転移・逆転移

先日、カウンセラーの某氏と話す機会があったのだけど、そこでカウンセラーとクライアントの関係性に関する話になった。

「前から気になっていたんですけどね」
「ん?何がです、Thomas さん?」
「カウンセラーの知り合いに、メンタルな問題を抱えた人がいるとしますよね。で、そのメンタルな問題を抱えた人を何とかしたい、という話になったとして、そのカウンセラーが知り合いのカウンセリングをする、というのは、ありえる話なんですか?」
「うーん……まあ、僕の場合だったら、それはありえませんね」
「これってね。関係性の問題だと思うんですよ」
「関係性、ですか」
「ええ。たとえば、昨日まで友達だったのが、アポイントメントを入れた時間だけカウンセラーとクライアントの関係になる、なんて、そう簡単に人は自分と他人との関係性を使い分けて、厳密に運用する、なんてこと、できやしないんじゃないか、と思うんですけどね」
「あー、なるほど」
「だから、カウンセリングを行う際には、カウンセラーとクライアント『以外』の関係性を持つことを、避けるものなんじゃないか、というのが僕の認識なんですけど、実際のところ、どうなんでしょうかね?」

某氏は、ここまで聞くと、ニヤリ、と笑って僕にこう言った。

「それは転移や逆転移も関わる話だと思いますけれど、こういう問題はね、歴史が証明しているんですよ」

ここで言う転移・逆転移というのは、いわゆる精神分析学において使われる term である。そもそもこの概念を提唱したのは精神分析学の祖であるフロイトで、これらの意味は:

転移
カウンセリングの過程で、クライアントが強い結びつきを持っていた人物との精神的関係をカウンセラーに向けるようになること
逆転移
カウンセラーがクライアントに対して転移を起こしてしまうこと
というところだろうか。現在においては、転移の定義に限定することなく、カウンセラーがクライアントに対して何らかの精神的情動を惹起されることを逆転移と称することが多い。

フロイトは、転移は治療のプロセスにおいて重要なものであるとした。転移の出所を探ることによって、その強い精神的情動の源(フロイト式で言うならば「幼少時の性的生活」)を知ることができる、とフロイトは主張した。これとは対照的に、フロイトは、逆転移はカウンセリングの障害となるので排除されなければならない、と主張した。カウンセラーが転移に縛られることは、カウンセラーの精神的中立性を脅かす。逆に言うならば、カウンセラーが精神的中立性を維持することが、カウンセリングにおいては重要なものだと主張したわけだ。ただし、現在においては、カウンセラーが逆転移を鋭敏に自覚することによって、それがクライアントの精神世界にアクセスする上での一助となりえるという考えもあるらしい。

まあ、確かに、精神的中立性が維持されているならば、それはそれで健全な状態なのかもしれない。逆転移している自己を鋭敏かつ客観的に観察できるならば、それは事の認識において大きな助けになるのかもしれない。では実際に、フロイトとその盟友達がそれを維持できたのか?というと、実は彼らはそういう意味では限りなく失格者に近い。

フロイトと共著で『ヒステリー研究』という本を出しているヨーゼフ・ブロイアーという人がいる。このブロイアーのクライアントであったアンナ・O という人物がいたのだが、このアンナ・O の治療が、カウンセリングのルーツとされている。アンナはブロイアーの元を訪れると自ら催眠状態に入り、自由にブロイアーに話をすることで精神状態が改善されることを確認していた。この行為をアンナは「談話療法」(しばしばふざけて「煙突掃除」とも称していたらしい)と呼んでいたのだそうだが、これこそがカウンセリングのルーツといえるものだろう。

しかし、この世界初の試みは、思いも掛けない事態によって中断されることになる。ある晩、ブロイアーを呼び出したアンナは、下腹部を痙攣させて「先生の子が生まれる」と叫んだ、というのだ。まあ皆さんご想像がつくだろうと思うけど、これは想像妊娠で、恐怖したブロイアーは治療を放棄し、アンナをサナトリウムに送り込んだのだった。

