いつかは来ると思っていたが……

ついにこの日がきた。HDD がお亡くなりになったようなのだ。

久しぶりに WIndows を起動しようとしたら、どうやっても起動できない。Linux から mount して中を見ることはできるのだが……ということで、最小限の必要なファイルのバックアップを外部ストレージにとって、該当パーティションをフォーマットして、WIndows の DVD からインストールを試みる……が……ライトできない?何?……あー、できなくなってますね、確かに。

shannon に載せてあるのは 80 GB の SATA HDD だ。あー、これは交換した方がいいだろう、ということで、amazon で調べると…… Western Digital Scorpio Blue 2.5inch 5400rpm 500GB 8MB SATA WD5000BEVT が \4380。これを買いますか……ということで、明日配達されるとのこと。

今日日、SSD にしないなんて……とか言われそうなのでフォローしておくと、UNIX 系の OS の場合は、SSD へのロギングで寿命を著しく縮めてしまう恐れがあるということと、SSD なんかに金を使うゆとりがあるんだったら shannon 自体を update する方が先だ、というのが、今回 HDD にした理由である。しかし、500 GB ねえ……

小女子を食す

春が近付くと、愛知県では地魚が色々と売られるようになる。なるのだが、どうもこの辺の人達は地魚を美味しく食べる術を知らないらしい。こういうものを工夫して食べられない人達の文化程度なんて知れたものだ、と毒を吐きたくもなるけれど、知っている人はちゃんと知っているようなので、この辺の人達はそういうことの差が激しい、ということのようだ。

今位の時期だと、小女子(こうなご)がトレイに入ったものが売られているのだが、僕が外に用事があった帰り、午後10時過ぎにスーパーを覗くと、決まって小女子の売れ残ったのが処分価格で売られている。昨日も、200 グラム程ありそうなトレイがひとつで78円で売られていたので、二つ購入して冷凍しておいた。

で、昼食にこれをいただくことにする。小女子は、形の大きいものは、鰯のように手開きにして生姜醤油で食べると美味だけど、ちょっと小振りで、世間では佃煮にしてしまうような大きさのものは、実は柳川にすると美味である。まずは手持ちの牛蒡を笹がきにしておく。

小女子は半解凍の状態にして、フライパンに湯を沸かし、塩を入れたところにこの小女子を入れる。無理して解そうとすると身が崩れるので、そうっと混ぜてから、一煮立ちさせたところで湯を切り、笊に上げておく。さっと洗ったフライパンに、濃い目の鰹出汁を1カップ半張り、酒大匙4、砂糖大匙2、味醂大匙1、醤油大匙2、生姜一かけの擦りおろしを加えて煮立てたところに小女子を入れる。出汁が沸騰したところで牛蒡の笹がきをたっぷり入れて、3分程煮てから卵で閉じる。これだけである。

本物の柳川で言うところの「まる」である。鰓蓋や目がやや口に触るのが気になるという方は、大ぶりの小女子を買って手開きにしたもので作れば上品に仕上がるだろうけれど、やはり腸を含めて食べる方が味はよろしい。78円と牛蒡と調味料、それに卵だけでご馳走の出来上がりである。知らない奴ぁ食えないからねえ、と苦笑いしながらいただくのであった。

久々にアイラを

僕は普段は家に酒を置かない主義だ。というのも、仕事に就いて間もなくのことだけど、いつも置かない家に置こうと買ってきたラガヴーリンを3日で空にしてしまって、あーこれは家に置いてはいけないんだな、と思ったことがあるからだ。

とは言え、このところのこのバタバタした状況でも、僕はアイラモルトが飲みたくて飲みたくてたまらない。いよいよ我慢できなくなったので、吉田屋に向かった。

吉田屋というのは、名古屋市の日本酒・ウイスキー愛好者と飲食業者の方々なら皆(?)知ってる有名な店である。前は基幹バスの通り沿いにあって至極便利だったのだけど、そこから歩いて十分少しのところにあるオートバックスの対面に引っ越して、もう結構な時間が経った。今日は基幹バスの停留所から久々に通りを歩いて、この吉田屋に入ったのだった。

