歌詞変更という文化蹂躙

以前にもここに書いたことがあるかもしれないが、僕は朝日新聞の取材を受けたことが一度だけある。ネット上での個人情報の取り扱いに関する話で、僕がもう20年近く前からこの問題に関するコンテンツを公開しているので、これに関する問い合わせだったのだけど、それに関して僕がメールでコメントする際に使った「web ページ」という言葉が全て「ホームページ」に置換されて記事に掲載されてしまった。そのために僕はある人に昂然と非難されてしまい、その人に「いや僕はホームページなんて書いてないんだけど」と説明したところ「ああ、朝日ですからねえ」と言われ、何だかなあ、と思いつつ朝日新聞社の記者にメールを送ったのだった。「あなた、二塁ベースを指してホームベースとは言わんでしょう、ホームページってのは home position にあるページってことで、web ページを全部ホームページと称するのはおかしいんですよ」……で、その記者からは一切返事は返ってこなかった。完全に黙殺されたのである。

この一件で、僕は、朝日新聞という新聞が、一見リベラルな風に見えて、その実えらく硬直して、権威主義的で、しかも傲慢な集団なのだということがよく分かった。その後も数える程だがいくつかの新聞社の取材を受けたことがあるけれど、記者の人々は極めて丁寧にメールの返事をくれたから、僕があんなめに遭ったのは朝日新聞のときだけなのだ。まあ、あくまで個人的な経験から得た印象なので、客観的にこうだと言う程のことではないのだろうけれど、ただ客観的に確認し得るイベントを考えても、韓国におけるいわゆる従軍慰安婦問題に関する経緯などを見たら、まあ僕のこの不信感が増すことがあっても、払拭されることはそりゃないだろう、という話である。

そんな新聞社としての朝日新聞と、そのグループ企業であるテレビ朝日を同一視してはいけないのかもしれないが、しかし今回流れたこの報道には、僕は同じ臭いを感ぜずにはいられないのだ:

「Mステ」で曲目や歌詞変更、人質事件に配慮?

テレビ朝日系で23日夜に放送された音楽番組「ミュージックステーション」で、2組のアーティストが曲目や歌詞の一部を変えて演奏していたことが分かった。

「イスラム国」の関与が疑われる日本人人質事件に配慮したとみられる。

男性グループ「KAT―TUN」が、新曲「Dead or Alive」を「WHITE LOVERS」に変更。ロックバンド「りんとして時雨」は、「Who What Who What」の歌詞「血だらけの自由」を「幻の自由」に、「諸刃もろはのナイフ」を「諸刃のフェイク」に変えた。テレビ朝日広報部は「アーティスト側と昨今の状況をかんがみ、協議した結果」としている。

(2015年01月24日 23時50分 読売新聞)

何が「アーティスト側と昨今の状況をかんがみ」だよ。そういうのを言葉狩りって言うんじゃないのかね。

かつて、ドキュメンタリー作家の森達也が作った『放送禁止歌』という番組があった。森氏に限らず、この手のドキュメンタリーには、登場人物に挑発的な質問をして本音を吐かせる手法が用いられるわけだけど、森氏は高田渡氏に「言葉を言い換えて歌う気は?」という質問をぶつけている。これに高田氏が何と答えたか:

「ない。ない……うん……そういうのは一切ないですね。そういう風にして表現したいんだから」

しかし、後に森氏が出した本には、この辺りの流されなかったやりとりが書かれている。それは高田氏の『生活の柄』という曲に関しての話でのことだった。この曲は山之口貘の同名詩に曲を付けたものである。山之口氏は没後50年を過ぎているので、ここに元の詩を引用しておく:

歩き疲れては、
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあったのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてもねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏向きなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねむれない
高田氏の歌では、この氏の「浮浪人」を「浮浪者」として歌っているのだが、NHK に高田氏が出演した際、この曲を歌おうとしたら「浮浪者」という単語が放送できないとのことで歌えなかった、という話をしていた件である。

