教科書にのせてほしくない!

TBS 系列で今日の午後九時から放映されていた『教科書にのせたい!世界のナゾ&神秘現象大解明スペシャル!』という番組を観ていたら、イメルダ・マルコスの半生に関する話に触れていたのだが……なになに、「ペグニノ・アキノ暗殺」?

うーん……外国人の名前とか、外国語の単語に言及するとき、言い間違いがないかどうか原語の綴りでチェックするのは普通のことだと思っていたのだけど、どうも TBS ではそうではないらしい。ちょっと調べれば、Benigno Aquino(正確には ,Jr.)→ベニグノ・アキノということ位、すぐに分かりそうなものだ。いや、それ以前に、報道もやってるわけだから、そっちの関係者にでもチェックしてもらえばすぐに分かりそうなものではないか。少なくとも、僕でもすぐに気がつく位なんだから、こんな阿呆な間違いをそのまま放映するなんて、恥ずかしくないのだろうか?教科書がどうこう言ってるんだから、その辺は間違っちゃだめでしょうに……ということで、TBS の web ページをたどってフォームからメールを出しておいたけれど、まあ黙殺されるんだろうな。

なんか最近、テレビのこの手の番組でも、どうもこういう詰めが甘いものが多い。こういうところがいい加減だと、面白くなくなってしまうんだけどなあ。あーやだやだ。

【追記】
Benigno Aquino というのは、あえて何語かというとタガログ語で、その発音はここで聞くことができる:
http://ja.forvo.com/word/benigno_aquino/

上の音声を音質補正したものをリンクしておく。

4 - 3 = 1, ≠ 0

明日から中国は一週間、「国慶節」と呼ばれる建国宣言記念の祝日に入る。この休日を控えた今日、中国当局に拘束されていた建設会社「フジタ」の日本人社員4人のうち、3人が解放された。解放されたのは、佐々木善郎、橋本博貴、井口準一の三氏で、現在もなお拘束されているのは高橋定氏とのことである。

中国政府は、この三人を解放した理由として「始末書を提出したため」と、所定の手続に則ったものであることを強調しているが、勿論こんなことが信用できるわけではない。昨日の blog にも書いたとおり、民主党の細野豪志議員が非公式に訪中しており、ここで何らかの交渉が行われた結果だと思われる。

しかしだなあ……中国で取材を受けた細野氏、「これは公式の訪問ではありません」と言いながら、外交部(日本の外務省に相当)の用意したクルマに乗ってたら、アンタ説得力ゼロだろうが。阿呆らしい。まあ、下らんことはどうでもいいんだけど、細野氏は小沢派の議員で、先日の代表選までは幹事長代理を務めていた。だから、小沢氏経由の中国のパイプをつてとして、現政権が中国に送った密使(と言ってもちっとも秘密になっていないんだが)とみて間違いないだろう。

そもそも中国に使者を送るなら、かつてアメリカが北朝鮮にカーター元大統領を送ったように、小沢氏を特使として送れば、中国側のメンツを保たせる上でも効果的だったはずなのだ。ただでさえ、民主党が中国に対してまともなパイプを持っていないことは、以前からよく知られているところである。そこで効果的な手を打てない辺り、管 = 仙石のタッグは、つくづく挙党一致から程遠いところにあるのが、これを見ても明らかであろう。

僕自身は、戦争はもうすべきでないと考えているし、憲法第9条に関しても、むしろこれを持ち続ける方がいいのではないかと考えている。しかし、だ。戦争をしないのであれば、戦争を行うに匹敵する外交力を駆使しなければ、日本という国は、この東アジアの地において到底たち行かないのだ。それは時に圧力をかけるようなことかもしれないし、第三者をうまく使ったかけひきかもしれない。いずれにしても、軍事力に代わる何事かで、毎年軍事費がうなぎのぼりの国と相対する、というのは、これは半端なことではない。

そういう意味において、現政権、特に内閣総理大臣と内閣官房長官は、あまりに問題意識と責任感がなさすぎる。外国人が見る日本人のステロタイプを体現している、としか言いようがない。そんなメンタリティーで国際社会の中でイニシアチブを握ることなど、到底能わざることなのだ。この期に及んでも尚、彼らはこんなことも分からないのだろうか。

ヤリ逃げたい中国

先週までの中国は、漁船船長が解放された後も、ただただ態度を硬化させていた。船長の身柄を返した後、日本は「謝罪と賠償」のカタに、フジタの日本人社員4名とレアアースの輸出停止(中国側はそのようなことはしていないと言っているけれど)、そして対日輸出品の手続厳重化による実質的な輸出制限……と、これだけを握られた状態だったわけだ。

この状況は現在も尚基本的には変わってはいない。しかし、今週に入ってから、奇妙なことに、中国側の態度が軟化しつつある。

関係改善へ日本の出方待つ=事件後「対日重視」に初言及−中国(時事ドットコム, 2010/09/28-19:04)

【北京時事】中国外務省の姜瑜・副報道局長は28日の定例会見で、尖閣諸島(中国名・釣魚島)沖での漁船衝突事件をめぐり、「中日関係を重視する」とした上で「関係の安定と発展には日本の誠実かつ具体的な行動が必要だ」と述べ、菅政権の対応を待つ姿勢を強調した。

中国が「対日関係重視」に言及したのは事件後初めてで、日本の出方次第で関係改善を図りたい意向を示した形だ。ただ日本側が模索しているアジア欧州会議(ASEM)での日中首脳会談に関し、「情報はない」とコメントし、現時点では消極的な姿勢を崩さなかった。

姜副局長は、日本政府が中国側の謝罪・賠償要求を拒否し、損傷を受けた海上保安庁巡視船の原状回復を求めたことについて「日本側は巡視船が中国の領海で漁船に損害を与えており、相応の責任を負うべきだ」と改めて主張。対抗措置の解除についても、「中日関係に与えたマイナス影響を取り除き、関係修復に向け努力すべきだ」と指摘した。

また中国が尖閣諸島近海で漁業監視船によるパトロールを常態化すると伝えられていることは「法に基づく漁業管理活動で、漁民の生命を守るためだ」と否定せず、日本側に追跡行動などの停止を求めた。

このほか、河北省での邦人4人拘束事件と漁船衝突事件は「完全に性質が違う」と強調。「法に基づき公正に処理されるはずだ」と述べるにとどめた。

この日、別に会見した傅瑩外務次官は日中首脳会談について「時間が限られており、2国間会談の機会は極めて少ない」と述べ、実現の可能性が低いとの見通しを示した。

レアアース輸出、再開へ=対日関係修復の姿勢か−中国(時事ドットコム, 2010/09/29-12:32)

【北京時事】尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件後、日本がその需要の9割超を中国に依存するレアアース(希土類)の対日輸出が事実上ストップしていた問題で、中国当局の通関手続きが再び動きだしたことが29日分かった。複数の日系商社や貿易筋が明らかにした。

関係者によると、中国商務省当局者が28日、一部日系企業に対して口頭で、通関手続きを速める意向を伝えたもよう。また、事件後に日系企業とのレアアース取引を自粛していた中国企業が、姿勢を改めたとの情報もある。

日本が漁船船長を釈放した後も、賠償や謝罪を要求する中国政府の姿勢に対しては、日本国内で反発が強まっているほか、国際社会も懸念を強めている。こうした状況が続けば、発展を続ける中国経済自身にも影響が及ぶ恐れがあり、関係修復に動きだした可能性がある。

一方、大畠章宏経済産業相は29日午前、取材に対し「経産省にはきちんとした形で(輸出再開の)情報は入っていない。確認を急ぎたい」と述べた。

また、中国税関当局が一部で日本の輸出入品に対する通関検査を厳格化し、荷動きが滞っている問題では、「27日ごろから検査が徐々に緩和されている」(航空貨物大手)、「状況は基本的に変わっていない」(物流大手)など、さまざまな情報が流れている。「上海では航空、海運いずれの手続きも正常化したが、青島では全量検査を実施するとのうわさもある」(同)との話もあり、現地の日系企業は情報収集に追われている。

中国漁船・尖閣領海内接触:中国、軟化に含み 「ほぼ終了」と高官(毎日 jp, 毎日新聞 2010年9月29日 東京朝刊)

【北京・浦松丈二】沖縄県・尖閣諸島(中国名・釣魚島)の衝突事件について、中国政府高官は28日、毎日新聞など一部メディアに対して「ほぼ終わった」と述べ、関係修復に向けて日本側から行動するよう求めた。訪日旅行自粛など事実上の対抗措置の解除にも含みを持たせた。中国側の軟化姿勢として注目される。

中国側は船長が処分保留で釈放された直後に謝罪と賠償を要求して日本側の困惑と反発を招いていた。同高官の発言は、事件終結の見通しを示すことで、日本側に冷静な対応と歩み寄りを促す思惑がありそうだ。

同高官は中国政府が事件後打ち出した訪日ツアーの販売自粛要請について、中国では10月1日から建国記念日の7連休に入ることを指摘し「多くの人々は(日本などに)旅行したいと思っている」と述べ、近日中の自粛要請の解除に含みを持たせた。

10月4、5の両日、ブリュッセルで開かれるアジア欧州会議(ASEM)を機にした菅直人首相と温家宝首相の会談については「時間が非常に限られている」と見送りの見通しを示したが、関係修復に向けた接触を拒否したわけではないと強調した。

しかし、中国河北省石家荘市で建設会社「フジタ」の社員ら4人が軍事管理区域に侵入した疑いなどで取り調べられている問題は、担当外であることを理由に「よく分からない」と述べ、釈放時期の見通しは示さなかった。

一方、中国外務省の姜瑜副報道局長は、28日の定例会見で「中国側は中日関係を重視している。日本が誠実かつ実務的な行動を取ることで、中日関係を安定的に発展させることができる」と述べ、従来より踏み込んで関係修復への期待を示した。

これらの記事から中国側の意図を考えると、大体こういうところだろう:中国としては、日本の検察が、公訴も公訴以前の処分もすることなしに船長を送り返した、という事実は、今回漁船が捕獲されたエリアでの今後の中国の活動に対して、今後日本が黙認せざるを得ない、という理解をすればよい。今回の件で日本側の謝罪と賠償を引き出せれば、これはダメ押しができる。引き出せなくとも、中国に配慮した日本の行動、というものが、(現時点で中国が日本にかけている圧力の下で)日本側から自発的に出てくれば、これでメンツも保たれて言うことはない……こんなところだろうか。

自分で書いていても厭な気分になってくる、何とも手前勝手な話だが、彼らは二つの理由から、ここで態度を軟化せざるを得なかった。その理由は、ひとつは、これ以上圧力をかけると、日本が例の漁船を撮影した映像を公開し、ひろく世界に中国の暴力性を主張するのではないか、という懸念からである。もう一つは、この脅威から、ASEAN 諸国が連携して、他国の領土・領海を圧力で侵す国として中国を糾弾するのではないかという懸念からである。

態度を軟化した、といっても、別に中国という国家がソフトになったということではない。中国は、ただただ日本がビデオを公開することを恐れているのである。現時点で日本がビデオを公開して、慌てて中国が(捏造するということになるのだろうけれど)反証となるようなビデオを公開したとしても、世界は中国のビデオを信用してはくれないだろう。そういう意味で、中国は映像による論証という点においては、かなり日本より不利な立場にある。

ここを突かれた場合、先の懸念…… ASEAN 諸国 vs. 中国、という図式が定着するおそれが非常に高くなる。折しも来月上旬にブリュッセルで行われるアジア欧州会議 (ASEM) において、中国はネガティブキャンペーンの標的にされる可能性すらあるわけだ。だから、いかにして日本がビデオを公開するのか、というのが、次の一手としては非常に重要なものになることは想像に難くない。

中国の目下の望みは、尖閣諸島周辺での行動の自由を有耶無耶のうちに拡大して、後はヤリ逃げることなのだろう。しかし、ASEM 等で恥をかかされるような状況となれば、中国は更に日本に圧力をかけようとしてくる可能性がある。日本は、逆に ASEM を利用して、欧州各国と EU 外交部に対して、今回の事態がいかに理不尽なものであるのか、を効果的に主張できるかどうか……これによって、今後の展開は相当違ったものになるだろう。果たして日本は、どうするつもりなのだろうか。

なんでも、民主党の細野豪志議員が、菅直人の親書(首脳級の会談をもつよう促す内容と言われている)を持って緊急訪中した、というニュースが流れている。皆さん、細野豪志って名前、聞いたことありませんか?ほら、あれですよ。山本モナと路上でキスしてた、あの議員ですよ。しかもですね、菅直人は今夕のインタビューに対して「そんな話は初めて聞いた」とそらっとぼけているそうですよ。こんな状態ではお話にならない。せいぜいフジタの4人と引換えに、今度は謝罪と賠償を受け入れるか、竹島のように尖閣諸島周囲に日中両国の漁業区域でも設定させられるかが関の山だろう。ちなみに、竹島周囲の漁業区域は日韓両国が操業できる、ということになっているはずなのに、実際には韓国が独占的に操業している状態である。これではヤリ逃げどころか、ヤリたい放題になってしまうではないか。