そもそも吉田屋は、個人客がメインの店ではない。ただ、非常に良心的な価格で、手に入れるのが面倒なものまで含めて、モルトウイスキーを種類・量共に豊富に置いている。モルト以外にもスピリッツ全般、リキュール、そしてシェリーも品揃えが豊富で、ちなみにトムジン(甘味をつけたジン)でよく知られている、黄色ラベルに黒猫の描かれている Arctica Distillers の Old Tom Gin(最近は Hayman だろう、とか何とかグダグダ言う奴がいそうだけどねえ)は、この吉田屋が輸入代理店である。

モルトの棚に向かうと……あー、これ、まだ安定供給されてるんだなあ。SIGNATORY VINTAGE ISLAY の 40 % のとカスクのとが安価に売られている。これの中身はラガヴーリンの5年もので、一説には、Signatory が蒸溜所の従業員向けに出している、なんて話があるのだけど、これは若い暴れんぼうのアイラを飲みたい人にはお薦めなんだろう。ただ、落ち着いて飲む酒なのか、というと、まあそういう感じではないかもしれない。ということで、ボウモア12年(もうサントリーが蒸溜施設を元に戻してからの時期のもの中心でヴァットされているだろうから、味は一時の化粧品香が抜けてアイラらしくなっているんじゃないだろうか)とラフロイグ10年(43°, 750 ml)でちょっと悩んで、結局ラフロイグを購入した。

ラフロイグは僕にとって思い出の酒である。北新地の某バーに初めて行ったとき、ラフロイグのソーダ割りを頼んだら、

「お客さん、アイラがお好きなんですか?」

と話しかけられたのだった。そのちょっと前に、スコットランド人と一緒に仕事をしていたことがあって、彼にアイラのことを色々聞いてから、ラガヴーリンやラフロイグを飲んでいるんですよ、と話したら、あーそれでしたらちょっと……と、カウンターの下で何やらごそごそやって、スキットルをちょっと大きくしたような瓶を取り出してきたのだった。

「このラフロイグ、ご存知ですか?」

こういうとき、知らないものは素直に知らないと腹を割った方が幸せになれるものだ。素直に知らない、と僕が言うと、いや、これはですね、30年位前にボトリングされた30年もののラフロイグなんです、と言うのだ。

「え?ウイスキーって、たしか樽の熟成年数で、しかもヴァットした中で一番若い酒の年数を名乗るんですよね」

「ええ、ですからこれは、最低でも60年以上前のものです、この当時はフロアモルティングのシステムが今と違うので、現行の30年ものとももう大分違うんですよ。折角ですから、現行のと一緒に味をみて下さい」

え?いや、それはお高いのでは……と言うと、店主は「これは今日お目にかかったご挨拶ですから、サービスですよ」と言い、ショットグラスを二つ、僕の前に置いてくれたのだった。

そのバーテンダーは、実はアイラモルト親善大使のM氏で、僕はそれからこのM氏にはとにかく本当にお世話になった。今も僕が酒や飲食に関して意地汚なくなったりスノッブを気取ったりせずに、スマートに楽しめているのは、このときの出会いがあってこそなのである。そしてこの後も、人生の嬉しいとき、悲しいとき、絶望に打ち拉がれたとき……僕に生きる力を分けてくれたのは、このアイラのピートと、その背後に漂う野の花のような馥郁たる香りなのである。だから今も、僕はラフロイグを飲むと、自分が命の水 uisge beatha を飲むこととその意味に、思いを馳せるのである。

子供に漱石を教えるには

先日から知人に頼まれて、子供の国語の家庭教師のようなことをしている。読解に関して、先日までで一通りのトレーニングをしたので、短くて印象深い文章を読ませよう、ということで、漱石の『夢十夜』を読んでもらったりしているのだけど、色々聞いてみると、漱石辺りを読むのに必要な前提知識というものを、まだ小学校ではちゃんと教えていないらしい。

うーん……と僕は考えた。自分が小学生の頃のことを考え返してみると、僕は最低限必要な知識は頭に入っていて、それは父や祖母、あるいは通っていた剣道の道場の館長先生などに、その辺のことを教えてもらっていたからなのだろうと思う。ということは、別に学校で教えていなくても、僕が、僕が小さかった頃のそういう人達の代わりになるようなものを書くか、話すかして教えれば用は足りるのではなかろうか。

