浅田真央という人:アートとしてのフィギュアスケーティング

僕は、自分自身では全くやらないのだけど、バレエが好きで、NHK でローザンヌ国際バレエコンクールなどをやる時期には、教育テレビで何時間もかかるコンクールを観ていたりする。何故そういうものを観るのか、というと、舞踏というものが如何に過酷で、そして残酷なものなのか、ということに惹かれるからだ。こう書くと分かりにくいかもしれないけれど、もし興味のある方がおられたら、5月に NHK で放映されるはずなので、是非観ていただきたい。背景知識は一切必要ない。中途半端に知識がない方が、むしろ分かり易いかもしれないからだ。

僕が最初にあのコンクールの様子をテレビで観たのは半ば偶然だったのだけど、2時間細の間、僕はブラウン管(まだ液晶じゃなかった)に釘付けになってしまった。身体が形成する曲線、そしてその時間変化、躍動、そういうものが、舞踏の経験のない僕が見ても、その差というものがはっきりと見えてしまうのである。そして、素晴しい舞踏はやはり素晴しい。たとえそれがまだ若い人であったとしても。そう。肉体表現というものは、残酷なまでに人の the art of beauty というものを僕達に突き付けるものなのだ。そしてそれは、たとえ優美に見えていたとしても過酷である。優美な曲線は、過酷な修練で疲れ、削られた身体が形成するものなのだ。お気軽に見ている人には単なるカタチにしか見えないかもしれないけれど、その表現者の立つところに自らの視点を据え、その表現者の呼吸を体感しようとしたとき、人はその下にある過酷な領域を垣間見ることができるのだ。

この舞踏の過酷さ、残酷さを孕んだ美しさは、そのままフィギュアスケートのそれにあてはまる。僕は浅田真央という人のスケーティングを見たときに、瞬時にそれを感じた。そして、他の何人かのスケート選手の演技を見て、やはりその美しさの下に過酷さ、残酷さがあることを確信した。

僕が浅田真央という人のスケーティングを見たときに、最初に感じたことは「ああ、この人は絶対にバレエをやっていたに違いない」ということだった。調べてみると、やはりそれは当たっていて、彼女は越智インターナショナルバレエでバレエを習っていたのであった。彼女がトリプルアクセルを跳べるのは、おそらくはこの経験が大きく関わっているに違いない。それに、彼女のつくりだす曲線の佇まいとその揺蕩い(特にその曲線が肩を経由して両腕で形成される瞬間のそれ)は、やはりバレエをやっている人でなければ形作ることはできないものだと思う。それだけではない。彼女がトリプルアクセルを跳び続けながら、金妍兒のように慢性的な腰痛などを抱えずに済んでいるということは、バレエの練習を基礎とする足腰の柔らかさ、しなやかさがあるからに違いないのだ。もちろん、バレエだけが彼女を形成しているわけではないけれど、あれはやはり土台にバレエがあってこそのものだと思うし、あの曲線を形作れない人というのが、残酷なことに確実に存在するのだ。

そして、音楽をやっている端くれとして付け加えるならば、彼女のコーチで振付けも行っているタラソワ女史は、さすがにロシア人だと思う。ロシア音楽の真骨頂である荘厳さと重厚さ、それを最大限にアピールしているあの二曲(ハチャトゥリアンの「仮面舞踏会」とラフマニノフの「鐘」)を持ってくる、なんて、実によく分かっていると思う。何が分かっているか、って?アートが、ですよ。あの2曲を持ってくるというセンスが、実にアーティスティックなのだ。

ハチャトゥリアンという作曲家は、日本では「剣の舞」の作者として有名だと思うけれど、あの「剣の舞」が実はバレエ音楽だということは、どうもあまり知られていないらしい。そして今回のスケートで用いられた「仮面舞踏会」は、戯曲のための音楽である。十九世紀の帝政ロシアを舞台に、上流社交界の華麗なる仮面舞踏会、そこでの妖しい男女のやりとり、そして妻への疑念からその妻を殺害してしまう男を描いたレールモントフの戯曲のために書かれた曲を持ってくる、という、このセンスは実にいい。ロシアという国のアートへの意識の高さがうかがえるような選曲である。

そしてラフマニノフ(100809・訂正:コメントに書かれてるのにさっき気づきましたが、これはムソルグスキーです……なんでラフマニノフなんて書いたのか自分でも分かりませんよ……)。彼の名も、「展覧会の絵」と共に有名だけど、実はこの「展覧会の絵」がピアノ組曲であることは、どうも日本ではあまり知られていないようだ(補足:『展覧会の絵』は、ムソルグスキーの死後遺品の中からピアノ譜が発見され、リムスキー・コルサコフの補作とラヴェルのオーケストレーションで有名になった曲である)。ラフマニノフは、自身が非常に高い技巧を駆使するピアニストでもあったために、ピアノ曲の名曲と言われるものが数多く存在するのだけど、今回のスケートで有名になった「鐘」も、もともとピアノのために書かれた曲である。ラフマニノフの作品で、声楽のために書かれた曲に「鐘」というのがあって(ややこしい)、今回の「鐘」の方は「前奏曲 嬰ハ短調」(作品3-2)と呼ばれることの方が多いのだが、「幻想的小品集」の一曲であるこの曲は、ラフマニノフ自身のピアノによって1892年に初演され、それ以来音楽好きの間では良く知られる曲である。今回スケートで使用されているのは、おそらくストコフスキーの編曲による管弦楽曲として、であるが、原曲の持つ重厚かつ深み・広がりに富む曲調はちゃんと継承されている。やはり、この曲を持ってくるというセンスには、唸らざるを得ない。タラソワさん、本当に、よく分かっていらっしゃる。

でも一番凄いのは浅田真央その人だろう。重過ぎるかもしれない、他の曲にしようか、と言ったタラソワ女史に、先生が下さった曲だからこれにします、とゴーサインを出したのだから。この曲の良さを分かって、その過酷さを背負うことを決めた浅田真央という人の「覚悟」には、やはり唸らざるを得ないのである。

さて。青嶋ひろのというフリーライターが、浅田真央という人はそういう美、そしてそれを養う努力の重要性に気付いていない、という論旨の文章を書いたという。あまりに低次元な話なので、正直反論する必要性も感じないのだけど、最近はこういう public なところにちゃんと書いておかないと、こんな阿呆な話も妥当性のあるものだと思われてしまうことがあるので、ここにちゃんと書いておきたい。

まあ、この件に関してレトリックを尽くす気にはなれないのだけど、あえて言及するなら、この間の世界選手権の SP の演技を、フジテレビの中継で観ていただければよろしい。ここで、アナウンサーや解説者が喋ったことに注目してはいけない。この中継で、アナウンサーや解説者の言葉が止まってしまったことに注目すべきなのだ。

映像使用権などの問題があるので、YouTube 等で皆さんが捜してご覧頂きたいのだけど、あの日の実況で、浅田真央の SP 演技の後半、実況のアナウンサーも解説者も、何十秒もの間、一言の言葉も発していない。それは、今冷静になって観てみると、まるで放送事故のようにすら見える程だけど、どうして、実況すること、解説することが仕事の彼らが言葉を失なってしまったのだろうか。理由は簡単だ。その美しさに心を奪われたから。心を奪われる、というのは、こういう状態のことを指すのではないだろうか?