このケースは、転移が予想外の影響を現したことによるトラブルだけど、逆転移で似たような話もある。それはフロイトの弟子であったフェレンツィ・シャーンドルの話である。

フェレンツィは、ユングとの決別後のフロイトが自ら有力な弟子の一人と認識していた人物であるが、フロイトとの見解の相違で彼と仲違いすることになる。その主な原因が、先の「逆転移」の問題である。「分析者の中立性」を重要視していたフロイトに対し、フェレンツィは、必要に応じて分析者もクライアントに愛情や信頼の感情を示した方がより高い効果が期待できるのではないか……という風に考えていたのである。これによってフェレンツィは精神分析協会を放逐され、さらには同じくフロイトの弟子の一人であったアーネスト・ジョーンズに精神異常者であると「診断」されてしまうのであった。

まあ、こう書くと、このフェレンツィがフロイトの築いた象牙の塔の犠牲者のように思われるかもしれないけれど、フェレンツィとフロイトの対立の陰には、一応はそれなりの背景というものがある。

フェレンツィはギゼラ・パロシュ Gizella Pálos という女性の心理分析を行っていたのだが、やがてギゼラの娘であるエルマ Elma に対しても心理分析を行うようになった。このエルマへの分析は効能を発揮しているように見えたが、エルマの取り巻きのひとりが自殺したことをきっかけに、エルマの調子は悪くなっていく。しかも(面倒なことに)フェレンツィはエルマに恋愛感情を抱くようになってしまう。フェレンツィは自らの恋愛感情が神経症から来るものなのか、それとも本当の恋なのかを明らかにすべく、師であるフロイトに、エルマへの心理分析を行うよう依頼する。フロイトはフェレンツィとエルマの関係が逆転移からくる不適切なものであることから二人の結婚に賛成せず、結局フェレンツィはエルマの母のギゼラと結婚したのである。

この後もフロイトは、たとえばフェレンツィがクライアントに対して自分にキスすることを認めたことなどを非難する。そして二人のトラウマに対する解釈の相違なども加わって、やがてその対立は決定的なものへと至ってしまうのだけど、まあこんな具合に、カウンセリングというものの成立前後においても、既に転移・逆転移によるカウンセラー・クライアント間のトラブルが生じる可能性があることは、歴史的に証明されているといってもいいわけだ。

……というような話を、某氏は僕に話してくれた。

「まあ、そんな訳で、カウンセラーがクライアントに対してカウンセラー以外の関係性を持つ、ということは、現在の僕らの業界ではかなり厳密に避けています。いや、僕はね、あまりこれに厳密になるのもいかがなものか、と思っているんですよ。こう、何というか……窓口業務的なカウンセリング、というのも、これはこれでいかがなものか、と思うわけなんですが」
「はあ」
「でも、まあ、基本的には、カウンセラーの立場に立つ以上は、その対象とカウンセラー以外の関係性を持つということは、ありえません。というより、ないように、そういう事態を回避するんですよ」

これでようやく得心がいったのであった。

自分を疑わない人々

USENET の頃から、ネット上で他人の質問に答えるようになってもう20年程が経過したわけだけど、特にこの数年、僕を苛立たせる人々が増殖している。

一例を挙げよう。mixi の「DTM 宅録倶楽部」というコミュニティで:

[質問]C3 マルチ コンプレッサーというフリーソフトがあると聞いたのですが、どなたかご存知在りませんか?
(長ぇんだよゴルァ)というスレッドが立った。

があると聞いたのですが、

どなたかご存知在りませんか?

