすような登山は、傍目から見ていてちょっと怖いものがあった。

しかし、母が事故を起こしたり、巻き込まれたりしたことはただの一度もなかった。母はよくこんなことを言っていた:

的確な状況判断の上で引き返すことは、登山では非常に重要である
今回の山行、もし僕の母だったら、おそらく引き返すか、コースの大幅な変更をしていたはずである。

まず、今年の北海道の気候が例年と異なっていたこと。今年の夏の大雪山系は異常な低温が続いている。こんなことは web でも電話でも簡単に調べられたはずだ。しかも、この一月ほどの北海道は「まるで梅雨が来ているんじゃないか」と言われるほどに雨が多かった。山行中の雨は、確実に体温を奪うし、たとえ本州の夏山でも夜には冷えるのだから、おまけに北海道、しかも雨、となったら、今回のような事態は容易に予想できていたはずである。つまり、今回のツアーの企画者や参加者は、行き先の気象状況のチェックを行っていなかった可能性が極めて高い。遭難の原因として、まずこれが挙げられるであろう。

そして今回の遭難者は、夜間の雨に加えて、夕刻からの強風にさらされて低体温状態で動けなくなった、というのだが……この話を聞いて、登山にあまり明るくない僕ですら、とっさにこう思ったのだが。

どうしてツェルトを持っていなかったんだろう?
これはまさに謎としかいいようがない。少しでも気象状況に関して小耳に挟んでいたら、ツェルトを持っていかないなど考えられないし、そうでなくとも、まさかのビバークのために必ず用意しておくべきものだろう。

今回亡くなった方々は、いわゆる「団塊の世代」前後の方々が多いようである。残念なのだけど、僕が見る限り、この辺りの世代の人は、自分に関する諸々の事物に関して、最終的には他者に保証されている、と信じ込んでいる人が有意に多いような気がする。自分で気象状況を調べる、ザックにツェルトと緊急用の保温シートなどを放り込んでおく……そういう、自分で考えている人間なら当たり前のことができていなかったために、今回の方々が亡くなったのは、厳しいことを書くようだけれど事実であるとしか言いようがない。

いつだったか、穂高辺りから帰ってきた母と、こんな話をしたことがあった。

「今回は、滑落した人がいてね、ヘリで運ばれていったよ」
「……なんか、さらっと言うけどさ。そんな風なメには遭わないでくれよな」
「(笑)そんなことになったら、うちは破産よ。だから、そうなりそうだったら、そこで引き返す。いつもの私のルールですから」
「破産?遭難救助ってそんなにお金かかるの?」
「当たり前じゃない。山狩りしたら、地元のボランティアの人たちに謝礼払わなきゃいけないし、ヘリだって、飛ばしてもらうのにいくらかかるか」

母は未だに元気である。今回の遭難した方々や、そのご遺族には誠にキツいことを書くことになるけれど、こういうことが山での生死を分けるということは、事実なのである。たとえ日本国内の、夏の山であったとしても。


[後記]
あの後、メディアに注目していても、一向に「ツェルト」という言葉が出てこないので、2ちゃんねるのニュース速報板で検索をかけたら、結構な数の人が「ツェルトと防寒具があれば死なずに済んだろうに」という論旨の書き込みをしていることを確認。う〜ん、そうですよねぇ。なんで今回の犠牲者の方々がツェルトを所持・使用していなかった(に違いない)んだろうか。理解し難いとしか言いようがない。

more accessible

現在、fugenji.org は某レンタルサーバ上で運営されている(ちなみに OS は FreeBSD……貧乏院生の頃、98 NOTE にインストールして大活躍してもらったものだ)。その関係上、僕の URL にはサーバ上のアカウントを示す文字列が入っていたのだけど、fugenji.org のオーナーであるOから、

「アカウント名なしの URL にしちゃったら?」

との提案をしてもらった。いや、それはありがたいのだけど、このサーバの仕様でそれができるかなぁ……と、1、2分考えたところ、ある場所に symbolic link を張るだけで実現できることに気づいた。なるほど、オーナー許可もあるんだし、これはしない手はない。