先に音楽の話を書いたけれど、こういう状態を作り出すということは、音楽と演技が総合芸術として、話す仕事の人の言葉すら奪いおおせた、ということだ。これを the art of beauty と言わずして、何がアートなんだろうか?

まあ、これだけ言えば十分でしょう。あとは、刮目して浅田真央の演技を観よ、そして感じよ!そういうことなんですよ。

『誰も教えてくれない聖書の読み方』新共同訳ガイド・暫定公開

標記の件だけど、引用範囲が広範なので、本来なら財団法人日本聖書協会の許諾が必要なところではあるのだけど、PDF はコピペとか印刷にプロテクションがかけられるので、その対策を講じた PDF を暫定的に公開することにする。まあ……でもこれ、おそらく紙か web じゃないと、正直言って使いにくいと思いますけれどね。

http://www.fugenji.org/~thomas/diary/documents/Ken_s_guide.pdf

金妍兒さん、それはあまりにひど過ぎるんじゃないの?

普段はめったに書かないスポーツの話だが、今日のフィギュアスケート世界選手権、皆さんはご覧になっただろうか?あまりの採点のおかしさに、しばし目を疑ってしまった。

どういう演技内容だったか、というと、浅田選手はノーミス(トリプルアクセルのコンビネーションで回転不足を一つ取られたが)、金妍兒(もはやあんなのを選手とは呼びたくない)は1回転倒、そしてアクセルジャンプがひとつすっぽ抜けている。で……だ、今回の採点内容に関しては、

をご覧いただければ分かるかと思うのだけど、まずは金妍兒の演技要素とそれに対応する GOE を抜粋しておく。
  1. 3Lz+3T: 2.20
  2. 3F: 2.00
  3. 2A+2T+2Lo: 1.40
  4. FCoSp4: 0.50
  5. SpSq4: 1.40
  6. 2A+3T: 2.00
  7. 3S: -3.00
  8. 3Lz: 1.40
  9. SlSt3: 0.80
  10. A: 0.00
  11. FSSp4: 0.10
  12. CCoSp4: 0.60
……で、浅田選手のがこれ。
  1. 3A: 0.60
  2. 3A<+2T: -0.48
  3. 3F+2Lo: 0.20
  4. FSSp4: 0.40
  5. SpSq4: 1.60
  6. 3Lo: 0.80
  7. 3F+2Lo+2Lo: 0.00
  8. 3T: 1.00
  9. 2A: 1.40
  10. FCoSp4: 0.50
  11. SlSt3: 0.90
  12. CCoSp4: 0.80
……さて。まず、全般的に金妍兒の GOE の方が有意に高いのはお分かりと思う。ここで注目すべきなのは金妍兒の10番目。これはおそらくダブルアクセルがすっぽ抜けてシングルアクセルと認定されたものだけど、通常こういう失敗ジャンプの GOE は減点対象になるのに、金妍兒には減点はなし。そして浅田選手の7番目、これはトリプルフリップ-ダブルループ-ダブルループの3連続ジャンプだけど、これは成功していても GOE は同じく0。で……今回のフリーでは、金妍兒の方が浅田選手よりもいいスコアが出ている。1回転倒して、ジャンプがひとつすっぽ抜けているのに。どういうこと?

今回は、個人で ISU に抗議している人が多数いるらしい。いや、こんな点数を見て、何故日本のメディアは何も報じないの?これはあまりにひど過ぎだって。

上海総領事館員自殺事件

中井洽(ひろし)国家公安委員会委員長の女性問題に関して、「ハニートラップだったらどうするのか」という声が上がっているという。この指摘は、北朝鮮の工作員だった場合の危険性などを懸念したものだ、というのだけど、いやそこで警戒するのは北朝鮮じゃないでしょう、と思ったのは僕だけだろうか。

ハニートラップを警戒するのであれば、誰が何と言ったって怖いのは中国である。何せ、中国には前科があるのだから。その名も「上海総領事館員自殺事件」という。

2005年末、この事件が明るみにでたときに、僕は戦慄したのを覚えている。事件そのものに、と言うよりは、世間のあまりの無関心さと、日本政府のあまりの静かな対応に戦慄したのだけど、外交特権を以てしても尚、この自殺した職員に「国を売る以外に生きて出国できないだろう」と思わせたあの国は一体何なのだろう。ネットワークに関しても、彼の国は「金盾(ジンドゥン)」と呼ばれる巨大な情報統制システムを既に稼動させている。今、ネットワークフィルタリングの技術で世界のトップを走っているのは中国だ、というのは、この手の知識を持つ人々の間ではもはや常識である。

僕達が日頃つい忘れかけていることなのだけど、彼の国は、どれだけ経済的に開放しているように見えても、政治レベルにおいては、この21世紀において尚一党独裁国家なのである。どれだけ開放的に見えても、どれだけバブルに酔おうと、このことだけは忘れてはならない。某国家公安委員会委員長は、こういうことはすぱっと頭の中から抜け落ちているようだけれども。

Google Chrome

最近、どうも Mozilla Firefox が重いので、思い切ってブラウザをGoogle Chromeに変えることにした。僕の場合は、Debian GNU/Linux を使っているので、.deb 形式の beta リリースバイナリ、そして unsatable なバイナリが使える。最近は unstable なバイナリでも十分使用に耐える状況なので、The Chromium ProjectsEarly Access Release Channelsから google-chrome-unstable_current_amd64.deb をインストールした。

それにしても……うん、軽いし、以前問題だったフォントや flash の問題もちゃんと解決しているし、これだったら普段使いにしてもいいかもしれない。こうやって blog の更新をするのにも問題ないしね。

初老?