「……じゃ、浮浪者をホームレスに言い替えて歌えばいいんですね」
この質問はあえて口にした。そして狙いどおり、それまではほとんど俯いたまま小声でインタビューに応じていた高田渡は、僕のこの質問に一瞬の間を置いてから、顔を上げ少しだけ目を剥いて、別人のように激しい口調でこう言いきった。
「絶対にそれはない。歌とはそんなものじゃない。もし言葉を言い替えたならその瞬間に、この歌は意味をすべて失う。だったら僕はもう歌わない」

(『放送禁止歌』より引用)

僕も音楽を趣味とする者の端くれではあるわけだけど、自分の書いた詞を状況に応じて変更する、という感覚は、残念ながら理解できないのだ。そういう意味で、それを要求したテレビ朝日は、文化というものに対してあまりに傲慢だと思うし、それに対して気安く歌詞を変更した凛として時雨は正直言って理解できない。だって、「血だらけの自由」って件を変更したんでしょう? それじゃあ、「血だらけの自由」より「血を見ない不自由」の方を選択した、ってことだよね。なるほど。そういうスピリットなのねえ……って言われてもしようがないよねえ。ダメダメでしょう、それは。僕はロック = 反体制、だなんて思っていないけれど、そんなバンドの何がロックなんだろう。

書きゃあいいってものじゃない

イスラム国の日本人人質に関する話でメディアは大騒ぎしているわけだが、僕は正直言って、特に今日になってからのネット上での情報公開の経緯に関してかなり腹を立てている。それは人質のひとりである後藤健二氏に関する話である。

後藤氏が日本基督教団の信者であることは、クリスチャントゥデイの記事などで目にしていたのだが、僕はその内容や、後藤氏がクリスチャンであることが流布されることに警戒をしていた。このことが相手に分かったら、彼にとって著しく不利な材料になってしまうからだ。

誤解されないように強調しておくが、一般的なムスリムはクリスチャンに対して攻撃的ではない。なにせイエスはイスラム教においても預言者の一人という位置付けだし、そもそも根っこでは同じ起源を持っているものだ。十字軍に関する血塗られた歴史はあるけれど、大多数のムスリムは平和を愛する。こちらが攻撃しない限りは、彼らだって至って平和的なのである。

しかし、今回ばかりは話が異なる。相手はあのイスラム国である。彼らはアルカイダすら排除した程の急進的な実践的イスラム原理主義者であって、しかも彼らの現在の戦いを十字軍との戦いに準えている。だから、相手がキリスト教徒であるか否か、ということは、おそらくかなり大きな要素として作用するはずなのだ。

だから僕は、クリスチャントゥデイに「後藤氏に関する記事を一時的にアクセスできない状態にはできないものか」とメールを送っていたのだ。それを、英語版の Christian Today では、彼はキリスト教徒のジャーナリストで……などとわざわざ紹介する記事を出し、Wikipedia にも何者かがそこを強調するような記述を加えている。Wikipedia に関しては、'SZK58" という ID の人物が2015年1月20日 (火) 07:22‎ にその書き込みを行ったことまではトレースしたのだが、この記述はそのまま英語版の Wikipedia にも転載されている。もう世界に向けて、彼がクリスチャンだということが公になってしまったのだ。

彼らはどうしたいんだ? 後藤氏を殉教者にでも仕立て上げたいのか? 真実を晒すことが人命より優先されるというのか? 冗談じゃない。書きゃあいいってものじゃないんだ。彼が殺されたら、その何十 % かの責めは、Christian Today や SZK58 に向けられるべきだ。アンタラ想像力がなさすぎだろう。えぇ?

disinfection

通常は自転車通勤をしている僕なのだけど、あまりに颪が強かったり、雨が降りそうな空模様だったときには、バスで通勤することになるわけだ。しかし、このバスが曲者なのである。

職場に行くまでに、2本のバスを乗り継ぐ必要があるのだが、ひとつは極端に利用者が多い。利用者は僕同様通勤、あるいは通学に使用している人々、そして何より多いのがお年寄りである。

名古屋市は、福祉政策の一環として敬老パスなるものを交付している。これは、65歳以上のお年寄りを対象にしているもので、年間多くても五千円の負担で、市バスと地下鉄が乗り放題、というものである。まあ、運転の怪しい自家用車が減る上でも、この政策の恩恵を僕も間接的に享受していると思うのだけど、このパスのおかげで、名古屋市内の公的交通機関はお年寄りで溢れ返っているわけだ。