「Twitter」「アイコン」「日の丸」

最近、何が不愉快か、と問われたら、僕はためらうことなくこう答えるだろう:

「Twitter のアイコンに日本国旗を入れている連中がうざったいったらない」
こういうアイコン作成のシステムがあるのか、と思ったら、やはりちゃんとあるようだ。

http://twibbon.com/

世間では片仮名表記で「ツイボン」と書かれていることの方が多いようなのだが、ここは Twitter のアイコンにアクセントになるような画像を合成するサービスを提供している。そのテーマの中に:

http://twibbon.com/join/Japan

というのがあって、どうもこれで入れているらしい。僕は日本の国旗がどうのこうのと言う気はあまりないのだけど、国旗をちらつかせる奴は大体馬鹿(お馬鹿、ではない。馬鹿、である)だという経験則があって、これが外れることはまずないのだ。どうせ入れるんだったらオースティン・パワーズのミニ:

みたいに国旗を最大にしてみやがれ、ってんだ。右下に着けてる連中は、右翼の連中がピンバッヂなどで日の丸を着けているのを見たことがないんだろうな、きっと。

このところの検察の問題、そして尖閣諸島の問題で、ネットのあちらこちらでこの馬鹿を見かけるのだけど、実は意外と女性が多い。それも、普通の主婦とかしてるらしき人でこの日の丸を着けている人をしばしば見かける。言葉は悪いけれど、これは衆愚化の一端を表しているのであろうか。こういう紋所で他を圧倒しようなどという小狡い連中には、言論を以て何事か主張する能力はないと思うし、実際、先日もそういう奴を見かけたっけな(こちらをご参照のこと)。あーやだやだ。

勝谷クン、オイタもそこそこにね

よみうりテレビ制作の土曜の情報番組『あさパラ!』を観ていたら、出演していた勝谷誠彦が尖閣諸島問題に関してコメントしていたのだが、レアアースの輸出停止に関しての話題が出たときに、

「俺は地学出身だから」
いい加減にしろよゴルァ。あんた早稲田一文だろが。灘高時代に地学研究会に入ってただけで何をほざくかボケが。

で、あんなものは微量入れるだけだし、中国以外にも鉱脈があるから、中国から輸入する必要なんてないんだ、ネオジムなんかはカナダに鉱脈が見つかってるから……などと言っていたのだが、こういうことを無責任に民にばらまくのも、たいがいにしていただきたい。

希土類金属の生産量は、中国が世界生産量の9割を占めている。工業的に成立する値段で日本が希土類を入手するためには、中国を抜きに考えることは非常に難しい。今鉱脈が発見されているところで、安定して必要量を入手できる状態になるのに、どれだけ時間がかかるか考えているのだろうか。鉱山が供給元として成立するまでの投資、そして安定に操業がなされるまでの時間……そうしたものが、勝谷には全く分かっていない。

それに、微量を使うだけ、だぁ?じゃあ、例えば酸化セリウムはどうなるわけよ?光関連デバイス……一番問題になるのは、おそらくテレビ用大型ガラス液晶基板だろう……の精密研磨には、これなしではどうにもならない。しかも、研磨剤だから、その使用量は決して微量などというレベルではない。そういうものの存在は、きっと高校の地学研究会では教えて貰わなかっただろうけど。

いずれにしても、だ。本当に、半可通は死んで欲しい。いや、本当に、さ。

実は冷静だった辻元氏

『朝まで生テレビ』をちらっと観ていたら、辻元清美氏が今回の中国漁船船長逮捕の件に関してコメントしていた。大体こういう論旨だった:

そもそも逮捕をしたことに問題がある。領海侵犯を確認した時点で即刻国外退去させるのが双方にとって一番圧力を感じさせない対処だった。以前尖閣諸島に上陸した者に対しても、自民党は国外退去で対応している。逮捕するからには相応の覚悟が必要であって、今回のように逮捕してから態度が変わるというのは問題である。

これに場内皆首肯していたのが実に面白かった。そうなんだよな。逮捕する上での覚悟が足りなかった、というのはまさに今回のケースにおいて問題だったし、実際それでこんな結果に至ってしまったのだから。

Roger Nichols & The Small Circle of Friends

こういう日は、本当に音楽がないと生きていけそうにない心地になるけれど、今日は久々に "Roger Nichols & The Small Circle of Friends" なぞを聴いている。

Roger Nichols & The Small Circle of Friends

このアルバム、いわゆる渋谷系のミュージシャンが聴いていることで一躍有名になってしまったけれど、もともとは僕にとっては密やかな感じの……丁度 Nick DeCaro and Orchestra の "Happy Heart" みたいな存在だ。どの曲も、今も尚心地良い。

そう言えば、Swing Out Sister の "Where Our Love Glows" を買ったときに、収録曲の "When The Laughter Is Over" のイントロに、このアルバムの "I Can See Only You" がそのままサンプリングされていて仰天したことがある。日本人とイギリス人は、どちらもアメリカの音楽が本当に好きで好きで、だからこういうところで「ウマが合う」のかもしれない。

中国人船長釈放へ:何が問題なのか

こうも呆気無い展開になるとは思わなかったのだが、今日昼過ぎ、那覇地検は記者会見を開き、鈴木次席検事が、尖閣諸島沖で海上保安庁の船舶に体当たりした中国籍漁船の船長を、処分保留で釈放する方針を明らかにした。僕はあまり右傾化したことを言う気はないのだけど、この判断は外交上非常によろしくないと考える。尖閣諸島に関しては、旧中華民国が日本国領土と認めていたことが石垣市役所で発見された感謝状の文面等からも明白なのだから、今回の一件も、それらの証拠の存在を国際的に発信した上で国内問題として処理すべき問題なのだ。今回の処分保留という措置は、どう考えても、国際的に「日本が中国の圧力に屈した」と取られて仕方のないものだと思う。

で、先の那覇地検の記者会見を振り返ってみると、そのコメントの中に注目すべき点があることに気づく。次席検事は、今回の方針決定における判断基準として「今後の日中関係に悪影響を与える」ことを挙げているにも関わらず、この方針は「検察当局が決めたことだ」とコメントしているのである。

そもそも「処分保留」とは何なのだろうか。仙石官房長官は、記者会見において今回の件に関してこのようにコメントしている:

刑事訴訟法248条の意を体してそういう判断に到達したと報告を受けた。それはそれとして了としている」
会見映像:http://www.nikkei.com/video/?bclid=67421386001&bctid=616534505001

……仙谷由人という人は最終学歴が東大中退、である。というのも、在学中に司法試験に合格したからなのだが、まあ要するに仙石氏は弁護士資格を持っているわけだ。そんな人がこんな事言っていいんですかね?

いや、僕は別に逆ギレして仙石氏に噛み付いているわけではない。問題の条文:

第二百四十八条  犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。
に規定されているのは、これは処分保留じゃなくて起訴猶予処分じゃないの?と言いたいわけだ。起訴猶予というのは、被疑事実が明白な場合において、上の条文にあるような理由から検察が「今回は公訴を提起しない」と判断した場合を指す。なぜ「被疑事実が明白な場合」なのかというと、これは先の刑事訴訟法第248条に「犯罪の軽重」「犯罪後」とあって、この条文が犯罪行為が有ったことを前提としているからなのだけど、このような「起訴猶予」にまで到達していない事案が「処分保留」の範疇に入るわけだ。つまり、罪の有無を認定することなく処分を保留することは、刑事訴訟法248条に規定された「処分」ではない。

処分保留ということは、罪の有無を問う以前の段階で処分を保留したことなのに、仙石氏はどういうわけかそれを「刑事訴訟法248条の意を体して」なされた処分だと言っている。これはどういうことなのだろうか。罪の有無はこの場合非常に重要な問題だ。そこをこんな風に、しかも弁護士資格を有する人がいい加減に権威を以てコメントするって、どういうことなんでしょうかね?

しかも、日中問題に関わる事案であるならば、これを検察庁が判断し、その結果を内閣が唯々諾々として受け入れる、なんて、てんで話がおかしい。だって、検察庁に外交問題や政治問題の責任は取れないじゃないの?結局、責任を負いたくない人がいるのだろう、としか、僕には思えないのだ。

そして、それにも増して僕が恐ろしく感じることがある。メディアの報道を見聞きしていただければお分かりかと思うけれど、僕が明記した「248条」の部分を、どういうわけかどこのメディアも皆削って報道しているのだ。これはどうしてなのだろうか?248条というのが仙石氏の言い間違いだ、と好意的に解釈した結果なのだろうか?しかし、248条の条文を読む限りでは、仙石氏はこの条文を知った上で(まあ弁護士だし、刑事訴訟においてこの条文は非常に重要な意味を持つので当然知ってるはずなんだけど)発言しているのだから、この条文番号を削るということが、僕にはどうにも理解ができないのだ。これはあれですか。報道管制なんですか?

イチローで号外を出している場合ではない

僕は、世間のいわゆる嫌韓・嫌中派のようなことを言うつもりはない。南京事件もあったと思う(中国政府や、あの悪名高きアイリス・チャンの "The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II" が主張する死者数はあまりに荒唐無稽だと思うけど)し、慰安婦問題に関しても、なかったなどと言う気は毛頭ない。しかし、中華人民共和国という国に対しては、僕はあまり信用をしていない。何故かと言えば、簡単な話で、中華人民共和国が、21世紀のこのご時世にあってなお、一党独裁国家であるからだ。僕は善良な中国人にも、尊敬に値する中国人にも出会うチャンスがあったので、ひとりひとりの中国人を否定するつもりはない。しかし、国家としての中国は、何度も書くけれど、一党独裁国家なのだ。

尖閣諸島問題で、今現在、日本は中国の激しい圧力に晒されている。主なものを挙げるならば、

  1. 国連総会に赴いた温家宝国務院総理が、一般討論で「国家の核心的利益を固く守る。主権、国家の統一、領土に関しては譲歩、妥協はしない」と発言
  2. 河北省において、軍事管理区域に侵入し違法に軍事施設をビデオ撮影したとして、準大手ゼネコン「フジタ」の日本人社員4名を拘束
  3. 中国からのレアアースの出荷ストップ

……まず一番目だが、これは明らかに尖閣諸島に関する言及とみて間違いないだろう。これを無視して、現在逮捕・拘留されている船長の扱いを粛々と行うのであるなら、まあそれはそれでいいのだが、今さっき、この船長を処分保留で釈放する、という速報が入ったので、これではこの温家宝発言を唯唯諾諾と受け入れた、と解釈されても仕方ないであろう。はっきり言って、この日本側の対応は、お話にならない。

そして「フジタ」の日本人拘束。このフジタという会社は、遺棄化学兵器の処理事業受注へ向けた準備のために、日本人社員がカメラを持って当該地域の調査を行っていたらしい。しかし、中国国内のどの組織がこの日本人を拘束したのか、というのが、どうもはっきりしない。国内のメディアは「国家安全機関」と報じているけれど、そういう名前の機関は僕の知る限り存在しない。もしこれが、中華人民共和国国家安全部、もしくはその下部組織である国家安全局であるとしたら、これは中国の最高行政機関直下の公安・防諜機関だから、とたんに話がキナ臭くなってくる。

そしてレアアースの出荷停止。レアアースって何?と聞かれそうだけど、一応これは僕の専門分野なので書いておくことにしよう。レアアースというのは日本語で「希土類元素」と呼ばれるもので、スカンジウム Sc 、イットリウム Y に加えて、ランタノイドと呼ばれる、ランタン La とそれに類する性質の元素(ランタンからルテニウム Lu まで)の総称である。これらは合金の添加元素として使われるだけでなく、磁性体や光関連材料、電池、コンデンサ、そして水素関連材料などに不可欠なもので、これなしには日本の工業生産品は成立しない、と言っても過言ではないだろう。日本は、このレアアースの9割を、中国からの輸入に依存している。

要するに、中国は「ここで日本を屈服させておこう」と、日本の襟首を掴む腕に力を入れてきたところ、だったのだ。外交上、ここで簡単にあの漁船船長を処分保留で釈放する、というのは、非常によろしくない。しかし日本では、イチローの話がニュースのトップに来ているんだから、つくづく日本人もバカになったものだ、と思わずにはいられないのだ……

しつびょう?