しょろう ―らう 【初老】
(1)老境に入りかけの人。老化を自覚するようになる年頃。
(2)四〇歳の異称。
出典:「大辞林 第二版」
今日のラテ欄からの引用。あえて引用元新聞名は伏せる。
シューシャインボーイ
塚田(柳葉敏郎)は自らの過去を隠し、食品会社の社長・鈴木(西田敏行)の専属運転手を務めていた。ある日、鈴木が所有する馬「シューシャインボーイ」がレースで勝利する。だが、鈴木は祝賀会に参加せず、塚田に新宿の大ガード下へ行くよう指示。そこには、鈴木が週に一度は通う初老の靴磨き・菊治(大滝秀治がいた。

……今年って何年でしたっけ。

投函

さっき、晶文社宛投函してきた。果たしてどうなりますことやら。

フォントに頭にくる

実は、Linux 版の Adobe Reader を使っていて困っていたのが、ゴシック体がちゃんと表示されないことだった。具体的には、僕の場合は LATEX で書きものをしていて、一部分をゴシックで指定していることがあって、そういうときにこういう状態では困るわけだ。生成された PDF ファイルに問題があるのか、PDF を表示させるところに問題があるのかが分からないわけで……

で、生成されるファイルには問題がないことが分かって、ちょこっと調べたら、おいおい……これってひょっとしてゴシックのフォントがインストールされてないってことなの?と、/opt/Adobe/Reader9/Resource/CIDFont/を調べてみると、あー……入ってないじゃないの。

前はこういうときには下の version のインストーラーとかから引っ張ってこられたのだけど、今公開されているファイルではどうにもできない模様……なので、Windows 版の Adobe Reader の CIDFont から抜き出してきたのを突っ込んでみると……よし、表示されるな。

しかし、Linux 版だからって万人がこういうことを自力で対応できるというわけでもあるまいに、あー、フォントに頭にくるのであった。

Errata

晶文社への送付用 Errataを書いた。明日にでも送る予定。このままシカトされるようだったら、徐々にネットに disclosure していくことにしよう。

sdic を使う

sdic は以前からよく使っているのだけど、Windows の方に入っている英辞郎の辞書ファイルを使えるようにしていないので、これをどうするか、ちょっと考えていたところだった。今日は思いがけずに時間が空いたこともあって、この際だから使うようにしてしまおう、と腹を決めた。

何日かぶりに Windows を起動する。この WIndows のシステムディスクの中には英辞郎の第五版がインストールされているのだけど、この版の辞書はそのままでは sdic で使用することができなかった……はずだ。とりあえず、英辞郎の検索に用いている Pdic の古いファイル形式(テキスト一行形式)に変換しておいて、再び Linux で起動する。

Debian GNU/LINUX (Sid) では一応 sdic 関連のパッケージが公開されているのだけど、このパッケージで sdic-eijiro を入れようとするとどうもうまくいかない。業を煮やして、sdic 関連のパッケージを purge してしまう。いや、そもそも sdic なんて完全自力で入れていたんだし。

有り難いことに、eiei さんという方がテキスト一行辞書形式ファイルを .sdic 形式に変換する ruby scriptを公開しておられるので、これを pdic2sdic.rb という名前で保存しておいて、nkf -w8 オプションでパイプを通した辞書ファイルを流し込めば、sdic 形式のファイルが出来上がる。後は .emacs.el に辞書の設定を書くだけなのだけど、折角なので、辞書のインデックスによる高速化も考えておく方がいいだろう、ということで、山下達雄氏のページからSUFARY 2.1.1をダウンロードして /usr/local 以下にインストール。あとは、

$ cd /usr/local/share/dict
$ mkary ./eijiro.sdic
$ mkary ./waeiji.sdic
で、.emacs.el 中の辞書定義行に array コマンドを呼ぶように記述を追加する……と。こんなもんですかね。

僕の知人には何人か、TOEIC のスコアが殺人的に高い人というのがいて、しかもそういう人に限って「あれはね、まあ一種のボケ防止チェックですわ」なんてことを平気で言う。おかげで、英語に関する根強いインフェリアー・コンプレックスが消えてくれないのだけど……まあ、だから英辞郎なんかも使うわけなんですよ。昔は American Heritage のペーパーバックがお友達だったけれど。

山形氏にメールするも……

なしのつぶて。9年前に出した訳を今更どうのこうの言われてもアレなのかもしれないけれど。ちなみにamazon に書評として書いたものは以下の通り:

本書の存在は数年前から知っていた。私はカトリックの信者で、一カトリックとして、旧約聖書の「憤怒する神」の暴力的かつ理不尽な記述や、共観福音書の不一致に関しては知っているつもりだったが、微に入り細に入り挑発的なこの本の筆致を追いかければ追いかける程、一般の人があるいは「神聖にして侵すべからざる」ものだと思っているかもしれない聖書が、実は極めて人間臭い一面を持つものであることが露わになってくる。それは記者が各文書を書いたときから、そして何千年もの間、主に筆写というかたちで伝承されてきた過程において、聖書というものに携わった人達の文化・宗教観・倫理観が反映された結果に他ならない。本書をガイドブックにして聖書を辿れば、今まで近付き難かった聖書という書物を、ぐっと身近な、血沸き肉躍る(比喩ではなく)読み物として実感していただけると思うし、その合間に「そんなアホな!」とかツッコミを入れられる読み物でもあることも実感していただけるだろう。

ただし、本書には、私が数えただけでも21か所の間違いがある。その多くは、記述に対応する聖書の引用章節番号の写し間違いなのだが、非常に問題があると思われるのが、原著にあるのに訳本に反映されていない記述6か所、そして原著にないのに訳本に記述のある聖書の引用箇所(つまり、山形氏が勝手に記述を付け加えたのである……訳者追記の断り書きもないのだが)2か所の存在である。これはどうにもいただけない。訳者の山形氏は英語使いとしては非常に評価が高い人であるだけに、これは残念なことだと思う。時間のある方は、NY の Blast Books から刊行されている原著を入手・並読されることをお薦めする。

ちなみに僕が知っている山形氏のメールアドレスって MIT のなんですが、これって今生きてるのかしらん。

Born Again

と言っても、僕が福音派とか再降臨派に鞍替えしたわけではない。また Debian GNU/Linux の再インストールを行ったのだ。

Debian は非常にカタいパッケージングで使い易いのだけど、通常の distribution はあまりに保守的なので、普段使いには sid と呼ばれる開発版を使っている。これが基本的なファイル構造等をさくっと変えてしまったりするので(それでも使い続けてはいられるのだけど)、時々こういうことをするはめになる。今回は TeX 絡みのこともあったので、金曜の夜の時間を使ってこの作業を行った。

