復活

先程プロバイダから替えのモデムが送られてきた。ほー最近のは有線・無線兼用(当然だけど無線 LAN は使用しない)で、おまけに 26M 対応……まあ、ADSL の最終形なんでしょうね。接続してゲートウェイの設定をちょこちょこいじって(デフォルトの管理パスワードなんて怖くてとてもじゃないけどそのままになんかしておけませんよ)、再接続処理をして1分で安全な接続完了。いや、安定している。

それにしても、連休前にこうなったのはむしろ幸いなのかもしれない。連休中にこうなっていたら、書きものに多大なる支障が出ていたに違いないし。ということで、まずはご報告まで。

マメが

今日は、ネットワークが死んでいるのもあるので、せっかくだから楽器の練習を、とベースを弾いていたのだが、しばらくサボっていた報いで指にマメができた。右の人差し指と中指にできるのはいつものことなのでいい(これが硬くなった状態がいいのだ)のだけど、今回はベースを弾いて二十数年、初めて左の人差し指にマメができた。これはよろしくない。悪い癖がついている証拠である。

普通はマメは潰さない方がいいのだけど、今回は潰した。右手のマメが血マメだったのもいつものことだ。

こまめに練習を継続して、早く指を固めなければならない。今までのツケは、払わずに済ますことはできないのだ。まあ、何事も一緒ですよ。

モデム壊れる

僕は家では未だにADSLを使っている。マルチメディアをネットワーク経由で使うことが少ないからなのだけど、今回ははまってしまった。散々再起動を試みて、内部のリレーの動作音がしないので、あーこれぁあかんか、とプロバイダーのサポートに電話したら、担当者が僕の履歴を検索しながら、呆れたようにこう言ったのだった。

「いまのモデム、もう8年もお使いなんですね」

アナログ機器でも、特にモデムはそこそこ電圧もかかるし、壊れやすい物の上位に来るものなのは分かっているんだけど、まさかこのタイミングとは思わなかった。やれやれ。水曜日までケータイでしかアクセスできないとは。

衆愚政治

以前、とある場所で「衆愚政治」という言葉を使ったら、それは何ですか、と訊かれた。うーん、最近は世界史とかでこの言葉を教えないのだろうか、と思いつつ、古代ギリシャの市民政治の話などをしたのだった。

僕はよく、愚鈍な大衆が政治にコミットすることを揶揄してこの言葉を使うけれど、正確には「衆愚政治」という言葉の本来の意味は、それとは少し違う。古代ギリシャ(アテナイなどを思い起こしていただければいいのだが)における衆愚政治というのは、民衆が愚かというよりは、政治家として愚かな輩が集まって愚かな政治を執り行うことと言うべきだろう。アテナイでは、公職は市民(これは一見民主的に見えるけれど、当時の市民は奴隷と峻別されていたことを忘れてはならない)から抽選で選出されていたので、そういうことになったのである。

さて。事業仕分け第二弾が始まったけれど、僕が「なぜ二番を目指してはいけないのか」で書いた通りの様相を呈している。あーやっぱり書いた通りだったか、と思っていたら、今日放送された「たかじんのそこまで言って委員会」で、慶応大の岸教授が「官僚は民主党の政治家が馬鹿だということに気付き、失望している」という発言をしていた。まあ皆さん感じるところは同じなのであろう。

「バンキシャ」をたまたま観ていたら、蓮舫の追跡取材の内容を放送していて、仕分け前のヒアリングが行なわれた後、他の議員達と蓮舫が、

「これはとても面白い」

「どこまでやっちゃおうか」

などと話している光景が流れていた。皆さん、仕分けはこういう感覚で行われているんですよ。

さて、現在、沖縄に、奈良や北陸にあるような先端科学技術大学院大学を設立する計画が進んでいる。ノーベル賞受賞者が全体の半数を占める理事で構成された独立行政法人が、この計画を実際に進めているわけだけど、この法人が、事業仕分け第二弾で最初の槍玉にあげられた。

蓮舫大先生は、理事の年収10000ドルという報酬が高過ぎるとかみついた。へー、じゃあ蓮舫大先生、あんたが iPhone でつぶやきに使っている通信費、一月お幾らなんですか?この理事の年収より多いんですよね。議員として必要だ、と仰るけれど、冠婚葬祭の電報や、票田に出す葉書や、そしてあんたのつぶやきごときのために、ノーベル賞クラスの研究者に一年に支払われるより多い金が、一月で消えてなくなるってのは、これはおかしくないんですか?

たとえば普天間の問題で、現在の普天間飛行場が何処に移転するかはさておき、あの飛行場が移転した後には、宜野湾市に広大な空き地が出現することは確実なわけだ。宜野湾市というのは、那覇から距離にして 10 km 程度しか離れていないから、この土地をどう活用するか、というのは、未来の沖縄の運命を決定づける重大問題だ、と言っても過言ではない。

沖縄は全国でも最も失業率が高い県である。この県において急務なのは、内需拡大であり、雇用創出である。普天間の飛行場跡地を、もしも学術都市の建設に有効に使えれば、なにせ場所が沖縄なんだから、ここで国際会議をしよう、という人も集まるだろうし、院生としての時期、あるいは研究の実働部隊としての日々をこの地で過ごそうという人も集まるだろう。そういう人達が集まることによって、たとえばバークレイのような雰囲気が沖縄に醸成されるならば、それは沖縄全体のイメージを変える。今迄来なかった人が訪れるようになるだろうし、今迄住まなかった人が住み、産み、増え、生活が拡大するだろう。勿論、内需拡大とか雇用創出という意味では、これは些細なことかもしれない。けれど、一地方のフレイバーを変えるような影響を及ぼすことができるならば、それは経済的に少なからぬ意味を持つはずだ。

政治家の仕事は、そういったアクションを起こすことであって、誰かが起こしたアクションを、雛壇で評価することではないのだ。アクションを潰すこと、アクションをスポイルすることが政治家のミッションとしての優先順位が上だ、など、勘違いも甚しいと言わざるを得ない。

皆さん、いい加減に気付きましょうよ。偉い人達にエエカッコシイしたがってる民主党のセンセイ諸氏の欲求を満たす前に、考え、方向付けをし、アクションを起こさなければならないことが存在することに。

shell

最近、ちょっと環境の問題で音楽制作ができていない日々が続いているのだが、こうなると本当に Windows を起動する機会が減ってしまう。Steinberg CUBASE が Linux 上で動作して、ASIO をがっちりと Linux 上で扱えるならば、僕にとって Microsoft Windows というものの存在意義はゼロである。今の手持ちの VSTe / VSTi が使えなくなってもいいのだったら、早々に Mac に鞍替えしていてもいいはずだ。Mac OS X 上で生きていくことになったとしても、最近はMacPortsというものがあるし。

で……、時々聞かれることがある:「Linux、Linux って仰ってますけど、日常生活で必要なことに Windows がないと困るじゃないですか」否。web ブラウズは何も支障ないし、メールはどのみち Emacs 上で Mew を使うんだし、Microsoft Office なんて、余程必要のあるときしか使わない。これだって、plain text で書くか OpenOffice.org で書くかして、職場の Office にインポートしてフォントを揃える位しかすることはない。ああ、そうそう。あと一つだけ困るのは iTunes だなあ。まあ、MacOS の端末がひとつあればそれで済む話だし、それに手元の iPod だっていずれはiPodLinuxで使う日が来るかもしれない。

と、こんな話をしても Windows に慣れ親しんだ人々は納得しない。僕は、正規表現、ヒストリ、そしてヒストリの強力な検索・編集機能を有する shell は GUI に勝るんだ、という説明をさせられるはめになるわけだ。

いいですか、ここにファイルが100個あったとしますよね。で、そのファイルが 001 〜 100 という数字のファイルネームがついているとしましょう。もしこのファイルより古いファイルが36個見つかって、001 を 037 に、100 を 136 にしなきゃならないとして、Windows でそういうときはどうするんですか。ブラウザでひとつひとつファイル名を書き換えるんですか?もし僕だったらバッチファイル書いてやりますけどね、結局それって shell で CUI 使うってことじゃないですか。だから、GUI でマウスでやるから便利だというものでもないんだ、って、思いませんか?