昼のニュースを観ていたら、菅直人総理大臣が国連で演説しているのが映っていたのだけど……「疾病」を「しつびょう」と読んでいたのだ。

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4533480.html

一応官僚用語とかでそういう読み方でもするのか、という可能性も考えてダメ押しで調べたけれど、「疾病」というのは、何をどうやって読んでも「しっぺい」であって、「しつびょう」というのは「典型的な誤読の一例」に過ぎない。

Twitter ではこの話が盛り上がっていて、「麻生が総理だったときには散々言っていたのに」などというコメントがあちこちで見られるけれど、いや、それ以前の問題があるんじゃないの?菅直人は元厚生大臣なんだよ。それがこんな間違いを平気でする、という時点で、その資質が知れたものだと言わざるを得まい。

ちなみに、演説終了後の菅直人のメディアへのコメント。

「日本のこの分野での支援が、国際的にも評価されているのが改めて演説の反応からも分かって、うれしく思った」

菅直人の演説はオバマ米大統領の演説の後だったのだが、オバマ氏の演説終了後、議場はガラガラの状態だった……本当に、もう、こんな総理大臣いらないよ。

タイムスタンプの改ざん

郵便不正事件:検事が押収品改ざん FD更新日を変更』(毎日 jp 2010年9月21日 10時34分(最終更新 9月21日 13時54分))このニュースは、朝日新聞の今朝の朝刊におけるスクープだったようだが、ここではこの毎日新聞の記事を保存用に引用しておく:

厚生労働省元局長、村木厚子被告(54)に無罪判決が言い渡された郵便不正事件で、大阪地検特捜部の前田恒彦主任検事(43)が、証拠品として押収したフロッピーディスク(FD)の更新日時を改ざんしていたことが分かった。このFDは09年5月26日、特捜部が厚労省元係長、上村勉被告(41)=虚偽有印公文書作成・同行使罪で公判中=の自宅から押収した。同地検の事情聴取に前田主任検事が「FDの日付を変えた」と認めているという。最高検は21日、証拠変造などの疑いもあるとして異例の捜査に乗り出した。

FDには、上村被告が作成した偽証明書のデータが保存され、押収時点の最終更新日時は「04年6月1日午前1時20分」だった。ところが弁護側が上村被告に返却されたFDを調べてみると、この更新日時が「6月8日」に書き換えられていた、という。

検察側は、村木元局長が04年6月上旬ごろ、偽証明書の作成を部下だった上村被告に指示したと主張。しかし、大阪地裁は、弁護側の請求で改ざんされる前のFDの更新日時を記した捜査報告書を証拠採用。その記載などから、10日の判決で、偽証明書を「5月31日深夜から6月1日早朝までに作成された」と認定、検察側の構図を否定した。

書き換えられたFDの現物は結果的に証拠採用されなかったが、主任検事が検察側の構図に合うように改ざんした可能性がある。同地検の事情聴取に前田主任検事は「FDの日付を変えた」と認めたという。

刑法は、他人の刑事事件に関する証拠を隠滅、偽造、変造する行為について、2年以下の懲役または20万円以下の罰金を科すと定めている。【久保聡、村松洋】

◇「大変なことだ」 柳田法相

柳田稔法相は21日の閣議後会見で「最高検の捜査の行方をしっかり見守りたい。大変なことだという感じを受けており、真実であれば到底許されない行為だ」と述べた。

◇「きちんと検証を」 村木元局長

村木元局長の話 報道などで「ずさんな捜査」と指摘されてきたが、こんなことまで起こっていたのかと、本当に驚いている。検察はこの問題を能力と職業倫理の問題ととらえ、きちんと検証してほしい。

【ことば】郵便不正・偽証明書事件 実体のない障害者団体「凜(りん)の会」に、郵便料金割引制度の適用を認める偽証明書を作成したとして、村木厚子元局長ら4人が虚偽有印公文書作成・同行使罪に問われた。村木元局長は04年6月上旬、厚労省元係長の上村勉被告に偽証明書の作成を指示したとして、逮捕、起訴された。検察側は、有力国会議員の口利きで厚労省が組織ぐるみで偽証明書を作成した、との構図を描いたが、公判段階で上村被告は偽証明書は単独で作成したと証言。他の厚労省職員らも村木元局長の関与を否定し、今年9月10日、大阪地裁が村木元局長に無罪判決を言い渡した。

さて、僕は最初にこのニュースを見たときに「へ?」と思ったのだった。ここをお読みの方の多くがご存知だと思うが、僕は普段 Linux をメインの OS として使っている。Linux に限らず、いわゆる UNIX 系の OS、というか、コマンドセットにおいて、ファイルの更新日時……要するにタイムスタンプだが……を更新するのは実に簡単で、OS の標準コマンドセットに入っているtouchというコマンドを使えば一発でできてしまう。たとえば、foo.txt というファイルの最終更新日時を 2001年02月03日04時05分に変更するのだったら:

touch -mt 200102030405 ./foo.txt
としてやればいい。だから、僕のように UNIX 系の OS を使用している人間だったら皆こう言うことだろう:「タイムスタンプに証拠能力?そんなバカな!」早い話が、そもそも証拠物件としてのリストに入れること自体不毛だということで、もし僕が検事だったら、戦略としてこんなものは端っからリストに入れたりしないだろう。

今回問題になっているファイルは、官僚が作成した文書ということで、一太郎形式のファイルである可能性が高いのだけど、一太郎形式や Microsoft Word 形式のファイルの場合は、更新履歴にタイムスタンプに関する情報が残っていて、OS 上でタイムスタンプを更新しても日時情報が残存することが多い。しかし、これだって、手っ取り早く、時計情報を望む日時に合わせたコンピュータ上で改めてファイルを作成してしまえば簡単にごまかせる。そういう意味でも、タイムスタンプにそこまでの証拠能力を求めることは不毛だと思う。

……と、ここまで書いていて、何やら僕が不法なことでもしているかのように誤解される方がいるかもしれない、と思ったので、老婆心ながら書き添えておくけれど、タイムスタンプの変更というのは、システムの運用においてはしばしば行われているものなのだ。たとえば、あるデータファイルを外部のコンピュータから持ち込んだとき、その外部のコンピュータの時計が狂っていて、ファイルのタイムスタンプが未来になってしまっていることがある。そのファイルを扱うプログラムが、内部処理にファイルのタイムスタンプを使う仕様になっているとき、在り得ない「未来に更新されたファイル」が異常終了の原因になったりすることがある。こういうときの問題を回避するために、僕達はこの touch コマンドを使用するわけだ。強調しておくけれど、これは極めて普通のことである。

僕は手元の Windows にもGNU utilities for Win32を入れているので、Windows であっても touch コマンドを普通に使用している。そういえば、Windows というか、DOS 由来のコマンドセットでタイムスタンプの更新ってできなかったっけ……あれ?できない、か?と調べてみると……そうか、確かに、何もなしで Windows 上でタイムスタンプを書き換えるのはできなかったかもしれない。

これは勿論何らかのユーティリティを使えば造作もなくできてしまう。たとえばvectorの「トップ → ダウンロード → Windowsユーティリティ → ファイル管理 → タイムスタンプ・属性操作」を見れば、その手のことが可能なフリーウェアが山のように公開されているから、この中で用途に適合したものをダウンロードすれば、誰でもタイムスタンプの書き換えはできるわけだ。

ただし、だ。今回のタイムスタンプ改ざんを行ったとされる大阪地検特捜部の前田恒彦主任検事は、こう供述しているらしい:

「改ざんが見つからなかったので日付を変えるソフトで遊んでいたら、フロッピーディスク内のファイルの日付が書き換わっていたようだ」

いやそれ絶対有り得ないから。それともアンタ徹夜仕事してたら小人でも出てきたんか?ユーティリティ入れてその端末で証拠物件のフロッピーディスクにアクセスしてた時点で、何らかの意図があると見做されても仕方ないだろうに。そもそも証拠物件のリストにこのフロッピーディスクを入れた時点で、検察側も、このフロッピーに一切書き込みが不可能であることを第三者に保証された環境下でだけアクセスしなければならなかったのだ。もし、万が一、前田氏の主張が正しかったとしても、そのように扱わなかった時点で、誰もその主張を信用などするはずがないのだ。

もし、今まで報道されていることがが事実なら、こんなお粗末な話はない。もともと地検特捜部というのは、その発祥が、戦後日本で検察庁が権益を維持するために設立した、旧日本軍の闇物資を摘発して GHQ に渡す業務を行う「隠匿退蔵物資事件捜査部」で、これは当時の GHQ 内部でもその設立時に不要論が出ていた、と言われているのだ。これが社会に認知・許容されているのはただただ「社会正義の最後の砦」という認識、そしてそれを志向する行動があってこそ、であって、このようなお粗末な改ざんを本当にしていたのならば、地検特捜部の存続に関わる一大事なのである。大丈夫かいな、地検特捜部さんよ?最高検察庁が動いたって、身内相手に厳しく取り調べられるはずがない、と皆思うだろう。検察組織は法務省事務次官の直下にぶら下がった組織だから、副大臣クラスが中心になって特別調査委員会でも作らない限り、誰も取調べ結果を信用してくれないと思うけど。

さよなら絶望先生

と言っても漫画やアニメの話ではない。これは半ば僕自身への呼びかけのようなものなのだ。

先日のネット詐欺騒ぎや、バターン死の行進の「一緒に歩いたんだから虐待じゃない」騒ぎに関して某氏と話していたときのこと。

「……ということは、Thomas さんはそういう人々やそんな人々が存在する社会に絶望してるんでしょうかね?」
「絶望……いや、絶望というのとはちょっと違うかもしれませんよ。昔はね、絶望していたんですけど」
「昔は?」

「たとえば、『WWW ページでの個人情報公開について考える』ってのを僕は公開してますよね」
「ああ、あれを公開してから Thomas さんはかなり攻撃を受けた、って言ってましたよね」
「そうそう。『ネットの持つ無限の可能性を貶めるな』とかね。でも、あれを公開して早々に、そんな批判を展開していた某男性が、不倫相手にその事実を暴露される、という騒ぎがあってね」
「ええ、それで皆さん、Thomas さんの主張を practical に理解した、と」
「そういうことです。でもね、あれを公開してから何年かして、出会い系サイトで知り合った女性をクルマに乗せて郊外のダムに連れてって、暴行した挙句に殺して、ダムに放り込んだ……って事件があったんですよ」
「うわ……」
「で、僕は、『あれ程僕が言っていたのにこんなことが起きて』と、かなり絶望的な気分になっていたわけです」
「でも……Thomas さんのページを、誰もが皆読んでいるわけではないですよね」
「勿論そうです。たとえ1万人があのページを読んでいたって、日本人の1万人に1人より更に低い割合の人しか読んでいないわけだし……」
「……それに、読んだとしても、その内容を我がこととして受け止めるとは限らない、と」
「そういうことです」

「そこに Thomas さんは絶望していた、ということですか?」
「そういうことです」
「うーん…… Thomas さんは、世の流れを変えるようなつもりで書いていても、実際のところは変わらない、そういうところに絶望感を感じていたんですか?」
「ええ。でもね、世事ってのは、川の流れのようなものなわけです。簡単に川の流れを変えるなんて、そりゃ出来はしないわけですよ」
「ええ」
「だから、僕のアプローチは、まるで大河の流れに抗うようなものかもしれないわけです。でも、そんな流れであっても、例えばせき止めるための石を投げ入れていって、やがて人がそれに続くなら、少しは変わるかもしれないわけじゃないですか」
「ええ」
「だからね……僕は、絶望するのをやめて、『あきらめる』ことにしたんです。世の中はそう簡単には変わらないし、世の中の人々も、愚かしさをそう簡単に変えてはくれない。だから、drastic にそういうことは変えられない。それは確かにそういうことだろうし、徒に流れに抗って飲まれてしまうのもまた愚かかもしれないけれど、でも石位は投げ込んでおこう、と考えたわけです。これが、僕の言う『あきらめ』ですよ」

「ああ……でも、それはそうかもしれませんよ」
「というと?」
「ええと、『あきらめる』って、もともと仏教用語なんですよね。で、確か語源が『明らかに究める』なんだそうですよ。物事を明らかに究めれば、現状を把握して、受容することになる。だからそこへの良からぬ執着を断ち切れる。もともとはそんな意味だったらしいですよ」
「なるほどね。だとすると、『絶望からあきらめへ』というのは、僕の人生において重要なテーマだ、ということなんでしょうかね」
「うん……そういうことなんでしょうね」

「絶望からあきらめへ」という言葉だけ聞くと、非常に後ろ向きなニュアンスを感じるかもしれないが、僕にとってこれは重要なキーワードなんだなあ、と、改めて実感したのであった。

Snuff Garrett

この何日か、麻薬絡みの話、ネット詐欺の話……どうにも嫌なことに触れてきたので、精神的によろしくない状態になっているような気がする。こういうときは……これこれ。Snuff Garrettだよ。

Snuff Garrett は、アメリカの有名な音楽プロデューサーである。この人はちょっと変わった立ち位置の人で、もともと DJ からプロデューサー業に移行したというキャリアも関係しているのか、自身では曲を書かない。ではどうするか、というと、音楽出版社から買ってくるのだけど、そのセンスと、完成品を構築する上でのセンスが非常によろしい。彼のキャリアの中で今に至るまで最も聴き継がれているのは、おそらくGary Lewis and the Playboysの作品群だと思うのだけど、たとえばこんなのを聴いていただくと、雰囲気がお分かりになりやすいかもしれない:

この "Everybody Loves a Clown" は、冒頭部のコード進行が大滝詠一の『君は天然色』と同じであることから、『君は……』の元ネタだと世間では言われているらしい。何でも何でも元ネタ元ネタだ、と、実に下らん話だと思うけれど、少なくともこの曲に代表されるような、グロッケンシュピールやヴィブラフォン、ウインドチャイムなどの「金モノ」、そしてハープシコードを上手く使った明るい曲調を、大滝氏が意識していたことは間違いないだろう。

そして、世間ではおそらくこちらの方がインパクトが大きいかもしれない:

この曲は同じく Gary Lewis and the Playboys の "Count Me In" という曲だけど、ピアノのオクターブのフレーズやフィルが、大滝氏の作品に色濃く影響を与えている。……いや、皆さん、それ以前に何か思い当たりません?これですよ:

この iPod nano の CM ソング、どう聴いても "Count Me In" のパクリだと思うんだけど。どうなんでしょうね、一体。

MDMA、コカイン、そして覚せい剤

今週、この blog で以前に書いた「『なぜ覚せい剤を使ってはいけないのか』再掲」、そして「なぜエクスタシー (MDMA) を使ってはいけないのか」へのアクセスが激増した。おそらく押尾学被告の事件と、田代まさし容疑者のコカイン所持事件のせいだろうけれど、それにしてもこのアクセスはちょっと多すぎる。

押尾学被告の事案に関しては、特に何も言うべきことはない。残念だけど、あれは同情の余地がない。実刑を避けるために、逮捕・勾留された後もあそこまで争う……というのも、おそらく彼の中に「日本じゃなければこんな大事にならなかった、自分じゃなくて日本の体制が悪いんだ」という思いが強くあるからなんじゃないかと思う。上リンク先で僕が書いた危険性など、おそらく(自分の身体が関わらない限りは)軽く軽く考えていたに違いあるまい。

そして、田代まさし容疑者の一件。これに関しては、「やっちゃいけないものをやった奴が悪い」と、簡単に切り捨てる気には、とてもじゃないけれどなれそうもない。今日はこちらの話を書こうかと思う。

2回目の覚せい剤での逮捕、そして実刑を終えて、社会に出てきた田代まさし氏は、誰の目から見ても明らかに衰えていた。特に目立ったのは、ややろれつが回らなくなった喋りで、おそらくこれは彼をひどく苦しめたに違いない。ニコニコ動画の生放送、そしてコミュニティFMへの出演等、ようやく糊口を凌ぐ術を得つつあっても、そこで喋っている彼はひどく苦しそうに見えた。ろれつが回らない口調でも、テンションを上げて面白いことを言わなければならない。そして、自分の薬物歴に関するツッコミに対してもうまくリアクションを返さなけれなならない。これはおそらく、彼にとってはひどく辛いことだったと思う。

ネットサイトでのインタビューで、彼は出所後メンタルなケアを受けていない、と語っていた。僕はこれが非常に気にかかっていた。覚せい剤を常用していた人は、やめた後も抑うつ状態を抱えて生きていくことになる。時にはフラッシュバックもあるかもしれない。そのような状態を少しでも改善させるためには、うつ病に対して行うのと同じような、精神科での薬物治療を受けることが望ましい。現在主流になっている SNRI や SSRI、あるいは NaSSA と呼ばれる新世代の抗うつ薬は、副作用も軽く、特に NaSSA に関しては睡眠状態を改善する効果が高いことが知られているから、このような薬剤の適切な処方を受けていれば、きっと彼はもう少し生きやすくなれたのではないか、と思うのだ。

僕は別に彼のファンというわけではない。でも、ドゥーワップが好きな者としては、ラッツ&スターをもう観られなくなるのか、と思うと、ただただ哀しい。田代氏には、どうか音楽の方だけを向いて生きていってほしかった。お笑いで飯を食うのはそれはそれで何も問題ない。でも人は、絶望の底にいるときには、たとえ他人から見てそれがドブネズミと星程に離れていても、高い空の星を見上げていなければ、流されて、そして潰れてしまうのだ。クスリを使っている連中と交流を持って、秘密を共有する関係を結び、お笑いでアップになることを求められるときにコカインを使う。絶望の果てにある「もういいや」という声が聞こえそうな、こんな状況に陥らず、どうしようもなく孤独でも夢をつないでいくためには、まずはドブネズミ (rats) の一匹として、音楽という星 (star) を見上げていて欲しかったのだが。

そして、彼のような人々がクスリの連鎖に捕らわれないような社会的プログラムが、もうこの時代には必要なのだということを、今回の事件は示している。先に僕が書いたようなメンタルケアに加え、現在ダルクが行っているような、薬物に依存しないで生きて行けるような他者との関係の構築、そしてやはり経済的支援が、一体として、田代氏のような薬物常用者に対して行われるべきであろう。これなしでは、「もう社会に復帰できない」という絶望の中でクスリに手を出す人は減らないのだ。社会はもはや、こういう経済的負担を負わなければならない時代に至っていることを、僕達は認識しなければならないのだろう。

「つながり」という名の欺瞞

世間で多くの人が利用しているmixiを、僕も利用しているわけだけど、最近はメリットよりもデメリットの方が多くて、正直言って自分の消息周知のためだけに入っている、と言う感じである。分からないことを mixi で質問する、ということもまずないし、質問に答えるときも最近は「傲慢な質問者」が多数派というお寒い現状なので、まともに答えることも少なくなっているからだ。現在全国ツアー中の山下達郎関連のコミュニティにも入っているけれど、僕は基本的に何か好きなものがあっても、そのファンには嫌悪感しか抱けないことが多くて、そこでアクティブにどうのこうのしているわけでもない。

で、だ。その山下達郎のコミュニティで、行けなくなったコンサートのチケットをファン同士で有効活用するために立てられているスレッドがあるのだが、そこで今日詐欺事件が発生したらしい。まあよくある話で、チケット代金を銀行に振り込ませて後は知らんぷり、みたいな状態らしい。僕も前回の山下氏のツアーはこのスレッドでチケットを譲っていただいて行ったのだけど、そのときは相手を知っていた(コミュニティ内での発言履歴等から)ので、このようなことには巻き込まれなかった。

そもそも、山下達郎のライブチケットは取りづらいことで有名なのだ。ホームグラウンドである東京、それも中野サンプラザともなると、電話に張り付いていてもなかなか難しい。そんな中野サンプラザ、それも前から5列目のチケットをペアで、という話は、どうも怪しいんじゃないのこれ?と思わざるをえないのだが、行きたくて行きたくて、でもチケットを入手できなかった人、だと思うのだが、既に振込を済ませてしまった人がいるらしい。

で、たまたま時間があったので、その容疑者とされる人物が何者なのか、プロフィールを観に行った。群馬県在住♂26歳、3月01日生まれ、血液型A、趣味が映画鑑賞、スポーツ観戦,、音楽鑑賞、カラオケ・バンド、料理、グルメ、お酒、ショッピング、職業が営業・企画系……とある。まあ無難な感じだ。

そして、おそらく引っかかった人がこれで信用してしまったのではないか、と思われるのが「マイミクシィ」の数だ。その数、49人。これだけの数の人と「つながり」を持っているならば、大丈夫だろう……そう思ってしまったのではないかと思う。

mixi が CM などで盛んに連呼している「つながろう」というキーワードだが、確かにこれだけを見たら共同体として意義深いもののように思われるのかもしれない。しかし、ネットワーク上でのつながり、と言っても、所詮は手続きとしての相互認証で、往々にしてその認証は極めていい加減なものに過ぎない。それはまさに、「つながり」という名の欺瞞に過ぎないのだ。

今回の容疑者に関して、容疑者のマイミクシィのプロフィールをチェックして、彼らがどのようなコミュニティに登録しているかを調べてみたところ、9割近くのアカウント(具体的には、所属コミュニティの非公開、あるいはアクセス制限をかけているユーザを除いて、46人中42人)が、「マイミクシィー拒否しません!」というコミュニティに登録しているのだ。要するに、この容疑者はマイミクの数を水増しし、多数の人と「つながっている」状態を形成して見かけ上の信頼度を上げるべく、「マイミクシィー拒否しません!」コミュ登録者に集中してマイミク申請を行った可能性が濃厚であり、このようなことで容易く水増しされるような、mixi における「つながり」の相互認証というものは、はなっから幻想に過ぎない、ということである。

mixi 上では、何を勘違いしたのか、僕の書き込みに対して的外れな否定の書き込みをしてきたり、「こんな書き込みはここの趣旨に反する」などという書き込みがなされたりしたけれど、どういうわけか僕が反論すると、再反論も謝罪もないままに、皆さん書き込みを消すんだなこれが。間違ったら消せばいいわけ?そうじゃないでしょう。間違ったら、間違った部分を残して「この部分は間違いでした」って訂正しなきゃダメでしょうが。別にその後に「すみません」とか「ごめんなさい」とか書く必要はないけどさ。まあこんな風に「消してしまえば間違えなかったことになる」とか考えてる連中は、きっと今回の一件から何も学ぶことなどできないんだろう。

そもそも、だ……たしか、山下氏のファンクラブから、この手のチケット交換はご遠慮下さい、というお願いが出てたはずなんだけどなあ。きっと前回も、そして今後も、この手のトラブルは続くに違いない。メディアは進化しても、人が進化しないからだ。進化どころか、馬鹿が大手を振って自己主張してるんだから始末が悪い。つくづく愚かな話である。

恐るべし JWord

Kaspersky Internet Security 2011 を導入してから、Windows Time サービスがうまく機能しなくなっていることに気づいた。Windows Time サービスというのは、SNTP プロトコルを用いて時計合わせを行う機能なのだが、時計が常に正確でないと、セキュリティ上好ましくない状態になってしまうので、この時計合わせはどうにかして行う必要がある。

たかが時計くらい……などと思われる方がいるのかもしれないが、セキュリティ上、この時計情報というのは実に重要である。何らかのアタックを受けたとき、対外的にアタックを受けたことを主張し、他のコンピュータのログなどと付きあわせて事実を証明するときに、時計情報が狂っていたら、相互検証ができなくなってしまう。OS の時計情報は、人間が現在時刻を知るためだけにあるものではないのだ。

Windows Time が使えない原因として、Kaspersky が、NTP/SNTP の通信に用いている UDP 123番ポートを塞いでいる可能性も考えられた…… NTP のセキュリティホールを突くアタックの例が、過去に報告されていることを考えると、まるっきり可能性のない話でもない。しかし、少なくとも、Kaspersky Internet Security 2010 が動いていたときには Windows Time が正常に稼働していたことを考えると、どうもこれが原因ではなさそうな気もする。とりあえず、あまり頭のよくない方法だけど、他の NTP/SNTP を利用したアプリケーションで時間情報の取得ができないかどうか試してみればいいだろう、ということで、Windows Vista 上でも動作する NTP/SNTP クライアントを探した。昔の NT の時代だったら「桜時計」というシンプルなアプリが存在したのだが、現在使えるものでは……と探すと、「i ネッ時計」なるアプリケーション(後述するが、このソフトはある理由から導入をお薦めできないので、これをお読みの方は導入されないよう)を発見した。とりあえずこれを使ってみることにして、アーカイブをダウンロードした。

普段は、このようなフリーソフトをインストールする際には、それなりに注意して作業を行っているのだけど、たまたま他にしていたことがあって、そちらに気をとられながらインストール作業を行っていた。で、本体のインストール時に「JWord プラグインをインストールしますか?」という問にうっかり「はい」と入力してしまったのだった。あー、しまったなあ、と思いつつも、まずは「i ネッ時計」の動作を確認する。

「i ネッ時計」は、ネット上の document には NTP サーバとしても動作すると書かれているのだけど、親サーバからの時刻取得には SNTP プロトコルを用いているようだ。しかも、現時点での日本の public な NTP サーバのリストが入っていて、1回ごとに親サーバを換えながら時刻取得を行うようになっている。福岡大の GPS を用いた NTP サーバが過負荷で問題になっていた頃ならばともかく、「インターネットマルチフィード(MFEED) 時刻情報提供サービス for Public」や「NICT 公開 NTP サービス」がある現在、このような機能はあまり意味がない。そんなことよりも、ネットワーク伝送で発生する誤差を統計的に推定・除去してくれる pure な NTP を実装してくれる方が余程有り難いのだけど……まあ、とりあえず、ntp.jst.mfeed.ad.jp からも ntp.nict.jp からも時刻情報を問題なく取得することができた。つまり、Windows Time の不調の原因は Kaspersky ではない、ということである。

さて、では……さっき入ってしまった JWord を除去しよう……と、アンインストールを試みるが、うまくアンインストールできない。おかしいなあ、と思いつつアンインストール時に実行されるファイルをチェックしてみると、system32 内のバイナリに変な要求を出すようになっている。こんなのあまり見かけないんだけど……何だ、これぁ?とりあえず JWord の配布元である www.jword.jp にアクセスしようとするが……ん?アクセスできないぞ。どういうこと?

