重みを軽んずる人々

教会というところに毎週行っていると、奉仕の作業をすることがちょくちょくあるものだ。僕も、子供の頃の侍者に始まり、掃除、鐘つき、献金集め……まあ当たり前の話なのだが、数え切れない程の種類・回数を行っているわけだ。

こういう奉仕をしていると、それまで気付かなかったことに気付かされて、色々と思うことも少なくない。いつだったか、クリスマスのミサで献金集めを頼まれたことがあったのだが、僕の所属教会では、木の柄の先に布の袋のついた献金袋(場所によっては丸いバスケットをまわすところもあるけれど)を各信徒の前に突き出して、そこに献金を入れてもらうシステムになっている。で、各信徒に袋を突き出しながら、聖堂の後ろの方になってきた。この辺りには、フィリピン人やブラジル人がたくさん座っている(堂々ともっと前に座ればいいものを、日本人の信徒が一人で何人分ものスペースを占有して知らん顔をしているのに、彼等は遠慮しているのだ……)のだけど、この辺りに来て、急に献金袋を持ち上げているのが難しくなったのだ。

僕は改めて、彼等の伸ばす手に目をやった。彼等は、皺くちゃの札を束にして固く丸めて輪ゴムで留め、親指と人差し指で作る輪程の太さになったものや、袋一杯に集めた100円玉などを、次々と袋に入れていくのだ。三交代の工場労働者や、夜の街で働いている人達で、おそらく経済的には日本人の信徒よりも恵まれていないであろう彼等が、そうやって入れる献金の重みで、僕は袋を引き摺らないようにするだけで精一杯だった。その重みで、僕は改めて思い知らされたのだ。自分の教会のために献金をするということの、その重みを。

僕の所属教会には信徒会とかいう運営組織があって、そこの人々は、僕よりも余程、こういうものを見、感じる機会が多いであろうと思うのだが、どういう訳か、僕が感じたあの重みを感じることができないらしい。これは本当に、奇妙なことだとしか言い様がないのだが、彼等はあの重い献金から成る教会予算を、本当に無駄に浪費しているのだ。教会予算は、年に一回行われる信徒総会で予算案と決算の承認が行われることになっているのだが、この信徒総会では、毎年口があんぐりとなりそうな呆れた話がまかり通っている。

去年だったか一昨年だったか、総会で配られた決算を見ていると、「椅子」という項目があって、20万程の金がそこに充当されている。予算には計上されていなかったこの項目に関して質問しようと思ったら、

「あー、この椅子ですが、折り畳み椅子の中の何脚かが壊れていたので購入しました。事後承諾ということでよろしいでしょうか」

……いや、そんなことがまかり通っていたら、予算組むのもこうやって総会で承認取るのも意味ないでしょうが。大体、椅子なんて、毎年どれ位壊れるかはある程度予想がつくだろうから、今年は補充しておこう、というのなら、予算に計上して然るべき手順で買えばいい話である。しかし、皆興味もなさそうに、これを承認してしまうのであった。

僕は、公の機関でも企業でも働いたことがあるけれど、こういう物品購入に際しては、相見積を取るのが当然だった。できれば二通位の相見積を添付して、これこれこういう目的でこれがこれだけ欲しいです、相見積を取ったらこれだけになりました、とやるのが常識である。信徒会の人々だって、まさかこんな「社会的常識」を知らない筈がないと思うのだが、僕は少なくともあの教会で「常識的な」会計に関する説明を受けたことが、ただの一度もないのだ。

2年程前のことだったと思うけれど、「ソフト発注費」として60万程、「コンピュータ」として30万程の予算が計上されたことがあった。これは何ですか、と聞くと、

「信徒の名簿作成用の専用ソフトを作ります。ソフト運用のために高性能のコンピュータが必要ですので、この二件、よろしくお願いします」

はぁ? ここは大企業かぁ? 違うでしょ。たかだか何百人の名簿情報を管理するのに、市販のソフトを購入するんじゃなくて、オリジナルのソフトを発注する? しかも、高性能のコンピュータ? ますます意味不明である。これに関して糾弾しようかと思ったら、さらっと承認されてしまって、僕は呆れて言葉が出なかった。

つい先日分かったのだけど、このソフトの一件はどうも有耶無耶になったらしく、30万で購入した「高性能」のコンピュータは、全く使用されずに2年間放置された挙句、これもう OS とか古いし、廃棄しましょうよぉ、という話になっているらしい。

ちなみに、名簿情報を運用するのには、数百名規模だったら Excel でも十分用が足りる。個人情報の管理の問題があるのならば暗号化すればいい…… Excel には標準で暗号化の機能があるのだから。情報をもっとインレクチュアルに運用するのだったら、SQL でも使えばいい話で、Windows 上の MySQL でたかだか数百件の情報を扱うのに、高性能のコンピュータなど必要ないし、最新の OS だって必要ではない。買う理由の筋が通らないのと同様に、廃棄する筋もまた通らないのである。事務にでも使うんだったら、うまくやれば7、8年位使えるかもしれない。それを、2年……しかもこの2年の間に「このパソコン使わせて」という依頼が数々あったのを「これは専用に買ったものだから」と断り続けていたそうな……もの間転がしておいて廃棄する程に、その30万という金は軽いものではないはずである。

まあ、こんな感じで、とにかく僕の所属教会における予算の使われ方はひどいのだが、今年は特にそういう話が出てきそうな気配があった。今年、この教会は献堂50周年を迎えたため、教会の関係者は記念冊子を作るんだ、と盛り上がっていたからである。