……とか、書いて再現しているだけで腹が立ってきた。あー面倒だな。まあこういう人は放置するんだろう。でも、僕も shell に関しては少々困ったことがないわけでもない。僕が初めて触った UNIX は SunOS 4.1.1 だったから、標準の shell は csh だった。程なく NeXTSTEP を触るわけだけど、これの上でも csh だった。pure な csh というのは、実はあまり快適なものではない。勿論、エイリアスとかヒストリにおいては、Bourne Shell より優れていたわけだけど、僕が UNIX を使い出して程なく、世間では tcsh が流行り出して、僕も tcsh を使っている時期が長かった(ちなみに現在は専ら bash を使っております)。けれど、インタラクティブなユーザインターフェイスとして以外の shell としては、僕は早々に csh 系に見切りをつけたのだった。パイプとかリダイレクトとかを使い出したとたん、csh の挙動は僕にとって恐怖の対象になったからだ。少し経ってから、恐る恐る情報系の友人(彼は丁度その頃に Korn Shell に鞍替えして、へーコーンシェルねーあの頭のトンガってるやつでしょ、いやそれぁコーンヘッドだよ、とか下らない話をしていたのだったが)にこのことを聞いて、あーそれはね……と説明を受けて、あー俺はそんなに変なことを考えていたんじゃないんだ、と安心したのを今も覚えている。

で、まだ学生のときのこと。僕自身が強く必要になったわけではないのだけど、ひょんなことから、密度汎関数法というものをするために、自分の端末を使うことがあった。日本の材料科学の世界では、京大の足立裕彦名誉教授(当時はまだ教授だったけど)の開発されたDV-Xαという手法が非常に高い信頼をおかれていて、僕も研究会に入ってソースを入手した。で、インストールしようかなあ、と思って見てみると、DOSで散々ヤクザなことをしなければならないようになっている。こちとら貧乏研究者で、商用の FORTRAN なんて買えなかったので、当然のように f2c(当時は g77 もまだ信頼性が確立しておらず、当然 gfortran なんて存在しなかった)でやろうとしていたのだけど、あーそれなら UNIX 上でできるようにスクリプト整えたのがありますよ、と紹介されて、見てみたら、全部 csh script で書かれていて、天を仰いだ、なんてことがあったのだった。ビル・ジョイと某研究者に呪いの言葉を吐きながら、Bourne Shell に書き換えて、その後他のことでバタバタしていたので、結局これを DV-Xα 研究会にフィードバックしていない。就職してから、足立氏のグループが初学者向けの本にソースを CD-ROM で添付して出版していたけれど、あれの中に入っているのも、僕が呪った csh script のままのはずだ。

考えてみたら、その前にmxdorto使ったときも、たしか NeXT の absoft FORTRAN compiler でコンパイルしようとしたら COMMON 文のエラーが洪水みたいに出て、端末室で泣きながら書き直したんだった(今さっき Intel Fortran でコンパイルしたらなんと no error ! ただ do 文とかがどうも少しアヤしいような気もするなあ……ぶるぶるぶる、いや僕ぁもう書き直しませんよええ、そんな子犬みたいな目で見られても)。なんだか、僕の人生、こんなことばっかりのような気がしてきて、暗澹たる気分になってくるのだけど……なんだかなあ。

upTeX / upLaTeX を使う(2): 日本語フォントの埋め込み

とうとう shannon(僕の Linux マシン……名前であるいは御想像の方がいるかもしれないが、 Dell のマシンなので Shannon と付けた)から Debian が供給している TeX Live 関連パッケージを全廃した。全面的に upTeX / upLaTeX に移行したのだ。前は英語だけ TeX 上で使えればあまり問題なかったのだけど、日本語とギリシャ語を使う必要が生じたので、upTeX / upLaTeX + Babel で処理することにしたわけだ。これでもはや何も問題がないような気になっていたのだけど、やはり気になるのが日本語のフォントである。

今迄、日本語に関しては、おそらくほとんどの方がされているのと同じ扱いをしていた。つまり、日本語以外のフォントは PDF に埋め込むけれど、日本語フォントだけは Adobe の font に任せてしまう、という方法である。まあ、PDF を表示・出力するほとんどの場合で Adobe Reader / Acrobat を使うことになるので、普通ならこれで問題はないわけだ。しかし、僕の場合は Ghostscript を使うケースが多いので、日本語フォントもできれば埋め込んでしまいたい。日本語のフォントで何か印刷に耐えるものを、と考えても、どうもあまりいい方法がない。

こういうことを書くと、「こんなことも知らないのか」という調子で Microsoft のフォントとか Adobe のフォントの埋め込み方を教えようとする人がいそうなので書いておくけれど、方法としてはそんなことはすぐにだってできる。そういうことを安易に他人に教えようとする輩は、Microsoft や Adobe のフォントの権利条項を読んだことがないはずで、両者共に、自社のシステム以外でそれらのフォント使用を許可しない、と明記していることを知らないのだろう。

xtt とかで表示に用いるんだったら、まあ本当はいけないんだけど、どうせこのマシン使うの俺だけだしい……とか言って MS 明朝とかメイリオとかを表示に使っている人が結構いるのだろう。僕は M+ と IPA フォントを合成したものを画面表示に使っている(ちなみに dual boot できる Windows Vista でも画面表示にはこれを使っている)。画面はこれで問題ないのだけど、僕の場合はフォントを埋め込んだ文書を配布する必要が生じることがある。こうなってくると厄介なわけだ。

実は、upTeX / upLaTeX では、日本語のフォント埋め込みは至極簡単にできるようになっている。/usr/local/teTeX/share/texmf/web2c/updmap.cfgで、

# kanjiEmbed {noEmbed|hiragino|kozuka|morisawa|ipa|etc..}
kanjiEmbed noEmbed
とあるのを、たとえばkanjiEmbed ipaと書き換えて、mktexlsr → updmap-sys とでもやればいいだけだ。これで、dvipdfmx で PDF を生成すると IPA 明朝と IPA ゴシックが埋め込ませるようになる。しかし……実際に埋め込んでみると、やはり、美しくない。

美しい / 美しくない、などという言葉を使うだけで変だと思われそうだけど、TeX / LaTeX を使っている僕の知り合いの間では、少なくとも TeX / LaTeX に関しては、この言葉は重要な評価基準になるのだ。論より証拠、Adobe CID フォントの場合(Morisawa Passport を仕事用に所有している S に確認してもらったところ、このフォントは「小塚明朝 Pro」だとのこと)と、IPA フォントの場合の双方を見比べていただければいい。明らかに前者は後者より「美しい」のだ。ひょっとしたら、IPA の方が美しさに欠けるのは、Σのタタリかもしれないけれどね。はあ。しかし、どうしたものか。

……と悩んでいても仕方がない。あれこれ試してみたが、IPA ex明朝 / exゴシック 辺りなら使えそうなので、/usr/local/teTeX/share/texmf/fonts/map/dvipdfm/内の ptex-ipa.map と utf-ipa.map を基に、IPA ex明朝 / exゴシックフォントを参照するように書き換えた map ファイルを ptex-ipa2.map と utf-ipa2.map という名前で作成し、/usr/local/teTeX/share/texmf/web2c/updmap.cfgを、

# kanjiEmbed {noEmbed|hiragino|kozuka|morisawa|ipa|etc..}
# kanjiEmbed noEmbed
kanjiEmbed ipa2
と書き換えて、mktexlsr → updmap-sys としてみる。うまくフォントの埋め込みはできるのだけど、
** WARNING ** Glyph missing in font. (CID=138, code=0x0336)
というメッセージが……うーん。グリフのエラーということは、フォントにない文字があるのか。どうも困ったものだな……

実はこんな感じの

皆さんは、アカイカというイカをご存知だろうか。かなり大型のイカで、大きいのに大味ではないために、食品産業では重宝されるイカらしい。これは余談だが、以前、日本のとある漁村にダイオウイカが打ち上げられて、その村で「このイカを皆で食べよう!」ということで、巨大イカリングを作ったりして盛り上がったクライマックスに、村民皆で「せーの!」で口に放り込んで、数秒後に皆吐き出した、ということがあった。そのときの村民の話によると、食べた感じは「スポンジに海水を染み込ませて齧っているような感じ」だったそうで、なるほどたしかにそんなだったら食べられなかったろう。こんな風に、ダイオウイカは食えたものではない、という話だが、アカイカの方は、ちょっとモチモチした感じの食感で、冷凍するとまた食感が変わって美味しいのだ、という。

このアカイカを通販で販売されている I.C.ティアラム株式会社のネット通販店舗「山陰とれたて本舗」のページで公開されている画像をリンクしておこうと思う。こんな感じだ:

誤解なきよう更に書き加えておくけれど、このアカイカは美味しい。美味しいのではあるが、回転寿司屋の厨房の奥のまな板の上に、このイカがでで〜ん、と鎮座ましましている様を想像すると、正直言ってちょっと腰が引ける、かもしれない(いや、でも、安くて美味しい良品なんですよ、本当に)。

……という話を某所でしていたときのことだ。

「なるほどねえ。そういう、加工現場の見えない食べ物って、都市伝説になりそうですよね」
「でしょう?なんかねえ。いや、アカイカはいいんだけど、僕も知らない未知の生物がいたりしたら、ちょっと厭だなあ、と思って」
「たとえば、どんなのです?」
「うーん……」

こういうときは、S は頭の回転が速い。

「手羽先屋で、千手観音みたいに全身に手羽先が生えてる鶏を飼育している(手羽先屋の名誉のために書き添えておくけれど、そういう話は今のところないと思います)、とか?」
「あーそうそう。そういうの」
「それって、都市伝説としては結構聞く話だけどね」

僕の頭の中には、おおむねこんな感じの鳥が浮かんでいた。さしづめ、「生産者利益の追求のため、遺伝子操作で作られた異形の鶏」とでも言うところか。

「Thomas さん、そういうのってできないの?」

僕は iPS 細胞の話とかをして、そういう話はあながち完全にホラ話とも言えないご時世なんだよ、とか説明した。で……

「まあ、既存の生物のモディファイ、ってことなら、不可能ではないでしょうね。コストが割に合わないとは思うけど」
「……何だか気持ち悪い話ですねえ」

むしろ、僕に言わせれば、何から何まで未知の生物の方が気持ち悪い。そういう話をすると、

「たとえばどんなのです?」
「そうだなあ……たとえば、回転寿司のネタがね、そのネタからは想像もつかないような生物の一部だったとしたら、どうします?ホタテの貝柱、なんて、寿司ネタでは人気がありますけど、あれが実は筒状の生物のスライスだったらどうか、とか」
「筒状って?」

で、僕が彼らに説明したのがこんな感じのものだった。

「やめて下さいよ!僕、回転寿司で、ホタテ食えなくなっちゃうじゃないですか!」

と、あのとき皆に言われたけれど、こんな生物、実在したら、皆さんどうします?