Wikipedia における JWord の解説を読んでみて、ここまでタチの悪いシロモノだということを初めて知ったのだった。そもそも僕は、今まで JWord をインストールしたことが一度もない。こういううざったいシロモノは常に排除するのが僕の流儀だからだけど、うっかりで入れてしまったただ一度が、今回のこのときだったのである。これは、参った……

とりあえず、JWord プラグインが一部だけインストールされた状態になっていることは分かった。こうなると、もう一度 JWord プラグインを完全インストールしてからアンインストールを行わなければならないのだけど、そのインストーラーの配布元である JWord のサイトにアクセスしようとしてもできないのだ。チェックを注意深く行った結果明らかになったのは、

  • Google Chrome は jword.jp へのアクセスを禁止する仕様になっている
  • Kaspersky Internet Security 2011 は jword.jp へのアクセスを禁止している
ということだった。しかし、JWord プラグインのインストールなしには、除去の作業は困難を極めそうだ。そこで僕は、おぞましい作業を行うことになったのだった。それは、
  1. JWord プラグインのインストーラ(上書きインストール可能)の URL を確認
  2. Internet Explorer を起動
  3. Kaspersky Internet Security 2011 を落とす
  4. JWord プラグインをダウンロード
  5. Kaspersky Internet Security 2011 を再起動、ウイルスチェックを行う
……というものである。Linux でリブートすればもう少し安全に作業できるのだけど、とにかく僕は一刻も早く、この忌まわしい JWord プラグインを消してしまいたかったのだ。

かくして Jword プラグインはアンインストールできた。妙な DLL が残っている可能性が高いので、後でそれらを除去しておかなければならないが、まあ山は越せたわけだ。しかし……それにしても忌々しいのが「i ネッ時計」である。この手のソフトのインストーラに JWord プラグインのインストーラが忍ばせてあるのは、どうやらアフィリエイト目当てらしいのだけど、そんなものを紛れ込ませているようなソフトなんか、使い続ける気にはとてもじゃないけどなれやしない。

「i ネッ時計」は、かくしてアンインストールしてしまった。勿論、このままでは時計の問題がそのままになってしまうので、コマンドラインから、

net time /setsntp:ntp.nict.jp
と入力して、明示的に Windows Time の SNTP サーバを指定してやる。サービスの一覧をチェックして、Windows Time が起動していることを確認してから、時計のプロパティで手動の時刻更新をしてみると……うん、ちゃんと時刻情報を取得できるようになった。

……と思っていたのだが、よくよくチェックしてみると、Windows Time サービスは、ドメインユーザでない場合には、なんとデフォルトの更新周期が1週間!ということに気づく。おいおい、そりゃあんまりだろう……ということで、@IT の解説ページを参考にしてレジストリを編集。しかしなあ……勘弁してくれよ。これが Mac OS X だったら、普通ーに ntpd が走ってて、/etc/ntp.conf を編集するだけでどうとでもできるのにさ。カトラーには悪いけれど、本当に Windows はクソだぜ

それにしても、JWord がこれほどまでに忌み嫌われているとは思わなかった。ソフトベンダーがアホな販促活動をするとこうなる、ということなのだろうか……いやはや。

「バターン死の行進」が虐待ではない?

mixi でマイミクの某氏が、「バターン死の行進」に対して岡田外相が謝罪した件に関して、「原爆等でこっちもひどい目に遭ってるのに何故謝罪しなきゃならないんだ」という旨のコメントをされていた。まあ、ここまでは感情論(感情論だからつまらない、というのではなく、感情としてこういう念を抱く人がいても無理からぬことかな、という意味)だから構わないのだけど、そこにフォローするかたちでこんなコメントがついていたのが妙に気になった:

日本兵も荷物背負って一緒に歩いてるんだから、これは虐待じゃない。
……実は、昨日から、ネットでこのような感想をあちこちで目にするのだけど、どうにも頭の痛い思いをしている。

前にも blog に書いたことがあるけれど、靖国問題に関するテレビの討論番組で、聴衆として参加していた大学生の女性が、こんなコメントをするのを観たことがある:

靖国神社は他の神社と同じ神社なのに、どうして靖国だけ攻撃されなければならないのか。
面白かったのは、このとき討論に参加していた人々が皆、靖国への賛否の別なしに、

「いや、それは……」

と声を上げたことだった。少しの間を置いて、教師をしているという女性が、ため息をつきながら、靖国神社が戊辰戦争の戦没者を慰霊するために建立された、「戦没者慰霊のための神社」であることを説明したのだけど、件の大学生の女性は、まるでカエルの面に小便、という態だった。最近、どうもこの手の「世界は自分に見えている部分しか存在しない」とでも言うような……「唯我論者」とでも言うような手合いが増殖しているのだ。

バターンの話に戻ろう。「日本兵も一緒に歩いているから虐待じゃない」というけれど、捕虜と日本兵の状況が等しくて、どちらも歩くのに問題がないならばそう言えるかもしれない。しかし、太平洋戦争時の日本軍の捕虜に対する処遇が極めて劣悪なものであったことは有名な話である。勿論、たとえばソ連の日本人捕虜への処遇のような、日本人側が極めて劣悪な環境におかれた例も存在するけれど、だから日本も捕虜をそう取り扱っていいという理由にはならない。

「バターン死の行進」が悪質な捕虜虐待であった、というのは、残念ながら事実である。これにはいくつかの理由があるのだけど、まず当時の捕虜の状態を考えなければならない。当時のフィリピンにおける捕虜の状況は非常に劣悪なものであり、特に傷病兵への治療が満足になされていない、という問題があった。捕虜の中には、マラリア、赤痢、デング熱に感染していた者が少なからず存在した。

戦前の日本は、主に台湾を中心としたキナノキの栽培、そしてキニーネの生産が行われていて、一時はキニーネの生産高において世界第二位を記録していた。勿論これは、いわゆる大東亜共栄圏の形成においてキニーネが重要な薬剤になることを意識していたのが大きいと思われるのだが、そんな日本のバターンにおける捕虜の中に、マラリアに罹患し、その後も十分なマラリアの治療が行われていない者が相当数いたことは事実である。

このような事実を、日本軍が無視していたわけではない。いわゆる「死の行進」が行われたのは、バターン半島のマリベレスからサンフェルナンドまで、合計 88 km の行程だったのだが、当初の捕虜移送計画では、間にバランガを挟んで、マリベレス―バランガの約 30 km を徒歩で移動し、バランガ―サンフェルナンド間の約 50数 km はトラック200台を用いて移送を行うことになっていた。ところが、実際にはトラックの大部分が修理中であり、残りのトラックも物資輸送に割り当てたために、当初予定していたトラックによる移送が徒歩に切り替えられたのである。「死の行進」における死者の多くはマラリアなどに罹患した傷病兵であり、しかもこのバランガ―サンフェルナンド間で亡くなっている。つまり、治療がなされなかった傷病兵が多数存在する状況で、彼らに対して極めて過酷な徒歩行程による移送を強行したことこそが、まずは「虐待」と言わざるを得ないのである。

そして、バターンの問題において知っておかなければならないのが、辻政信という人物の存在である。辻は当時、独断で「米軍投降者を一律に射殺すべし」との命令を、大本営からの指示として口頭で伝達している。ところが、実際には大本営はこのような命令を出していないのである。また、辻は「この戦争は人種間戦争」であり、「アメリカ人兵士は白人であるから処刑、フィリピン人兵士は裏切り者だから同じく処刑しろ」と明言している。この辻の扇動によって、捕虜に対する虐待・私刑が実際に行われているのだ(賢明な何人かの軍人は、この命令に信憑性がないと判断し、逆に捕虜を釈放したりもしているのだが)。

「バターン死の行進」で病死、あるいは虐待などで死亡した捕虜は7000人〜10000人と言われており、そのうち米軍捕虜は約2300人であったと記録されている。僕はこの件に関してはまずフィリピンに謝罪すべきだと考えているが、日本が今まで謝罪しなかったのは、やはり適切ではないと言わざるを得ない。このタイミングで……と思う方は多いかもしれないけれど、いつかはちゃんとしなければならないことのひとつだったのは、間違いのないところである。

しかし……だ。こういうことはちょっと調べればすぐにわかりそうなものなのだけど、どうして軽々に「日本軍の軍人も一緒に歩いたんだから虐待じゃない」なんて言えるんだろう。頭が膿んでるんじゃないの?

Fahrenheit 451

"Fahrenheit 451"『華氏451度』というのがレイ・ブラッドベリの小説の題名だというのはよく知られていると思うけれど、この題名の意味するところは皆さんご存知だろうか。読んだことのある方はご存知のことと思うけれど、「華氏451度」は大気中で紙が発火する温度で、その温度を題名に冠したこの小説は、反芻できるメディアである「本」の所持が禁じられ、発見し次第焼却されてしまう、人々が省みることを失った管理社会を舞台にした作品である。

僕達日本人は、義務教育において、焚書の歴史には必ずふれているはずだ……秦の始皇帝が紀元前213年に行った焚書のことを、歴史の授業で教わっているはずなのだ。近代においては、ナチスドイツが1933年に「非ドイツ的」(共産主義的であるとか、あるいはユダヤ人の書いたものであるとか)とみなした書物に対して焚書を行っている。ハイネやケストナー(『エーミールと探偵たち』などで知られるユダヤ系ドイツ人の作家・詩人)の作品までその対象になった、というけれど、社会の批判をかわすためか、ケストナーの児童書(おそらく『エーミールと……』も含まれていたのだろう)は対象外とされたのだという。まあ、何を対象から除外しようが、焚書というのは、時の流れに抗って人が残してきた(そしてそれが「歴史」を形成する)本というものを問答無用に消し去ろうという行為で、これ以上ない蛮行であることは言うまでもない。

その焚書が、この21世紀に行われるという、にわかには信じがたいニュースが入ってきた。それも場所はアメリカ、そしてその対象はクルアーン(世間では「コーラン」と記することが多いようだけど、欧米でもアラブ系言語での発音に倣って Qur'an と記するので、ここでも「クルアーン」と記する)だというのだ。これは聞き捨てならない話である。

クルアーンの受難は今回が初めてではない。9.11 の後、キューバの米軍施設において、テロ容疑で収監されている人々を苦しめるために、彼らの目前でクルアーンを破り捨ててトイレに流した……という話がメディアを賑わわせたことがあったのを、ご記憶の方もおられるかもしれない。これはその後の調査で誤報であることが判明したのだが、実際にクルアーンが蹂躙されたことはちゃんとあって、それはこの日本でも例外ではない。数年前のことだが、富山県の中古車販売店で、戸外に破られたクルアーンが散乱しているのが発見されたのだ。この中古車販売店の近所にはムスリムが礼拝に使用していた小屋があり、そこから盗み出されたクルアーンが破られたらしいのだが、このときは東京でムスリムがデモを行い、代表者たちが外務省を訪れて事件の再発防止と捜査の徹底を申し入れる、という騒ぎになった。

この事件に関して net で検索をかけてみると、「たかが本を破られた位で」というような論調が多数散見された。しかしこれは、ムスリムに対してあまりにも無知に過ぎる発言としか言いようがない。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三者に共通しているのは何か。まあこれは複数あるのだけど、そのひとつに「偶像崇拝を禁じている」というのがある。キリスト教なんかだと、十字架や「御絵」(イコン)と呼ばれる聖人の絵、あるいは像などが飾られる(プロテスタントは十字架以外のものを嫌うけれど、それでも十字架や聖書のある場面を絵にしたものは用いられる)わけだけれど、イスラム教においてはこの「偶像を禁ずる」ということは、キリスト教の場合とは比較にならない程に徹底されている。

だから、信仰や崇敬というものの向かう先は、教典であるクルアーンに、ひたむきに向いているわけである。ムスリムにとって、クルアーンというものは、ムハンマドが神から与えられた啓示であって、それを記した書籍としてのクルアーンも、神からの啓示が記されている以上、単なるモノではなくて、神の一部とでも言うべき存在なのである。僕達から見て、書籍としてのクルアーンが本にしか見えないとしても、それはそれで何の問題でもない。しかし、ムスリムにとってのクルアーンというものがそれ程に大事なものであるということは、少なくとも尊重しなければならない。彼らにとって、クルアーンを破られることが我が身を裂かれるのに勝る苦痛を与えられることならば、僕達は徒らにそのような蛮行を為してはならないのである。

しかし、そんなクルアーンへの侮辱という蛮行を、よりにもよってキリスト教の牧師が行なおうとしている、というニュースが、この何日か世間を賑わわせている。このことについて、僕は blog でふれようかどうか正直迷っていた。しかし、一時見合わせると発言していたこの牧師が、やはり決行するなどと発言しているらしいので、さすがに書かずにはいられなくなった。

この焚書騒動が起きているのは、アメリカはフロリダのゲインズビルというところにある、Dove World Outreach Center という教会である。この Dove World Outreach Center(以下 DWOC と記す) は、所属信者が50人程の小さな教会で、特に宗派を限定してはいないらしいのだが、カリスマ運動を支持する立場をとっているという。そして今回、クルアーンを燃やすと発言して物議を醸しているのが、この教会のテリー・ジョーンズ牧師である。

