暗黙のマナー

愛知県というところに住むようになって、未だに慣れず、いらいらさせられることがある。僕は仕事で全国の大概の地方都市には行ったことがあるのだけど、暗黙のマナーというものがこれ程守られない土地を、僕は愛知県以外には知らないのだ。

これに関しては前にも何度も書いているけれど、たとえばエスカレータを自分の身体と荷物で塞いでいる人がいたり、なんてのは序の口で、歩道を歩いていると、自転車で横並びで平気な顔をして走っている高校生がいるかと思うと、これまた横一列になってヘラヘラ笑っているサラリーマンの一団がいたり、公的交通機関に乗ると、ベンチシートの自分の隣に平気で荷物を座らせて、どれだけ混んでもどけようとしない奴がいたり……まあ、ひどいものである。

僕の知る限り、都市というものには暗黙のマナーというものがあって、それを守れない人は都市の群集に排除される。東京だったら「ち」とか舌打ちでもされて、実に冷たくあしらわれるし、大阪だったら「アンタ邪魔や」とかはっきりと言われるだろう。混んでいてもスムースにやる術を考えない輩は、都会においては有害なだけの存在なのだ。しかし、たとえば名古屋ではこの定石があてはまらない。まあ早い話が、愛知県は都市部ではない、名古屋はドンくさいイナカモノの集まる市なんだ、というだけのことなのだけど、そういう暗黙のマナーに比較的厳しかった水戸という街で生まれ育った者として、こんなに暮しにくい場所は他にない。

で、この様相は、教会に行っても変わらない。他で出来なくても、せめて教会で位はちゃんとするように努めるものなんじゃないのか、と思うのだが、残念なことに、この辺の連中はそうは思わないらしい。

僕の所属教会も、もちろんその例外ではない。たとえば、この教会にはボーイスカウトとガールスカウトがあるのだけど、そのガールスカウトの方の女の子が二人、いつも指導者(の服を着ているけれど、おそらくあれはあの子達の母親なのではないかと思う)に連れられてミサに来ている。この子達が、聖堂の中でも帽子をとろうとしないのだ。

ガールスカウトの制服は、水色のベレー帽がセットになっている。ベレー帽というのはそう頻繁に被ったり取ったりしないかもしれないけれど、聖堂の中では取るのがマナーというものである。しかし、この女の子の片方は、どういう訳か、いつもテンガロンハットを被っている(後記: U によると、このテンガロンハットは最新のガールスカウトの制服なのだそうな)。おそらく親に仕立てられたものなのだろうけれど、この女の子、そのテンガロンハットを一度たりとも取ったことがない。これは僕の想像だが、おそらくあれはずれないようにヘアピンか何かで髪に留めているのかもしれない。しかし、カトリックの聖堂に入るときには帽子を取る、というのは、これはマナーというより常識の範疇だと思う。だから、ヘアピンがどうこうというのは理由にはならないだろう。

しかし、だ。この女の子、いつも指導者と一緒に居るのに、この指導者は帽子のことを何も言わない。先に書いたように、おそらくはあの指導者はあの女の子の親か何かで、あのテンガロンハットを仕立てている張本人なのであろう。しかし、横にいるもう一人の女の子(この子はベレー帽を被っている)も含めて、決して帽子を取ろうとはしない。指導者も取らせようとしない。毎度毎度この調子なので、僕もさすがに、今度会ったらはっきり言わなければならない、と思っているのだが、僕が言うとどうもひどくキツくとられる傾向にあるので、難しいところである。

先日の日記に書いた某修道会のシスターに、一度この件に関して相談してみたことがある。シスターは、

「あー、あれねえ。確かに問題なんだけど、最近は、ちょっと言いにくいのよねえ」

まあ、シスターの言いたいことは分かる。教会には、たとえば抗がん剤の副作用などで頭髪を失った人が来ていたりするので、そういう人を捕まえて「帽子を取りなさい」というのは、まあこれは確かに暴力的なことかもしれない。あのテンガロンハットの子が小児がんを患っていたことがあって、抗がん剤の副作用で失った頭髪がまだ回復していない、という可能性もないわけではない。だったら、指導者に確認してみればいい話だから、今度会ったら確認してみることにしよう。