黄長Y暗殺未遂事件

アイスランドの火山、スペースシャトル、普天間問題の3ニュースの影に隠れているけれど、こんなニュースが流れている。

韓国、偽装脱北者を逮捕 黄元書記の殺害計画か

【ソウル共同】韓国の情報機関、国家情報院と検察当局は20日、1997年に北朝鮮から韓国に亡命した黄長ヨプ元朝鮮労働党書記を殺害する目的で、北朝鮮からの脱出住民(脱北者)を装い韓国に入国したとして、工作員2人を国家保安法違反容疑で逮捕した。聯合ニュースが報じた。

 同ニュースによると、2人は昨年11月、北朝鮮人民武力省から黄元書記の殺害指示を受け、同12月に脱北者を装って中国とタイを経由して韓国に入国。脱北を偽装した可能性があるとして国家情報院が取り調べたところ、殺害指令を自白したという。

 2人はいずれも朝鮮労働党員で、同省から工作員教育を受けていた。韓国では黄元書記の通う病院や立ち寄り先などを割り出し、具体的な殺害指示を受けることになっていたと供述しているという。

 検察当局は、韓国内に協力者がいる可能性があるとして、国家情報院と協力して捜査を進める方針。

2010/04/20 23:51:50【共同通信】id

韓国でこの話が報道されているか調べると、以下の2記事が引っかかってきた。

上海万博を控えたこの時期に出てくる話にしては、少々きな臭い。

黄長Y(ファン・ジャンヨプ)という人は、北朝鮮において主体(主體、チュチェ)思想を体系化した人物である。つまり、金日成以降の独裁政権の理論的支柱を確立したわけで、北朝鮮では一時ナンバー2と言われていた。しかし、とある事情(本人は北朝鮮の実情への義憤にかられたため、と言っているけれど、党内の立場が悪くなったから、あるいは、国外在住の女性と懇ろになったためだという説もある)から家族を捨てて亡命した。それ以来、何度となく北朝鮮からの脅迫に遭っていたわけだけど、こうも具体的に暗殺事件が発生したのは今回が初めてかもしれない。

それにしても、黄氏が理論構築した主体思想というのはつくづく罪深い。古くは、よど号ハイジャック事件の際に、犯人グループは主体思想(当時の映像を観ると、彼らが「しゅたいしそう」と読んでいるのが確認できる)への傾倒を主張して北朝鮮に渡ったのだった(もっとも、彼らは北朝鮮を思想的に正そうとしていた節があって、要するにミイラとりがミイラになったような体なのだけど)。黄氏が亡命し、主体思想を「マルクス・レーニン主義を極東に適用したもので、もともと独裁政権を正当化する方便として構築したものではない」と言っても、実態として、彼の国は既に三代目を世に出そうと準備している最中だ。ソ連崩壊後、東欧からトルクメニスタンのような独裁国家が出現したのだって、北朝鮮の存在とまんざら無関係ではなさそうなわけで(もっともトルクメニスタンは国民が富裕な生活を維持できていたので大した文句も出なかったようだけど)いや本当、つくづく罪深いと思う。

ディスクトップ(続・レスって何ですか)

前述の mixi のトピックは、生越氏が昔書いているような「情報乞食」の集団だと判断して、切り捨てることにした。「情報乞食」というのは、生越氏がもう十数年前に書いている文書に話が出てくるのだけど、該当部分を引用しておく:

このような善意で情報提供をしているような人を脱力させるような人は、はっきり言えばLinuxを使う資格なぞない。Linuxは誰に対しても平等に与えられている存在である。また、いわゆる「Linuxでメシを食ってる」類のサーバ屋等がその顧客に対している時を別にすれば、誰かが誰かに対して何らかの義務を負うようなものではない。つまり「お客さん」というものは存在していないのだ。

確かに情報を提供したり、ソフトを作ったりしている者と、それを使う人との間には、ある種の「立場の違い」は存在している。しかし、そうであればなおのこと、「利用者」は「提供者」に対して気を使うべきではないか? これが一般の製品なら、「利用者」は一定の対価を払って使っているわけであるから、「利用者=お客さん」である。しかし、Linux界ではそのようなことに対価を払っている人はいない。仮に「CD-ROMを購入」していたにしても、それは「対価を払った」ということにはならない。そうであるなら、「利用者」は単に「提供者」の善意にすがっているだけの存在に過ぎない。つまり、「お客さん」なんかではなく、「乞食」も同然の立場であるとわきまえるべきである。その「乞食」が「提供者」に対して「お客さん」のような気分になっているのを見ると、「お前は何様のつもりだ?」と言いたくなって来る。

これは別に「提供者は偉いんだ」ということを言っているのではない。あくまでも「お客さんなどという立場は存在しないのだ」ということを言っているに過ぎない。また、仮に「提供者は偉い」ということを言うにしても、Linuxはいつでも誰でも「提供者」になることが可能な世界である。そう誰もが当事者なのである。誰もが当事者であるが故に、「お客さん」という立場が存在してないとも言える。「単なる利用者は乞食のようなもの」と言われて悔しければ、それについて文句を言うのはなく、「提供者」になりさえすれば良いのだ。そして、その「提供者」には誰でもなれるのがLinuxである。

さて……で、件の乞食の集団トピックで最近しばしば目にするのが「ディスクトップ」なる、これまた意味不明の term である。明らかにこれは desktop デスクトップ の間違いなのだろうと思うけれど、この単語、僕の知らないうちに世間に定着してしまってやしないだろうか?ということで、google をつついてみると、

http://www.tt.rim.or.jp/~rudyard/gaigo001.html

なる文書が一番目に出てくる。この文書でディスクトップなる言葉が指摘されたのが2003年末だ、というから、つくづく日本人も馬鹿になったものではないか。

しかも、最近の google は もしかして:デスクトップ などと表示せず、「ディスクトップ」で検索をかけると直接「デスクトップ」の検索結果を合わせて表示するようになっている。これはどう捉えたらいいのだろうか……それだけこの面妖な単語が使われるようになっているということだろうか。なんだかねえ……

レスって何ですか

……というフレーズを目にすると、僕が思い浮かべるのは void こと くさかべよういち(後記:さっき見て驚愕した……「けんいち」じゃなくて「よういち」だってば……すみません風邪ひいて寝込んでるときに書いたのでボケてますわこれ)氏である。void 氏とは一度位はメールでやりとりしたことがあったかもしれないが、彼の発言の特徴を言い表すのに、よくこのフレーズは使われたものである。

僕は、もうこの「レス」問題はすっかり世間に知られていると思っていたのだが、今日、mixi(なんでも void 氏は mixi を強制退会させられたという話だが、だとしたら mixi も随分と戸口の狭いサロンだと言わざるを得まい)で res なる意味不明の単語を乱発する輩に遭遇した。さすがにこれを見て、僕も不安になった。世間の変質の極みとして、ついにこんな変な言葉が一般化したのか?と。

なぜ、返信の意味として「レス」と言うのがおかしいのか、というと、まず僕の英語感覚がそう訴えるのだ。英語で res というと、日本語の「物件」とか「事案」とか、そういう意味で使われる、というのがまず思い浮かぶ。英辞郎でも、Merriam-Webster Online でも、res と入れて最初に出てくるのはこれだ。

では、他に出てくるのは何か、というと、ラテン語の「起こったこと、なされたこと、行為」(先の res の意味の場合でもそうだけど、法律関連で使われることが多い)というのがくる。res gestae とか res publica の res がこれだ。

いやレスってのは略語なんでしょ、とか言われそうなので、Merriam-Webster Online で abbreviation を見てみると、research, reservation, reserve, reservoir, residence or resident, resolution... と続くけれど、「返事」に相当する単語は一向に現れない。おそらく「レス」というのは response の略だ、と言いたいのかもしれないけれど、response を res と略すという例は、僕の知る限りは存在しない。僕の英語感覚で言うと、コンピュータ関係で res と聞いて思い浮かべるのは resolution だろう。どこをどう引っくり返しても、response なんて出てこないのだ。

今回調べてみて、やはりこう結論付けざるを得ない:「返事」の意でレスとか res とか書くのはおかしいのだ。いやそうは思わない、確固たる論拠があるんだ、という方は、是非ご教示(これも最近は「ご教授」と書く馬鹿が多いみたいだけど)いただけると幸いである。

なぜ二番を目指してはいけないのか

蓮實重彦という人がいる。仏文学者で、映画評論などでも有名な人だ。この蓮實氏、以前、東大の総長を務めていたことがあるのだけど、ちょうどその頃(具体的には1987年から1988年にかけて)、こんな事件があった。当時東大教養学部教授であった西部邁(「朝まで生テレビ」などで御記憶の方も多いと思う)氏が、浅田彰と並んでいわゆるニューアカデミズムの若きホープとして注目されていた中沢新一氏を東大教養学部助教授として推薦したのだが、学部内でゴタゴタに発展して、結局中沢氏の任用はなし、西部氏も上職を辞任した、というものである。これは「東大駒場騒動」として知られているのだけど、このとき学内は揉めに揉めて、公開討論会などが行われたらしい。蓮實氏は中沢氏に対して好意的であったので、当然そちらの側に立ってこれらの討論に顔を出していたわけだが、その席で、一人の学生が蓮實氏にこう聞いたという。