僕はMacintoshを使っています。

と、まあ、典型的な「教えて君」的な書き込みである。

こういう質問を脊髄反射的にスレッドに仕立てる連中の頭は、一体どういう構造をしているのだろうか。いつも僕は不可解さを感じる。もし僕がこのような疑問があるならば、とりあえず "C3 multi compresser" で google で検索をかける。造作もないことである。その結果としてこのようなものが得られ、そこを見たら、

http://www.geocities.jp/webmaster_of_sss/vst/
という URL に行き着く。実に単純な話である。というか、他人に聞いて調べてもらうだけ面倒な話である。

で、僕はこう書いたのだった:

どうしてトピを立てる前にまずググらないのだろう。

http://www.geocities.jp/webmaster_of_sss/vst/#c3

すると、こんな書き込みがされたのである:

すみません、Macで動くものが見つからなかったので・・・

リンクして頂いたURLから、
apulSoftをクリックして、

*Click here to download the OSX versions. (06/11/07)*

をクリックしたのですが、

ダウンロードしたファイルが開けません。

「開くために指定されているデフォルトのアプリケーションがありません」

と出ます。

OSXヴァージョン、であっているのでしょうか。

僕が使っているのでは i mac です。

http://www.geocities.jp/webmaster_of_sss/vst/を辿っていくと、"* version 1.2(VST-X and AU)special thanks to apulSoft." という記述があって、http://www.apulsoft.ch/freeports/にリンクされている。リンク先には、"Slim Slow Slider: C3 Multi Band Compressor 1.2" というタイトルで当該ソフトの紹介が書かれていて、"Click here to download the OSX versions. (06/11/07)" という風に:

http://www.apulsoft.ch/freeports/C3_Multi_Band_Compressor_1_2_2007_06_11.dmg
へとリンクされている。拡張子 dmg で表される Apple Disk Image に関しては、今更僕がここに書くまでもない話だけど、バイナリファイルを破壊でもしない限りは MacOS X で開けない筈がないのだ。試しに U の Intel iMac でダウンロードしてみると、何の問題もなく開くことができる。で、僕は:

他人を疑う前に自分を疑う方がいいですよ。今手元の Intel iMac で試しましたけど、

http://www.apulsoft.ch/freeports/C3_Multi_Band_Compressor_1_2_2007_06_11.dmg

が問題なく取得できるし、dmg として開くことも何の問題もありません。

# ただ僕は MacOS 上で Cubase を使っていないので VST 自体の検証はしていませんが。まあ、
# ボランティアでこれ以上検証する必要性も感じないけど ;-p

で、こういう書き方をすると、また逆ギレしてどうのこうの書かれそうなので、あらかじめここに毒を吐いておくことにする。

まず、僕には、このような質問をする「教えて君」が理解できない。いくつかのキーワードが分かっているのに google などで検索しない、というのがまず理解できない(今日日、小学生だってやりますぜ?)し、情報を必要としているのに、それを取得する最短経路を模索しないというのも理解できない。mixi なんかで、僕のような奴が戯れに質問に答えるとしても、そこには保証も何もない。ただボランティアとして回答しているだけだし(勿論、僕の場合は、自分が答える以上は充分な正確さを以て答えるようにしているけれど、それは相手の為ではなくて自分の為のことである)、そこに金銭や契約の縛りがあるわけでもない。だから、最終的には自分で確認するしか術はないわけだ。で、キーワードは分かっている。だけど検索しない。そんな態度は、無用な手続きや手間を増やすだけではないか。

そもそも、この「教えて君」の motive は何なのか? Cubase などの上で動作するVSTとして提供されているところの、マルチバンドのコンプレッサーを使いたい、それも商用に市販されているものを買うのではなく、フリーのプラグインが欲しい、ということなのではないか?だったら、ネット上でそれを探して、自分の持っている VST クライアントで動作させてみて、期待通りの動作をすればそれでオッケー、それだけの話ではないか。他人に教えてもらわなければならない訳でもないし、教えてもらうにしても、しょせんはフリーのプラグインに関する話で、しかも mixi の同好の士に聞くわけだから、そこに何事かが保証されるわけがない。on one's own risk で使うなら、さっさと探して、使ってみて、○か×かをさっさと見定めればいいだけの話だし、それ以上を望んでも何も満たされるわけがないではないか。

結局、この「教えて君」は何をどうしたいのだろうか。上につらつら書いてきた通り、僕にはそれが皆目分からない。ただ言えるのは、この手の「教えて君」の特徴として、以下のようなことが指摘できることだ。