せっかくなので、いじれるところはいじる。ファイルシステムは SGI の XFS に変えた。で……えー。キーボードまで徹底的に udev の下で管理されてるのか。じゃあ Ctrl と Caps の位置交換は……うー。どこだったっけー……とぶつぶつ呟きつつ、そうだ /etc/default/keyboard ってのがあったっけ、と見てみて、このファイル上で XKBOPTIONS="ctrl:nocaps" (だから厳密には位置交換じゃないのだけど)としてオッケー。xfstt を入れて、M+ と IPA の合成フォントを /usr/share/fonts/truetype/ に突っ込んで xfstt を再起動。これでシステムフォントはオッケー。TeX はptetex3を入れて…… gcc と g++ でのコンパイル環境と Debian 用の kernel build kit を入れて、vanilla kernel を build して……まあ、慣れた作業である。

きっと、大学時代に一緒に UNIX 系 OS を使っていた連中も、きっと今はほとんど Windows 系で、UNIX 系を使っていても Mac OS X なんだろうなあ。僕が Linux を使っている理由も、Intel Compiler が無料で使用できるのが最大の理由だし。でもね……どうも、売り物の OS というものに、僕は全幅の信頼を感じることができない。どれだけお金を払っても、完全な損失補填など保証されないからねえ……しょせん、他人は信用できないし、不用意に信用して、裏切られてどす黒い感情を抱く位なら、僕はこの先もきっとこうやって vanilla kernel を build しているんでしょうよ、きっと。……ほら、最近は空で打てるからね。

make-kpkg clean && CONCURRENCY_LEVEL=4 make-kpkg --initrd --revision=`date '+%Y%m%d'` kernel_headers kernel_image
とかさ……

あの春、M1の終わり

思い出話などする歳でもないと思っているのだけど、ここ何日かのニュースを観ていて、ふと思い出すことがある。

あの阪神大震災が関西地域を襲った後のことだった。当時、僕の修士論文のための研究は進捗が捗々しくなくて、僕は M1 の終わる春の学会に発表できなかった。博士課程への進学を考えていた僕にとっては屈辱的なことだったけれど、技術蓄積のない困難なテーマの研究だったので、今考えれば仕方のないことだったのかもしれない。しかし、当時の僕は、知人が学会に行くという話を聞いただけでも胸が痛んだものだ。

そんなある日のこと。春学会に行っていた知人からメールが入ったのだった。朝、早めの地下鉄に乗って移動していたら、あの騒ぎに巻き込まれた、と。そう、地下鉄サリン事件である。

僕の知人は運がよかった。一本違いの電車に乗っていたら、あの霞が関で営団(当時)の職員が亡くなった、あの電車に乗ってしまっていたのだ、という。彼が実際に乗った電車は、霞が関を前にして止まり、彼は地上に出て、あの惨事を目のあたりにしたのだった。

理系出身者で道を誤った奴が、変な薬品の合成に手を出す、というのは、そう珍しい話ではない。アメリカ、特に西海岸では、LSD などの合成麻薬は大抵がそういう理系崩れの連中によって合成・供給されていた、という歴史的事実があるからだ。しかし、サリンや VX というものが(一応それがどういうものなのか知ってはいたけれど)自分と同じ、日本の大学で教育を受けた理系の若者によって合成された、なんて、最初は僕も信じられなかった。サリンや VX の薬理作用に関して知識があれば特にそうだ。余程の protection をしなければ、合成者自身の命が危ないのだから。実際、オウムでは合成に携わっていた若者、そしてそのガスを用いて殺人を行った、あるいは行なおうとした若者が、硫酸アトロピンのおかげでからくも一命をとりとめる、ということもあったという。

あれからもう15年が経つのだという。しかし、都市において毒ガスが用いられた事例というのは、それ以前も、そしてそれ以後現在までも、あの東京の地下鉄サリン事件以外世界に例がない。阪神大震災を含めて、あの春のことは、一生忘れられそうにないけれど、どうかこの記憶がこれだけに留まってほしいと思う。毒ガスで人が死ぬなんて話は、この先の人生で、二度とお目にかかりたくはない。

ちなみに……

``Ken's Guide to the Bible'' から、訳本に載っていない部分を抜粋。

恥かしくさせられる聖書の疑問

  • ノアが初子を生ませたときに五百歳だったって本当に信じられる? ―― 創世記 5:32
  • 罪深い町ソドムを滅ぼすのはオッケーだったのに、実の父親とセックスしちゃうロトの娘達を滅ぼすのがオッケーじゃないのはどうして? ―― 創世記 19:30-36
  • もし神さまが全能の力を持っているなら、ヤコブとのレスリング試合でどうして負けたんだろう? ―― 創世記 32:24-30
  • 宗教的な「安息の日」に働いた人は誰でも殺されるべきだ、なんて、本当に信じられる? ―― 出エジプト 31:15
  • 子供を殺すなんて信じられる?そして、どうして神さまはエフタが処女の娘をいけにえに献げることをよしとしたんだろう? ―― 申命記 11:30-39
  • 子供たちが親の罪のために死に追いやられるべきだ、なんて、信じられる?そして、どうして神さまはダビデとバト・シェバの子供を殺したのに、当のダビデとバト・シェバは生かしておいたんだろう? ―― 申命記 11:30-39
  • もし神さまが全能の力を持っているなら、どうして神さまの軍勢は、異教の神ケモシュに息子をいけにえに献げたモアブ王に打ち負かされちゃったんだろう? ―― 列王記下 3:18-19, 26-27
  • 聖性が衣服に移るって信じる?神さまは信じてるよ ―― エゼキエル 44:19
  • 君が自分の手や目のせいで罪を犯したら、その目や手を切り離すべきだって思う?キリストはそう思ってたよ ―― マタイ 5:29-30
  • どうして神さまはアブラハムやヨブに地上の富を与えたのに、イエスは富が地獄への片道切符だなんて言ったんだろう? ―― 創世記 24:34-35, ヨブ 42:10-12, マタイ 19:24
  • 君は奴隷制に疑いを持たない?どうして聖書に登場する誰も(イエスですら)が奴隷制を批判しないんだろう?どうして使徒パウロやペテロは従順な奴隷たることを奨励したんだろう? ―― エフェソ 6:5-7, ペテロ 2:18
  • イエスが実物の惑星である金星だったって信じる?彼は信じてたんだよ ―― 黙示録 22:16
  • 聖書の最後の章で、イエスは3回言う:「わたしはすぐに来る」って。これは、2000年も前に書かれたことだ。どうして彼はまだ来ないの? ―― 黙示録 22:12-13