そう思って、空いた時間を利用してちょこちょこと書いてみたのだが、いやこれぁ大変だ。漱石が登場するまでに20ページ近くかかってしまったではないか。まあ書くこと自体にはそう時間も労力もかかっていないのだけど、自分にとって当たり前のことを分かるように説明する、というのは、これはやはり神経を使うことである。

まあそんなわけで、漱石の説明(ただし漱石が登場する直前まで)の PDF を作成したので、話のタネに公開しておくことにする。souseki2.pdf

蛮行

米CBS女性記者、エジプトで暴行される

2011年2月17日6時53分

【ワシントン=望月洋嗣】米CBSテレビは15日、同局女性特派員のララ・ローガンさんがエジプトのタハリール広場で今月、一連の騒乱を取材中に暴徒に襲撃され、性的な暴行を受けたと報じた。

ローガンさんは、ムバラク前大統領の辞任が発表された11日、報道番組「60ミニッツ」の取材班とともに200人を超す人々に囲まれた後、1人だけ引き離されて暴行されたという。その後、女性の集団と約20人の兵士に救出され、12日朝の便で帰米した。現在も入院しているという。

(adsahi.com, 元記事リンク

もし事実なら、許されざるべき蛮行である。騒ぎに乗じて何をしてもいい、と考える輩が出てくるのは、まあ愚かな人間のいる場では毎度のことなのかもしれないけれど、その度に胸が詰まりそうな心地がする。

オルゴン違い?

何の気なしに新聞を見ていて、仰天した。以下に示すような広告が掲載されていたのだ。

オルゴン療法を名乗る謎の広告

オルゴン療法、と聞くと、いわゆる似非科学の歴史を知っている者として反射的に思い浮かぶのがヴィルヘルム・ライヒという名前である。

ライヒはフロイトの教えを受けた精神分析家で、1922年には医学博士の称号を得ている。彼は「神経植物療法」と呼ばれる治療法を創始した。もともとフロイト派は、患者との会話によって治療を行っていたわけだが、ライヒは、患者に対しもっと肉体的な働きかけをすることで治療成績を向上させられるのではないか、と考えていた。そのため、患者との言葉のやりとりをしなから、患者の身体の緊張をチェックし、情動の刺激による筋の緊張をマッサージのようなやり方で緩和させる、という治療法を編み出したのである。この療法自身は、戦後日本に心身医学が紹介されたときに「生体エネルギー療法」なる名称で紹介されたこともあるのだ、という。

しかし、ライヒと聞いて我々が連想するのは、やはりトンデモな人である彼の半生である。ユダヤ人であった上に、ナチズムを性的抑圧を受けたノイローゼによるサディスティックな性向であると解釈したものだから、ライヒは1934年にドイツを脱出し、ノルウェーに拠点を移した。このノルウェーで、彼のトンデモ形成の基となる二つのトピックに、彼は邁進することになる。ひとつは性科学、そしてもうひとつが「オルゴン」の発見である。

性科学については、ここで特に深く説明するまでもない。そもそもフロイティズム自体が、性的抑圧というものを重んずるわけだけど、ライヒはここに深く傾倒した。ノルウェーのオスロ大学で、ライヒは性科学の研究者として仕事をしていたのである。

そんなある日、彼は滅菌した肉汁を顕微鏡で観察していたときにある小胞を発見し、これをバイオンと命名した。このバイオンを日々彼が観察していたときのことである。彼は、肉汁の中に、バイオンと異なるものを見出した。それは青い光を放っており、視野内で激しく動いていたのだ、という。この光で目を痛めるだろう、ということで、ライヒはこの培地を金属で内張りした木の箱にしまったのそうだが、しばらくして箱を開けてみると、その中は青く光り輝き、培地を外に取り出しても箱の中に光る青い粒子が観察された、という。ライヒはこの青く光る粒子をオルゴンと名付け、金属で内張りした箱にはこのオルゴンを集積・放射する作用があるのだ、と考えて、この箱をオルゴン・アキュムレータを名付けた。このオルゴンの発見以来、ライヒはその新しい粒子の性質の研究に一生を献げることになる。