  • 自分一人でさっさとできるはずのことを(何故か)しない
  • 安易に他者に質問する
  • 何をどうにかする上で、何がどう分からないのか、を整理できない
  • ぶっきらぼうな回答に対して、「自分はちゃんとやったけどできないんだ」、と自己正当性を主張する
  • しかし、その「できない原因」はほとんどの場合「自分がちゃんとやっていない」ためである
  • 回答が得られたり、キツいことを言われたりすると、すぐに消える
  • 自らの問とそれに対する答を「資源化」する、という概念がない

……そうか。こう書いてきたけれど、僕の意識は世間の人々と若干ギャップがあるのかもしれないな。その辺を一応書いておくことにしよう。

僕は、何か分からないことがあるときには、まず自分で調べる。昔だったら図書館に行ってカードを繰ったり、大型計算機センターのコンピュータにログインして INSPEC データベースを使ったりしていたわけだけど、たとえば僕が INSPEC を使い始めた頃は、文献検索はそのヒット件数に応じて課金されることが多かった(データベースの使用料金が、そのデータベースにどれだけ情報を披瀝させたかによって決まる、という、まあある意味フェアな思想ではある)から、如何にして無駄な情報を省いて、密度の高い情報を得るか、ということは、ある意味死活問題だった。だから、ワイルドカードや正規表現に代表されるような記号論理学的手法は最大限活用せざるを得なかったし、それ以前にそんなことは知っていて当然で、そんなものを知らないような奴は居場所がなかった。

そして、その過程で自分の欲しい情報が得られないとき、僕らは自分の過ちをまず疑った。検索で l と r を間違う、なんていう三歳児レベルのミスは、恥ずかしくてとてもじゃないけれど他人に話したりはできない。そんな細かいことで……などと思う不遜な奴のために、僕の出身学科の情報処理教育のプログラムでは、プログラミング演習の課題のひとつに、文献検索ユーティリティの作成、というのがあった。テキストファイルの文献データベースを read only で open して、任意の検索語で大小文字の別、複数形、複数行に渡る場合……等々に対応した検索を行えるユーティリティを FORTRAN 77 で書け、という、今考えるとちょっとアレな課題ではあったけれど、この課題は、文献検索というシステムには何が望まれていて、それをどう活用すべきなのか、ということを考えさせるという意味では、非常にいい課題設定だったと思う。何より、求める側の不遜な態度というものを僕らに理解させる上では、その効能は高かったのではなかろうか。

そして、研究テーマの設定を自分で行わなければならなくなってからは、このような情報探索の重要性はさらに増してくる。自分の考えているテーマが、今迄誰も設定しなかった研究テーマなのか、あるいは散々しゃぶり尽された、もはや面白くも何ともない代物なのか。誰も考察したことのない現象に対して、理論的アプローチの先達が何処かにいないだろうか。そういうことを問われたとき、僕らは真っ暗な大海原に放り出されたような心境になる。かつて、セクスタントとコンパス、それにクロノグラフで大洋を行き来した船乗りのように、僕らは INSPEC データベースとコピーで膨らんだファイル、それに、日常会話のどこに潜んでいるか分からないキーワードに常に耳目を向けていることで挑んでいたのである。

学部のときは、同じ学科で誰もやっていないコンピュータシミュレーションと、摂氏千度を超える温度で融解した液体を試料にした実験を二本建てで行っていた。特に前者は、誰も教えてなどくれはしない。僕は1960年代からの英語とフランス語(僕はドイツ語選択だったけれど、半泣きになりながら論文を読み込んだ……だって、誰も教えてくれないし、指導教官を詰ったって彼が教えてくれるわけでもないのだから)の論文と格闘し、スパコンの利用料金が払えなかったので、自分で情報関連の教官と交渉して、年末年始の情報処理教育センターで遊んでいる NeXT 数十台をリモートでブン回して計算を行って、研究を進めた。

修士のときは、試料が摂氏数百度で起こす構造変化に関して調べる必要があって、あちらこちら探して辿りついた文献はやはりフランス語だった……でも、そのときはもう、そんなこと位でどうのこうの言う程ガキではなかったから、さっさとそれを読んで、その情報を基に実験計画を建て直したけれど。

そしてドクターのときは、理論計算のバックボーンになる概念を探って、行き着いたのは1930年代の論文だった。60数年前の論文を基にプログラムを書き、計算を行いながら、オリジナルの計算モデルを構築する……なに、こんなのはいつものことだ。そんなことよりも、六十数年前に先達がいたことが、何と心強く思えたことか!