聖書セックス索引

  • アダムとエバ ―― 創世記 4:1
  • ケインとその妻(氏名不詳) ―― 創世記 4:17
  • アダムとエバ(2回戦) ―― 創世記 4:25
  • 神の子らと人の娘たち ―― 創世記 6:2, 4
  • サライとファラオ ―― 創世記 12:14-19
  • アブラムとハガル ―― 創世記 16:4
  • 二人の御使いとソドムの男たち(未遂) ―― 創世記 19:4-5
  • ロトとその娘たち(むりやり) ―― 創世記 19:30-36
  • イサクとリベカ ―― 創世記 24:67
  • ヤコブとレア ―― 創世記 29:23
  • ヤコブとラケル ―― 創世記 29:30
  • ヤコブとビルハ ―― 創世記 30:4
  • ヤコブとジルパ ―― 創世記 30:9-10
  • ヤコブとレア(2回戦) ―― 創世記 30:16
  • シケムとディナ(むりやり) ―― 創世記 34:2
  • ルベンとビルハ ―― 創世記 35:22
  • オナンとタマル ―― 創世記 38:9
  • ユダとタマル ―― 創世記 38:18
  • ヨセフとポティファルの妻(未遂) ―― 創世記 39:7, 10-12
  • 神さまのセックスタブーざっくりリスト ―― レビ記 18:1-23
  • 追放もしくは死刑相当のセックスタブー ―― レビ記 20:10-21
  • 不貞の妻への試練による判定 ―― 民数記 5:11-31
  • イスラエルの男たちとモアブの女たち ―― 民数記 25:1
  • 更なるセックスタブー ―― 申命記 22:13-30
  • サムソンと名もなき遊女 ―― 士師記 16:1
  • ギベアの男たちと名もなき女(むりやり) ―― 士師記 19:25
  • ボアズとルツ ―― ルツ記 4:13
  • エルカナとハンナ ―― サムエル記上 1:19
  • エリの息子たちと召し使いの女たち ―― サムエル記上 1:19
  • ダビデとバト・シェバ ―― サムエル記下 11:4
  • ダビデとバト・シェバ(2回戦) ―― サムエル記下 12:24
  • アムノンとタマル(むりやり) ―― サムエル記下 13:11-14
  • オハシュロス王 / クセルクセス王とエステル ―― エステル記 2:16
  • 姦淫する女と意志の弱そうな若者 ―― 箴言 7:6-23
  • 花嫁と新郎 ―― 雅歌(どこを取っても)
  • メディア人の男たちとバビロンの妻たち(むりやり) ―― イザヤ 13:16
  • エルサレムの男たちとおびただしい数の遊女たち ―― エレミヤ 5:7-8
  • エルサレムと「傍らを通るすべての者」(寓意) ―― エゼキエル 16:25-34
  • エルサレムの男たち(色んな趣向で……父親、生理中の女、隣人の妻……等々) ―― エゼキエル 22:10-12
  • オホラとオホリバ、そして色んな国の男たち(これも寓意として) ―― エゼキエル 23:1-21
  • ユダの女たちとどこの誰だか分からない男たち(むりやり) ―― 哀歌 5:11
  • ホセアとゴメル ―― ホセア 1:2-3
  • イスラエルの人びと: 様々な乱行にふける ―― ホセア 1:2-3
  • エルサレムの女たちと「諸国」の男たち(むりやり) ―― ゼカリヤ 14:2
  • マリアと聖霊 ―― ルカ 1:35-38
  • イエス、バツイチ女性と結婚する男は姦通の罪を犯していると宣言 ―― ルカ 16:1
  • 神をも恐れぬ同性愛 ―― ロマ 1:26-27
  • コリント人の名もなき男とその(継?)母 ―― 1コリント 5:1
  • 使徒パウロ、性道徳の乱れを糾弾する ―― 1コリント 7:1-7
  • 使徒パウロ、結婚期間中のセックスにちょっと賛成 ―― 1コリント 7:1-7
  • 使徒ヨハネは、女性とのセックスの経験がある人は救済されないだろうと書いている ―― 黙示録 14:3-4

ボーナス中絶反対論者ホラー索引

切り裂かれた妊婦に言及している箇所

  • シリア人による ―― 列王記下 8:12
  • イスラエルの王メナヘムによる ―― 列王記下 15:16
  • 未確認の攻撃者による ―― ホセア 13:16
  • アンモン人による ―― アモス 1:13

殺された子供に言及している箇所

  • ミディアンの子供たち ―― 民数記 31:17 †
  • ヘシュボンの子供たち ―― 申命記 2:34 †
  • バシャンの子供たち ―― 申命記 3:6 †
  • イスラエルの子供たち ―― 列王記下 8:12
  • バビロンの子供たち ―― 詩篇 137:9 †
  • バビロンの子供たち ―― イザヤ 13:16 †
  • ベト・アルベルの子供たち ―― ホセア 10:14
  • イスラエルの子供たち ―― ホセア 13:16 †
  • テーベの子供たち ―― ナホム 3:10
  • ベツレヘムの子供たち ―― マタイ 2:16
† 神さまの承認による

『誰も……』問題は続く

『誰も教えてくれない聖書の読み方』なのだけど、昨日ようやくイギリスから原著の "Ken's Guide to the Bible" が届いた。で、昨日と今日のわずかな時間でざざーっと読んでみたのだけど……山形さん、かなり抜けがありますぜ、これぁ。せっかくケンが書いているのに、訳本に出てこない引用部がいくつもある。これに関してはこちらで訳して、今書いている document に追加する予定。

ちなみに、抜けている部分の一例:

神さまは罪人を飢えさせ、彼らが子供を食べるのを楽しむんだって。
あなたは敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえに、あなたの神、主が与えられた、あなたの身から生まれた子、息子、娘らの肉をさえ食べるようになる。あなたのうちで実に大切に扱われ、ぜいたくに過ごしてきた男が、自分の兄弟、愛する妻、生き残った子らに対して物惜しみをし、その中のだれにも自分の子の肉を与えず、残らず食べてしまう。あなたのすべての町が敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえである。あなたのうちで大切に扱われ、ぜいたくに過ごしてきた淑女で、あまりぜいたくに過ごし、大切に扱われたため、足の裏を地に付けようともしなかった者でさえ、愛する夫や息子、娘に対して物惜しみをし、自分の足の間から出る後産や自分の産んだ子供を、欠乏の極みにひそかに食べる。あなたの町が敵に包囲され、追いつめられた困窮のゆえである。
申命記 28:53-57

あと、これも訳本には出てこないのだけど、巻末に "Ken's Concordances" として、以下の補節が付いているのが笑える。山形氏はどうしてこれを割愛してしまったのだろうか?

