食い合っている場合ではない

羽田の新しい国際線旅客ターミナルと、これまた新しい滑走路が、ようやく本格的な稼働をはじめた。この業界では、羽田、成田の各空港の社長、そして東京都知事と千葉県知事、JAL と ANA の社長を巻き込んで大騒ぎをしているようだけど、そんなことをしている場合なのだろうか。

たとえば秋田や新潟で、海外に行こうとしている人達がどうしているか。実は、大韓航空などを利用して、韓国の仁川国際空港を経由して行き来しているひとが少なくないのだ。現在、日本の20数か所の地方空港で仁川国際空港への便が飛んでいる。僕が同じ立場だったとしても、おそらくこれを使うことになるだろうと思う。

なんで?と思われる方は、ちょっと冷静に考えてみてほしい。たとえば秋田から海外に行くことを考えた場合、成田経由なら、飛行機や新幹線でまず東京に出て、そこから成田エクスプレスなどで成田空港に行くことになるわけだが、これの所要時間を考えると、どうなるだろうか。おそらく多くの場合、東京や千葉で宿をとらなければならなくなる。しかも、もし羽田まで飛行機で出たとしても、羽田 = 成田間は電車での移動ということになる。時間帯によっては、ラッシュに巻き込まれることにもなりかねない。荷物を押しながらこの苦痛を味わわされるところに、仁川経由のオプションが出てきたらどうだろう。仁川だったら、空港内の移動だけで事が足りるのだ。

だから羽田が国際空港化したんじゃないか、としたり顔で言う方。じゃあヨーロッパに行く時にはどうするのか。羽田から行くなら、エールフランスか JAL でパリ経由か、BA か JAL でロンドン経由ということになる。僕の仲間内では、エールフランスというのは今ひとつ評判が悪い。僕も自分でヨーロッパに行くならば、まずルフトハンザからチケットを探し始めるだろう。大阪在住の頃だったら、家が伊丹空港の近くだったので、リムジンバスで居眠りしているうちに関空に着いて、そのまま搭乗、でよかったけれど、もし秋田在住だったらどうなるか。こまちで東京駅に出るにせよ、国内線で羽田に出るにせよ、都内を通って成田に行かなければならないわけだ。これを考えたら、飛行機で羽田に出るのも仁川に出るのも大差ないんだから、それなら仁川に出たほうが……となりそうなものではないか。

要するに、もし日本が本気で東アジアのハブ空港を持ちたいと思っているならば、空港から外に出ることなしに、もしくはそれに準ずる位の簡単な経路で、目的地に向かう便にアクセスできなければ、それはユーザーがついてきませんよ、と、こういうことは幼稚園児でも分かりそうな理屈である。しかも羽田は24時間運用が可能だけど国際線に特化できず、成田は国際空港ではあるけれど24時間運用ができない。どちらも単体で東アジアのハブになるには、足りない要件があるのは明白である。

こういう問題は、別に僕が初めて言い出したものではない。たとえば日経 BP 社のページを見ると、
『成田−羽田の本命はリニア新線か既存線改良か』
なんて話がちゃんと載っている。これは大ぶろしきでも何でもなくて、もしも日本が東アジアのハブを確保することを本気で考えているのならば、羽田 = 成田間に、リニア級の高速移動手段を確立しなければ、到底実現などしない話なのだ。

それに、もし今後中国の経済が更に肥大するならば、中国がハブを奪りにでてくるかもしれない。仁川国際空港が開港してからまだ9年しか経っていない。今後10年、20年のタイムスパンで考えるならば、実は日本は仁川国際空港とすら食い合っている場合ではないのかもしれない。地方空港からハブへの旅客・貨物双方の航空運輸活性化、そして羽田 = 成田間の移動問題の解決、そして、極論を言うならば、日本と韓国でハブを分担するということすら考える必要があるだろう。まあ、民主党政権は、どうもこういう次元の構想をちゃんと出さないようだけれども。