……とか書くと、さも大層なことのように思われそうだが、このオルゴンなるものがトンデモだということは最初っから指摘されていて、ライヒはオスロ大学を追い出されて、研究の拠点をアメリカに移すことになる。なにせライヒは、このオルゴンなるものが「性的エネルギー」なのだ、と主張していたからだ。今風に言うならば、オースティン・パワーズに登場する「モジョ」のような代物だ、とでも思ったのだろうか。とにかくライヒの主張によるとオルゴンは一種万能の代物であって、ラジウムと相互作用を起こして反放射性オルゴンなる新粒子に変換されるとか、空の黒雲はダーク・マターならぬデッドリー・オルゴンで、オルゴンを中和することで消滅させられるのだ、とか、宇宙人はこのデッドリー・オルゴンで地球侵略を企てているのだ、とか……まあ、彼の中でだけは壮大な話になっていたわけだ。

しかし、社会へのライヒの働きかけは決してそういう万能なものではなかった。彼は先のオルゴン・アキュムレータがあれば、オルゴンを以てがん細胞を死滅させることができるのだ、と主張して、オルゴンによるがん治療機を考案、販売した。これが FDA に見咎められて起訴され、判決時の指示に違反したかどで収監された。そして1957年の秋、ライヒは獄中で心臓発作で亡くなったのである。

このような経緯を知っている人間が上の広告を見たら「これはライヒのオルゴン・アキュムレータなんじゃないの?」と疑いたくもなるというものである。で、上の広告の URL を覗いてみると……

血液、リンパ液、ホルモンの流れがスムーズに行かなくなると、人間は必ず病気になります。そして、血液が詰まる場所は手足の末梢部分にほとんど多く見られます。オルゴンリング開発、製作者の越野稔がこの事実に着目し、長年研究した結果生まれたのが「オルゴン療法」です。

血液の流れが悪くなると滞った部分は冷たくなり、冷えることで神経も鈍くなり、やがては感覚さえも失っていきます。体温が下がるとリンパ液の流れが悪くなり、リンパ液そのものが固まると毛穴がふさがり、皮膚呼吸がうまくできなくなり、血液が心臓に戻る際にきれいな酸素を取り入れられなくなるために、血液に酸素欠乏が起き、二酸化炭素の多い血液(汚れた血液)になってしまうのです。

血液、リンパ管、神経は全身に巡らされているので、末梢部分(手足の指先部分)の詰まりを取ることによって血液、リンパ液の流れがよくなり、各症状が改善されていきます。これがオルゴン療法です。

というわけで、どうもライヒのオルゴン「ですら」ないらしい。まあこういうものはいつの世にもあるもののようだ。

はかもなきこと

何かに集中していると、人は傍目に見ておかしな行動をとることがままある。しかし、当の本人はそんなことを意識していないので、言われてショックを受けることが多いものだ。

LaTeX で文書を書いていたときのことである。ふと、この部分にアンダーラインをひきたいなあ、あれ、どうやってひくんだっけ、と思ったのだった。リファレンス代わりの本を手に取り、索引を開く。えーと、アンダーラインだから「傍線」かなあ、ぼ、は行、えーと……

と、横に居た U が笑い出した。

バイキンマンかあんたは?

最初は集中していたので分からなかったのだが、あー……索引をひくときの癖で、つい「は〜ひふ〜へほ〜」と口走っていたらしい。うーむ。確かにこう言われても仕方あるまい。可笑しくも情けない話であった。

一行づつのやりとり

普段から公言していることだけれど、僕は Twitter というものに過大な期待を持っていない。経済的には、アメリカ企業としての Twitter Inc. は、数十億〜百億ドルの価値があると言われているから、その意味は大きいのだろうけれど、一アメリカの私企業である Twitter Inc. が提供するサービスで日本の政治や社会を革新できるのか、と問われれば、僕自身の見方としてはかなり否定的にならざるを得ない。

そうは言っても、「をとこもすなる Twitter といふものをおむなもしてみむとてするなり」じゃないけれど、僕も Twitter を使っている。まあ面倒な GUI のツールは到底使う気になれないので、Emacs + twittering-mode で使っているわけだ(そうそう、使っていない qwit 消してしまわなければ)。で、今日、堀江貴文氏のつぶやきに、こんな一行を見かけたのだった:

無いですねぇ QT @Jaguar3568 @takapon_jp 命の危険を感じたことはありますか?
で、無神経だと思いつつも、彼に前から聞いてみたかったことを質問したのだった:
@takapon_jp 野口英昭氏の死に関してはどのように思われているでしょうか? QT@takapon_jp: 無いですねぇ QT @Jaguar3568 @takapon_jp 命の危険を感じたことはありますか?