  • Bible Sex Concordance(聖書セックス索引)
  • Bonus Anti-Abortionist Horror Concordance(おまけの中絶反対論者恐怖索引)
    • References to Pregnant Women Being Ripped Open(切り開かれた妊婦)
    • References to Children Being Murdered(殺された小児)

要するに、ケンは山形氏が訳している日本語から想像する以上にファンダメンタリストに皮肉っているということですな。

sid 上で pLaTeX を使うのは

最近、日本語で書くのにあまり使っていなかったLATEXだが、Debian GNU/Linux (Sid) 上で使おうとしたら……あれれ。フォント周りとかおかしいなぁ。しかも、前は UTF-8 で何も問題ないと思っていたのに……ということで、暫定的に Windows 上に日本語TEXをインストール中。

それにしてもTEXとの付き合いは長い。学生実験のレポートとかもこれだった(ちなみに1990年代初頭のことである)し、学部の卒論も、修論も、学位論文も、皆TEXで書いたんだった。学部のときは NeXT のレーザープリンタで出力したけれど、修士と学位論文のときはキヤノンのレーザーショットをつないだ Mac の上で Ghostscript を走らせて出力して、学位論文刷り上げるのに1日以上かかった……しかも、何かのタイミングで Mac が固まるので、印刷所に原稿を送る一週間前から、半泣きで出力していたのであった。

まあそれも今となっては思い出(いい思い出、とはとても言える気分じゃないけれど)。ちょっと込み入ったことをするために Leslie Lamport 本(古いのは持っているんだけど、LATEX2εになってからのは持っていない)と、毎度おなじみ奥村本を注文する(これも最近買っていなかった)。久しぶりに「あーここ根性で入れて―」とか言いながら使うのだろうか。

『誰も教えてくれない聖書の読み方』正誤表(私家版)

pp.55:
「アーロンの代用息子の一人エレアザルが」→「アーロンの孫(代用息子の一人エレアザルの子)ピネハスが」(原著段階での間違い)
pp.55:
脚註「……で、近くの街の人がやってきて」 →「イスラエル人が宿営していたモアブの王バラクが」
pp.59:
原著 pp.37 の4番目が引用されていない
(試訳)神さまは罪人を飢えさせ、彼らが子供を食べるのを楽しむんだって。 ―― 申命記 28:53-57
pp.62:
「犬のように舌で水をなめる者」→「水を手にすくってすすった者」
この箇所に関する記述は原著にはない。
pp.67:
末尾 サムエル記上 11:5-7 → 同 7:10(原著は 7:10 になっている)
pp.67:
原著 pp.42 4番目に相当する訳文なし
(試訳)はじめて神に油注がれたイスラエルの王であるサウルは、イスラエルの民の牛を 皆殺しにすると脅すと、彼らが自分に従って戦ってくれるということを証明したんだ。 ―― サムエル記上 11:5-7
pp.69:
ダビデがゴリアテを殺すくだり:訳はケンの記述に忠実だが、これはケンの勘違いでは?該当箇所の欽定訳からの引用:
And David put his hand in his bag, and took thence a stone, and slang it, and smote the Philistine in his forehead, that the stone sunk into his forehead; and he fell upon his face to the earth. So David prevailed over the Philistine with a sling and with a stone, and smote the Philistine, and slew him; but there was no sword in the hand of David. Therefore David ran, and stood upon the Philistine, and took his sword, and drew it out of the sheath thereof, and slew him, and cut off his head therewith. And when the Philistines saw their champion was dead, they fled.
これでも、石で打ち殺した後に、自らは武器を帯びていないのでゴリアテの剣で首を切り落としたことになっている。
pp.69:
末尾本文・脚註:ペリシテ人を殺した人数は日本語の聖書だけではなく欽定訳でも200人。100人という人数はどこから?
pp.84:
歴代誌下 26:16 → 歴代誌下 26:16-21(原著でこうなっているのを確認済)
pp.101:
イザヤ 34:2-3 と イザヤ 26:19 の間にあった引用が削除されている:
(試訳)エジプトに対する悲観的な預言をドラマティックなものにするために、神さまはイザヤを裸で三年間歩かせる。 ――イザヤ 20:2-4
pp.102:
イザヤ 49:14-15→原著にない引用
pp.123:
ゼパニヤ書の二つの引用箇所の間にあった引用箇所が削除されている:
(試訳……訳文は新共同訳聖書による)その日は憤りの日……わたしは人々を苦しみに遭わせ……彼らの血は塵のようにはらわたは糞(ふん)のようにまき散らされる。 ―― セファニヤ 1:15-17
pp.139-140:
「無原罪の御宿り」がクレアヴォーのベルナールによるものとあるがこれは間違い。ベルナールは反スコラ派の宗教学者で、むしろ「無原罪の御宿り」という概念に反対する立場にあり、ここに挙げるならばヨハネス・ドゥンス・スコトゥスが適切(これに関してはケンの記述の段階からこうだったことを確認済)。
pp.156:
ルカ 8:28-34 → 同 8:43-46(原著ではこうなっている)
pp.167:
ヨハネ 28-30 → ヨハネ 19:28-30(原著の段階で抜けていたのを確認済)
pp.178:
ヨハネ 8:47 → 同 8:42
pp.178:
上に言及した引用部と ヨハネ 8:55 の間に引用箇所があるのが訳本では削除:
(試訳……新共同訳からの引用)神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」 ―― ヨハネ 8:47
pp.186-187:
バルナバ→バルイエス(原著ではこうなっている。ちなみにバルナバとバルイエスは別人……バルナバはサウロと同じアンティオキアの教会にいた聖職者で、パウロの最初の宣教の旅に同行したといわれている。 )
pp.203:
1番目の引用部の後に引用箇所があるのが訳本では削除:
(試訳……新共同訳からの引用)あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。 ―― 1コリント 6:15
pp.211:
ヘブル人への書 12:6 → 同 10:28-31(原著ではこうなっている)
pp.214:
「923ページある聖書の、902ページ目でやっと。」 → 「923ページある聖書の、907ページ目でやっと。」

裸の女王様

とあるテレビ番組を観ていたら、民主党の植松恵美子参院議員が出ていて、事業仕分けの蓮舫議員の話が出たときに、植松恵美子参院議員に話がふられた。植松恵美子参院議員は、事業仕分けで蓮舫の体重が2キロも減ったんだ、という話をしたのだが、その話を聞いて、野村沙知代氏が、そんなの、好きでやってるんだから当人の勝手でしょ、と、例の調子でツッコんだ。で、植松恵美子参院議員がこう言ったのだ。