僕がこういうことを気にするのには理由がある。最近、こういう「ミニハット」が流行っているからだ:

Minihat

これを付けている人に「帽子を取れ」とか言うと「これは髪飾りだから取れない」とか平気な顔して言う。ヘアピンで留めてるから取れないし……という話になるわけだ。しかし、だ。教会の聖堂(だけじゃなくて、室内での式典一般や神社仏閣でも一緒だと思うけれど)で帽子を取るというのは、これは最低限のマナーだし、そういうことで誤解を受ける必要のないカジュアルな場でならともかく、帽子を取るという暗黙のドレスコードがあるところにこれを付けていく、ということがそもそも手前勝手、もしくは傍若無人な態度なのではなかろうか?少しはそういうことを、考えてはもらえないものだろうか。

【後記】 U の指摘により調べてみたところ、欧米では女性の着帽は正装の一部と見做されるので、むしろ帽子は取ってはならない、とのこと。でもねえ、ここで言っているのはテンガロンハットだからねえ……

教会内で帽子などの「かぶり物」をどうすべきか、というのは、実は聖書(新約聖書『コリントの信徒への手紙 一』11:2 ― 16)に書いてある。

あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

この解釈に関しては、カトリック内でも統一的なものは実はない。たとえば長崎教区では『ミサ中のベール着用について』という文書を web で公開しているが、これからも分かるように、女性の(カトリック)教会におけるかぶり物というのは、暗にベールを指す。特にいわゆる第二公会議以降は、女性でもベールを被らない人が多数派だし、上に引用したパウロ書簡も(おそらくは『創世記』2:21 ― 22 における「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、」のくだりを想起しているのだろうけれど)男尊女卑的記述だ、ということで、現在はそれ程重視されているわけではない。

まあ、僕の印象としては、やはりテンガロンハットを被ったまま、というのは、大いに違和感を感じるんだよなあ。ドグマとしてではなくて、男だったらテンガロンハットを取らなきゃならなくて、女だから取らなくていい、というのは明らかにおかしいし、その逆だったら明らかに不遜な行為だと思うからね。

Wilkinson にがっかり

僕はウィルキンソンのジンジャーエールが好きである。まあバーで酒を飲んでいる人間だったらジンジャーエールと言えばこれを口にすることが多いだろう。このジンジャーエールは、今迄は瓶のものしかなかったので、個人で買うというのはちょっと面倒だったのだが、最近ペットボトルが出た、という話を聞いて、僕は期待していたのである。

で、昨日、コンビニでそのペットボトルを発見した。さくっと購入し、駅までの道を歩きながら飲み始めたのだが……ん。おかしい。味が変だ。ん?

ちなみに、販売元のアサヒ飲料での該当商品のページにリンクしておくが……あ゛、いかんなあ、これ、アレが入っているんじゃあ……と思い、ラベルを見ると、あ゛〜……

原材料名
食物繊維(難消化性デキストリン)、酸味料、香料、カラメル色素、甘味料(アセスルファムK、スクラロース、ステビア)
……駄目だよ、そんなもの入れちゃあ。

これは僕にとっての一種の踏み絵のようなものなのだ。とにかく、僕はこのアセスルファムカリウムスクラロースの組合せが入っているものが大嫌いなのである。甘味は不自然だし、いつまでもその不自然な甘味が口中に残る。いいことなど一つもありはしない。カロリーオフ?はぁ?清涼飲料水如きでカロリーが問題になる程清涼飲料水をガブ飲みすることが問題なんだろうが! その皺寄せをこんなかたちで社会に拡大しないでもらえないだろうか。

不親切

先日、某修道会のシスターから、メールで送られてきた文書が読めないので何とかならないか、という依頼を受けた。こういうことはしばしばあることで、僕は「明日でよろしければ」と約束して、ふらりとその修道会の修道院を訪れたのだった。

