The Door into Summer

The Door into Summer……『夏への扉』を初めて読んだのは、おそらく中学生位の頃ではなかったろうか。同じ頃に聴き出した山下達郎が、この SF をモチーフにした曲を書いていたと知る前のことだったはずだ。

実は、某所で文書化されたファイルをいただいたのだが、せっかくなので私家版の PDF を作成した。こういうときは upLaTeX はとにかく便利だ……この小説はルビが非常に多いのだけど、2時間程で PDF の基になる LaTeX document を作成できた。まあ GNU Emacs とか sed のような、強力なテキスト処理環境があってこそのことなのだけど、おそらく Windows しか使わないような人は、PDF 化など思いもしないことだろう(いやまあマゾヒスティックな人はぜいぜい言いながらやるのかもしれないけど)。

で、今、校正がてらまた読み返しているところなのだけど、この主人公って登場時に30歳位なんだよなあ……もう自分の歳の方が上だということが、寝覚めの頃のように、どうも判然としなくなってくるような気がする。

熱中症

夕方に、なんだか汗ばんで気持ち悪かったので入浴していたのだが、それが失敗のものだった。熱中症で、ちょっとヤバい状態になってしまったのだ。

僕の住んでいる部屋は角部屋で、玄関の辺りが真西を向いているために、夕方になると玄関の辺りだけ猛烈に暑くなる。玄関の横が浴室なので、この浴室の中まで西日のために温度が上がってしまう。だから、僕は夏になると、特に用事がない限りは、玄関の辺りには夕方には近づかないことにしている。しかし、この習慣のために、玄関や浴室がどれだけ暑くなっているかを甘くみていたようだ。

今日は昼から、ハインラインの『夏への扉』を(もう何度目か分からないほど読み返しているけれど)読み返していて、そのせいか、水分摂取が十分ではなかったらしい。複数の悪条件が重なった状態で、僕は入浴してしまったのだ。それも……長湯をしてしまった。

脱皮したんじゃなかろうか、と思うほどに、全身くまなくがっつり洗ってから浴室を出ると、どうも息が切れる。なんだかおかしいな、と思っていると、指先が軽くしびれてきた……あーいかん、これぁ熱中症だ。慌てて、緑茶のペットボトルを抱えて扇風機の前に陣取り、クーラーをきつめに設定し、まだ濡れている全身を冷やしにかかる。しかし……頭が重い。手のひらを額に当てると、明らかに熱い。とにかく緑茶をたっぷり飲んで、頭皮や脇の下などを重点的に冷やしていると……どうにか楽になってきた。

今回は部屋にクーラーを(除湿モードだったけど)かけっぱなしで入浴していたので助かったけれど、やはりこういうことはないように注意しなければならない。皆さんも、何卒ご注意の程を……

『地球はメリー・ゴーランド』

ようやく完全に open に書けるようになった。この何日かばたばたしていたのは、これを録音していたためである:

ガロというと、おそらく皆さん反射的に『学生街の喫茶店』を連想されるのではなかろうか。『学生街の……』は確かにガロのヒット曲ではあるけれど、この曲を書いたのは、古くはザ・タイガースの座付き作家として、僕より若い世代にはドラクエの音楽を作ったことで有名なすぎやまこういちが書いている。まあ確かに当時のヒット曲のロジックを踏襲して書かれているけれど、だからこそ時代の中に埋もれてしまっているのだろうと思う。

もともとガロは CS & N の影響を強く受けている(1971年の中津川フォーク・ジャンボリーで彼らは CS & N の "Judy Blue Eyes" や "You Don't Have to Cry" を演奏している)。だから3人がギターを弾き、3人で綺麗なコーラスを乗せて歌うのが身上で、それは後にアルフィー(後の THE ALFEE)に継承されている。曲も 1st にはいいものが多いのだが、やはり売れんがためであったのか、2nd はA面が全曲職業作家の作品、そしてB面はビートルズなどのカバーになっている。この 2nd アルバムに入っていたのが『学生街の喫茶店』で、もともとは『美しすぎて』という曲(今聴くと明らかにこちらの方が時代の経過に耐えている)のB面としてシングルに入っていたのが、この曲の人気が高くなったためにA面とB面がひっくり返された。

この『学生街の……』のせいで、ガロの運命はある意味で狂わされたのかもしれない。当時のライブ音源などを聴くと、女の子のキャー!という黄色い声が入っていて、明らかに彼らがアイドル視されていたことが窺える。その後、彼らは自作曲で構成されたアルバムを7枚目までリリースしたものの、『学生街の……』のイメージを払拭することができないまま、1976年3月に解散してしまう。メンバーの日高富明氏は、その後ハードロック路線に転向し、職業作家として稲垣潤一らに曲を書いたりしていたが、1986年9月20日に自宅近くのマンションから飛び降り、自らの命を絶った。