「なんで大学の先生の言葉遣いというのは、こんなに難しいのですか」

この問に対して、蓮實氏はこう答えたという。

「何故、難しいのか。それはあなたが馬鹿だからです」

この話は、大学時代に聞いたのだけど、当時の印象は、うわー東大怖い怖い、というのが半分、残り半分は「あんな日本語書いてる人が言っても説得力ないよなあ」というものであった。蓮實氏の日本語は、だらだらと(率直に言うと、無駄に)長く、断定的になることを極力回避したもので、ああもだらだら続く日本語というのは、蓮實氏の他には石川淳位しか思い浮かばない。ジャック・デリダの書いたものを、ノーム・チョムスキーは「単純なアイデアをむやみな修辞で記述している」と酷評したという話があるけれど、なるほど、ポスト構造主義好きの蓮實氏は、そういうところも良く似ているのかもしれぬ。

蓮實氏の主張は、好意的にみれば「いやしくも東大に在籍する学生が、学術的厳密性を満足するような論理的表現を『難しい』などと片付けてはならぬ」という意図だったのだろう(夏目漱石も書いている:「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」(『こころ』41章))、と考えられなくもない。こういう意図であるならば、僕も頷けないことはない(というか、この主張の通りであったならどれだけ楽に生きられるだろうか、と思う)のだが、世間というのは残念なことに、学術的厳密性を満足するような論理的表現を『難しい』と切り捨てる連中が生殺与奪権を握っていることが往々にしてあるのだ。

そろそろ、民主党の事業仕分け第二弾が始まるのだけれど、今度は大学入試センターを民営化しろ、などという話が出ているらしい。そもそも、大学入学資格の認定に関わる業務が世間でどういう扱いになっているか、と考えると、ヨーロッパでおなじみのバカロレアはスイスの財団法人 国際バカロレア機構(Organisation du Baccalaureat International)が(正確には、バカロレア資格の得られる教育課程の)認定機関になっている。アメリカの場合だと、たとえば SAT がこれに該当するわけだけど、SAT を運営しているのはCollege Boardという組織で、ここも非営利目的の独立法人である。国の教育システムの最上部をなす大学の入学資格を扱う機関は、こうやって見てみても、民間営利法人とはあいいれないものであって、私大も使うし受験生は受験料を払うから民営化できるだろう、というのは、国の根幹をなす教育システムに対する暴挙だと思うのだけど、この国ではもはや施政者がそういうことも理解できない状況なのだ……大学入試センターを民営化する前に、国会議員全員の給与を2割カットする(一人あたり年額で500万近く、衆参両院で年に数十億の節約になる!)方が財政への効果は大きいと思うのだけど、当然こういう話が連中から出てくるはずもない。

とはいえ、連中は施政者である。蓮實氏のやったように「馬鹿」と片付けてそれで済む訳ではない。だから、こういうときには、馬鹿でも分かるように説明しなければならないのだ。少なくとも、前回の事業仕分けのとき、仕分ける側が馬鹿だ、という前提が、仕分けられる側に欠けていたのは、これは戦略不足と言われても仕方がないだろう。

たとえば、スパコンの予算を削るのにあの蓮舫が言った「二番を目指しちゃ駄目なんですか?」という質問にどう答えるべきだったのか:

解答例:「高速なコンピュータは同一の計算量をより安く得るために必要なのです」
理由:
同じ時期に作られた高速コンピュータのランニングコストはそう変わらないと考えられますから、より速い計算速度を得られれば、速く計算ができる分、同一計算量あたりのコストをより低く抑えることができます。しかも、新しい世代のコンピュータはより低ランニングコストでの運用が可能となるように設計されますから、世界ランキングで少しでも上位のコンピュータを得ようとすることは、より安い計算コストのコンピュータを得ようとするのと同じことなのです。

彼らにはおそらく、こういう説明をしなければならなかったのだと思う。ただね……馬鹿は、あまり馬鹿丁寧に説明されると、自分が馬鹿だと思われているんじゃないかと勘繰って逆ギレすることがあるからねえ……その匙加減は、なかなかに難しいのかもしれない。馬鹿なセンセイ様相手のときは、特に、ね。

upTeX / upLaTeX を使う

ptetex3導入後はかなりいい感じだった僕の TeX / LaTeX 環境であったが、やはり Unicode native にしておきたいなあ、と思っていたところにupTeX / upLaTeXの存在を知った。せっかくなのでこちらに移行しておくことにする。

upTeX / upLaTeX は ptetex3 への patch という形態で供給されている。僕の手元の環境では、まず、

を同一ディレクトリに入れ、ptetex と uptex の archive を展開しておく。ptetex のディレクトリ内で、
$ cat ./my_option.sample | nkf -w > ./my_option
$ vi ./my_option
my_option の内容は特に編集の必要なし(僕の環境の場合)。で、
$ cp ../uptex-[ver.]/patch/* ./
と patch を準備しておいてから、
$ ./0uptex.sh
$ make babel
$ make font
$ make fonty
$ make otf
で、後は make test でテストし、make install で /usr/local/teTeX 以下にインストール。

例の「『誰も教えてくれない聖書の読み方』新共同訳ガイド」の LaTeX document のクラス定義文を、

\documentclass[a4paper,12pt,uplatex]{jsbook}
とかして uplatex を通すと……おお、「しおり」が文字化けしないぞ。なるほど……

以下参考。

Look-and-say sequence

『カッコウはコンピュータに卵を産む』を僕が初めて読んだのは、おそらく大学の3年か4年のときだったと思う。当時はヘコタれていた話にも、今の自分は結構食いついていけるので、この本に出てくる話でも、たとえば GNU Emacs のセキュリティホールと出てくると、あー movemail の話だよね、だからここでメール云々と出てくるのは rmail のことを言ってるのか、位は何とかなるわけだけど、下巻の pp.170 で、クリフォード・ストールが、Bell Labsとあの悪名高いNSAで活躍した暗号学者であるRobert "Bob" H. Morris(1988年にインターネットを壊滅状態にしたことで有名なMorris wormの作者Robert Tappan Morrisの父親である)にクイズとして出題された級数、というのが、哀しいかな、完全自力では解けなかった。

そんなふうにして、ひとしきりなぞなぞや回文で遊んだ。これはどうだ、とボブは一連の数字を書き並べた。

1, 11, 21, 1211, 111221。

「この級数をつづけてごらん、クリフ」

私は五分間黒板をにらんで降参した。きっと簡単なことだろうとは思うけれど、今にいたるまで私はこれが解けぬままである。

これは想像なのだけど、おそらくクリフはこの問題の答を知っていると思う。彼の身近にいる物理学者だったら、一人位はこの級数を知っているだろう、と思うからだ……この級数は、標記の通り、"Look-and-say sequence" と呼ばれる。日本語で言うならば、さしづめ、「『見て言って』級数」とでもすればいいのだろうか。この級数を自力で解きたい方は、この次の行からはお読みになられないように。

さて、この級数だけど、その名の通り、項を「見て言って」次の項が決まる、というものである。この場合、a1 = 1とまず定義する。そして、次の項a2を決めるためにa1を見返す。a1は「1個1がある」→a2 = 11と定まる。次の項a3を決めるためにa2を見返すと、a2は「2個1がある」→a3 = 21と定まる。次の項a4を決めるためにa3を見返すと、a3は「1個2があり、1個1がある」→a4 = 1211……という風に、以下、111221、312211、13112221、1113213211……と決まっていくのである。以下、Fortran で(すみませんね古い奴で)a10まで計算した結果を参考までに載せておこう。

  1. 1
  2. 11
  3. 21
  4. 1211
  5. 111221
  6. 312211
  7. 13112221
  8. 1113213211
  9. 31131211131221
  10. 13211311123113112211

この級数には、いくつか面白い性質があることが知られている。たとえば、これらの項を見て何となく予想できると思うけれど、この級数の各項は 1, 2, 3 だけで構成されている(つまり、同じ数字が4つ以上連なることがない)ようだ。また、上で最初に定義したa1を色々変えることを考えると、a1 = 22an = 22 for all nNとなるのはお分かりだろうと思う。他にはどんな性質があるのだろうか。

実は、この級数には、あのライフゲームを考案したイギリスの数学者ジョン・ホートン・コンウェイ John Horton Conway によって、更に不思議な性質があることが明らかになっている。上に示したように、この「『見て言って』級数」は、項数nが増えるとすぐに巨大な桁数になるのだけど、よーく見ると、項が長くなるに連れ、その項がいくつかの要素……各々の要素を別々に「見て言って」操作をしてからくっつけても、くっついた状態で「見て言って」操作をしても、結果が変わらないような要素……に分割できることが分かる。コンウェイは、その要素が合計92個であることを示した。この92という数は、水素からウランまでの原子番号に等しいので、分割できない要素を原子になぞらえて(ギリシャ語の ἄτομος は「分割できない」という意味である)、上述の「見て言って」操作を分類している。たとえば22 は最も安定な水素、3 はウラン……という具合である。

ちなみに、この話に関しては、日本語で書かれた明解な document がまだない状態、のようだ。暇なときにでも、英語の文献をちょこちょこ読んでおこうと思う。

無勉強?

mixi の Linux のコミュニティに「初心者のくだらない質問スレッド」というのがある。これの質問に時々答えようとするときがあるのだけど、やりとりをしているうちに嫌気がさしてしまうことが多い。世の中、自分の言う/書くこととか、他人の言う/書くことをろくに読まずに、ただ「教えろ」「教えろ」と言う/書く人が、どうしてこうもはびこっているのだろうか?

