PX-404A

今迄使っていた A3 インクジェットプリンタの調子が最悪だったので、思い切って買い替えることにした……のだが、A3 ノビまでのサイズが取れるものを買うのが少しためらわれ、まあ今回は A4 のを試しがてら買ってみることにしましょう、という話になった。市場をチェックすると、このご時世で、単機能のプリンタが下手をすると複合機よりも高い。手元のスキャナの調子も今一つなので、ここは EPSON PX-404A を購入することにした。実売価格は今週の時点で6000円を少し切る位。

EPSON は Linux に対しては比較的フォローがちゃんとしている。アヴァシス株式会社が、各ディストリビューション向けのドライバ、それも変な独自仕様ではなくて CUPS のドライバを出してくれているからなのだけど、それじゃあドライバでも入れましょか、とアクセスすると、ドライバサイトをエプソンに移管した、という。ほー。このリンクから辿ると、たしかに EPSON のダウンロードページに行けるのだけど、http://epson.jp/ とかからだと辿れないような気が……まあ、Linux の扱いってこんな調子なんでしょうけれど。

印刷関連は OS X 端末で行っているので、さくっとそちらの設定を済ませる……が、うーむ。プリンタドライバはシステムアップデートで供給しているけれど、スキャナのドライバ、特に TWAIN 絡みの部分は手動でスキャナドライバをダウンロード→インストールしないとダメらしい。

そして、手元の Windows 端末でプリンタ設定にハマる……そうだ、思い出した。こういうときは Bonjour でした。はいはい。おとなしく Bonjour で共有プリンタを設定すると、印刷は何も問題なくさっくりといける。しかし……うーむ。スキャナが共有できないのね。どうしよう。

と、以前使っていた USB 切替器なるものが転がっているのを発見。これで、Windows / Linux 端末と OS X 端末で切り替えられるようにしておいたら……と、試してみるも、やはりハマる。原因は、手持ちの USB ケーブルの中の1本が死んでいたからだった!最近の周辺機器って、購入しても USB ケーブルが付属しないケースがほとんどなので、こういうときはちょいと困るなあ。まあ、とにかくこれで、OS X でも Windows でも、そして Linux でも、プリンタもスキャナも問題なく使用できるようになりました。

旨みが何かを考えないのか

以前ここに書いたけれど、僕はアセスルファムカリウムやスクラロースを使った食品を口にしないことにしている。これは、それらの甘味料の味が受け入れ難い、というのが第一の理由だけど、もうひとつの理由として、近年「カロリーオフ」の名のもとに、付帯価値を生むべく企業努力をしている結果のように思われているこれらの甘味料の使用が、実は食品のコストダウンの最終手段である「砂糖を使わないことによるコストダウン」のためのものであって、そこには実は付帯価値も、ユーザのための企業努力も、実は存在していない、という、あまり意識されていないであろう事実へのささやかな抵抗、ということもあるのだ。

これと同じように、僕はいわゆるノンアルコール飲料の類を一切口にしないことにしている。ノンアルコールビール、ノンアルコールカクテル(なぜ清涼飲料水と言わないのだろうか)、ノンアルコール梅酒(それは梅シロップなんじゃないのか?)……それらを口にしないのは、僕が酒を愛しているから、というのが第一の理由なわけだけど、酒造各社がそのようなノンアルコール飲料を売る理由が、酒への愛の背信行為だけに留まらないからでもある。

考えてみていただきたい。たとえばビールを見てみよう。ビールの税率は、1キロリットル当たり 222000 円、ロング缶1本あたりに換算すると111円である。この税率が、ノンアルコールにするとゼロになる(当然だ)。ゼロになるということは、多少ビールより安くしたとしても、ノンアルコールビールにはがっつりと儲けの幅が発生することになるわけだ。

あまりに単純な話で、僕はこういうことを口にする必要すらないことだと思っていたのだけど、ノンアルコールビールを飲む、という行為は、メートルを上げてささやかながら社会に貢献していた分を、バッカスに対する背信行為に精を出す酒造各社の懐に入れてやっているのだ……ということを言うと「え?」と聞き返されることがある。こういう意識をしていない人というのが、存外多いということに、今更ながら驚かされているのだ。なぜ、こういうちょっとしたことを自分の頭で考えない人がこう増殖しているのだろうか。本当に、厭になってくる。