ここで断わっておかなければならないのだが、僕は堀江氏を攻撃しようとか、何か言ってやろうとか、そういうことを考えていたわけではないのだ。ただ純粋に、このことを聞いてみたかっただけだ。その質問に対して、堀江氏が答えてくれた。

どうって言われてもお気の毒としか言えません。 QT @Thomas_TU: 野口英昭氏の死に関してはどのように思われているでしょうか? QT@takapon_jp: 無いですねぇ

この答に関しても、僕は何かどうのこうの言う気はない。「お気の毒としか言えません」というこの言葉が、この件に関してこの一言で片付けようという意図で書かれたものではない可能性が高いし、あれから何年も経った現在でも尚、やはりこの問題はデリケートな問題だと思う(だから上に「無神経だと思いつつも」と書いているわけで)からだ。

その後、この僕の質問に関して何人もの方が色々書かれている。皆さんも各々思うところがおありなのだろうと思う。僕はどうだったのか、というと、まあやはりこの問題は簡単なものではない、ということと、何年経っても人が一人死んでいるということの意味の重さは変わらない(堀江氏がどう思っているかは分からないけれど、少なくとも僕にとっては)んだなあ、ということを思ったのだった。

wheezy

システムの崩壊から再構築を終えた shannon なわけだけど、新しい Debian GNU/Linux の distribution の名前を反映して、ログイン画面には wheezy/sid と出ている。

Debian の distribution の名前が Toy Story のキャラクター名からとられていることはよく知られていることだけれど、この Wheezy というのは Linux 的にはまさにうってつけのものである。これは Toy Story 2 に出てくる「ペンギン」の名前だからだ。Debian 関係者も、この辺を意識していたに違いあるまい。

ちなみにその wheezy/sid であるが、X と OpenOffice.org に関して依存性の問題が出ている。これに関しては現時点でも改善されないままで、最小単位のパッケージの revision が終わるのを待つしかない状態である。そんな思いをしてまで何故 sid を使うのか?と言われそうだけど、Debian は結構保守的で、sid でないと不都合が出ることを何度か体験しているからだ、としか言えない。もちろん、カタい業務に使うならそういうことは気にしないのだけど、毎日のちょっとしたことでイライラしながら保守的でいるよりは、今回のような再構築のリスクがあっても尚 sid を使う方が、僕にとってはストレスが少なくて済むのである。いや、本当に、それだけの話なのだ。

崩壊

あ゛ー、やってもーた。sid を使っている以上、特に X 関連の更新時には注意しておかなければならなかったのだが、うっかり apt 任せで X 周辺の環境を崩壊させてしまった。

こうなると、選択肢は2つで、パッケージの更新が完了するのを待つか、システムの煤払いをすることにしてインストールをし直すか、である。うーん。TeXLive の DVD イメージとかも手元にあるし、必要ないくつかのファイルのバックアップだけしてしまえば、実はシステムのリインストイールには然程の手間はかからない。僕はこういうときに備えて /home を独立パーティションにしているので。

しかしなあ。今、sid の daily build の CD image を落としているのだけど、なにせサーバがあるのがスウェーデンなので、落とすのには結構な時間がかかる。これを落としたところで apt-get によるアップデートを試してみて、それで復元できるならそれでよし、まだ駄目だったらリインストール、という方針で進めることにする。

結局、X 周辺のパッケージの改善の見込みがないので、思い切ってリインストールを行った。まああまり問題もなく復旧できたのだが、なんかフォント周辺が……って、M+とIPAの合成フォントが Migu / MigMix に名称変更してるじゃないか!ということで、これらを入れた後、システムのフォント設定を変更する。むー。