あまりにひどいので、あーここは「くだらない初心者の質問スレッド」なんだ、と理解して放置することにするのだけど、でも時々質問を読んで仏心を出してしまう。で……とある質問(この質問がそもそもおかしいので、率直に答えることが不可能なのだけど)に対して何事か書いたところが、

勉強で申し訳ありません」

勉強じゃなくて勉強じゃないの、日本語位ちゃんと書いてよ……ってな話になったわけだけど、世間で「勉強」という表記がそんなに一般的なものになっているのだろうか?

ここで、試しに google でこの二つの単語で検索をかけてみる。すると、今日の夜の時点で:

  • 勉強 の検索結果 約 12,700,000 件
  • 勉強 の検索結果 約 8,730,000 件
……え?ほら勉強は社会的に正しいとみなされている?数の論理で正誤を云々するんなら、Linux なんて使うのヤメテシマエ!って話だが、念の為にgoo 辞書でひいた「勉強」にリンクを張っておく。勿論だけど、勉強なんて項目は国語辞典には存在しない。

それにしても、悪貨が良貨を駆逐する、とは、トーマス・グレシャムもよく言ったものだ。日本の未来がいかに暗澹としていることよ。

【後記】さっきふと思ったのだけど、努めて好意的に見ると、「勉強」は「勉強」と「教養」を混同しているのか、という推論が成立する。まあそれでも、「勉強」という言葉を平気で人前で使う輩が無教養かつ勉強だということに、いささかの変わりもないけれどね。あと、「勉強」の方が検索結果の数が大きいのは、ひょっとすると google の仕様かもしれない……「勉強」という語が辞書にないから、「勉強」を検索した結果が入ってくる、ということが考えられる。

『カッコウはコンピュータに卵を生む』再読開始

先日、social engineering の話を書いたときに自分で触れて、それでもう一度読み返したくなったので、amazon に『カッコウはコンピュータに卵を産む』を注文しておいた。下巻が数日前に来て、上巻が来るまで我慢していたのが今日ようやく到着して、最初の方をペラペラ読み返していたところなのだけど、これで、ひとつ思い出したことがある。

それはRTFMについて。僕が、これを Read The Fucking Manual の略だ、と書いたら、誰かが「それは fucking じゃなくて fine ですよ」としたり顔で言ったのに、「いやこれどこかで fucking って読んだんだよなあ」と曖昧な記憶を抱えてうだうだしていたのだけど、やっとはっきり書くことができる。『カッコウはコンピュータに卵を産む』上巻 pp.14 にはっきりこう書いてあるのだ。

昼近く、デイヴが分厚いマニュアルをかかえてふらりと私の部屋にやって来た。ハンターの名前を登録した覚えはない、とこともなげに言う。だとすれば、登録したのはもう一人のシステム・マネージャーであるはずだが、ウェインの返答はそっけなかった。「私ではない。RTFM」略号でメッセージをしめくくるのはウェイン一流の気どりである。この場合は Read the fucking manual で「よく目を開けてマニュアルを読め」の意味だ。

もちろん、僕は、クリフォード・ストールがそう書いているからというだけで fucking を推すのではない。native だったらそもそも fine なんてヌルい表現は使わない、というのがひとつ。そして、1980年代、情報科学/工学が最も勢いを持っていたアメリカ西海岸、それも LBL (Lawrence Berkeley National Laboratory……そう、舞台はバークレイなのだ) の admin だったクリフとウェインの会話でこれが出てきているということ。そして、クリフの会話の相手であるウェイン = Wayne Graves が、term の使用に関して特別に厳密な人だったということ、等からみても、これは traditional に fucking だ、と主張するわけだ。加えて言うと、もし僕が英語でこの言葉を使うなら、fine なんてヌルいニュアンスなんかこめやしないだろう……そういうヌルいことが言いたいときには、そういう表現をすればいいわけで、四文字略語の塊を投げつけるようにして言う必要なんかないのだから。

それにしても、1980年代後半が舞台のこのノンフィクション、考えてみれば、僕が UNIX とネットワークの恩恵を受け始めた頃によく似ている。当時の僕は、阪大の大型計算機センターのアクセスポイントに 9600 bps で接続して、そこから telnet でセンターの SPARC やスパコン、学科のサーバ、そして院生になってからは研究室に置いた自分の Linux マシンに接続していたのだった。当時はまだ Emacs 上で mh-e を使ってメールを管理していて、時々学科のサーバで /bin/mail を使ったりしていた。もちろん遊びで使っていたわけではないので、計算用のデータファイルやら結果を吐いたファイルやらを、自宅の PC98 とそれらのコンピュータの間でやりとりしていた。え、キャラクタ端末で使用しているのに、どうしてファイルのやりとりができるのか、って?当時使用していた VT220 エミュレータhtermや KEK-Kermit をローカルで使って、Linux や SPARC の上でC-Kermitを起動してやりとりしていたんです。結構安定して転送できるものでした……って、今や誰も知らないんだろうけど。しかし、コロンビア大学は凄いなあ。この C-Kermit のページ、ちゃんと今月に入って更新されてるし。

聖書をめぐる冒険

例の「『誰も教えてくれない聖書の読み方』新共同訳ガイド」の作成以来、聖書に関する調べものをする機会が多くなった。今回もそれに関する話を。

acta pilati という文書がある。日本では「ニコデモ福音書」と呼ばれることが多いようだけど、acta pilati という名称に忠実に言うならば、「ピラト行伝」と言うべきだろう。この「ピラト」というのは、福音書に出てくるポンティウス・ピラトのことで、要するにこの文書は、ピラトに関してヘブライ人が書いた文書の体裁を取った、いわゆる新約聖書外典といわれる文書のひとつである。

この文書に関して、調べたいことがあったので、手元の本に日本語訳がなかったかなー、と捜していて、『新約聖書外典』(荒井献 編、講談社文芸文庫)の中にニコデモ福音書の抄訳が掲載されているのを発見した。訳者は田川建三氏。『イエスという男』の著者である。田川訳なら安心だなー、と読んでいくと……

十字架の処刑(10-11章)(主としてルカ23・32以下の焼き直しであるから省略)
いやだからそこを読みたかったのになんで省略なんですかったくぉぃ。

僕が調べたかったのはヴェロニカとロンギヌスに関する記述で、そもそもこの二人(聖書にその名は出てこない)の名はこのピラト行伝に書かれていて知られるようになったはずなので、どのようにそこが描かれているのかを確認したかったのだが……なんだかなあ。ヴェロニカに関しては辛うじて、

ベレニケという名の女がいて、遠くから叫んで言った、「私は流血の病にかかっておりましたが、あの方の御衣のすそにさわりましたところ、十二年間も続いていた血の流れがなくなりました」(7章第1節)
という記述が読み取れるけどさ。

で、biblestudy.churches.netで読める英語版の "The Acts of Pilate"を調べてみると……ん? chapter 10-11 の記述は本当にルカ福音書の要約みたいな感じで、そこにはヴェロニカもロンギヌスも出てこない。あれれ?……と、全文検索をかけて納得。後日の祭司の会議のくだりで出てくるのね。

その時アンナとカヤパが結論を下して言った、
「汝らはモーセの律法の書に書いてあることを正しく読んでおる。エノクの死を見た者がいない、ということも、誰もモーセの死に言及してはいない、ということも正しい。――イエスがピラトに対して弁明をし、またなぐられたり、つばをかけられたりするのを我々は見た。ローマ兵達が茨であんだ冠を彼にかぶせた。彼は鞭打たれたあとでピラトから判決を受けた。そして、されこうべの丘で十字架につけられた。二人の泥棒も一緒に処刑された。にがりをまぜた酢をのまされ、ロンギノスという名の兵がイエスの脇腹を槍で突きさした。それから、我々の敬愛する父アリマタヤのヨセフがその屍を乞い受けた。そしてヨセフが言うことによれば、イエスは復活したのであり、三人の教師達が見たということによれば、昇天したのである。またラビ・レビの証言によれば、かつてラビ・シメオンが、この者はイスラエルの多くの者を倒れさせたり立ち上らせたりするために存在する者であり、人々に反対される指標である、と言ったということである」。(16章第7節)

memo: clamd

備忘録。

Debian GNU/Linux (sid) の clamd に関して。どういうわけか daemon が起動しないのでアレレと思って調べてみたら、/etc/clamav/clamd.conf で:

LocalSocketGroup 20 Incorrect number of arguments
LocalSocketMode 20 Incorrect number of arguments
おいおいこれじゃ起動するわけないじゃん、ということで、ad hoc に、
LocalSocketGroup clamav
LocalSocketMode 660
と修正すると、daemon は問題なく起動。