もう戻れない

皆さんは、普段音楽を聴く際に、どのような形態で聴かれているだろうか。最近は、ほとんどの方が iPod や Walkman、あるいは携帯電話などを端末としてサウンドファイルを再生するかたちで音楽を聴かれていると思う。

僕も、ほぼ全ての場合においてこのようなかたちで音楽を聴いている。外で聴くためには iPod classic に AKG K314P を接続して使っているし、家ではパソコンに TASCAM US-144 を接続して、そこに SONY MDR-CD900ST を突っ込んで使っている。しかし、ここで問題になるのは、聴くためのサウンドファイルをどういう形式にしているのか、という点である。

残念なことに、僕はどうも耳のつくりがいいらしいので、圧縮ファイル、たとえば MP3 とか MPEG-4 AAC とかのフォーマットのファイルを聴いていると、WAV に代表される非圧縮ファイルを聴いているのと明確に区別がついてしまう。僕のようにロックを聴いている場合、圧縮フォーマットはハイハットの音と残響音を致命的に変質させてしまうので、もし圧縮ファイルと非圧縮ファイルを同一の再生環境で再生した場合、おそらくは皆さんでも(慣れれば)区別はつくと思う。

それでも、ハードディスクが逼迫するので、今までは MPEG-4 AAC で圧縮をかけたファイルを iTunes library に突っ込んで聴いていたのだけど、もうどうにも我慢できなくなってきたのである。何が我慢ならないって、僕の iTunes に入っている自分の曲を聴いているときである。圧縮ファイルが再生する音は、僕が苦心惨憺したミックスダウンの音と明確に違うのだ。あー!もう我慢できない!

ということで、山下達郎の "POCKET MUSIC" など、いくつかのアルバムを WAV 形式で入れ直した。先程聴いてみたのだが、そうそう、こんな音でしたよ。あのスッカスカの音は何だったんだ?と思うほどに違う。もう、将来的には、現行の iPod classic みたいに100数十 GB のメディアを載せた携帯プレイヤーに、こういう非圧縮のフォーマットのファイルを入れて聴くことになるんだろう。もう、僕は戻れないのだ。

神様はコンビニエンスストアではない

「人事を尽して天命を待つ」という言葉がある。これはキリスト教文化が発祥の言葉ではないけれど、僕が神に祈るときには、この心境で祈っている。この言葉は実は非常に厳しい言葉であって、人事を尽さなければ天命はもたらされない、ということでもあるのだ。

最近、どうも、自分に都合の悪いことは「神様の御旨で何とかしてもらえる」と勘違いしている人が多いような気がする。それも、カトリックを含むクリスチャン全体の中で、こういうことを軽々しくも口にする人が多いような印象があるのだが、実際のところ、神様はコンビニエンスストアではない。そう簡単に、人が望むように、人の望むものをもたらしてくれるはずがないのだ。

そんなことはない!と言う人がいるかもしれない。じゃあ聞くけれど、この世のあまたの災厄は、どうしてその神の御旨でどうにかなってくれないのだ?戦争や貧困で、実に多くの人々が命を失っている。一見豊かに見えるこの国でも、ろくに社会的保護を受けられないまま、孤独に死んで腐乱した遺体が発見される人や、人間の勝手で捨てられて殺処分される犬や猫が、その数を数えることも難しい程存在する。そんな話はあまり聞かない?今年、僕の自宅の何軒か隣で、実際にそうやって亡くなった方がおられたけれど、その話は新聞にすら掲載されなかった。もはやそんな話は「ありふれた話」であって、メディアがニュースバリューを感じないから報道されていない、というだけの話で、そういう話は、確実に、僕らの身辺には存在しているのだ。

安易に神の救済を口にする輩は、おそらく「神義論」という言葉も、それが表す学問体系も、欠片程にすら知らないのだろう。もしその人がクリスチャンならば、そんな人はインチキクリスチャンの謗りを免れない。神の名を口にする資格もない、社会的に有害な半可通に過ぎない。