「蓮舫さんは、日本のムダを洗い流そうと必死になってたんですよ〜」

(念の為補足しておくけれど、これは明らかに「洗い出す」の言い間違いだろう)まあ当然野村沙知代氏はツッコんだ。「洗い流すの?」

驚いたのはその後だ。植松恵美子参院議員、胸を張ってこうのたもうたのだ。

「洗い流しましたよ〜」

……誰だ、あんな馬鹿を国会議員にしたのは。日本語も分からない奴に日本の政治に関わってもらいたくはないんだけどな。

無原罪の御宿り

例の原稿の校正をやっているのだけど、ケン・スミスの本の記述に間違いを何箇所か発見してしまったので、その箇所のリストアップとチェックも並行して行っている。原著が手元に来るのを待っているのだけど、イギリスの古本屋からまだ送られてこない。あと一週間近くかかる可能性があるのだけど、ケン・スミスのミスなのか、山形浩生氏の間違い(って、あの山形氏がそうそう間違うとも思えないんだよな)なのか、未だ見極めができない状態だ。

そんな間違いのひとつっぽいんだけど、このケン・スミスの本には、いわゆる「無原罪の宿り」(神の子キリストの母であるマリアは、生まれながらに原罪から解放された存在であるとする見方で、カトリック特有のもの)はクレアヴォーの聖ベルナールがでっちあげたものだ、と書いてある……うーん。僕の知る限り、この考え方は後期スコラ派のヨハネス・ドゥンス・スコトゥスがはじめて大々的に主張し始めたもの(公式には、1854年12月8日の教皇ピウス9世の回勅において、はじめて信仰箇条(キリスト者が信じるべき教え)として宣言された)のはずなんだが……と、調べてみると、やはりどの文献にもそう書いてある。しかもベルナールって反スコラ派なんだよな。

あーちなみに書き添えておきますけれど、こういうことはあくまで余技であって、信仰の本質的な部分とはあまり関係ありません。僕も、自分で書きもので必要になったから色々文献を漁っているだけでね。

a man with no principle

標記の語は、意訳するならば「哲学のない人」ということになるだろうか。先日読んでいたある本に、何故日本が海外でバッシングされるのか、という話が載っていて、その中にこんな言葉が出てきたのだった。曰く、日本の企業は上に行けば行く程、a man with no principle ばかりになってしまって、時流に阿ることばかりに終始して、一貫した主張というものがない。そういう企業や企業人と、哲学を持つ者同士の契約というかたちでの信頼関係を結ぶ欧米人が、信頼関係を結べるはずがないのだ、だからバッシングされるのだ、と。


僕はいつでも「じゃあお前はどうなんだ」と問いを向けられるところにしか身を置いたことがないし、仕事以外においても、自分にしかできないことをしたくて、音楽を作ったりものを書いたりしてきたので、「哲学のない人」というのが、どうにもピンとこない。ただ一つだけ言えるのは、確かに周囲にそんな人はいて、自分の信条や思想を以てものを言うということがない人々であって、そういう人々の言うことはうつろうばかりで信用できない、ということだ。なるほど、ということは、僕は日本人的じゃない、ということなのか?


でも、昔の日本人、たとえば明治維新以降に国のために欧米に出ていった人々なんてのは、皆何かしら信条というか、志というか、そういうものを持っていたんだと思うから、そうなると、今の the men with no principle というのは、決して日本に普遍的な存在だというわけではないのだろう。


まあ、その分布に関しては別にしても、「哲学のない人」というのは、互いの責任を担保してロジカルに意見を交わしたり、その結果を共有したり、ということは、とてもじゃないができそうにない。つまり、コミュニケーションや相互理解というものが持てないということで、これは(非常に差別的な書き方だけど)愚者を相手に法を説くようなものなわけだ。ああそうだ、お釈迦様がこう仰ったって話があったよな:「人を見て法を説け」なるほど。大昔から人は全く進歩していないものらしいや。

物議をかもした Google Books

最近、聖書関連の調べものをしているときに、雑誌がそのまま検索に引っかかってくるのに気付いた。これって、ちょっと前にアメリカで物議をかもしたGoogle Booksではないか?と見てみると、ちゃんと日本語版のサイトが beta release されている。どんなんかなぁ、と「LIFE Robert Capa」の3語をキーワードに検索を行った結果がこちら:

http://books.google.co.jp/books?as_brr=3&q=LIFE+robert+capa

おー、ちゃんとキャパが落下傘降下して撮影した写真(詳細を知りたい方はキャパの第二次世界大戦の回顧録である『ちょっとピンぼけ』を御一読のこと)も観られるじゃないか!これは凄い。今に web 上の文献の citation とかもこれでできるようになってしまうのだろうか。著作権に関する問題がまだ完全に解決したとはいえないだろうけれど、これは確かに使える機能だ。

開いた口が塞がらない

先日、このブログの記事『金姸兒選手は五輪憲章に違反しているらしい』に関連した話で、聞いて開いた口が塞がらないような思いのする話を聞いた。この問題に関して、韓国のネットユーザーから、完全に屁理屈としか言いようのない反論が盛り上がっているのだ、という。

これが……何だか書くのも面倒なのだけど、「浅田選手がリンクで使っていたティッシュペーパーが、浅田選手が宣伝に参加している製品なので、金姸兒が違反しているなら浅田選手も違反だ」という話らしい……いやはや。本当に、開いた口が塞がらない。

僕がこの話を「開いた口が……」と断じることができるのには理由がある。日本の各メーカーは、オリンピックの絡んだ宣伝に関してはちゃんと配慮をしていて、オリンピック開催中は、選手個人を宣伝に起用しているメーカーは選手を宣伝から外すようにしているのだ(IOC / JOC の公認宣伝を除く)。今回韓国ネットユーザーとやらが問題視しているティッシュペーパーの広告サイトにおいても、五輪期間中は、浅田選手の肖像を「出張中」と書かれた画像に差し替えていた。今のそのティッシュペーパーの広告サイト(←ブラウザ強制リサイズ + 音が鳴りますのでご注意を)で公開されている画像を、わざわざニュースサイトで公開している東亞日報のサイトからリンクしておくけれど、

この画像には「出張、おつかれさまでした。」と書かれている。ここに痕跡が確認できる通り、オリンピック期間中は、この画像は「出張中」ということで差し替えられていたわけだ。だから、このティッシュペーパーと浅田選手の直接のリンケージは、少なくともオリンピック会期中は断たれていたわけだ。