2ちゃんねる と TeX の話

2ちゃんねると TeX、とか書くと、 TeX Live にやる夫を書くためのマクロが遂に……とかいう話だと思われそう(長ぇよ)だけど、そういう話ではない。

2ちゃんねるにはいくつか TeX 関連のスレッドが存在するのだが、現在まともなやりとりが続いているのは UNIX 板内のスレッドである(\chapter{\TeX} % 第八章)。ここでは時々、TeX Q & A でのやりとりに対する独白めいた書き込みがされることがあるのだ。

書きたいことがあるのなら、なぜ TeX Q & A の方に書かないのか。それはまあ、人によって色々理由があるのかもしれないけれど、おそらく2ちゃんを読み書きしている人々の間で共通しているのは、「本家 TeX Q & A に関わるのが面倒だ」という意識だろう。これに関しては、僕もそういう気持ちが分からないでもない。技術系の Q & A の場でしばしば起こり得ることだけど、人生の貴重な時間を、この手の Q & A で「浪費」したくない、という人もいるだろうし、いやいや自分の知識や習得経路を、こういう場に「集積・資産化」すべきなんだ、という人もいるだろう。前者の人々は、プライベートや仕事の時間をこういうものに削られることを避けるだろうし、後者の人々は、むしろこういう行為も仕事やプライベートと不可分の要素がある、ということで、仕事に準ずる位の熱心さでやりとりに参加するだろう。

そういう人々は別にどういう個々の判断をされても構わないのだろうと思う。 しかし僕がこの手の Q & A を見ていて厭になるのは、まず、回答することを以て自己主張しよう、という輩の存在である。この手合いは、先の TeX Q & A では見かけた記憶はないのだが、求められる情報を周辺のノウハウも含めてフォローする、という行為を逸脱して、ある分野における不明を、人が知的活動を行う上で不可欠のものが欠けているかのようにあげつらうことで、自分を格上に見せようとしている輩、というのを、時々見かけることがある。困ったことに、こういう輩の提供する情報に限って、整理されておらず、一般性を欠くものであることが少なくない。もっと素気なく、クールに情報のやりとりをしたい身としては、この手の輩がいるだけで、げんなりしてしまうわけだ。

こういう輩は、自分の立場を上だと主張するために、狭小な己の知識を以て初学者を断じてこきおろすことがある。まあ、そういうことをされる側にとって、こんな理不尽な話はないだろう、と思うけれど、しかし、人を断じるというのと、何かしら断定的なことを言われる、というのは、言葉面上は似ていても、その内実は全く異なるものである(そうだな……愛があるかないか、位の違いは、まああるんでしょうね)。しかし、断定的なことを言われたときに、即座にそれが自分を否定しようとしていると過大に受け取るようになってしまうと、自分の耳に痛くないように、自分が教えてほしいように物事を教えるかどうか、で、回答者を断ずるようになってしまう。愛故の苦言、という概念は、そこには欠落しているわけだ。

ゆとり教育のせいなのか、団塊の世代の親にそう育てられたせいなのか、あるいは競争が激化している私学でヨシヨシされているせいなのか、こういう「してもらって当然」という妙な確信を振り回す連中が、最近はすっかり多くなってしまったような気がする。しかし、この萌芽は、実は結構前まで遡るような気がしている。

FUGENJI.ORG のオーナーである O は、僕と大学の同期である。彼は一時期、我々の在籍していた大学で実験助手をしていたことがあるのだけど、そのときに彼が僕にこうこぼしたことがある。

その実験というのは、学生に創造的な力を養わせよう、ということで試験的に導入された科目で、まあ簡単に言えば、自分で模型規模の何かを、立案・部品調達・加工・組立等、全て自分でやってもらって、最終的な完成品を作る、という、そんな科目だった。で、立案から図面を引いて……という過程で、O が学生に説明をしているときに、それを聞かずにずーっとノートにバイクの絵ばかり書いている学生がいた。O は、