「神義論」に関しては、以前、『破綻した神キリスト』(この邦題は明らかに煽情を狙い過ぎているので、原題 "GOD'S PROBLEM: How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question --- Why We Suffer"を直訳すると、『神の問題: 如何にして聖書は我々の最も重要な問――なぜ我々は苦しむのか――に答え損ねているのか』というところか)のレビューを amazon に書いたものがあるので、それをここに転記する。この本を読んだことのない方にも、神義論がどういうものなのか、ある程度御想像いただけると思うので。

人はなぜ苦しむのか。

最初に断っておくけれど、この本は、著者が直接標記の問いに答えるものではない。著者は新約聖書学の世界では著名な研究者で、この問いに聖書がどう答えているのかを見ながら、神と世界と苦しみの関係を探っていく。これは著者が言及しているように、ライプニッツが提示した「神義論」的問題であり、数百年の議論を経ても尚、我々を納得させる解は見つかっていない。著者は聖書の各文書の歴史に沿って、旧約時代の古典的神義論、預言的神義論、そして新約時代の黙示文学的神義論を、実際に人の世に存在した艱難辛苦をつきつけながら咀嚼していく。そして、著者は『コヘレトの言葉』のような諦観に至るのだ――「私の目に映るこの世界のありようは、世界に対する神の介入がないという事実を示している」(pp.28)。

僕はカトリックだけど、遠藤周作が『沈黙』で提示した「母なる神」を受容する立場をとっている。しかし、著者がイメージする神(これは「聖書が示す神」に出来るだけ忠実であろうとした結果なのだけど)はそんな妥協を許さない:「苦しむ私の傍らに立っている、だが実際にはほとんど何もできない神を信ずるというのは、神をまるで私の母か、親切な隣人のような存在に貶めてしまう行為だ。真に神をたらしめる行為ではない。」(pp.322)。人はこんなに苦しんでいるのに、神はなぜ沈黙を保つのか、神はその強大にして正義たる力をなぜ行使しないのか……この問いが、敬虔な福音派の信者にして、聖書の無謬性を示すために聖書学研究者を志した著者の行き着いたところである。この問いを、我々は蔑ろにすることはできないのだ。

この本は(邦題がイマイチなので)キリスト者が敬遠しそうな体裁であるけれど、キリスト者であるならば、是非御一読いただきたい。そうでない方にとっても、この本はキリスト教を知る上で大きな助けになると思う……苦しみの救済はキリスト教の一大トピックなので。

要するに、「神がいるなら何故世界は理不尽な苦しみに満ちているのか」「理不尽な苦しみに満ちた世界にあって神が造物主として存在し得るのか」という問こそが神義論的問題であり、それを考えることこそが神義論なのだ。たとえば遠藤周作の『沈黙』に、

主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか
という司祭の呟きが書かれているけれど、神義論というのはまさにこういう問、そしてこの血を吐くような問に答えられるのか、という考察の集積なのである。私は神の救済を実感している、という主観に塗れた言葉など、この前には何と空虚なことか!神の救済を安易に実感している輩は、その実、神の代執行者を気取る自分の権能を正当化したいだけではないか。そんな安易なドグマなど吹き飛ばしてしまう程に、神義論というものはクリスチャンにとって重い問題なのである。

ここを読まれている方で、クリスチャンでない方は、神の救済を安易に語る輩にこれから出会ったなら、どうかその輩を信用しないでいただきたい。たとえば、あのマザー・テレサの遺した言葉を読んでみても、彼女は一度も、「救う」という言葉を使っていない。彼女は、救済が安易にもたらされるものではないことを骨の髄まで承知していたからだ。カルカッタ(現在のコルカタ)に彼女が作った施設の名前「死を待つ人の家」が、そのことを明確に示している。彼女は、死に瀕した人を救う、などという言葉を、かりそめにも軽々しく口にはしなかったのだ。上記引用文にも僕は書いているが、「苦しみの救済はキリスト教の一大トピック」なのだ。その成立当初から、現在に至るまでも尚、ね。