翻って、金姸兒の方はどうだろうか。僕がこの件に関して書いたのが3月4日で、そのときに宝飾製品の販売元では、「これが金姸兒選手の着用していたアクセサリーです」とメディアに嬉々として出演してすらいるわけだ。まあ、お話にならない。

正直、こんなことを書くのすら時間の無駄に思えるのだけど、まあ一応書いておく方がいいだろう。発言をしないと、考えてすらいないと断じられそうで怖いからね……

『捏造された聖書』読了

この邦題は、ちょっといかがなものか、と思うのだけど、この本の原題は "Misquoting Jesus --- The Story Behind Who Changed the Bible and Why---"(『イエスの誤引用――聖書を改変した人とその理由の背後にある物語――』というところか)である。新約聖書本文批評学の世界的権威であるバート・D・アーマン ノース・キャロライナ大学宗教学部長の書いたこの本は、彼の専門である新約聖書の「本文批評学」(多数の写本や引用をもとに、そのオリジナルの記述を求める文献学の分野)的分析に関して、実に明解に解説している本だった。

なにより興味深いのが、このアーマン氏が、子供の頃からの、いわば筋金入りのボーン・アゲインのプロテスタント(宗教的生まれ変わり、つまり「回心」を経験して、聖書の無謬性をバックボーンとした信仰をもつプロテスタント)だということである。聖書の無謬性を信じてこの道に入ったアーマン氏は、やがて自らの「第二の回心」とでもいうような境地に至った……聖書は数え切れない程の改変を経ている文書であって、オリジナルの文書が書き下ろされたそのときを含めて、記者の宗教的な思いが投影された文書として存在しているのだ、と。このことからも明らかなように、この本はいわゆる聖書根本主義者などにあるような聖書の都合良い解釈と対局にあるような、実践的な聖書の文献学的考察を示している。

やがてこのアーマン氏は、自分が不可知論者であり、世間で信仰されているような神を信じえない……との境地に至る。その心境を書いた『破綻した神キリスト』(これも邦題がなあ……原題は "God's Problem --- How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question - Why We Suffer---"(『神の問題――いかにして聖書は私たちの一番重要な問い「何故我々は苦しむか」に答えそこねるのか――』というところか)も手元に来たので、これも読み進める予定。え、お前はどうだって?まあ僕はトマスですからねえ。この問いは子供の頃から僕の中にはあったし、僕は不可知論者という程ではないけれど、「神様はそう簡単には助けてくれない」し、「神様は助け方を僕らの恣意に沿ってデザインしてくれるわけではない」と思っているのでね。まあ、それを自らに向けているからこそ、カトリックでい続けられるんでしょうね。

そう言えば、『誰も教えて……』とか、今回の『捏造された……』とかに言及すると、決まって然り顔で、

「その本は信仰の躓きを生みます」

とか言う輩がいたりするんだけど、そんなもの位で躓いてしまう位なら棄教してしまえ!と思うのをぐっと堪えて、

「お聞きしますが、あなたは読まれましたか?」

と聞き返すと、

「読みましたが、読むに足る本ではありませんでした」

とか、しれーっと言ったりするんだよなあ。ズバリ、アンタ読んでないだろうゴルァと聞いてみると、行頭だけ読み齧っているだけか、ひどいのになるとタイトル知ってるだけだったりするわけだ。本当に、そういう下らない奴等と一緒にはされたくない。

金姸兒選手は五輪憲章に違反しているらしい

これ、前から引っかかっていたのだが、金姸兒選手の付けたアクセサリーがオリンピック憲章に違反しているという可能性が指摘されているのだ。

今回問題になっているオリンピック憲章というのは、http://www.joc.or.jp/olympism/charter/pdf/olympiccharter2007.pdf の pp.88 に規定されている以下の条項である。

規則 51 付属細目
1. いかなる形の広告や宣伝活動、コマーシャル等も、人、スポーツウェア、付属品(より一般的には、選手もしくはその他のオリンピック競技大会の参加者が着用する衣類、使用する用具)に表示してはならない。ただし、下記細目8で規定される用品や用具のメーカー識別表示を例外とするが、かかる識別表示が広告目的で著しく目立たないことを条件とする。
(中略)
この規定に違反した場合は、かかる関係者の失格または資格認定の取り消し処分となることがある。本件に関わる IOC 理事会の決定を最終とする。

さて、では、以下の動画をご覧いただきたい。

これは先のオリンピック憲章に明確に抵触している。ただし、ここでのポイントは、最終判断が IOC の理事会でなされるということだ。IOC の現会長である、ジャック・ロゲ伯爵 Le comte Jacques Rogge は、腐敗と薬物汚染に関しては容赦しない、と明言しているけれど、サマランチ時代から、IOC は金で判断が変わるという一面を持っている。今回問題になっているJ.ESTINAが IOC に寄付でもしたら、この件がうやむやになってしまう可能性だってゼロではあるまい。それ以前に、日本の JOC や IOC、そしてスケート連盟の関係者から、この件に関する声が上がっている気配は皆無だ。世間の人々は、あーまたか、と諦め顔のようだし。

『誰も教えてくれない聖書の読み方』新共同訳引用集、完成

『誰も教えてくれない聖書の読み方』(ケン・スミス 著、 山形浩生 訳、 晶文社、 2001年)という本がある。聖書の中に実は存在している、我々の日常感覚からしたらあまりにトンデモな記述を辛辣、かつ痛快に指摘している本だけど、この本の訳で山形氏が使った聖書が、現行の新共同訳ではなく、日本聖書協会の口語訳・文語訳聖書なので、前々から、なんとかこの引用をすべて新共同訳聖書でできないものか、と考えていた。しかし、膨大なドキュメントを手で入力するのはあんまりだなぁ、と二の足を踏んでいたのだ。

そんなところに、「eBible Japan」「DT Works クラウド型聖書検索」という2種類の電子化聖書検索サイトを発見した。日本聖書協会は財団法人なので、新共同訳の文書も public domain なのではないか、と思っていたら、どうもやはりそうだったらしい。で、ようやく重い腰をあげて、ケン・スミスの本の引用元をすべて新共同訳でフォローした XML document を書き始めた。誰かが既にやっているに違いない、と思いつつ、聖書でいちいち確認しながらのコピペにうんざりしながらも、ちょこちょこ暇をみつけては作業を継続した結果、今日、ようやく最後まで引用元をフォローしおおせた。

この労苦を簡単に public domain で公開するほど僕は犠牲的精神にあふれてはいないので、このアーカイブをどうするかは目下考え中である。もちろん、不用意に公開などしていないので念のため。まあ、何かのかたちで皆さんに公開することもあるかもしれない。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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