上下無用

ちょっと前に言及した『カッコウはコンピュータに卵を産む』だけど、ちょっと読み返したくなって、amazon で古本を購入することにした。amazon はその起源が古本屋なのだけど、今でも和書・洋書共に古本を簡単に入手する助けになってくれている。

で、まあ極端な話、読めればいいので(カバー?帯?それ、中身と何か関係があるんですか?)、そこそこの安いものを買うわけだけど、上下巻の本でも最安値は違う店だったりするわけで、上巻と下巻を各々別の店に注文することにした。

そうしたら……あー、こうなるような気がしていたんだけど、下巻の方から発送通知が来てしまった。上巻の方はまだ何も言ってこない。なんだかなぁ。いや、読み返すものだし、下巻から読んだって問題はないのかもしれないけれど。

ちなみに、この本に登場する OS やユーティリティ、ハードウェア(DEC のミニコンも含めて)は一通り触ったことがあるのだけど、唯一触ったことがないのが VMS だったりする。さすがにねー……僕が高校を卒業した年にカトラーはマイクロソフトに移籍しているし。

(追記)上巻は在庫なしとかで業者側から注文キャンセル。何やねん。

アイドル

小中学校時代の僕のアイドルというのが三人いる。当時の僕は本があれば他には何もいらない、という位に、毎日毎日本を読んで(とか書いているけれど、かなりの時間を剣道に割いていたのが実情だった)暮していたのだけど、そんな中でよく読むようになった作家が三人いたのだった。この三人のうちの二人がカトリックだった、というのは、何とも不思議な話だったけれど(別に宗教で小説を選別する気などないのだけど)、その三人というのが、遠藤周作、北杜夫、そして井上ひさしであった。

この時期に井上ひさしを読んでいた、というと、どうもすぐに「ああ、『ブンとフン』とかでしょ」などと決めうちにかかる人がいて困るのだけど(この井上氏の小説デビュー作を読んだのは、高校生の後半だったと思う)、あの頃読んでいた井上氏の小説というと、『四十一番の少年』とか『汚点(しみ)』とかの、彼の少年時代の境遇の暗さを土台とした作品群だった。彼特有のユーモアに満ちた筆致に最初に触れたのは、たしか『モッキンポット師の後始末』だったと記憶している。

井上氏というと、共産党との関係(赤旗等に何度も寄稿しているし、彼の二番目の妻は米原麻里の妹で、やはり共産党との関係がないわけではない)や、前妻や娘が書き残しているいわゆる DV の問題が取り沙汰されているけれど、やはり人は「清濁併せ持つもの」で、あの少年期に読んだ作品群の底に漂う、一種、救いようのない暗さは、今でも印象に残っている。後に彼のユーモラスな作品群に触れるようになってからも、その印象は変わることがなかった。

もう75歳だったし、肺がんの話は聞いていたのだけれど、自分の少年期のアイドルが、また一人世を去ったということは、自らが夕暮れの暗みのような色を湛えた「老い」という領域の中に滑り込んでいく、その加速を感じたような心地がする。アイドル達同様、僕も確実にそこに近付いているということに、僕は焦りと恐れを感じるのだった。

POP before SMTP

ちょっとメールの設定をいじっていたら、下らないことでハマってしまった。ちょっとメモしておくことにしよう。

某民間プロバイダに接続するときの .mew.el の設定:

;; For SMTP
(setq mew-smtp-server "foo.bar.buz") ;; if not localhost
(setq mew-smtp-user "qux")
(setq mew-smtp-auth t)
(setq mew-smtp-port "587")
;(setq mew-smtp-auth-list 'CRAM-MD5)

最近はこの認証が一般的になっているんだけど、そんなことよりもさっさと APOP に対応しろや Yahoo!BB! Yahoo!メールのフリーアカウントはしれっと対応してるけどさ。

social engineering

Twitter でコメントしたことを読み返していてふと思ったのだが、Twitter に限定せず、ネット上一般において、双方向メディアというもののうかつな使い方が個人情報を簡単に露見させてしまうのだ、という認識は、残念ながら一般化していないらしい。

これは何も現在のネットに限定した話ではない。たとえば、ある人物に関する情報を知りたいときに、その人物の職場や、住んでいる住宅の管理人などに電話して、運送屋などを装って情報を聞き出す……なんてのは、興信所などがよく使う手である。このようなやり方で情報にアクセスすることを、英語では social engineering と言う。

この社会工学……と書くと、最近は同じ名前の一学問分野が存在するのでクレームがきそうだから、世間の例にならって片仮名で「ソーシャル・エンジニアリング」と書くけれど、このソーシャル・エンジニアリングというのは、コミュニケーションにおけるいくつかのセキュリティ・ホールをつく手法だ。そして、この手法に用いられるセキュリティ・ホールの中で最も「活用」されているのは「認証の不備」だ。上に書いた例でも、相手は運送屋じゃない人間を運送屋だと思い込むわけだ。もっと分かりやすく書くと、上に書いた例の場合、広義の社会的コミュニケーションにおいて人が簡便に済ませてしまいがちな認証方法……相手と自分がそのトピックにおいて共有できるアイテムがあることの確認……で誤認証するのを利用して、認証下でなければアクセスできない筈の情報にアクセスするわけだ。

他にも、人の「社会的」セキュリティ・ホールというのはある。たとえば、人は不完全な認証でも、二重に用いれば、ある程度のセキュリティが得られると誤解しがちである。これは冷静に考えればおかしいことは明白で、泥水を漉すのに笊を二重にしたって無駄なのと一緒の理屈なのだけど、たとえば Twitter で、あるアカウントで書き込んでいる人がいて、その人がその人と自分の過去のイベントに関して書いていれば、あーあの人いまつぶやいてるんだ、と、ほとんどの Twitter ユーザは判断するだろう。Twitter は一意的なアクセスを要求しないメディアで、おまけにリアルタイムのコミュニケーションメディアではないから、たとえば国会議員の Twitter アカウントのパスワードをクラックして、委員会とかでつぶやけない時間帯を狙って怪情報を流したら、流せてしまうし、読んだ人はおそらく信じてしまうだろう。いくら Twitter でつぶやいた情報が後から削除できるといったって、ネット上ではあっという間に caching されてしまうから、後の祭りである。

だから、ネット上でコミュニケーションをしている人は、常に情報や情報発信者の一意性とか、情報化による保存の問題とか、あるいはそれらを確認するための時計情報の重要さには気を配らなければならない。インターネットを20年も使っていると、こんなことはもはや常識で、だから一パソコンであっても、nict.jp に NTP でシンクロさせとかないと厭だなあ、とかいうことになる。でも、世間の人はほとんどそういうことが分からないらしくて、Windows や Mac でも default で NTP に対応しているご時世だというのに、時計情報に関して気を配る人はまずいないといっていい現状だ。結局、term としては存在しているけれど、この social engineering という言葉は実感を以て知られてはいないわけだ。

この言葉を僕が初めて目にしたのは、Clifford Stollの"The Cuckoo's Egg: Tracking a Spy Through the Maze of Computer Espionage"(『カッコウはコンピュータに卵を産む』上下巻、クリフォード・ストール 著、池 央耿 訳、草思社、1991年)を読んだときだったと記憶しているのだけど、この本はもはや古典になっているし、クリフも当年とって60歳(え〜?)なんだそうで、まあ最近の人は知らなかったとしても不思議ではない。しかしねえ……tuigeki氏(この方なんとジャーナリストなんだそうで)が今年の2月3日に僕と少しだけやりとりした記録をご覧いただければお分かり思うけれど、

メールや電話が危ないだなんていってる人は非常識な人で、そんな人の意見は相手にされないのが常識です。それでは意見の表明しようがありません。公的機関はネットなんてカウントしてません。
こういう人は、おそらくこんな仕事をされていても social engineering という概念はご存知ないんだろうなあ。一般教養の範疇だと思うんだけど。こんなこと。

Emacs はやはり……

いままで Debian GNU/Linux のパッケージで入れてきたGNU Emacsだけど、どんなときもこれだけはソースから自力で build していたので、どうも気持ち悪くてならなかった。今日、ついに我慢の限界を感じて、自力で build したので、備忘録代わりに書いておくことにする。

まず Emacs のソースは anoncvs で cvs.savannah.gnu.org から取得。

$ cvs -z3 -d:pserver:anonymous@cvs.savannah.gnu.org:/sources/emacs co emacs
予め libjpeg, libtiff, libpng 等を整えておいて build。毎度のことながら何の問題もない…… configure 時に CFLAGS="-O3 -pipe -combine -march=athlon64" (僕の環境の場合。他の方は -march option の選択に注意のこと)とする位か。

この後が意外と面倒だ。とりあえず日本語で読み書きできないと困るのでSKKを入れたいわけだけど、そのためにはまずAPELを入れておく必要がある。これは、

$ cvs -d :pserver:anonymous@cvs.m17n.org:/cvs/root login
(password: null)
$ cvs -z9 -d :pserver:anonymous@cvs.m17n.org:/cvs/root checkout apel
で取得。 m17n.org からはFLIMSEMIも取得する必要があるので、
$ cvs -d :pserver:anonymous@cvs.m17n.org:/cvs/root login
(password: null)
$ cvs -z9 -d :pserver:anonymous@cvs.m17n.org:/cvs/root checkout -r flim-1_14 -d flim-1.14 flim
SEMI に関しては flim-1.14 に対応した最新版を、http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~tomo/lemi/dist/semi/semi-1.14-for-flim-1.14/から取得する。