まあ、こういう時期を過ごした結果として分かったのは、プログラミングができないから、フランス語を習っていないから、教官が必要な知識を有していないから、という、どれ一つたりとも言い訳にはならないし、そもそもそれを言い訳にしても、何も問題は解決しないということ。頑張った、というだけでは、誰も何も評価してはくれないのだ。だって、そこに何も進展がないんだから。

こういう話は、研究だけじゃなくて、たとえば営業やってる人とか、八百屋さんとか、農業やってる人とか、漁師さんとか、どんな職種でも、大なり小なりあることだと思う。教えてもらえないから契約取れませんでした、では金は儲からないし、作り方知らないから転作できません、では、減反しながら作物を出荷できないし、魚探の使い方知りません、では、網を入れることもできやしない。何をしたいのか?契約取って金稼ぎたい、作物作って売りたい、魚を獲って港で売りたい……食うために必要なことは、皆やっているはずなのだ。そして、そういうプロセスにおいて、人は己のミスにはシビアにならざるを得ない。己のミスの責任は、己でとるしかないからだ。人が言う通りに自分でやったけどできませんでした。はあそうですか。できなかったのね。それだけでしょ?

しかし、最近の世間では、そういうときに自分を疑わない人々が確実に増殖しているのだ。何かできないのは、それをできるようにフォローしない他者の不適切な行為によるものだ、と言わんばかりである。そうやって何もかも他人のせいにして生きていけるのは、どうしてなのだろうか?僕にはやはり、そういう人々がてんで理解できないのだ。

名古屋で蔑ろにされる多様性

僕が修士課程の院生だったときのことである。僕の居た研究室の教官にF先生という方がおられたのだが、このF先生は学内の留学生センターのセンター長を兼務しておられた。研究室旅行の折、そのF先生のクルマに同乗したときに聞いた話がある。

当時の阪大には、ムスリムの留学生が数多く在籍していた。ムスリムに「食のタブー」があることは、皆さんもご存知のことと思う。ムスリムは、豚を穢れた動物であるとしているので、豚肉を食べることを避ける。厳格なムスリムになると、ユダヤ教徒と同じように、神職にある者が神に祈って屠ったものしか食べられない。

幸いなことに、阪大の場合は、神戸にこの手続を経た食材(これをハラールという)を扱う業者がいたので、家で調理を行う留学生は弁当を持参するなどして対応していた。しかし、単身者で研究に忙殺されている留学生の中には、昼食を抜いている人も少なからず存在していたらしい。F先生はクルマを運転しながら、同乗していた僕達に、

「だから、我らが生協食堂でも、今度、ハラール・フードの提供を始めたわけだ」

と胸を張った。

「あー、見ましたよ。あれ、美味しそうですねえ」

とりあえず発売されたハラール・フードは、どうやら白身魚のフライらしかった。上にはライム・バターが載っていて、ライスとたっぷりのサラダがついている。初めて見たとき、あまりに美味そうだったので注文してみたら、

「日本人が食べるほど量にゆとりがあるわけないやんか」

と、生協のオネエサマにぼやかれたのだった。

「でも、僕が知ってる限り、ハラールが問題になるのって畜肉のときだけですよね。ユダヤ教徒みたいに魚も血抜きして……とかいう話は、ないんじゃないですか?」
「ふふん。甘いな Thomas クンは」

F先生はこう言うと、ちょっと遠い目をして、ため息混じりで、

「あれを実現するの、大変やったんや」

と、こんな話を始めたのだった。

生協との話し合いで、ハラール・フードのメニュー構成はすんなり決まったらしい。白身魚フライだから、留学生の財布にも優しい値段設定で、これなら問題ないだろう……ということで、留学生達に声をかけて、生協で試食会を行おうとした、そのときのこと。