「お前なあ、ちゃんと話聞いとかんとこの後何もできないぞ」

と注意した。すると、その学生は烈火の如く怒り出した、というのだ。

「……分からん。なんでそいつは怒り出したんだ?」

「分からんか? 分からんよなあ。俺もその瞬間は分からんかった。でな、その学生、顔を充血させながら、目を剥いてこっち向いてな、何て言ったと思う?」

「……分からん」

「『お前、ですか』って」

何が何だか分からない、という顔をする僕に O が言うには、その学生は今迄の人生の中で、親にも「お前」と呼ばれたことはない、それを今、なぜ自分は O に「お前」と呼ばれなければならないのだ……と吠えた、というのだ。

こういう話は、僕が大学でアクティブに教えていた頃からちょくちょく聞いた話である。年とともに、そういう話は増えていき、そして、仲間連中の間では、もうそういう話をするだけ阿呆らしいから、と、話には上らなくなった。しかし、話のネタの方は、年々、確実に増殖してきて今に至るに違いあるまい。

TeX Q & A の 56561 番のコメントなぞは、まさにこういう手合いの典型のように思えてならないのだが、2ちゃんねるの TeX スレッドでは、こういう手合いが湧いて出る度に、生ぬる〜いやりとりが展開される。この手合いに、学び方まで含めて教えることに、報われようのない時間を空費するよりは、そうやって距離を取ってウォッチングするのに徹している方が、実は賢いのかもしれぬ。

???程強いものはない

以前、某女性議員が「私バカだから分からない」という excuse をした、云々……という話を書いたことがあるが、馬鹿程強いものはない、と、今でもつくづく思う。(社会保障の不備への excuse としての意味ではない)「自己責任」というものが希薄なこの国では、特にそうなのかもしれないが。

自らの不明を責められたときに「私バカだから分からない」という excuse を展開するのは、まさに卑怯の極みと言ってもいいだろう。この言葉をちゃんと展開するならば、「私がバカってのが前提になっているんだから、私が分からないと言っても誰にも責めることなんかできないでしょう?」という居直りなのである。そこには、少しでも不明から抜け出そうという気概は欠片程も存在しない。まさに、こういう行為を表現するために「居直り」とか「逆ギレ」とかいう言葉が存在するのではないかと思う。

この「馬鹿」としばしば同じように使われ、しかも輪をかけて高圧的なのが「素人」という言葉である。某所でしばしば目にするのだけど、「素人なのでよろしくご教示下さいますようお願いいたします」というように、体裁だけでも低姿勢を装っているのなぞは極めて少数派で、

  • 「完全に素人なので解決方法について教えていただけると嬉しいです。」(はぁ、アンタは嬉しくても disturb される側は嬉しくないんだけど)
  • 「素人ながらいろいろ試してみて」(まだマシな方だけど、そんな枕詞には何も意味はないよね)
  • 「WindowsはMatlabを走らせるためにだけ利用している者ですからWindowsの設定について全くの素人ですから現実の問題云々は据え置いておいて下さい。」(論旨不明。素人だから windows に絡む問題は自力では何もしないってこと?)
  • 「素人のため、私にはこの意味が分かりません。素人に分かる言葉で、手順を説明していただけないでしょうか…?すみません。」(自分で調べなさいよ)
  • 「素人考えですが」(これも不要な枕詞ですな。下手な考え休むに似たり、という言葉を想起するなあ)
  • 「素人質問で申し訳ありませんが対処方法をお願いします.」(素人質問、という言葉はここで初めてお目にかかったな……しかしこの言葉は何ら excuse にすらなっていない)
  • 「素人です。お教えいただくとありがたいです。」(まだマシな方?しかし「素人です」という切り口上はいただけない)
  • 「素人なりの見解」(「私見」と書けばいいんじゃないの?)
……まあ、こんな調子である。「素人」という、本来己の不明を恥じる謙譲語が、実は「教えろやゴルァ」的な居直りとして機能していることの方が多いのは、こうやって並べてみれば一目瞭然なのである。

こういうことがあるから、僕が何か人に教えるときは当たりが強くなる。それに何がムカツいたのか知らないが、「thomas エラそう」とかいう検索語でここに来る阿呆を、アクセスログの解析で発見することが時々あったりするのだ。なんだかなあ。エラそうなのは僕じゃない。そういう検索をする阿呆の方なんだけど。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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