詳しいことを聞くと、こういうことらしい。某氏が Microsoft Word で作成した文書をメールに添付して送ってきた。その文書の内容を確認する必要があるので、メーラー上でアイコンをダブルクリックしたけれど、妙なエラーメッセージが出て、Microsoft Word でうまく文書を開くことができない。再送してもらったがやはり駄目……と、そういう状態で僕に電話をかけてきたらしい。

まずはシスターのやったことを再現してみる。MUA の画面にあるアイコンをダブルクリックすると、インストールされている Microsoft Word 2003 が起動するのだが、「MSWRD632.WPC を起動できません」というウインドウが出て、目的のファイルを開くことができない。なるほど。さて、どうしますかね。

まずは、添付されているファイルを HDD にセーブしてみる。foo.doc というファイルがセーブされたわけだが、これをダブルクリックしても、予め起動しておいた Microsoft Word 2003 に読ませても、やはり「MSWRD632.WPC を起動できません」というウインドウが出てくる。うーん、Word 6 っていうと、どうも Mac の匂いがするような気が……でもまあ、まずはファイルを WordPad で開くことを試みるが、やはり無理なので、このファイルの様子を窺うために、無理矢理テキストエディタで開いてみる……ん、これぁ XML っぽいなあ。

Word が XML ベースのファイル形式を使い出したのは、確か Word 2007 以降だったはずだ。皆さんご存知とは思うけれど、 XML ベースのこの新形式のファイルは、従来の形式と区別するために ".docx" という拡張子を付けることになっている。うーむ……この修道会の PC で使われている MUA は古いものなので、ひょっとしたら添付ファイルの拡張子が3文字だと決め打ちしている仕様なのかもしれない。だとしたら、この foo.doc というファイルの名前を foo.docx に変更すれば、開ける可能性があるかもしれない。

もちろん、 Word 2003 はそのままでは .docx 形式のファイルを読むことができない。これはアップデートを適用した後にコンバータを入れればいい筈なのだが、先の「MSWRD632.WPC を起動できません」がどうも気になる。ググってみると、どうもセキュリティ維持のために、一部のファイルフォーマットコンバータが起動しないようにレジストリに記述があって、該当記述を削除する必要があるようだ。

まあ、できるところからやらない限りは前に進まないので、まずはシステムを最新の状態にアップデートして、レジストリの該当記述を削除しておく。これが済むまでに1時間ちょっとが経過した。然る後に、foo.doc の拡張子に x をつけて Word 2003 に読み込ませようとするが……どうもうまくいかない。

じゃあ、大抵のファイルをコンバートできる環境で読ませてやろうじゃないの、ということで、LibreOffice を急遽インストールし、ファイルを読ませてみると……お、開いたぞ。さっきから気になっていたフォントの設定をチェックすると……あー、やっぱり。ヒラギノが指定されている。要するに、

  1. 某氏は Mac 上で Word 2007 以降の Microsoft Word でこの文書を作成した。
  2. 某氏から受信したファイルは、拡張子3文字を決め打ちする MUA のために .docx であったものが .doc でセーブされる。
  3. その結果、XML なのに拡張子が従来フォーマットを指し示しているので Word が混乱。Mac で作成したことだけは読み取って、旧来の Word のコンバータで変換しようとするが、そのコンバータはレジストリで起動が禁止されているので、結局エラーを示すウインドウが出るだけ。
……と、こういう状態になっていたわけだ。この経緯をシスターに話すと、「……あなたが何を言ってるのか全然理解できない」あ゛ー、さもありなん。

まあ、Office 2000 とか今でも使っている人がいるだろうし、最新の Word のフォーマットのファイルを問答無用で送ってくるのは問題があるだろう。そして Mac でヒラギノベースのフォント指定だと、更に問題が複雑化しかねない。そこで、シスターの許可を得た上で、シスターの PC の MUA から、某氏に上記の状況を説明し、「Word 2000 時代の .doc のフォーマットで」「ヒラギノを使わず、できるだけ MS 明朝等のフォントを指定して」文書を作成、送信するように依頼する書状を作成・送信した。で、LibreOffice で開いた文書は、フォントを明示的に Microsoft のシステムに合うように指定し直した上で、.doc 形式でセーブし直しておいた。