続・転移・逆転移

前回の blog で書いた話の補足を少々。

僕は大学院生時代に、食うために非常勤講師をしていたことがある。情報処理関連の演習を担当することが多かったけれど、これもいわゆるコンピュータリテラシと呼ばれるものからプログラミングまで、幅広く教えていたし、他にも物理学実験とか、あとは自分の所属学科のリサーチアシスタントということでやはり情報処理演習の講師をしたりもしていた。だから、二十代の中盤〜後半は、週に何日かはスーツを着て「センセイ」「センセイ」と呼ばれる生活をしていたわけだ。

僕は自分がそういう演習を受講していた頃には、いかにして講師に一泡吹かせるか、ということに終始していたから、出された課題はさくっとクリアして、応用問題みたいなものを勝手に設定して、それをレポートにまとめては「今回の演習の程度の低さには見識を疑う」などと書き添える……ひどい学生だった。大分後になってから、その頃に演習を担当していた教官が、そういう僕のレポートを出してきて「いやあまりに面白いんでとっといたんだよ」などと笑うのに、だくだくと冷や汗をかかされたりしたのだけど……まあ、だから、平均的な学生の演習や講義に臨む態度とか、してくる質問とか、そういうものを聞き、また答えることは、なかなかに新鮮な体験であった。

で、慣れてくると、ある種の学生の存在を意識するようになった。その学生は女性だったのだけど、僕が巡回してくると、

「先生ぃ〜、これ、分かれへん〜」

と、しなだれかからんばかりの勢いで質問してくるのだ。最初は本当に分からないのかと思い、丁寧な対応を心がけていたのだけど、どうも他の学生の反応が冷たい。そこで、クラスの中でも1、2を争う程出来のいい女子学生にそうっと訊いてみると、

「あの子は、そういう感じやから」
「そういう感じって?」
「質問とかするのに、どんな先生にでも、あんな感じで、ベターって」
「ベターって……というと、媚びているというか、そういう感じなのかね?」
「……」

言わぬが華だ、と言わんばかりの溜息をついてみせるのだった。なるほど。まあ、本当に分からなくって質問してくるのでなければ、他の学生を優先すればいいだけの話である。そう決めて、次回の講義からは、他の子の質問を優先して対応していると、問題の子は、自分の席を離れて僕にまとわりついてくるのである。

異性の年下の子にこんな風になつかれると、鼻の下を伸ばすような人もいるのかもしれないが、僕は残念ながら、こういうことにはとことん懐疑的なのであった。これは何か変だぞ。どうしてこうもまとわりついてくるのだろうか?その子は講義中だけではなく、僕の休み時間にも、質問にやってくるのであった。ますます変な話だぞ?僕の中では警戒信号が鳴り響いていた。

いくつかの演習を経験するうちに、僕はそれが、どの演習においても観察される現象であることに気付いた。ほとんどの場合、その学生は女性であった……僕は夜間部の講義も受け持っていたから、自分より年上の社会人学生だったりすることもあったけれど……そして、同じように、しなだれかからんばかりの勢いで、僕に質問を繰り返すのであった。

非常勤暮しの先輩であった某氏に、この件に関して質問してみると、

「へぇ、Thomas クン、モテモテやないか」
「いやあ、そいつぁ違うでしょう。ああいうの、どうしたらいいんでしょうかね」
「まあ、食ってみるのも経験なんじゃないの?」

そう言って某氏はニヤニヤしていたが、これは明らかに「食わん方がいい」の意味だろう……まあよく分からないけれど、コマセの中には針が入っていて、パクっといったら「フィーッシュ!」とばかりに抜き上げられてしまうんだろうか。とりあえず、君子危うきに近寄らず、の原則に従って、

  1. 演習中の質問に対しては、一定頻度、もしくは一定所要時間を超える対応を避ける
  2. 演習以外での質問は、第三者が介在しない場での接触・対応を避ける
  3. 昼休み等の機会でも、一緒に食事するなどの接触を避ける
……というように、一定基準に従った接触を心がけるようにしてみた。その結果、学生と交際することはないままに今日に至るわけだけど、当時この基準を遵守していたのは、今考えてみてもいい対応だったと信じている。