APEL, FLIM, SEMI のいずれも、make installのみでさくっとインストール完了。さて、そうしたら SKK である。辞書とかdbskkd-cdbは既に入っているので、ddskk のソースを入手して make --> make installでオーケー。ソースは、

$ cvs -d :pserver:guest@openlab.jp:/circus/cvsroot login
(password: "guest")
$ cvs -d :pserver:guest@openlab.jp:/circus/cvsroot checkout skk/main
で取得可能。ちなみにskk/mainskkとすると、辞書から何から一切合切取得可能(少し考えれば分かりそうなものだけど)。

SKK が使えるようになったところで、必要なマクロを入れていく。

$ cvs -d :pserver:anonymous@cvs.namazu.org:/storage/cvsroot login
(password: null)
$ cvs -d :pserver:anonymous@cvs.namazu.org:/storage/cvsroot co emacs-w3m
Emacs-w3m の cvs source には configure が入っておらず、configure.in しか入っていないので、automake --> ./configure --> make --> make installの順で build。Navi2chはこの sourceforge のページ通りに取得・build すればよろしい。

ちょっとアレレ、となったのが、Mewの cvs サーバに anonymous でアクセスできなくなっていること。これに関しては僕も詳細を知らない(最近まで Mew も Debian GNU/Linux のパッケージを使っていたので)のだけど、とりあえず Beta release の最新版を build する。

……と、こんな感じでもう使えるのだった。sdic も前に入れてあるし、英辞郎の辞書ファイルも使えるようにしてあるし。

皆さん、マニフェストを読み返してみましょう

この日記でも過去に「がんとワクチンに関するメモ」で書いているけれど、子宮頸がんのワクチンである Cervarix が昨年末に日本でも発売されている。とにかく、子宮頸がんの原因がヒトパピローマウイルスであることははっきりしているし、この Cervarix を接種しておけば、7割以上(これは他のワクチン、たとえばインフルエンザワクチンなどと比較しても十分な値である)の確率で感染を予防できる。問題は4〜6万円かかる任意での接種費用で、各地方自治体が全額、もしくは一部の援助に向けて動いている、という話をニュースで耳にすることも多い。昨日も、こんなニュースが流された:

子宮頸がん予防に助成を=女優の仁科さんが小沢氏に要望

民主党の小沢一郎幹事長は8日午後、国会内の幹事長室で女優の仁科亜季子さんの訪問を受けた。仁科さんが子宮頸がん予防ワクチンの公費助成を要望すると、小沢氏は「がんばれ」と激励。同席した衆院厚生労働委員会所属の仁木博文氏に、「委員会で問題を提起してくれ。バックアップする」と対応を指示した。

仁科さんは38歳の時に子宮頸がんを発症しており、要望を終えた後「心強く思っている」と語った。

(2010/04/08-20:34, 時事通信社 id

……いや、仁科さん。そんな低姿勢でどうするんですか。あなたはもっと怒っていいんですよ。小沢を「約束を守れ!」と怒鳴りつけるべきなんですよ。小沢ごときが『「委員会で問題を提起してくれ。バックアップする」と対応を指示』しているのを、黙って見ていちゃ駄目ですよ。仁科さんも含めて、皆さん、何か忘れちゃいませんか?民主党のマニフェスト、皆さん本当に読まれていますか?これの pp.19 に、ちゃんとこういう風に書かれているんですよ:

23. 新型インフルエンザ等への万全の対応、がん・肝炎対策の拡充
【政策目的】

○新型インフルエンザによる被害を最小限にとどめる。
○がん、肝炎など特に患者の負担が重い疾病等について、支援策を拡充する。
【具体策】
○新型インフルエンザに関し、危機管理・情報共有体制を再構築する。ガイドライン・関連法制を全面的に見直すとともに、診療・相談・治療体制の拡充を図る。ワクチン接種体制を整備する。
○乳がんや子宮頸がんの予防・検診を受けやすい体制の整備などにより、がん検診受診率を引き上げる。子宮頸がんに関するワクチンの任意接種を促進する。化学療法専門医・放射線治療専門医・病理医などを養成する。
○高額療養費制度に関し、治療が長期にわたる患者の負担軽減を図る。
○肝炎患者が受けるインターフェロン治療の自己負担額の上限を月額1万円にする。治療のために休業・休職する患者の生活の安定や、インターフェロン以外の治療に対する支援に取り組む。
【所要額】
3000 億円程度

上記赤強調部(筆者による)に相当する施策をする、ってことですよね。実態はどうです。何もしていないじゃないですか。小沢も、なにが「がんばれ」だっつーの。他人を慮ることもなしにこんなことを言うのならば、いっそ自分ががんになって、その苦しみを味わって、自分自身で「がんばって」みればいいんだよ。

哀しい復活祭

唐突だけど、皆さんは韓国や北朝鮮の人々に対してどのような感情を抱いておられるであろうか。僕は、たまたま(幸運なことに)小学生の頃、クラスメイトに在日韓国人の女の子がいて、その子に民団の学校の話を聞いたり、朝鮮語の教科書を見せてもらったりしたことがあったのだけど、おそらく彼女との交流のおかげで、今まで不当な差別意識を持ったりすることなく過ごしてこられたのだと思う。

こういう経緯があるし、仕事でも何人かの韓国人と知りあって、実際一緒の場で働いたこともあるし、だから、「韓国人だから」「北朝鮮人だから」(ただし、国家としての北朝鮮に関しては僕は受け入れがたいものを感じているけれど)という理由で、誰かのことをどうこう言いたくはないのだ。でも、今回だけは、ここに書くことにする。もちろん、韓国や北朝鮮の人だからといって、皆、以下に書くような人であるわけではない。これは僕自身の今までの経験からも明らかなことだ。しかし、よりによってあんな日に、あんな場で……ということに、僕が遭遇したことも残念ながら事実なのだ。そういう人もいたんだ、ということで、以下の話をお読みいただきたい。

昨日は復活祭だった。イースターと卵の話は、キリスト教に縁遠い方であってもご存知だろうと思うのだけど、キリストの受難と復活になぞらえて、この日と、前夜(復活徹夜祭というのだが)には、多くの教会で洗礼や初聖体の式が執り行われる。僕の通う教会でも、その例に漏れず、復活徹夜祭に洗礼式が、そして復活祭に初聖体の式が行われた。

こういう式が行われた後には、大抵信者が一所に集まって、ささやかなパーティーが行われるものだ。持ち寄りだったり、教会の信徒の会……婦人会だったり、地区毎の会だったり、それはその教会によって様々なパターンがあると思うけれど……が作ったりした、軽食やお菓子、そしてお茶やコーヒーが振る舞われる、いわゆる立食パーティーだ。

こういうときには、やはり心づくしの品みたいなものが出てくるもので、たとえば僕の通う教会の場合、フィリピン人の信徒が数多く来ているので、こういうときにはフィリピンの手作りの菓子が並ぶ。餅米の粉と黒糖(あるいはパームシュガーのようなものかもしれないが)を混ぜたものを蒸して、ココナツを上からかけた菓子などは、日本人信徒の間でも非常に好評で、あっという間になくなってしまう。僕も、これを楽しみにしてこのようなパーティーに顔を出しているわけだ。

今回の復活祭のパーティーで、僕は知り合いのシスターとSと一緒だった。信徒と司教の記念撮影の後に信徒会館に入っていくと、既にテーブルには様々な食事や菓子の用意がされていた。と……今年は、今まであまり見なかったものがいくつかあった。これは……チャプチェ?横を見るとキムチもある。今回の洗礼式では数人の韓国人の信徒が受洗していたので、きっとその人か関係者が持ってきたのだろう。僕は普段はこういうパーティーで腹を満たそうとは考えないのだけど、このチャプチェとキムチの横に白飯のおにぎりが盛られているのを見て、今年はがっつり食べて帰ろうかな、などと考えていた。

受洗者や初聖体を受けた子どもたちが揃い、信徒会館が人で溢れた頃合いになっても、司教はまだ現れない。これは毎度のことで、司教を過剰に崇敬する人々が群がって、司教がなかなか自由に動けないからだ。ったく……あいつら、キリスト教じゃなくて「司教様教」の信者なんじゃないの?などと毒づきながら、司教の現れるのを待っていた。

この、過剰に崇敬する人々というのが過剰に崇敬する対象というのは、何も司教だけではない。聖職者で何か信徒と交流がある人だったら、大概この手の「ファン」(うん、源義に近い使い方だよね)に群がられるものなのだ。シスターの方を見ると、こちらも御他聞に漏れず、何人かのおばさんに囲まれていた。

そのときだった。並んで立っていた僕とシスターの間に、何の言葉もなく、ずいと身体を割り込ませてきたおばさんがいた。ん、何だ?と思いつつ見ると、先にシスターに親しげに話しかけていたおばさんである。確か、近くにいる他のおばさんと朝鮮語で話していたし、チョゴリを着た人とも話していたから、どうやら韓国人か北朝鮮人らしい。何の声もかけずに人を押しやって平然としているとは、なかなかに無粋な人だな、と思ったけれど、このときは民族的な問題など考えもしなかった。

