プレゼンで太字を使いたい?

最近どうもここは私家版 TeX Q & A 解答欄みたいになっているけれど、

jsarticleのslideや、Beamerを使ってスライドを作ろうとしたのですが、
\textbfや\bfseriesで文字を太字にすることがなぜかできません。
例えば、こんな感じでスライドを作ろうとしました。

--------------
\documentclass[slide, papersize]{jsarticle}
\usepackage[dvipdfmx]{graphics, color}
\begin{document}

\section{テスト}
\Large 太字にならない\\
\textbf{太字にならない}

\end{document}
-------------

これはjsarticleのslideですが、Beamerでも同じ現象が発生します。
それに対して、通常の文書を作成するときは、しっかりと太字になりました。

どなたか、原因が推測できる方がいらっしゃいましたら、ご教示ください。
よろしくお願いいたします。
うーん……こういう話、正直言ってちょくちょく耳目にすることがある。

ここで問題になるのは「太字って何よ?」という話だろう。日本語の場合、太字と言うとゴシック体、英語の場合だと bold face, フォントを変えて表すなら Serif に対する Sans Serif ということになるのだろう。しかし、だ…… jsarticle.cls の最後の方にはこう書かれている:

\if@slide
\renewcommand\kanjifamilydefault{\gtdefault}
\renewcommand\familydefault{\sfdefault}
つまり、jsarticle.cls の slide オプションを使用するということは、日本語の標準フォントではゴシック体、それ以外のフォントでは Sans Sarif を default として使用する、ということなのである。だから、その文書の中で \textbf とか \textgt とか使っても変化はない。「最初からそうなっている」ものに「そうしなさい」というコマンドを適用しているわけで、何も変化する訳がないのである。

こういう場合はどうするか。日本語以外の文字に関して太字にしたい場合は、Sans Serif 系ということで Helvetica を選んで、その bold を指定すればいい、ということになる。日本語はゴシックでなく太ゴシックを指定すればいい、ということになるだろう。たとえば、

\documentclass[slide, papersize]{jsarticle}
\usepackage[expert,deluxe]{otf}

\begin{document}

\newcommand{\FUTO}{\usefont{T1}{phv}{b}{n} \usekanji{JY1}{hgt}{bx}{n}}

\section{テスト}

\Large 太字にならない\\
{\FUTO 太字になる}

\end{document}
……とでもしてやればよい。ただし、太ゴシック (hgt) を用いるためには OTF パッケージを併用する必要があり、更に、hgt に対して適切な太ゴシックのフォントをアサインしたフォントマップが必要になる(詳細は「日本語フォントのセットアップ」を御参照のこと)。Beamer を使う場合でもやり方は変わらない。

しかし、だ。できる、というのと、それが効果的な手段だ、というのは、全く別の話である。正直言うけれど、僕はこうやって太くした「太字の更に太字」が美しいとは思えない。そもそも、強調したいんなら、アンダーラインを引くなり囲むなり、あるいは色を変えるなりすればいいだけの話である。何が何でも太くしなければならない、なんて理由は一つもない筈なのだ。だから、ここを読まれた方々には、こういうことで時間を空費しないでいただきたいと思うのだ。そのために、僕はこれを書いて己が時間を空費しているというわけ。

【後記】\usepackage[deluxe]{otf} を使うなら、\textbf{} で用は足りる、とのご指摘あり。追試して確認しました。なるほど。わざわざフォントを明示する必要はありませんでしたね。

gnuplot から pyxplot へ

ちょっとグラフを描く用事があって、Microsoft Excel ならぬ LibreOffice で描かせようかと思っていたのだが、美しくないのでほとほと厭になってしまった。久々に Ngraph かぁ? とソースを調べてみたが、Open Motif ベースで書かれているようだ…… Lesstif でも make できるんだけど、どうも日本語周辺に起因するらしき segmentation fault で落ちてしまう。

普段グラフを書かせるのには gnuplot を使うことが多いのだけど、今回は少々体裁を整えたい。gnuplot はこの辺が難しい。学会の発表原稿だと、上からキャプションを貼り付けたりするのだけど、今回はその手間を惜しみたい。さあ、どうしようか。

などと考えていて、ふと PyXPlot の存在を思い出す。そう言えば、どうして今まで使わなかったんだっけ……そうそう、Debian GNU/Linux の pyxplot は TeX Live のパッケージと不可分なので、Debian の TeX Live を入れたくない僕にとっては手を出し難かったのである。うーん、そう言えばソースをちゃんとチェックしたことなかったなあ……とチェックしてみると……なんだ、これなら /usr/local 以下に入れれば問題ないじゃん。ということで、さくっと make してインストールする。