お年寄りに元来変な恨みなど持ち合わせてはいないつもりなのだけど、名古屋市のこの敬老パスでの利用者のマナーは概してよろしくない。群れる、騒ぐ、道を譲らない、並ばない……という、僕を苛立たせることの他にもう一つ問題があって、お年寄りの一定割合の人々は、マスクもせずに平気で車中でゲホゲホやらかしているのである。これが僕は怖くてたまらないのだ。

そして、もうひとつの路線は、大きな医療機関が沿線にあるので、いつも病気の方がバスに乗り合わせている。これはある意味仕方のないことだと思うのだが、やはりこれが僕は怖いのだ。

だから、いつからか、僕が職場に来たときに最初にやることは、洗面所のタオルを交換してから手を念入りに洗い、その後にうがいをすること、と決まってしまった。どんな風なのか、今日の場合を例に書いてみようと思う。

職場に着き、コートを脱いでから、まずタオルを交換する。これ用に自腹で買い溜めたタオルを置いているので、そのストックから1本取り出して、昨日のタオルと入れ替える。前日の帰り際にこれをしないのは、手を洗う直前にやりたいから、そして帰りのバスで僕自身が他人の感染源になってしまうことを防ぐためでもある。

それから、腕時計を外して、洗面所でぬるま湯を出して手と束子(このためだけに元祖亀の子束子1号を1個買って置いてあるのだ)を湿らせてから、泡タイプの手洗いフォームを出して、まず束子の毛が届く範囲内を念入りに擦る。束子はやり過ぎだ、と言われそうだけど、近所に手洗い用のナイロンブラシを売っていなかったのと、医師が手術前に手を洗う際にも昔は束子を使っていたというのを聞いたので、目下これを愛用している。

それから、指の谷間や親指の付け根の周囲、手首等、束子で洗い切れているか微妙なところを念入りに擦り合わせてから、ぬるま湯で完全に洗い流して、さっき交換したばかりのタオルで拭く。それから自分のマグカップにぬるま湯を満たしてうがいをする。マグカップなみなみ1杯分のぬるま湯でうがいを終えて、さあ、準備完了、仕事にとりかかる……というわけだ。

強調しておきたいのだが、僕は潔癖症ではない。むしろズボラな方なのである。しかし、職場の人間をそれに巻き込むようなことはしたくない。だから、これが習慣になっている、というだけのことなのだ。これだけやっても 100 % だと言えるかどうか分からないわけだけど、とりあえずこれでどうしようもなければ、それは他の誰がどうしたとしてもどうしようもないのだろう……と、納得することだけはできるのだろう。まあ、そういう程度のことに過ぎない。でも、これで手を抜いて、車中で病気を拾ったり、それを他の誰かに伝染させたら、と考えると、それは寝覚めの悪い話だろうと思う。だから今日も、「痛ぇな」と独り言ちながら、僕は手を洗っているのであった。

幸せな人

日々、生活していると、実に横暴な人に会うことがある。そういう横暴な人に限って、自分のしていることを棚に上げて、こちらが物申すと、まるで頭の上に人工衛星でも落ちてきたような顔をして、己に向けられたもので如何に自分が傷付けられたか、そしてそれが如何に理不尽なのかを一方的、かつ声高に主張する。

そういう手合いのことを、僕はこう表現することにしている:「世界は己のために存在しているのだと確信する人々」僕はそういうことを確信することなぞ到底できないものだから、時々そういう手合いに出会うと、ほんの少しだけだけど羨ましく思ったりもする。どうしたら、あんな風に、世界が自分の見えているものだけで存在していると確信できるのだろう。

先日、僕はこんなことをここに書いた:

しかし、この年末年始に、色々なことが僕の耳に入ってくる。なんでも某所で僕のことを面倒臭い人だ、とか言っている人がいて、ところが僕はその人に会ったことがただ一度しかないわけだ。アンタ俺の何を知っているんだっての。ユダの罪が神の意志によるものなんじゃないか、みたいなことを書いていたので「グノーシスもご存知ないのか」と指摘したら、何も反応が返ってこないと思ったら、そんなかたちで憂さを晴らしているわけね。いやー。アンタの方が余程面倒臭いし、それに有害だっての。いや本当、馬鹿だということも分からぬ馬鹿の有害なことよ。
そうしたら、当の本人がどうやらそれを読まれたらしい。「ひどいことが書かれている」と、わざわざ U にメールで連絡してきたそうな。

まず確認しておこう。ここに書かれていることは事実なんですよね。僕は当然だけど、ここに書かれたことの経緯が事実であることを確認した上でこれを書いているわけだ。僕が何か嘘を書いているとでも言うんだったら笑止千万というものだ。ここに書かれている「ひどいこと」は実際に言われたことで、それは僕があなたに言ったことではない。あなたが僕に対して言ったことなんだよね。それも僕の知らないところで。僕のことなど何も知らないのに。

そしてもう一つ確認しておかなければならない。被害者は誰なんですかね。それはあなたじゃない。僕なんだよ。陰口を、あなたが誰にどこで言っていたのか、その範囲は分からないけれど、まずはあなたが己の口さがない陰口を恥じるべきじゃないんですかね。繰り返すけれど、「恥を知れ」。

いやはや、それにしても、あなたは幸せな人だ。この世界があなたのためにだけ存在しているとでも思っているんだろう。それはあなたの勝手なのかもしれないけれど、それに他人を巻き込むのは勘弁してもらえませんかね。そして、これだけ言っても尚、自分が被害者だ、などと吹聴できるんですかね。あなたが加害者なんだよ。勘違いしないでいただきたい。

私のところでは……

某 Q&A の場所にて、ある PDF を画面で表示させると文字がかすれる、という質問があった。ああ画面の解像度との兼ね合いでそうなっているんですよ、だからね……と回答してから寝たのだったが、起きてみると、その筋で有名なお方お二人が「私のところではかすれません」と書き込まれている。

そりゃそうだろうねえ。片方のO氏はたしか Mac ユーザだったはずだし、もう片方のH氏は印刷会社で論文を含む各種文書の版組みを仕事として行われている方だったはずだから、どちらの方も、解像度の低い環境とは縁遠い日々をお過ごしなんだろうと思う。そんな環境でその PDF をご覧になったって、そりゃあかすれないでしょうね。

でも、ここは、安い Windows のノートパソコンを使ってるユーザのことを、少し位は慮らなきゃいけないところなんじゃないだろうか。その筋で名の通っている人が「私のところではかすれない」と発言する、ってことは、「この問題に関しては『かすれない』ことが政治的に正しい」「かすれてるあなたの方がおかしい」というニュアンスを相手に与えかねないんじゃないんでしょうかね。

この手の質問に対して「私のところでは」と答えたくなる気持ちは分からないでもないけれど、少なくとも相手は、相手の環境下において困っているのが明白なんだから、そこは最初に配慮すべきところだと思う。僕は「貧乏人は麦を食え」という言葉を思い出しましたよ。後付けでその発言を正当化することはなんぼでもできるんですよ。「いや、米より小麦の方がビタミンB1 を含んでいて脚気になりにくいので」とかさ。でも、最初の発言に込められていた言霊が、傲慢な色を感じさせるものだからこそ、その発言は責められるわけでしょう。

勘違い

TeX Wikiでは、僕もいくつかの記述を起こしたり、手を加えたりしているわけだけど、前々から妙な……やたら大規模な割にはここでの情報共有化に何ら貢献し得ないような……文書が大量に書き込まれたこともあって、最近はあまり手をつけずにいたのだけど、同じようなことを思っていたのは僕だけではなかったようだ。『TeX Wiki の「古い情報」』というスレッドを詳しくは御一読いただきたいのだけど、前々から無用な記述を濫造していた輩がピシャリとやられた模様。しかしねえ……まあ、僕としてはやや複雑な思いもあるわけだ。ああ、いや、僕は前田氏の言われることに全面的に首肯するものだけど(嫌気が差して沈黙していた僕より、苦言を呈した氏の方が余程建設的だと思う)、どうしてこの匿名氏のような輩が出てくるのかが分からないわけだ。