しかしなあ……こういうことに、金を払ってソフトを買ってる人々が、どうして翻弄されなきゃならないんだろう。何処かの誰かのように、Linux 上でフリーウェアでゴソゴソやっていてこういう問題に遭遇するのならまだしも。つくづく Microsoft という会社は不親切だと思わされたのだった……まあ、今更こんなこと、言うまでもないことではあるのだけれど。

我慢の限界・補遺

前回書いた教会の話だが、これに関しては他にも山のように問題がある。

まず、下にリンクしてあるこの教会のホームページだが、3年も放置されたままの状態になっている。これに関しては、少しは何とかしようか、という話が出て、僕が教会内の運営委員会なる場所に召喚されたことがある。そこで、僕が自分のキャリアに関して説明し、まあシステム組んで、サイトのヒエラルキーを決めて、コンテンツ作成する位だったらやりますよ、何だったら英語のページを作成しますが、と言うと、そこに臨席していたある女性が烈火の如く怒り出した。

「私の主人は大学で工学を教えていますけれど、アレの英語は最悪です!教会の英語は特殊で、深い見識が求められるものなのに、工学部の博士風情が何を言っているんですか!」

後で聞いたところによると、この女性は高校で英語をずーっと教えていたそうで、教会の英語文書関連にずっと携わっていたのだそうな。だったらまずそういう仁義を切るべきだし、そもそもカトリックと英語ってそんなに重要な関係があるんでしたっけ?まあ、欽定訳至上主義みたいな話なんだろうけれど、今更 web のコンテンツに古英語を書く必要もあまりないだろうし、そもそも欽定訳聖書というのは、原典に依拠したということになっているけれど、実際はティンダル等の英訳版聖書にかなり依拠していることがよく知られている。ティンダルが元にしたのはいわゆる「公認本文 (Textus Receptus)」で、これは『痴愚神礼讃』の著者として名高いエラスムス Desiderius Erasmus が、慌てて集めた良質でない写本(その中には、三位一体の教義を補強するために捏造された偽写本まで含まれている)を基に訳を作成したものであり、現在の我々の聖書と比べると、排除されるべき改竄がいくつも入ってしまっている、というのは、少し聖書のことを知っている人々にとっては、これは常識だと思うんだけど。古英語が分かるなら、それが必要なときに僕が聞いて、あんたがアドバイスすればいいだけの話なのに、こうもスピッツみたいにキャンキャン鳴くってなぁ、あんたのプライドの危機だと思ったからなんだろう?

まあ、こんなことがあってから、僕はこの教会の運営に関して積極的に関与する気をなくした。しかし、放っておくと、この教会ではどんどんおかしなことが進行するのだ。パイプ椅子を何十万も出して購入して、事後承諾で予算にねじ込んだり、ワイヤレスマイクが不足している、と言って、数十万もの予算を購入に計上したり(どこの大ホールだよ?一桁違ってることすら分からない馬鹿は本当に困る)、果てには、信者の住所等の個人情報のデータベースを作成するために、専用の PC と専用のソフト開発の費用として、これも数十万が計上された。ちなみに、その「専用」PC、教会内の某所で使われないまま埃を被っているのだそうな。使わなければどんどん陳腐化して資産価値が減じていくコンピュータを、である。もうお話にならない。

まあ他にも、「東日本大震災の祈り」なんてのを皆でやるときに、信徒の長が、ミサ後の集まりの時間が惜しいのか何なのか知らないけれど、とんでもない早いスピードで先唱をしてくれて、お祈りとはとても思えないような状態になってしまったり、朗読の読み間違いを平気でしたり……まあ、とにかく、何から何までお粗末極まりない状態である。

彼らにとって、信仰とは何なのか、そして共同体とは何なのか、僕にはてんで分からない。そもそも、連中は本当にカトリックなのだろうか?それすら僕には疑わしく思えてならないのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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