もともと DWOC は Donald O. Northrup 牧師と その助祭 Richard H. Wright 氏によって、1985年に創設された。Northrup 牧師は Maranatha Campus Ministries(MCM、カリスマ運動とペンテコステ派の影響を受けた組織で、大学のキャンパスで運動を展開していたが、強引な勧誘と権威主義的構造からカルトとして問題視され、1990年に解散している)の資金援助を得て DWOC を設立、運営していた。そしてこの MCM のドイツにおける拠点であったChristliche Gemeinde Köln (GCK) を1981年に創立、2008年まで運営していたのがジョーンズ牧師である。ドイツでの報道などを読むと、ジョーンズ牧師はこの GCK の運営においても、MCM で問題視されたカルト的なやり口(教会の所属信者に心理的プレッシャーをかけて従属させるような)を用いていたと伝えられている。また、California Graduate School of Theology(認可を得ていない大学で、実質的にはいわゆるディプロマ・ミルだと思われる)から学位を得ており、2002年にはケルンの裁判所から経歴詐称(Doctor の肩書を不当に用いたかど)で3800ドルの罰金刑を言い渡されている。どうにも後ろ暗い経歴の持ち主のようであるが、ジョーンズ牧師は2008年にアメリカに戻ってからは、夫人と共に DWOC の運営に従事している。

また、ジョーンズ牧師は、キリスト教以外の全ての宗教……イスラム教、ヒンズー教、仏教等……が悪魔の産物である、という信念を持ち、そのように発言しているらしい。先月には "Islam Is of the Devil" という本を出版している。なんでもジョーンズ牧師は自ら一度もクルアーンを読んだことがないのにも関わらず、クルアーンに書かれていることは嘘っぱちだ、と発言しているのだという。

そんなジョーンズ牧師が、今年7月に DWOC 名義で "International Burn a Koran Day" なるものを提唱した。これは簡単に言うと、9.11 の犠牲者を追悼し、イスラムの悪に対抗するために、9月11日の午後6時から午後9時に、皆でクルアーンを燃やそう、というのである。全く以て、ムスリムに対してこんな理不尽な話もないと思うのだけど、当然、あらゆる方面からこの発言を非難されている。ジョーンズ牧師側はそれらに屈しない態度を固めていたのが、教会のあるゲインズビルの消防当局から「火災の危険があるので焚書は認められない」と勧告されたために、教会で焚書のイベントを行うつもりだったのを中止した、というのだ。もはや笑う気にもなれない。

しかし、この "International Burn a Koran Day" は、残念なことに、アメリカ国内のある程度の人々(おそらくは保守的キリスト教徒だと思われるけれど)の支持を得ている。ここにはfacebook の "International Burn a Koran Day" のアカウントにリンクしておいたのだが、このアカウントは消去された。その後、同調者が実際にクルアーンを焼いている映像を発見したので、それにリンクしておく:

残念ながらその気になっている連中が存在しているのは事実らしい。

この焚書騒動は、WTC 跡地にモスクを建てることへの反対だ、と言われているけれど、そもそもジョーンズ牧師の今回の騒動は、そんな次元ですらないもののようだ。ただし、クルアーンを燃やすということは、あまりに理不尽な行為であって、ましてや聖職者がそんなことをするのは断じて許されるべきことではない。イスラム教とキリスト教は、旧約・新約双方の聖書を共有しているのだ。だから、キリスト者がこのような蛮行を為すということは、何が何でも回避されなければならない。

ジョーンズ牧師が予告している9月11日の午後6時は、日本では明日日曜日の朝である。目覚めのニュースで焚書決行などという見出しを観ずに済むよう、まずは神に祈るしか術はない。本当に、どうしてこんな輩が出てくるのか。本当に、勘弁してほしいものなのだが。

computer literacy

先の「出歯亀」で書いていた TeX/LaTeX の話だけど、図が貼り込めない、という話で、結局その原因は TeX document と図の画像ファイルを同じ場所に置いていなかったことが原因だったらしい。いや、同じ場所に置いていなくてもちゃんと path を明示的に書けばいいだけの話なのだ……ただ graphicx とかで図を貼るときの画像ファイルの path は、Windows 上で動作する TeX でも \ でなく / を使わなければならないので、そこでちょっとまごつくかもしれないけれど。

まあ、何にしても、最近この手の愚にもつかない話が多すぎる。どうしてこうも多すぎるのか、と考えてしまう。中学・高校の教育でコンピュータを教え始めた――いわゆる科目としての「情報」――のが2003年のことだそうで、いい加減 path の概念位コモンセンスになってほしいものだけど、どうしてそうならないのか。

大体、僕だってそんなものを学校で教わった記憶がない。コンピュータは10歳から触っていたけれど、現在の OS みたいなものを触るようになったのは、高校に入ったばかりの頃に CP/M なんかに触ったのが最初だろう。その後 PC-9801 なんかを経て……ああそうか、僕は UNIX に触りだしたのが 1990年代初頭だから、それが他の人よりは少し早いのかもしれない。自分で DOS/V 機でどうのこうの、なんてする前に UNIX に触ってるからなあ。でも、僕は情報科学/情報工学を専攻していたわけではないからね。今でも「高級言語で一番慣れ親しんでいるのは?」って聞かれたら Fortran と答えるだろうし。

まあ、TeX でも DAW でもプログラミングでも、あるいは web でも何でもいいんだけど、何か道具としてコンピュータを使う上での共通知識みたいなもの……集合論と記号論理学、正規表現、階層型ファイル構造、アルゴリズム、英語、等々……があって、それを知っているか知らないかで、道具を道具として使えるかどうかが決まってしまう。google で検索をするときに和集合とか差集合とか考えられるかどうかで、求めるソースに辿りつけるか、あるいは複数のソースを多面的に比較検討して情報の価値の高いものを入手できるかどうかが決まってしまうのは、その一例である。

何度も強調するけれど、僕はそういうものを人に教えてもらったわけではない。必要に応じて自分で習得したのだ。だから、必要に迫られているのに、人が教えてくれないから、と平気で口にできる人々を目にすると、どうにも複雑な気分に襲われてしまう。

最近メディアで評判をとっている中部大の武田邦彦教授が公開している随想に『暴力としての知』というのがある。まあここで武田氏が書いていることは、何度も書いているけれど、もう二千年の昔に孔子によって実にシンプルに言い下されている:「学而不思則罔、思而不学則殆」だからどうでもいいのだけれど、現在はむしろ「暴力としての無知」の方が余程深刻なのだ。その増殖は、知の滞留を生み、そして知の滞留は文明の滞留へと至る。いや、実際、そうなっているではないか。Google を効率的に使っていると「検索の達人」などと褒めちぎって、結局は自分はいつまでたっても「検索の素人」のままだったり、やや検索に慣れてくると、今度は検索で得た tip の裏も取らずに羅列してみたり。こういう風な世情に至らないために computer literacy なんてものが提唱されたんじゃなかったのか?

今や世間は馬鹿のオンパレードである。そしてこの馬鹿の正体は、もう百年近くも前の夏目漱石の小説の一節で端的に表現できる:「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」そしてこの言葉を向けられても、彼らはKのように「僕は馬鹿だ」などとは決して思ってもくれないのである。

出歯亀

今日は長めに昼休みをとっている。と言っても、長めの食事を楽しんでいるわけではない。TEX/LATEXで図面を貼り込めないという質問に回答を書こうとして、よせばいいのに Windows で角藤版pTEX/pLATEX + Ghostscript + GSView の環境を整えて検証までしてしまったからだ。検証終了後の昼食は、今日はカップラーメンである。

さて、食事のときは某所のテレビの横で食べているのだけど、今日たまたまつけていたワイドショーで、大衆浴場における「こども」は上限何歳までか、というクイズをやっていて、答の解説で、東京では明治23年に、7歳以上の混浴を禁ずるおふれが出た、ということを言っていた。

さすがに僕でも、江戸時代の大衆浴場が混浴だったことは知っている。あれ……そう言えば、出歯亀って何年だったんだろう?とふと考えたのだった。女性の裸を覗くことを「出歯亀」ということを知らない人ももう結構存在するかもしれないのだが、たとえば森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』を読んでいると、こんな記述がある:

 そのうちに出歯亀(でばかめ)事件というのが現われた。出歯亀という職人が不断女湯を覗く癖があって、あるとき湯から帰る女の跡を附けて行って、暴行を加えたのである。どこの国にも沢山ある、極て普通な出来事である。西洋の新聞ならば、紙面の隅の方の二三行の記事になる位の事である。それが一時世間の大問題に膨脹(ぼうちょう)する。所謂(いわゆる)自然主義と聯絡(れんらく)を附けられる。出歯亀主義という自然主義の別名が出来る。出歯るという動詞が出来て流行する。金井君は、世間の人が皆色情狂になったのでない限は、自分だけが人間の仲間はずれをしているかと疑わざることを得ないことになった。
鴎外が書く位だから、当時、この事件や「出歯亀」という単語は常識的なものだったのだろう。事実、僕の世代位まで、出歯亀と言えば覗きのことだと意味が通ずる(最近はどうか分からないけれど)。

今の新宿区大久保でのことである。明治41年3月22日、電話交換局長の某が最寄りの駐在所に「妻が銭湯から帰ってこない」と届け出た。警察官や近所の人々が捜したところ、銭湯の近所にある空き地で、濡れ手ぬぐいを口に突っ込まれた妻の遺体が発見された。遺体には強姦された形跡があり、警察は強姦致死事件として犯人を捜した。不審人物を20名以上調べた結果、植木職人の池田亀太郎が、女湯を覗いたかどで何度か検挙されていたことが判明し、警察は池田を3月31日に別件逮捕し、容疑を追及、4月4日に強姦致死容疑で逮捕した。これが世に言う「出歯亀事件」である。

しかし、この事件が有名になったのは、実はこれ以外に理由がある。実はこの池田、取調べにおいて一度は自供したものの、開廷後は一貫して無実を主張していたのである。現在残っている資料を参照しても、池田が覗きの常習犯であったことは事実だと言えそうなのだが、本当に彼がこの犯行をなしたのかどうかは、正直言って断言しきれない部分もある。裁判所は池田の犯行を認定し、池田はその後服役したそうだが、実は「出歯亀事件」は、日本の司法における極めて初期の「冤罪(かもしれない)事案」であったということである。

さて、先に書いたように、銭湯で混浴が禁止されたのは明治23年である。出歯亀事件が明治41年、つまり混浴禁止から18年でこのような事件が発生したということになる。風俗の移り変わりというものが、いい意味でも悪い意味でも確実に世を変えていく、ということを、僕は強く感じる。いや、僕は別に混浴を推奨しているわけではないのだ。当局が混浴を禁止したのは、浴場の物陰でけしからぬ振る舞いに及ぶような事態があったからだ、と言われている。ひょっとしたら、湯浴みにきた女性が風呂の中でひどい目に遭っている例だってあったのかもしれない。「いい意味でも悪い意味でも」というのはそういうことだ。

Kaspersky Internet Security 2011

このご時世にまさか、アンチウイルスソフトをインストールせずに PC を使用している人なんていないと思うけれど、皆さんはどんなソフトを使用されているだろうか。

僕が普段使っているのは Linux だけど、Linux と言えどもウイルスの問題がないわけではない(Windows に比べれば圧倒的に少ないと思うけれど)。Linux 上で僕が使っているのは、フリーのアンチウイルスソフトであるClamAVである。これは結構実績のあるオープンソースのソフトで、web のアンチウイルスプロキシであるHAVPなどと組み合わせて使用することで、快適かつ安全な環境を比較的容易に得ることができる。

U が仕事用の Mac のシステムを OS X ベースに更新したとき、僕は Mac 用のアンチウイルスソフトとして、この ClamAV の Mac 用ポートであるClamXavをインストールした。これは存在を意識することなく動作してくれて、至極快適で、実際 Mac ユーザでもこれを使われている人が多いようである。実際、U もこのソフトに関しては何も文句はなかったようなのだが、そのタイミングで同じく U が購入した、会計処理用の Windows ノート(ソフトの関係で Mac に一本化できなかったのである)の方で、もう文句たらたら、の状態であった。

「なんでこんなに重くなるわけよ」
「あー……まあ言いたくなるのは分かるけど、一応これが一番安全なので」

と説明しても U がなかなか納得しなかったのは……そのノートに僕が導入したのが Kaspersky Internet Security だったからだ。

ユージン・カスペルスキーが1990年代に作った AVP という法人は、日本に紹介される前から知ってはいた。なんでも非常に検出率の高いウイルスチェックができるソフトを作っているらしいけれど、作ってるのが元 KGB の関係者、なんて話が、なんともアブない雰囲気で聞こえてきたりしたものだけど、その AVP 改め Kaspersky Lab. が、あのジャストシステムと組んだとき(実際にはそれ以前から日本語版は存在していたのだが)、どこの家電量販店に行っても Kaspersky 氏のあの髭面が並んでいる光景に、正直言って衝撃を受けたものだ。自分の持っている Windows 端末の OS を Windows Vista 64bit に更新したとき、トレンドマイクロのライセンスが残り少なかったこともあって、僕は迷わず Kaspersky Internet Security を導入することに決めたのだった。