「何が起きたと思う? Thomas クン」
「え?……うーん。メニュー的には特に何も問題ないと思うんですけど」
「そうか……いやな、結論から言うとな、ダメやったんや」
「?なんでです」

ムスリムの留学生達は、皿に載った白身魚フライを見ると、こう聞いてきたというのだ:

「これ、どこで揚げたの?」

あー……僕はこれを聞いて、自分の想像力の乏しさを反省したのだった。

「そうか……他のフライと一緒では、ダメなんですね」
「そうなんや……で、結局、新しいフライヤーを入れてもらった」

まだピンと来ない方がおられるかもしれないから一応書くけれど、生協の食堂では、もともとトンカツや(合い挽きの肉を使った)メンチカツを揚げるためにフライヤーを使っている。フライヤーで使う油は植物油だけど、トンカツやメンチカツを揚げた油には、当然だけど豚の脂が溶け込んでいる。その油で揚げていたら、そのフライは食べられないよ……留学生達の言いたかったのはこういうことなのである。

僕がこの話を人にしたとき、しばしば出食わした反応が「何を我侭なことを言っているんだ」というものであった。しかし、少なくともムスリムにとって、豚の脂に触れたかもしれないものを食べろ、というのは、たとえば泥水で洗った皿に飯を盛ったのを食わされるのより、尚耐え難いことなのである。僕達にとってそれがそういうものでなかったとしても、僕達は彼らのそういう感覚を理解し、折り合いを付けなければならない。彼らに一方的に譲歩を求めることなく。相互理解というのは、つまりはそういうことなのだ。

さて、現在名古屋では COP10 が開催されている。生物多様性に関する国際会議なわけだけど、その会議で供される食事があまりにお粗末な状態らしい。ヴェジタリアンの人々は、何を食べていいのか分からず、結局きしめんを頼んでナルトを避けて食べている、という。しかし、そのきしめんの出汁が鰹節でとられたものであることを、彼らはちゃんと理解しているだろうか。面倒だから、知らせない方が都合が良いから、その事実を彼らにちゃんと説明していないのではなかろうか。それは相互理解を否定する所業であって、多様性に関する会議を主催するものとして許されざる罪である。

こういう多様性や、それを越えた相互理解というものを尊重できない者のことを、日本語で何と言うか。これは簡単な問であって、その答はこうである:「田舎者」。田舎者根性を払拭できない連中に、国際性など求められるはずもないではないか。実に、実に下らない連中ではないか。

ペスト・ジェノヴェーゼ

U宅にバジルの鉢植えを預けていたのだけど、もうそろそろバジルも終わりの時期である。枯れないうちに有効利用しよう、ということで、今日はペスト・ジェノヴェーゼを作った。

バジルを刈り込み、葉だけを取ると約 40 g 程あった。この量に対して、松の実を 40 数 g、ニンニク大1欠け、ペコリーノかパルミジャーノのようなハードタイプのチーズが十数 g、それにエキストラヴァージンのオリーブオイルが 120 ml、というところだろうか。

実は昨日、某食材店に松の実を買いに行ったのだけど、中国産の怪しいものしか売っていなかったので、今回はクルミを使うことにする。まずバジル以外を全て(ニンニクはすりおろして使用)フードプロセッサーに投入し、よく攪拌しておいてから、ひとつかみのバジルを入れ、短時間の攪拌で潰して、を繰り返す。このとき注意するのは、あまり長時間攪拌し過ぎると温度が上がって、風味を台無しにしてしまうので、あまり慌てずに行うこと、位だろうか。

使うときには、アンチョビのフィレを入れ、よく潰して合わせてから、パスタを茹でてからめるだけ。冷蔵か、長期間保存するときはアイスキューブの皿などに入れて冷凍してしまうと、1回づつ使うのにも重宝する。バジルを栽培されている方がおられたら、今のうちに作っておくと非常に便利なので、おすすめである。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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