手前勝手な論理で記述を連ねるならば、僕がやっているように自分で文書をまとめて自分のサイトで公開すればいいだけの話なのだ。僕の書いたものの場合、それがどうなっているかというと、TeX Wiki からリンクされている。有用ならばそうしていただければ良いだけだし、そうでないならシカトしていただければ良いだけの話だ。自分の書くものが一種の叩き台としての存在意義しか持ち得ず、それを基に他の方々が更に有用な記述を連ねてもらえるならば、TeX Wiki の方に書くだろう。Wiki に書く必然性というのは、つまりはそういうものなのだろうと思うのだけど、しかし件の匿名氏にはそういう意識が欠如していたとしか思えない。いやはや、とんだオナニー野郎だ、としか僕には思えぬ。

そもそも、この世は広いし、人の生き様は様々あるわけで、自分がこうだと思ったことと違う方法論で何事かを為す人なんてのは星の数程いるわけだ。そういう人々をも含めて、何事か益となる情報の集積を為す上で Wiki は有用なのだろう。自分の歪んだ世界観を一般化するために、それも他人の立ち上げた Wiki であれだけの記述を粗製濫造する、その情熱が僕にはとんと理解できない。何度でも書くけれど、そういうことをしたいなら自分で立ち上げた Wiki ででもやってもらいたい。まあ僕にとってはそれは有益だとは思えないけれど。

part-time adherent?

昨日の昼のこと。TBS 系列のニュース番組を観ていたら、例のパリの週刊新聞社の襲撃事件の話をやっていたのだけど、そこでコメンテーターの宮家邦彦氏がこんなことを言ったのだった。

キリスト教徒の人は、日曜に教会に行くだけですけれど、イスラム教徒は、24時間、365日、イスラム教徒なんですよ。
はぁ?何言ってるんだアンタは?キリスト教徒ってのはそんなお手軽なものじゃないんだよ。俺だって24時間、365日、カトリックなんだけど。何を訳知り顔で言ってるんだ?信じられない。

まあしかし、これが日本人の宗教に対する現状を如実に示しているんだろうと思う。この宮家なる人物、たしか外務省出身だったよね……えーと、

1978年3月 東京大学法学部卒業
1978年4月 外務省入省
1986年5月 外務大臣秘書官
1991年10月 在米国大使館一等書記官
1996年7月 中近東第二課長
1998年1月 中近東第一課長
1998年8月 日米安全保障条約課長
2000年9月 在中国大使館公使
2004年1月 在イラク大使館公使
2004年7月 中東アフリカ局参事官
2005年8月 外務省退職、AOI外交政策研究所代表に就任
その経歴で、あの発言はないよねえ、あれは。失礼極まりないと思うし、そもそも宗教というものに対する見識を疑う。

ふと読みたくなると

ふと、正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読みたくなった。そういうときは岩波文庫で……というのが普通の人だと思うのだけど、せっかく青空文庫と TeX があるので、短い文章の場合は自分で版組みして PDF を作ってしまうことが多い。いわゆる青空文庫形式のテキストをダウンロードして、ルビや段落などの自動処理が容易なところだけ自動的に TeX の表現に置き換えて、それから後は手動で書き換えていく。

いつも悩んでしまうのが、ルビの割付けである。あまり原理主義的になるのも無意味だとは思うのだけど、機械的にルビを振るのも味気ないなあ、と思うと、ついつい細かいところを手でいじることになってしまう。こんなことに休みの時間を使うのも不毛なのかもしれないんだが……

で、出来上がったのがこれ。まあこんな感じでしょうかね。B5 で組んであって、ページを並べ換え、B4 の紙に両面印刷して中折りで綴じれば完成である。とりあえず印刷してから赤を入れるようにしよう。この作業には platex を使ったけれど、もう少ししたら LuaTeX-ja ベースに変えていくようになるかもしれない。このご時世に縦書きなんて、と思われるかもしれないが、こういうときには、やはり日本語には縦書きが必要なのだ、と思わされるのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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