Kaspersky は確かに安全だった。だから U のノートにも導入したのだけど、U が文句をいう「重さ」これは確かに問題だった。結局 U は1年後にウイルスバスターに更新してしまい、今は U の Mac にもウイルスバスターが入っている。で、僕の方はどうなのかというと、僕は未だに Kaspersky を使い続けているのだった。

僕が Kaspersky を使い続けている理由はいくつかあるのだけど、まず、やはり安全性を第一に考えて、ということである。これはウイルスだけでなく、マルウェア一般の検出において言えることで、これに対する Kaspersky の評価は非常に高い。ウイルスだけならば、先の ClamAV の Windows ポートであるClamWinも相当優秀なのだけど、personal firewall なども含めた統合ソフトということになると、やはり Kaspersky の評価は高いのである。僕は Windows 上でもフリーソフトをかなり使っているので、こういう面での安全性は可能な限り高いレベルを維持したいのだ。

で、実際使っていて重いのか、という話だけど、そもそも現在のセキュリティソフトはどれをとっても軒並み重いのだ。そういうセキュリティソフトの中で、とりわけ Kaspersky が重いのか、というと、実はそんなこともない。特に 2010 が出て、Kaspersky の動作は実はやや軽くなっている。ただし、僕のように 64 bit OS を使用している場合は、Kaspersky は 32 bit binary なので、ちょっとイラッとくることはある。しかも 32 bit なのにメモリ使用量が多い。おそらく U の場合は、メモリ 2G の Windows XP(32 bit)で動作しているノートなので、この辺のネガティブな問題がより効いてしまったのかもしれない。

余談だが、最近日本でさかんに売り込みをかけているのが ESET である。製品名としては ESET NOD32 Antiwirus というのと ESET Smart Security というのをよくネット上で見かけるけれど、この ESET の宣伝でよく目にするのが、「カスペルスキーが重いとお困りの人が軽さに感激するウイスルソフト」というのと「勝間和代さんも ESET を使っています」というもの。ESET は統合ソフトとしての強さは Kaspersky に未だ及ばないと言われているけれど、僕は二つめの宣伝文句を聞いて、勝間和代が生きている限り絶対に ESET は使いたくない、とすら思ってしまった。カツマーなんて聞いただけでも反吐が出るっての。余談の上のそのまた余談だけど、今季から Kaspersky は広告宣伝に AKB48 を動員するそうなので、ESET 関係の方々も宣伝文句にはもう少し気を使われたほうがよろしかろう。

あと Kaspersky を使用した人で「重い」「重い」と言う人は、おそらくウイルスパターンファイルの受信においてそう感じているのではないか、と思う。これは大体数時間に一度位の頻度なのだけど、なにせパターンファイルの更新が速いというのが Kaspersky の売りなので、これは如何ともしがたいところである。U は会計処理用のノートを立ち上げる頻度が極端に少ないので、たまに立ち上げたときにネットワークに接続して、Windows と Kaspersky のファイル更新でとんでもないことになってキれてしまうのだが……うーん。firewall を立ち上げて、そこにパターンファイルをストアするようにでもしないと、U の不満は根本的には解決しないかもしれない。

で、なんでまた今日は Kaspersky の話なのか、というと……今日、ジャストシステムから、Kaspersky Internet Security 2011 の正式リリースが通知されたので、昼過ぎから僕の端末のシステムを更新していたのだ。再起動を1回、それと初回のパターンファイル(20 M になんなんとする大きさ)の更新を経て、今端末の完全スキャン中である。

しかしなあ……2011 になっても、Kaspersky は 64 bit native にはなっていない(これは他のセキュリティソフトでも同じだろうと思うけれど)。もう僕の端末では、Kaspersky 以外の常駐型 32 bit binary は、Apple 関連、Google Chrome、Google 日本語入力と .NET Runtime Optimization Service 位しか存在しない。Windows 7 の普及で 64 bit 化がこれだけ進んでいるんだから、Kaspersky や Google もなんとかならないものだろうか……

採血

今日は某病院でちょっと検査。半年ぶりに採血する。

この稼業を長くやっていると、半年に一度採血を行うのが当たり前になってしまう。今はまだましだけど、京大の原子炉実験所で実験をやっていたときなどは、あれやこれやで真空採血管を5、6本程採血されていた。こんなに抜かれたら貧血になるんじゃなかろうか、などと冗談を言いながら採血されていたものだ。

で、今日採血を行っていた某看護師、どうも注射器での採血が苦手らしい。いつもシリンジに細いチューブを経由して翼状針を付けて、これで採血するのだ。シリンジの組み立てをしてから、ゴム管を巻いて静脈を浮かせるのだけど、

「……」
「ん、浮きませんか?」
「え?いえいえ、そういうわけじゃないんです」
「では何か?」
「(二つある静脈の)どちらが痛くないかなー、って」
「……ハズレは痛いんですか」
「え?あぁ、いえいえそうじゃないんですよぉ。でもね、皮膚が厚いところだと引き攣れて痛いかなー、って。ですからねそのぉ」
「……品定めされてると余計痛そうなんで、早いところお願いします」

丁寧なのも考えものである。

作曲法ねえ

音楽の話になって、自分で曲を書いて演奏して……というのが趣味(これも世間で言う趣味と同じなのかどうか何とも分からないのだけど)だ、と話すと、多くの人が、

「えー、すごいですねえ。曲って、どうやって書くんですか?」

と聞いてくる。実は、この質問ほど答えにくい質問はなくて、この質問に答えるのが面倒だから、音楽の趣味の話をしないことさえあるのだけど……こういう質問にどう答えたらいいのか、今でも本当に悩まされる。

たとえば、何か一曲書こうと思ったとして、そういうときにどうするか……うーん。僕の場合は、手にギターを持つことが多い。鍵盤も使う(というか、ある段階以上になったら鍵盤がないときついかもしれない)のだけど、場合によっては、何も持たずに曲を書くこともある。

じゃあなんでギターを持つんだ?と聞かれそうだけど、もちろんコード進行とかオブリガードとかを確かめるのに使うんだけど、リズムパターンを考えるときにもギターがあると便利だからだ。最初にあるコード進行があって、じゃあこのヴォイシングからこのヴォイシングとして、リズムパターンは……と、その場でカッティングなんかして、ああこのパターンかな、などと考えをまとめていくわけだ。だから、ギターにせよ鍵盤にせよ、あれば便利なんだけど、なければ曲が書けないというものでもない。むしろ、集中しているときに楽器に触ると、その楽器の奏法が発想の縛りになってしまうので、そういうときは手には何も持っていない。

職業作曲家、それもオーケストラ向けの曲を数多く書く人なんかはどうしてるんだろう、と思って、"Musicman's RELAY"なんてのをネット上で見つけて読んでいたら、かの服部克久氏が同じようなことを言われていた。以下、該当箇所を引用する:

●まぁ、普通の音楽教育を学校に任せて、身近な音楽教育はなかったということですかね…。 そういえば服部先生は作曲を全部頭の中でピアノを弾かずになさるとか…これは先天性なものなんですか。

そうですよ。僕はそうしてますし…。親父はピアノ下手だったんで、あんまり弾かなかったかな。ピアノは横にありましたね。譜面向かって曲を書いてこっちに脇にピアノをおいて…ボロ〜ン♪とかってやって…確認のために弾いてたみたいですね。

●だいたいみんな頭の中に鳴ってるっていう…。

よく映画でね、バーッて弾きながらこう書くっていう…あれは嘘ですよ。あんなのしてたら先に進まないですよ。

●(笑)

ダーッて書いて「ここ大丈夫かな?」っていう時に、ちょっと確かめる。だいたいはそうやってやるんじゃないんですか。他の人が作曲してるところを見たことがないんでわかんないんだけど。

●オーケストラの譜面ですよね…何パートも全部頭の中にあるなんてすごいと思いますけどね。

うん。ただ譜面書くだけなら3年ぐらい勉強すればだれでもできるような話なんですよ。

コンセルヴァトワール出身の服部氏と、ほとんど独学で音楽をやっている僕とを比較するのには無理があるけれど、僕の場合でも、楽器や譜面にダイレクトに接していないと作曲できない、ということは、実はなかったりする。あくまで音の世界は頭の中で構築されて、それを確認するために楽器、記述するために譜面を使うけれど、楽器や譜面が世界を構築してくれるわけではないからだ。

そういえば、前に、何のテレビ番組だったかは忘れたけれど、職業作曲家に「作曲するときに何を使いますか?」というアンケートを取っていて、一位の「ピアノ」に次ぐ堂々の二位が「口三味線」だった、というのを観たことがある。一応曲を書く立場としては、これは実によく分かる話であった。

僕の場合、曲を書く上での最初のきっかけは、リズムパターンやコード進行の一節 (snippet) である。印象的な snippet が浮かんだら、譜面にメモっておくか、DAW でその一節のイメージを打ち込んでおく。余談だけど、IT 業界でも、ソースリストの「一節」(汎用性の高いルーチンとか)を code snippet とか、単に snippet とか称することがあるようだけど、意味はそれと全く一緒である。この snippet が、曲の中で印象的なフレーズとして機能するときは、これを hook と言う。まあとにかく、これが手をつける最初のポイントになるわけだ。

……と、ここまで書いてきて、「その snippet はどうやって作るんだ?」とかいう疑問を向けられるような気がしてきた。うーん。これは、こう、浮かぶんですよ。何か曲を聞いているときとか、音楽とは全く関係ないことをしていたりとか、人によってはクルマに乗ってるときとか。昔、まだ IC レコーダとかがなかった頃に、ミュージシャンは出先にいるときやクルマの運転中に snippet が浮かんだとき、家に電話する、という話があったけれど、これは家の留守電に吹き込んでおくというわけだ。曲をかかない方々も、でたらめな鼻歌とか唸っていると、きっとこういうフレーズが浮かんでくることがあると思う。

で、その snippet の前後を構成するものを考えつつ、曲全体の構想を組んでいく。これは、印象的な一言を出発点にして、短編の小説を書くようなもので、文章を書くのに漢字や文法が必要なように(というかその程度には)、和声学とか対位法とかリズムパターンの構築とか、まあそういうものは必要になっていく。これは、僕の場合は浴びるように大量の音楽を聴いていたという背景があって、その記憶に楽典で説明をつけていく、というようなかたちで学習したものを、自分のイメージに適用して書き進めていく……という感じだろうか。まあこれは、小説を読むのが好きだった人が、やがて自分も書くようになる、みたいなもので、自分としては極めて自然な行為なのだけど、段階的にこれを他者に伝えるというのは、どうにも難しいかもしれない。

こういう作業の結果、メロディとコード進行と簡単なリズムパターンの組み合わせができてくる。おそらく、世間で言う「作曲」はここまで、ということになるのだろう。その後は、全体の構成の中で聴く人をはっとさせるようなコード進行とかリズムパターンとかを改めて考える。場合によっては、最初考えていたのと全く違うリズムパターンになる可能性もあるし、必要に応じて、それらのパターンに合わせてメロディの方をいじることもある。この作業と並行して、DAW でリズムパターンを組んでいく。最初はドラムとベース、鍵盤辺りを組みながら、印象的な楽器(ホーンセクションとかストリングスとか)の旋律を決め、更にそれに合わせて他の部分をいじることもある。

……まあ、こうやって曲を作っていくわけなのだけど、結局、作曲・編曲・演奏は、作業としては不可分なものになっている。自分ひとりでやっていて、メロ譜や書き譜を書く必要もあまりないし(ベースのようにアレンジに大きな影響を与えるものの場合は、自分の演奏用に譜面を書くこともあるけど)、おそらく他人が見たら、何だか分からないうちに曲が出来上がっていくのかもしれない。そういう意味では、このような作曲は彫塑によく似ている。

石や木を掘り込んでいくのを横から見ていて、どうしてそこから動物や青年や裸婦や、あるいはガウディの建築物のようなものが出現するのか、これは「謎」のようにも思える。漱石の『夢十夜』の第六夜に、「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいる」話というのがある。天衣無縫の体で木に埋もれた仁王を掘り出すがごとく彫る運慶を見て、自分も庭の裏に積んでいた薪を彫ってみるけれど、結局何も出てきませんでした、という話である。この話は、

自分は一番大きいのを選んで、勢いよく彫り始めて見たが、不幸にして、仁王は見当らなかった。その次のにも運悪く掘り当てる事ができなかった。三番目のにも仁王はいなかった。自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵(かく)しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋(うま)っていないものだと悟った。それで運慶が今日(きょう)まで生きている理由もほぼ解った。
と終わるのだけど、勿論木の中に仁王が隠されているわけではない。木塊という閉空間の中に他者が掘り出し得ない仁王を見、それを彫りだすのは、ひとえに運慶自身が木に何を投影し、どう鑿を振るうかにかかっている。運慶が今日まで生きている(その他者に代え難い存在が重く認知されている)のは、あの仁王が運慶でなければ彫れないからだ。僕のように「ささやかな」アートに取り組む人間であっても尚、一応は他人が作らない・作れないものを「かたち」にしているところは同じであって、その過程が他者にはどうにもよく分からない、というくだりも、よく似たものを感じるわけである。