ところが……だ。このおばさんとその仲間らしきおばさん達が、パーティーの食物が載ったテーブルを包囲しているのに気づいた。何事か話しているその内容は分からなかったが、一人がテーブルの上のキムチを指差しながら他のおばさんに何事か問い、問われたおばさんが自分を指差しながら何事か言葉を返していたから、

「このキムチは誰が持ってきたの?」
「私よ、私」

などというやりとりがあったのだろう。このおばさん達、とにかくわいわいと自分たちだけで話しているのだけど、前の方で受洗者や初聖体を受けた子どもたちが紹介されているのも、司教が挨拶しているのも、全く聞こうとしない。人が前で皆に向けて話したり、こちらが前の人に向けて拍手をしたりしているのを全く意に介そうともせず、ただただ自分たちだけでかしがましく話しているのだ。

そのうち、信徒会長の音頭で乾杯がされようという段になった。皆、テーブルの上の紙コップを周囲の人達に分配し、そこにペットボトルのお茶やジュースを注ぎ合い、乾杯の準備を整えるものなのだ(これはカトリックとか日本人とかそういうことに関係ないものだと思うけど)が、先の韓国人/北朝鮮人らしきおばさんの群れは、数人でテーブルの縁を身体で固め、猛然とテーブルの上のものを食べ始めたのだ。

なし崩し的に乾杯が終わり、周囲の人達がそのテーブルの食物に手を伸ばそうにも、そのおばさん達はどこうともしないし、他人に食べ物を取り分けようともしない。僕はテーブルの上に目をやって、仰天した。先のチャプチェ……あれが、もう半分も残っていないのだ。おばさん達は猛然と食物を平らげていく。

僕はチャプチェを取るのは諦めて、紙皿に、フィリピン人の信徒が作ってきてくれた、例の餅菓子をいくつか取って、シスターとSのところに戻った。それをつまんでいたら、知り合いのフィリピン人女性が、僕がコップを持っていないのに気づいて、

「あーお茶飲めないね、今コップもらってくるから」

とコップを取ってきてくれて、僕に持たせると、手に持っていたペットボトルから注いでくれた。で、僕の紙皿に気がついて、

「それ、フィリピンのお菓子ね。どうだった?おいしかった?」

と聞く。僕が、いや前食べたときおいしかったから、これ楽しみにしてたんだ、と言うと、彼女は本当に嬉しそうに笑って「よかった」と言った。彼女が去ってからテーブルに目をやると、おばさん達は相変わらずテーブルの縁を固めていて、チャプチェの皿はもう何も残っていなかった。僕は、餅菓子とお茶をいただいてから、Sに声をかけ、パーティー会場を後にした……僕が何を言いたいか、お分かりになるだろうか。

キリスト教というのは「分かち合う」ことを非常に重んじる。限られたものを、そこにいる人皆で分かち合うこと……聖体拝領だってそうだし、こういうパーティーだってそうだ。フィリピン人の女性たちは、こういうパーティーでよく手作りのお菓子や、フィリピン風の料理を持ち込んでくれる。そして、それを出してくれるとき、彼女たちは必ず、「どうだった?大丈夫だった?」と聞く。違う文化圏の料理だから、当然人によっては苦手だったりすることがある。そういうことはないだろうか、と、彼女たちはいつでも気を配っているのだ。そして、自分達が持ち込んだものを、僕たちが美味しく食べていると、彼女たちは本当に嬉しそうな笑顔をみせてくれる。分かち合えること、そして自分たちの文化が僕たちを喜ばせていることに、彼女たちはいつでも率直な喜びを表明してくれる。やれ要理だ研修だと言う以前に、こういう彼女たちの行動は、僕たちに分かち合うことの、そして受容することの原点が、こういうところにあるのだ、ということをいつも教えてくれるのだ。

もちろん、韓国人/北朝鮮人も、そういうマインドを持っている人は確実に存在する。僕に教科書を見せてくれた女の子もそうだし、仕事で一緒だった人達もそうだった。しかし、よりによって、一番そういうマインドが求められる場で、しかも、主の復活、受洗、そして初聖体の喜びを皆で分かち合いましょう、というあのパーティーの場で、あんな哀しい思いをするとは思わなかった……そう、僕はただただ哀しかったのだ。本当に、こんな哀しい復活祭を迎えたことはない。

足を洗う

今、キリスト教の信者はビミョーな時期である。イエスが昨日、つまり金曜日に殉教したことになっていて、それから数えて三日目、つまり明日の日曜に復活することになっている……とか書くと有難味がないけれど、この、いわゆるイースターの周辺行事というのは、カトリック歴三十数年のワタクシとしては、もはや当たり前の年中行事である。

で、木曜日……「最後の晩餐」にあたる、聖木曜日のミサに行ったのだけど、教会の入口で、教会の典礼委員会の女性に声をかけられた。

「あ、すいません。あのー」
「(一瞬怪訝そうな顔をして、やがてニヤリと笑って)足、ですか」
「そうなんです。足なんですよー。どうでしょう」
「いいですよ。お願いします」
「有り難うございます!よろしくお願いします」

……何のことか分からない?そうかもしれない。えー、

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

――ヨハネ 13:1-20

……と、こういうことがあったので、これになぞらえて、イースター前の木曜のミサでは、司祭が信徒(使徒になぞらえている関係上男性信者ということになるのだが、女性信者でもオッケーな場合も多い)の足を洗う「洗足式」というのが行われる。しかし、木曜の夕方のミサに顔を出せる男性信徒はそれ程多くないので、僕に「足を洗ってもらえませんか?」というオファーがきたというわけである。

福音書朗読と説教が終わったところで、他の信徒6人と共に前に出る。今日は、身近で唯一僕と同じ「(使徒)トマス」の霊名を持つT氏も来ている。しつらえてあった席に座ると、T氏は僕の隣に座っている。うーん、トマスが二人並んで足を洗われる、というのは、知っている人が見たらなかなか面白い光景だよなぁ、と思いつつ、N司教(僕が通っている教会は司教座教会なので、洗足式は司教が行う)が手桶とたらいを持った侍者を従えて僕の目前に暮るのを待つ。足に水が手桶でかけられると……ん、お湯?しかも心地良い檜の香りが……

いや冷たいとアレかなーって温めておいてくれたのは有り難いんですよ、でもね、こういう儀式だし、水でいいじゃないですか水で、その冷たさで何事か思い遣れることもあるんじゃないかと思うんですが……と思いつつ、靴下を履き直し、席に戻った。

ミサの後、1時間程の時間をかけて祈りと黙想の会が行われた後、帰ろうと思ったら、某シスターがニヤニヤニコニコしながらこう言う。

「Thomas さんは足を洗っていただいたのね」

僕もニヤニヤニコニコしながらこう答えた。

「まあ、洗われるべきものが多々ありますので」

某シスターに同行していた何人かのシスター達のウケを取ってしまった。

ファイルシステム痛し痒し

ファイルシステムの選択という問題に悩む人は、今の世間ではかなりの少数派なのだろう。今時 FAT と NTFS の選択に悩む人はいないだろうし、Mac 関係者は何も考えずに HFS+ を使っているだろうし。しかし Linux の場合は、これはちょっと悩ましい問題ではある。

Linux 正調のファイルシステム、ということであるならば、現在の選択肢は Ext4 ということになるだろう。ほとんどの人はこの新しいジャーナリングファイルシステムを使用していると思う。しかし、このファイルシステムはまだ枯れ切っていない。技術革新イコール正義、みたいに思われているかもしれないコンピュータの世界では、実はこの「枯れている」という言葉が大きな意味を持つ。ダメな部分があらかた fix されきっている、という意味の「枯れている」という言葉は、魅力として大きいものなのである。

で、僕は現在 Ext4 ではなくて XFS というファイルシステムを使っている。このファイルシステムは旧 SGI が1990年代前半に開発したもので、ジャーナリングファイルシステムと呼ばれる安全性を重視したファイルシステムの中では最も古い、そして最も枯れているシステムのひとつである。このXFS、この 2010 年代になっても性能に優れた部分を数多く有しているということもあって、今使用しているシステムにはこちらを使うようにしてセットアップしたのである。

以前には ReiserFS というファイルシステムを使用していたこともある。これも1990年代半ばに使われるようになったファイルシステムだが、これは実は SELinux との併用が事実上不可能である上に、これの後継になるはずの Reiser4 FS が(コーディングのスタンダードを守っていないからだ、という説と、いやいや政治的な理由なんだよ、という説があるけれど、いずれにしても)未だに kernel tree に merge されていない。OS の動作の土台になるファイルシステムがこれではちょっと怖いので、僕は現在は全く使用していない。

で、XFS を使い始めての感想なのだけど……「ファイルの書き出しが遅い」これにつきる。具体的には kernel の build やそれに伴うファイルの書き出し・削除などをしているとき、とにかく時間がかかるのである。XFS はファイルの保護という観点では優秀なシステムなのだけど、動的性能に関して(悔しいことにこれ以外の点では優秀なだけに)日常レベルでも頭の痛いところである。次回にシステムをリファインするときには、Ext4 に戻すかもしれないが……うーん。困ったものである。今日も kenrel-2.6.33.2 をbuild しているところなのだけど……

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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