英辞郎第五版

先日、原因不明の問題があるのを発見した英辞郎であるが、何か気になったもので、現行の最新版である第五版を購入した。

インストール時には中途半端なライセンスチェックがあるので、一応シリアルを入力。僕は最近あまり使っていない Windows に PDIC / Unicode をインストールしてあるので、そこに辞書ファイルを移してから、PDIC で辞書を一行テキスト形式に変換しておく。次に Linux をブートして、毎度お馴染の ruby スクリプトで sdic 形式の辞書を作成し、sary でインデックスを作成して以前の辞書と差し替える。

検索をかけてみると、今のところは何の問題もなく使用できるようだ……しかし、あれぁ何が原因だったんだろう。本当はちゃんと原因究明しておくべきなんだけど、そう僕も暇なわけではないので。

『バカの壁』の源流

養老孟司氏の『唯脳論』を読み進めているわけだけど、この中に、おそらくは『バカの壁』の源流になったのはこういうことか、と思わせるくだりがある:

言語を用いれば、相手の考えがある程度わかる。なぜか。それは言語を表出する側と、それを聞いている、あるいは読んでいる側で、似たような脳内過程が生じているからである。言語の場合、その類似の厳密性は数学よりも弱い。したがって、数学はより明確に脳の機能を反映する。あるいは、より基礎的な脳の機能を示す。

もっとも、言語も数学も、ある程度を越えると、理解する人の方が減る。つまり、そうした脳内過程には、個体差を越えるほどの一般性が無い。時代によって、同じ考えの理解度が違ってくるのは、教育、つまり環境の問題に過ぎない。江戸期の人に微積分を教えても、いまの人同様によく、あるいは悪く、理解したであろう。

前にこの blog で、Twitter のアイコンに日の丸を入れている輩をコキおろしたときに、余程癇に障ったのか、「バカの壁」とだけ書いてリンクを張った輩がいたけれど、そう、それこそがバカの壁である。ただし、そういうことだけ書いているというのは、これは自らの脳内過程を表出する術に尽きたのだ、と言われても仕方あるまい。そう、壁があるのは件の輩の脳の内なのである。

書籍、二冊査収

養老孟司氏の『唯脳論』(ちくま学芸文庫)と、『暴走する脳科学――哲学・倫理学からの批判的検討』(河野哲也 著、光文社新書)を査収。

前者は難解だという話が巷で出ていたけれど、全くそのようなことはない。極めて明解に書かれている。解説が脳科学者の澤口俊之氏というのが少し笑える(いや笑っちゃいけないのかね……そう言えば、Wikipedia で彼のセクハラ問題に関する記述が全て抹消されているのはどうしてなんだろうなあ)。

後者は、いくつか読んだ脳科学への哲学・倫理学的考察の中で最も食指を動かされたので査収した。これも例のアルコー延命財団絡みの考察の過程で出会ったのだけど、やはりこういう本は図書館から借りるだけでは物足りない。

壊れて出ない音がある?

先日 sufary から sary に移行した辞書検索システムなのだけど、何の気なしに使っていて、妙な問題に直面している。

インデックスを使っているので、辞書だけで優に 100 M bytes を超える辞書ファイルもタイムラグを気にすることなく使える……のだけど、どういうことなのか、"thin" という単語だけ、ひいても出て来ずにインデックス検索が刺さる(そこで立ち往生する)のである。何故こんなことに?

単語の頭文字のせいなのだろうか、と考え、"thick" をひいてみると、ちゃんと瞬時に辞書の記述が表示される。他の色々な単語で試してみても、どういうわけか "thin" だけひけないのである。辞書ファイルの破損でもあったのか、と思い grep してみたが、"thin" に対応する記述はちゃんと存在している。

まあ普段は thin なんて単語をひくことはまずない(だって……分かりますよね、thin の意味位)のだけど、ふとしたときにこんな現象を発見してしまうと、どうも落ち着かない。英辞郎の最新版である第五版を購入して試してみようか、いやしかしそろそろ第六版出るかもしれないしなあ……と思案に暮れる今日この頃なのであった。