さて……で、毎度おなじみニコニコ動画などでも、オリジナル曲を公開する人が増えている。増えている……のだけど、なんかこう、どうもぱっとしないのである。アクセス数などを見て、高い人気を誇るものを聴いてみても、あーこれいいなあ、と学ぶべきものを感じることはまずほとんどなく、毎度おなじみのコード進行やメロディに、味のない練り餌を喉に詰め込まれたような気分にさせられることがほとんどである。

こう感じるのば僕だけではないらしい。「音極道」で書かれて、後にニコニコ動画でも配信された『JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた、という話』なんてのはその一例だけど、実際、最近の avex ものとかが、如何に automatic にこの「王道進行」とか、あとはいわゆるカノン進行(馬鹿の一つ覚え的に誤解している人がいるようなのでここに明記しておくけれど、「王道進行」と「カノン進行」は異なる進行形である)を用いていることか。そういうのが好きな人には、作曲というのは簡単なことに思えるのかもしれないけれど、まあそう安易なものではないんだよなあ。

遅れてやってきた幸運

僕は音楽制作に、年代物のオーディオインターフェースを使ってきた。これはTASCAM US-428というシロモノなのだけど、アナログ関連が結構しっかりしていて、Cubase のオペレーションに対して至極便利で、おまけに Linux 上からも簡単に使えるので、もう十年くらい(いや、それ以上かな?)、僕はこのインターフェースを使っている。

とはいえ、もう完全にメーカーも legacy 扱い(っていうかこういうのをまさに legacy って言うんだろうけど)の状態なので、可搬性があるオーディオインターフェースということで、TASCAM US-144を購入してあった。このインターフェースは USB 接続だけど、バスパワーで動作して、しかもファンタム電源まで付いている。音質は US-428 のそれを継承しているならば問題はあまりないだろう……ということで、衝動買いに近い勢いで買ってしまったのだが……実はつい最近まで、こいつは埃をかぶっていたのだ。勿論それには理由がある。

この US-144 を購入したとき、僕は音楽制作に使用している端末を Windows XP (32 bit) で動作させていた。この時点では、使用に際して何も問題は生じなかったのだが、メモリを 4G に増設するのにあわせて、OS を Windows Vista 64bit に更新したとたん、US-144 がまともに動作しなくなった。音がプチプチ切れて、CPU に異常な負荷がかかって、甚だしきに至っては blue screen で OS ごと落ちてしまう……これは僕が 64 bit Windows を使っていてほぼ唯一とも言えるトラブルだったのだけど、これには参った。だって、32 bit OS で動作させていたときには何も問題なかったんだぜ?

まあ、当然これはドライバに問題があるんだろう、ということで調べてみると、この US-144 のドライバはどうやらPloytec GmbHが作っているらしい。更に調べてみると、どうもここの 64 bit 版ドライバには USB コントローラに対するキッツーい相性問題があるらしく、僕の使っている Dell Inspiron 1501 の Ricoh 製 USB コントローラに対して、このドライバがちゃんと動作してくれない、ということらしいのだ。うーむ……丁度そのとき、僕は新しい曲の録音をしようとしていたところで、ドライバ問題を抱えて右往左往するより、もう使わないだろうと思っていた US-428 の 64 bit OS 上での使用を試す方が現実的だったのだ。で、恐る恐る US-428 の 64 bit ドライバを入れてみると、何のことはない、こちらは至極快適に動作する。これならもうこれでいってしまおう……ということで、僕は結構長い間 US-428 を使っていたわけだ。

で、最近、mixi の DTM 関連コミュニティにおいて、「32 bit OS と 64 bit OS、どちらがいいんだろう?」というような質問が頻発していた。そもそも DTM はメモリもたくさん使うわけだし、僕の US-144 のようにドライバで問題が生じるようなことがない限りは、こんなものは 64 bit に移行した方がいいに決まっている。しかしながら、32 bit OS しか使ったことのない人々が、ビギナーに「64 bit はダメですよ」みたいなことをしたり顔で教え込もうとするのを何度となく目にしたので、そのたびに、ドライバで不都合が生じなければ、そんなものは 64 bit の方がいいに決まってるじゃないか、という主張を(当然論拠を明示して)書いていたわけだ。

しかし、どうも喉にひっかかった骨のように、US-144 に関する問題が未解決のまま存在していた。うーん、どうしたものかなあ……と思いつつ、久々に TASCAM のサイトを覗いたら……あれ、ドライバが一気に ver.2 レベルまで up してるじゃないの?どういうこと?

僕も、US-144 がディスコンになったことや、その後継機種としてTASCAM US-144MK2というのがリリースされたということは知っていたのだが、US-122 と US-122L のときのような差異(この2機種は名前はそっくりなのだけど内部チップが違う…… ALSA 関連で USB オーディオインターフェースをいじっているとよくこの話を聞いたものだ)はなく、この後継機種の初期のドライバは US-144 用としてもリリースされている……ということらしい。早速そのドライバを入れてみると……おー、問題なく動作するじゃん!

かくして、サウンドインターフェースとして今僕は US-144 を使用している。ASIO の負荷が US-428 よりも高いような印象があるのだが、僕のように大規模な同録をしない(自分の歌かギター、ベースか、アウトボードのシンセを使うとき位だろう)場合は、これでもどうにかなるようだ……まあ、デスクトップ環境を整えたら、RME Fireface 400RME Fireface 800かのどちらかを入れるつもりなので、それまでのつなぎということになるわけだけど。遅れてやってきた幸運によって、僕はもうためらいなく 64 bit OS の導入を人に薦めることができるようになった。

【後記】US-144 でちょっと録音してみたけれど、よくよく考えてみたらこいつには ASIO ダイレクトモニタリングの機能がないのだった。その代わりに、インターフェース上でマニュアルで入力を返すように設定できるのだけど(まあ ASIO ダイレクトモニタリングも、これを DAW 上で実現しているわけだが)、うーん……せめてドライバでフォローしてくれればなあ。というわけで、結局家での環境は US-428 に戻すことになりそうな感じだ。

知らざる者の傲慢

なんか僕の mixi のアカウントにわざわざリンクを張ってまでさらされていた(一応魚拓も取っておいた)のに objection を。

まず、この手の輩は、人が何事かに対して答える上で、相応の責任を負い、労力や時間も(些少ではあるかもしれないけれど)消費させられるものだ、という視点が欠如している。これに関しては、Linux 業界で有名な生越氏の(これはもうかなり前に書いているはずだけど)『我々は十分か』:

http://www.nurs.or.jp/~ogochan/linux/5.html

でも読んでみればよろしい。生越氏の言葉を借りれば:

それは、ここでの対象となっている「タコども」が、あまりに「お客さん」であり「感謝を知らない」ために、文句を言っているので ある。
……まあ、この手の質問に20年近くも答え続けていれば、誰でもこの心境に至るものだよ。僕もしばしばRTFMという言葉を使うけれど、本当に、今の「質問者」の多くに対して、僕はこの言葉を堪えながらコメントすることが多いのだ。情報交換のメディアにおける、流通する情報の「質」がいつまでたっても向上しないことに苛立ちと諦観を抱えつつ、ね。

次に、上リンク先の人物が言うところの「やさしさ」に関して。これももう言い古された話で、僕も何度か open な場所で指摘しているけれど、この人物のいう「やさしさ」というのは、明らかに従来の「優しさ」ではない。知らないことを他者に教示してもらうよう乞うときに、そこに hospitality を要求する、というのは、これは「やさしく教えろやゴルァ」と言っているに等しい。先にも書いた、教える側の事情を何も斟酌していない態度だとしか言えない。

じゃあ、彼らの求める「やさしさ」が何なのか、というと、これは精神科医の大平健氏が言うところの「やさしさ」(彼は記号的に、このやさしさを平仮名で表記する)だと言えるだろう。この「やさしさ」に関しては、大平氏の『やさしさの精神病理』に詳細に記述・考察されているので、興味のある方はそちらをご一読いただきたい。

いやはや、しかし、上リンク先の人物、こういう風に書いている:

で二つ目は、mixiのTeXのコミュニティ。TeXもマイナーなんで、同じ原理で(?)優しい人が多いんだけど、正直http://mixi.jp/show_friend.pl?id=546064の人はどうかと思った。荒れるってわけじゃないけど、傲慢さよく出てる・・・というか、自意識過剰な感じが良くない方によく出てる。なんか・・・全裸説教強盗って感じ?
いや違うでしょう。むしろあなたみたいなのを居直り強盗というんだよ。

【追記】

またしつこく書いてるなこの人。一応リンク、そして証拠保全のために魚拓。

先方の引用部でなぜか以下の部分が消されている:

僕もしばしばRTFMという言葉を使うけれど、本当に、今の「質問者」の多くに対して、僕はこの言葉を堪えながらコメントすることが多いのだ。情報交換のメディアにおける、流通する情報の「質」がいつまでたっても向上しないことに苛立ちと諦観を抱えつつ、ね。
一応ここは重要なところなんだけどなあ。僕の心の叫びみたいなものだからねえ。

しかも僕の書いているところの「優しさ」と「やさしさ」の違いをまるっきり理解しようとしていない。それに、ある人物のモラルを以て(社会的規範を損なわない限りは)他者を断罪すべきものではない、ということもどうやら理解していないようだ。僕は書き言葉ではカタい言葉を使うので、しばしばこのような「込めてもいない悪意」を感じて悪意を以てこのような書かれ方をする経験があるけれど、自分の書いたことをちゃんと読まずに、しかも恣意的引用(ととられて然るべき引用の仕方)をして、原文が net 上で open なのにリンクもしない……なんて輩は、本当にたちが悪い。

そしてこれがこの人のドグマなんだよな:

で、この人(筆者注:原文ママ)場合、この文章の「人に教えを乞う」という表現から傲慢さがよくわかる。
僕は「人に教えを乞う」という定型句なんか書いていない。僕はこう書いたのだ:
次に、上リンク先の人物が言うところの「やさしさ」に関して。これももう言い古された話で、僕も何度か open な場所で指摘しているけれど、この人物のいう「やさしさ」というのは、明らかに従来の「優しさ」ではない。知らないことを他者に教示してもらうよう乞うときに、そこに hospitality を要求する、というのは、これは「やさしく教えろやゴルァ」と言っているに等しい。先にも書いた、教える側の事情を何も斟酌していない態度だとしか言えない。
要するに、この人が言うところの「やさしさ」(平仮名表記であることに注意)を冒していると僕を非難する行為は、この人の「やさしさ」のドグマで僕を断罪しているだけの行為だ、と僕は言っているのである。そもそも、「教えを乞う」って、そんなに屈辱的な言葉なのだろうか?まあたしかに「乞」は「乞食」の「乞」だけど、そもそも「乞」という字は「神仏に対して願う」という意味を帯びているので、何ものかを貶めるものではなくて、求める側の謙譲の意が入っているだけなんだけどね。屈辱なんて意味は、そもそもこの字にはないんですよ。

一応自然科学者の端くれとして書いておくけれど、僕は何事か、より reasonable なものに近づけるのだったら、相手が三歳児だって教えを乞うだろう。そして僕のそういうスタンスは、僕が出会ってきた、僕の関わった研究領域での権威と呼ばれる人達に学んだものだ。彼らは、当時学生だったり、学位を授与されたばかりの新米研究者だったりした僕に対して、権威の威光を振り回すなんてことはなかった。実にフランクに、僕の意見を聞き、自らの見解を僕に示してくれた。けれどそれは、相手の見解に対して相手が負うのと同等の責任を負うことの必要性を暗に僕に感じさせて、僕はいつでも冷や汗をかきながらそういう人達とディスカッションをしたものだ。

だから、教えを乞う/乞われるときに、どちらが上でどちらが下だ、などということは、そこに何の関わりも持ち得ない。求められるのは、必要な情報を得る上で真摯に問うているか(自力で調べられることは調べて……勿論人間だから力及ばないこともあるだろうけれど、聞くことをちゃんと分からないなりに整理して、何がどう分からないのかを伝えるように努めているか)、そしてそれに対して必要な情報を十分な確かさで、そうでないならエラーバーも含めて真摯に提示できているかどうか。それが全てだ。目線の上下なんてのは、そういうやりとりには何も関わりがないし、何も影響しないし。勿論僕はそんなものをこういうやりとりに導入したことがない。

それにしても……この人、まるで「『上から目線』過敏症」みたいだよなあ……あるいは過去に何か「教えを乞う」という文脈において、何か大きな大きな負の記憶でも抱えているんじゃなかろうか。抱えていようがいまいが、それは個人の勝手だけど、それを振り回すなんて、これこそが傲慢なんだっての。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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