今回僕がカヴァーした『地球はメリー・ゴーランド』だが(「メリー・ゴー・ラウンド」じゃないの?と思われている方、原題がこうなので僕の一存では変更できないんですよ……ということで悪しからず)、これに関しては色々思い出がある。僕も、ガロと聞くと『学生街の……』を思い出す少年だったのだけど、10代の頃にラジオでこの曲を聴いて、衝撃を受けたのだった。調べてみると、『地球は……』のベースは山内テツ、レコーディングエンジニアは吉野金次だし、歌謡曲路線の 2nd でも細野晴臣と井上堯之-大野克夫人脈のミュージシャンが参加している。3rd 辺りからの時期は小原礼や高橋幸宏がツアーバンドに参加していたり、……まあ、プロデューサーがミッキー・カーチスなのはともかく、そんなわけで、彼らとその曲を「歌謡曲」の文脈で見るべきではない、ということを、調べるほどに思い知らされたのであった。

『地球は……』は先に言及した日高氏の作曲・歌唱、作詞は赤い鳥の『翼をください』の作詞者でもある山上健一氏、アレンジは東海林修氏(この人の作品で有名なものというと、やはり『笑点のテーマ』だろうか)である。原曲は東海林氏のストリングスとオーボエのアレンジが実に秀逸なのだけど、僕はあえてこのストリングスをハモンドオルガンに置き換えた。しかしなあ……これはちょっと無謀な取り組みだったかもしれない。カヴァーってのはオリジナルにどこかしらかで勝てなきゃやる意味がないような気がするんだが、これは随分と分の悪い勝負だものなぁ……まあ、お聴きいただいて、幾許かでも気に入っていただければ幸いである。

あと、メモ代わりに書いておくけれど、上の曲では編曲と、

  • Vocal
  • Background Vocal
  • Acoustic Guitar
  • 12 string Acoustic Guitar
  • Acoustic Piano
  • Hammond Organ
  • Fender Jazz Bass
  • Computer Programming (Drums)
……まあ全て自分でやっているのでこうなるわけだけど……を僕がやっている。

こんな夢をみた

土のむき出しになった、山の中のようなところを僕は歩いている。何の集まりかは判然としないのだが、僕は10人程の男女と共にそこを歩いている。何か、サークルのような、あるいはご近所さんの寄り合いのような集まりのような気もするのだが、その正体はわからない。

歩いていると、ふと左脚の親指の先に、何とも言えぬむず痒さを感じた。歩いているのは、土が粘土のように露出した山道である。指の先には小さな傷がある。どうもその中に、何かが入り込んだらしい。僕はピンセットを取り出して、その脚の傷に入り込んだ何かを除去しようと、歩みを止めた。

傷を見ると、何やら赤身がかった細いものの先端が顔を覗かせている。僕はその細いものが動いていること、動くたびに、傷口を中心として、結構深いところまでむず痒さが広がることに気がついて、慎重にその細いものをつまんで、傷口から引っ張り出した。一行の中には、小さな子供がいたようで、その子供が、地べたに座り込んで僕がピンセットを使うのを、興味深げに覗き込んでいる。

細いもの……とは言っても、直径が数ミリ程もある……の先端をつまんで引っ張ると、脚のかなり深いところから、何かがずるずると引きずりだされるような感触を感じた。見ると、傷口からもう十センチ以上も引っ張り出したのに、直径数ミリの赤身がかったそれは、まだ傷口の中から全容を顕にせずにいる。僕は恐怖に戦きながら、ゆっくりとそれを引っ張り出していった。

引きずりだされたものは、長さが数十センチ程もあるミミズだった。しかも、1匹引きずりだしてもまだむず痒さは収まらない。僕は戦慄しながらピンセットで傷口を探った。ようやくむず痒さが収まったとき、僕はピンセットに、長さ数十センチのミミズ二匹をつまんで持っていた。引きずりだされたミミズは、もう蠢くこともなく、まるで紐のようにぶらんとぶら提がっている。

僕はそのとき、これを見物していた子供の一人が、この辺の土着の子であることに気づいた。僕はその子に尋ねた:こういうことはあるものなの?その子は答えた:脚に傷があると、そういうことがあります、と。しかしその子も、他の同行者達も、僕がピンセットでぶら下げているその2匹のミミズを、なぜか見ようとしないのだった。これは何か致命的なことなのではあるまいか。そう思った僕の心には、深い絶望感が広がるのだった。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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