【後記】結局英辞郎の第五版を購入した。届き次第新しい辞書を作成する予定。

sufary から sary へと移行

sdic で英辞郎の辞書検索に用いているインデックス・ユーティリティを sufary から sary に移行した。以下メモ。

sary は Debian GNU/Linux のパッケージに入っているので、apt-get 等でインストールすればよろしい。インデックス作成は、

$ mksary -c UTF-8 eijirou.sdic
のように行えばオーケー。

Emacs 側の設定を抜き書きしておく。


;;;
;;; sdic
;;;
(autoload 'sdic-describe-word "sdic" "search word" t nil)
(global-set-key "\C-cw" 'sdic-describe-word)
(autoload 'sdic-describe-word-at-point "sdic" "カーソル位置の英単語の意味を調べる" t nil)
(global-set-key "\C-cW" 'sdic-describe-word-at-point)

;; ----- sdicが呼ばれたときの設定
(eval-after-load "sdic"
'(progn
;; saryのコマンドをセットする
(setq sdicf-array-command "/usr/bin/sary")
;; sdicファイルのある位置を設定し、arrayコマンドを使用するよう設定(現在のところ英和のみ)
(setq sdic-eiwa-dictionary-list
'((sdicf-client "/usr/local/share/dict/eijirou.sdic"
(strategy array)))
sdic-waei-dictionary-list
'((sdicf-client "/usr/local/share/dict/waeijirou.sdic"
(strategy array))))
;; saryを直接使用できるように sdicf.el 内に定義されているarrayコマンド用関数を強制的に置換
(fset 'sdicf-array-init 'sdicf-common-init)
(fset 'sdicf-array-quit 'sdicf-common-quit)
(fset 'sdicf-array-search
(lambda (sdic pattern &optional case regexp)
(sdicf-array-init sdic)
(if regexp
(signal 'sdicf-invalid-method '(regexp))
(save-excursion
(set-buffer (sdicf-get-buffer sdic))
(delete-region (point-min) (point-max))
(apply 'sdicf-call-process
sdicf-array-command
(sdicf-get-coding-system sdic)
nil t nil
(if case
(list "-i" pattern (sdicf-get-filename sdic))
(list pattern (sdicf-get-filename sdic))))
(goto-char (point-min))
(let (entries)
(while (not (eobp)) (sdicf-search-internal))
(nreverse entries))))))
;; おまけ--辞書バッファ内で移動した時、常にバッファの一行目になるようにする
(defadvice sdic-forward-item (after sdic-forward-item-always-top activate)
(recenter 0))
(defadvice sdic-backward-item (after sdic-backward-item-always-top activate)
(recenter 0))))

(setq sdic-default-coding-system 'utf-8-unix)

ヒラリー・クリントンの失言

アメリカ国務長官のヒラリー・クリントンが、今週日曜朝のテレビインタビューで、エジプトの今後に関してこんなことを言った:

David, these, these issues are up to the Egyptian people, and they have to make these decisions.
(詳細は NY Times の web 記事を参照されたい)

これを聞いて僕は「あー言っちゃったよ」と思ったのだった。キリスト教文化圏の人間だったら、これを聞いたら脊髄反射的に、新約聖書のこの一節を思い出すに違いないからだ:

ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」――マタイ 27:24

ポンティウス・ピラト(ピラトゥス)は、イエス・キリストが活動していた時期のローマ帝国のユダヤ属州総督である。ユダヤ人達の暴動を起こさんばかりの強硬な要求に屈するかたちで、罪人バラバを釈放し、自身が無罪だと思っていたにもかかわらずイエスをユダヤ人の長老や祭司にひき渡した。マタイ福音書では、その際にピラトが手を洗った、という記述が出てくる。これは己の手が血塗られていないことを示すために行ったと言われているのだが、「ピラトは手を洗った」と言うだけで、クリスチャンだったらピンとくる箇所である。

先の発言が日本でちょっとだけ報道されたとき、その訳はこうなっていた:

エジプトのことはエジプト人が決めるべきです
僕は、この報道を耳にして、思わずこう呟いたのだ:「そしてヒラリーは手を洗った」。まあ、アメリカは保守的プロテスタントが多数派を占める国だし、そういう人達は僕のようなカトリック以上に聖書の文言はよく頭に入っているだろうから、これを聞いたら皆こう考えると思うんだけどなあ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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