ということで、僕の fugenji.org における URL を、以下のように変更した。

ということで、改めてよろしくお願いします。あとこの提案をしてくれた我等が fugenji.org オーナー Oの配慮・提案に、ここに心から感謝を表します。

何故コンビニで麦茶を買うと……

前々から、どうしても理由の分からないこと、というのがいくつかある。大抵は実につまらないことなのだけど、妙にそのことが徹底されていると、自分の方がおかしいんじゃなかろうか、などと不安になるときもある。

昔、Monty Python's Flying Circus というテレビ番組があって、その番組のコントに、クソ真面目かつ伝統偏重主義のイギリス官僚を徹底的に皮肉った The Ministry of Silly Walks (直訳すると「馬鹿歩き省」とでも言うのだろうか)というのがあった。巨漢で知られる John Cleese が、それはもう奇妙奇天烈な歩き方を貫くのだけれど、もしあんなことが現実にあったら、僕たちはしばしばそれを暗黙の常識として受け入れてしまいがちである。

僕のその手の不安をかきたてる疑問がひとつあって、それは、

「何故コンビニで紙パックの麦茶を買うと、ストローを付けるのだろうか?」

というものだった。いや、実につまらないことなのだけど、あの紙パックの麦茶を家や職場で飲むならば、おそらくコップ位使うであろう。戸外で飲む人は、きっと開けた注ぎ口に直接口をつけて飲んでしまうだろう(そういう光景はよく高校生の集団などに出くわすと目撃する)。それに、1 リットルの紙パックにあのストローを突っ込んでみると、咥えるところがほんの3、4センチ程で、飲むのに楽だとは到底思えない。あっても不便なものを、何故わざわざ付けるのか。これが積年の疑問であった。

しかし、だ。最近、僕はついに仮説に到達したのである。自分がこういうことの恩恵に与ることはまずないのだけど、確かにあのストローで恩恵に与る人、というのがいるのかもしれない、それならばきっとこういうことなのではないか、と。

ショーケン以来(もはやこれでは通じないか?)、男は紙パックを開けて口をじかに付けて中身を飲み干すのがかっこいい、というか、面倒じゃなくていい、みたいなイメージがあった。確かに僕も時々やる。やった以上は飲み干す。なぜならば、飲み残したものを冷蔵庫に放り込んでおいたとしても、雑菌が入って必ず残りを捨てるはめになるからだ。いや、俺ぁそんなこたぁ気にしないぜ、という人もいるかもしれない。けれど、やや酸味がかった麦茶とか、なんとなくとろみが増したような牛乳を飲むことを考えると、やはり飲み残すなど考えられなかった。

しかし、1リットルのお茶や牛乳を一回で飲み干す人は、実のところそう多くはあるまい。飲み残しを劣化させないためには、一度口唇に触れた液体が、紙パックに戻らないようにする必要がある。まあ、普通の人はだからコップを使うわけである。

ここで、中途半端にものぐさな人、というのが、実は僕が思うよりも多い、としたらどうだろう。コップは使うのが面倒だ、だけど劣化したものを飲みたくはない……と、ここでストローの効能が発揮されるのではないか。

ストローを差し込んだ紙パックの飲料をすすり、飲み終わるときに液面からストローを上げるようにすれば、確かに一度口唇に触れた液体が紙パックに戻るのを(完全とは言えないけれど)防ぐことができる。で、ストローを挿したままか抜いてからかは分からないけれど、飲み残しを冷蔵庫に戻せば OK、と、そういう風に考える人が少なからず存在するのかもしれない。

なんとも馬鹿馬鹿しい話ではある。しかし、こういう妙な尺度でのストリクトな行動を厳守している人(きっとその大多数が単身生活の男性だと思うのだけど)がいるとしたら……なんともわびしい話ではなかろうか。

Luminescence 正式復活

とりあえず復旧させたところで書いたものをうっかり消してしまった……というか、システムの仕様をいまいち把握し切れていなかった、ということで、とりあえず書き直し、というか、再度表明。

Luminescence がようやく fugenji.org 上に復活しました。

というわけである。ちなみに、@NIFTY のココログで書いていた分は:http://didymus.cocolog-nifty.com/

過去の Luminescence(と、更にその前の Diary of Thomas)は:http://fugenji.org/thomas/diary.prev/

を御参照のこと。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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