基本的には gnuplot と同じく コマンドラインベースなのだけど、gnuplot とは違って、出力は EPS になっていて、gv をフロントエンドとしてそれが表示されるようになっている。キャプション等は TeX で整えられているので、これはかなりいい感じである。

もちろん、そうだからと言って、僕の手元のシステムから gnuplot が消えるというわけではない。しかし、僕自身が今後使う場合は、おそらく pyxplot を使う比率が非常に高くなるのではないだろうかと思う。だって、コマンドラインで使う感覚は全く変わらなくて、TeX の力を借りた postscript ベースの出力が得られるのだから……明日、早速ガシガシ使う予定である。

込もらない重さ、受け止められない重さ

言葉というものは、それを発する側と受ける側の双方で決まるものだ。双方がその内実に踏み込んで、そこに何かを込め、そして受け止めることで、初めてその言葉は意味を持つ。逆に言うと、その言葉が意味を持つものであるためには、双方にそれ相応の覚悟が必要なのだと思う。

ところが、最近の世間はどうなのか。実際の言葉の使われ方が、まるでその覚悟の彼岸にあるもののように見えて、興醒めすることが多くなったと、つくづく思うのだ。

まず、日毎にそれを感じるのは、メディアから流れる政治家の言葉だ。何が厭かって、まず「しっかりと」という言葉。国の税金使ってまつりごとに携わってるのに、「しっかりと」しているときとしていないときがある、ってのか? しっかりしてて当然で、しっかりしていないなんて有り得べからざるべきことなんじゃないの? 殊更に「しっかりと」って言ってるのは、「普段は『しっかり』してません」って言ってるのと一緒じゃないか! そうか。あんたら最悪だな。政治家やってて普段はしっかりしてないのかよ。

同様の理由で「頑張って」「努力して」もダメダメだ。もっと下らないのは「汗をかいて」という言葉。汗なんかかこうがかくまいが、そんなこたぁ何も関係ないんだ。涼しい顔でちゃんとやってくれよ。汗かいてるから満足する、なんて、俺達ぁ大衆であって体臭フェチじゃねぇんだよ。

だから最近の民主党の政治家なんて、何か口を開くだけでもう失格なのだ。政治家は結果だけでその業績が評価される職種である、ということがてんでわかっていない。連中は「しっかりと」「頑張って」「努力して」「汗をかいて」やっているんだ、と、折々にエクスキューズする。しかし、その言葉には何ら重さは込もっていない、エクスキューズの意味すらない代物だと言わざるを得ない。「いい加減に」「頑張らず」「努力せず」「汗をかくことを避けて」まつりごとに携わっているんです、と声高に言っているようなものではないか。

丁度今、横のテレビでは立川談志の追悼番組をやっているのだが、ここで再放送されているドキュメンタリーで、非常に興味深い場面が出てくる。談志が『富久』を演じている場面が映されたのだが、長屋の火事で千両の当たり籤が燃えてしまったと思い込んだ久蔵が途方に暮れる場面で、 目前の客がだらだら笑っているのに対して、ふと「ここ、そんなに面白いところですかねえ」と談志がはっきり言っているのだ。しかし、笑っている客はそれにすら気付かない。

談志は、変容する社会の中で大衆の噺というものへの共感が失われていく結果、落語家がただの「笑わせ屋」になってしまう、という危機感を持っていたらしい。『富久』を演じた後の談志は「厭だ」「厭だ」と何度も口にしていた。「千両当てて貰い損ねる、そんな人生なんてあぁ厭だ。俺ぁ死ぬ、もう死ぬ!」と苦悶して、手首の動脈を食い破ろうとする様まで演じていて、それをヘラヘラ笑われる談志にしてみりゃあ、これはたまったものではない。これ程までに込めたその重みが、どうして受け止めてもらえないのか。このように、受け手次第では、血を吐くような言葉ですら、鼻紙みたいに軽く扱われてしまうのだ。

こんな世情である。そりゃあ、ブログの更新だって滞りがちにもなろうというものではないか。

やっちまった……

久々の大ポカをやってしまった。メールの保存ディレクトリを破損してしまったのだ。慌ててバックアップのアーカイブを展開したら、ホーム・ディレクトリの設定ファイルを昔の状態に戻してしまった。あ゛〜! やっちまった!

以前の skkinput の設定をクリアして iBus の設定をし直して、GNU Emacs のフォントを戻して……あれ、Mac OS X と不整合起こしてるな……ではこの TrueType フォントをコピーしてゴニョゴニョ……などとやっているうちに、所用で出かける時間になってしまう。慌てて身支度して出かける。

で、疲弊しつつ帰宅したその後に、残りの作業をゴニョゴニョやっている……う゛〜。Xquartz と Linux の XOrg との不整合は直したけれど、手元の TeX Live の svn tree を過去に戻してしまったので、今晩一晩かけて復旧させることに。それにしても、こんなミスをするとは。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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