当時は、ネット関係で、いわゆるパーソナリティ障害とでも言うような感じの人の引き起こす問題に触れることが何度かあったのだけど、こういう場でも、僕にしなだれかかんばかりの勢いでアプローチをしてくる人に出喰わすことがあった。まあ、おそらくは僕の経歴とか、ネット上での発言内容とか、そういうものに惹かれてそういうアクションを起こすんだろう、と思っていたのだけど、あるときに、演習で出喰わす女の子と、このネット上でアプローチしてくる人とが重なったのだった。

あー、なるほど。解釈できてしまえば何のことはない話で、彼ら(彼女ら、と書くべきかもしれないが)は要するに、知的権威に従属したいんだ。もちろん僕は権威然としてふるまっているわけでもないし、隠然として権力を行使したりしているわけでもないのだけど、学生にとっての講師、まだ現在程「普通の」存在ではなかったネットで堂々と発言している大学院生、といった存在に、寄りかかる対象として接近しようとするアクションが、ああいった「媚びた」アプローチとしてなされるんだ、と考えれば、全ての行動がはっきりと見えてくる。当然だけど、そこには愛などありはしない。もちろんこちらから寄せるべき愛も、僕はそこに見出すことなどできなかった。

他にも、カトリック的な倫理観みたいなものも機能していたのかもしれないけれど、そんなわけで、僕がそこで affair に精を出す(なんか生生しいなあ)ことはなかったわけだ。しかし、もし僕に教育に従事する者としての意識が希薄で、そういう場で自分の思い通りになる異性を獲得しよう、という気があったならば、おそらくは、その目的を達成することは、そう難しくなかったのではないか。そんな気がしてならないのだ。だって、相手の望むものははっきりしている。こちらはそれを供給してやればいい。利害が一致したところで、相手に権威としての圧力を程良く作用させてやれば、自分の都合のいいように相手を操作することは、相手がその事実に気付いていた場合ですら、きっと容易いことだったと思う。

ただ、もしそうなっていたとして、それが「自分の主体的な意志による」対象の操作であったかどうか、ということに関しては、いささか怪しいと言わざるを得ない。だって、それが相手の操作の結果であって、まるで仏様の掌の上の孫悟空のように翻弄され、しかし自分では暴れ回っているように思い込んでいるだけなのかもしれないのだから。まあ、僕はそうやって誰かを操作することにも、逆に操作されることにも、正直、喜びを見出せるとは思えない。人生での人との出会いが想定範囲内に終始するなんて、そんな人生、何が楽しいのやら。

こういう体験をした時期が、この国で丁度パーソナリティ障害というものが注目されるようになった時期とかぶっていたことが、現在に至るまでの僕の日々の中で、極めて大きな意味を持っている。こういう、確信犯的に他者との関係性を操作することによる、一見充実しているように見えて、その実空虚な人間関係というもの……それが発生し、そして壊れるのを、その後何度となく傍観することになったからだ。

しばしば僕は、こういうシチュエーションを説明するのに、大平健氏の『やさしさの精神病理』に言及するわけだけど、僕との会話でこの本に興味を持ったらしき U が、『やさしさの……』を amazon で入手して、今丁度読んでいるところである。僕もちょろっと拝借してざーっと見返したりしていたのだが、20年経っても、人というものは実に進歩していないものなのだ、ということを思い知らされる思いがする。関係性を制御しようとすることは、結局はそこに変革も、予想外の出会いもない世界に、自らを押し込めているだけのことである。まあ……たとえばイプセンの『人形の家』における家庭と愛のかたち、とか、昔からそういうものは、その存在も問題性も認識されていたのだろうけれど。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

New Entries

Comment

Categories

Archives(902)

Link

Search

Free

e-mail address:
e-mail address

Counter

11663222