この献堂50周年記念冊子なるものは、今年の春に印刷され、一口1000円以上の寄付と引き換えに配布が始まった。なんでもオールカラー印刷の結構な代物なのだそうだが、僕は最初からこんなものには興味はなかった。器が多少いい体裁であっても、この器の中身に、僕はほとほと嫌気がさしている。

また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」(マルコ 2:22)
このたとえ話は、まだ醗酵が止まっていない新しいぶどう酒を、弾力を失った古い革袋に入れたらば、ガスで膨れて袋が破れてしまう、ということから、新しい救い主として世に到来したイエスが、ファリサイ人の旧来の風習である断食を行っていないということで咎められるものではないのだ、ということを言っているわけだ。新しいものには、それにふさわしい新しい様式があるべきだ、という意味で、よく引用される一節である。

しかし、もし、これが「新しいぶどう酒」でなく「腐敗したぶどう酒」だったらどうだろう。その発生するガスによって、やはり革袋は破れてしまうに違いない。そして僕は、そんなぶどう酒や皮袋のために、自らの1000円を費す気には、どうしてもなれなかったのだ。だからその分を、東日本大震災のための募金に入れ、この冊子のことは忘れてしまうことにしたのだった。

ところが、家にこんな手紙が送られてきたのである:

rotten-church.png

文面を読んで、怒りに手が震えた。これでは押し売りではないか。今迄も、たとえば大学の同窓生名簿みたいなものの頒布案内が送られることなどを何度も経験しているけれど、現物を送りつけて金を払え、なんていうパターンは経験したことがない。オフィスレベルでは、最新の研究動向をまとめた本をお送りします、よろしかったら御購入を……というのが送られてくることがあるけれど、こういった書籍には、必ず本と共に着払いの発送伝票が添付されているものだ。そういう業者でもやらないようなこと(「送るから寄付しなさい、要らないならそちらの金で連絡して来なさい」というような所業)を、よりにもよってカトリックの教会がやるというのである。

しかも、同じ文面の封書が、どういうわけか2通も届いた。これも訳が分からない。僕は何人かの教会関係者にあたって、この裏にどういう事情があるのかを調べてみることにした。

まず、この献堂50周年記念冊子というのは、信者や関係聖職者、あるいは、かつてこの教会に所属していたけれど、現在は遠隔地に住んでいる信徒……そういう人達に配布する目的で作成されたものである。だから、配るのに必要な部数はせいぜい数百というところであろう。ところが、信徒会上層部の面々からなる関係者は、何を考えたのか、この冊子を1600部も印刷した、というのである。

オールカラー80ページの冊子をオフセット印刷するのにどれ位の費用がかかるか。昨今の同人誌などのおかげで、中小の印刷業者でこの手の依頼を受けてくれるところはいくらでもあるけれど、無線綴じで作るとして、800部で30万円前後、というところだろう。これにハードカバーを付けたとしても、40万程度で受けてくれる業者がないわけではない。1冊1000円以上で頒布するならば、これは十分ペイするコストである。豪華にカラー表紙に PP コート……ということだと、1冊1000円ではペイしない位まで費用がかかってしまうかもしれないが。

では、倍の1600部刷ったらどうなるか。おそらく、800部の場合と比較して、十数万程度の追加で印刷ができる。オフセットの版を作るのに費用がかかるからだが、いくら十数万とはいっても、配るあてのない冊子を刷る必要があるとは思えない。余裕をとるにしても、1600部というのは、これは明らかに多過ぎるのだ。

ではなぜ1600部も刷ったのか、その理由を考えると、「どんぶり勘定」というのと「多く刷ってそれがはければ金が入ってくるから」というふたつしか思いつかない。前者は明らかな無駄遣いだし、後者ははける当てがなければやはり無駄遣いだし、そもそもこういう「赤が出なければよい」頒布物で黒字に執着するという辺りがあまりに卑しい(こういうことを考えるから、世間では宗教法人に課税せよ、という話があちこちから聞こえてくるのである)。そして、配布が始まって程なく、後者もただの無駄遣いに過ぎないことがはっきりした。部数がはけないのである。

もし僕だったらこんなときにはどうするか。おそらく書店や大学生協の書籍部などをまわって、店に置いて下さい、買い取りじゃなくていいです、在庫は確実に引き取りますから……と「営業」をかけるだろう。この辺には、印刷・放送による福音伝道を行っている女子パウロ会の書店もあるし、カトリック系大学である南山大学だってある。地元の宗教史に関わる冊子です、ということならば、置いてくれるかもしれないし「売れる」(もちろん本当に売ってしまったら課税対象になるので、寄付金との交換行為ということになるわけだが)かもしれない。しかし、信徒会などの人々がそういうアクションをした、という情報は、少なくとも現時点では何も入っていない。

彼等がしようとしたことは、先にも書いた「押し売り」である。彼等は上の書面を用意し、発送用の封筒を印刷業者に発注した。教会の住所と、料金別納郵便のマークが印刷された封筒だ。これに宛名を貼り、書面を入れ、封をして……と準備しているところに、用意していた封筒を使い切ったらしい。彼等はとりあえず、今迄用意した分を郵便局に持っていき、発送した。

ところが、愚かにも彼等は、自分達が信徒名簿のどこからどこまでの人に書状を発送したか、チェックするのを忘れていたらしい。記憶だけでなく、用意した封筒の数などからも、そこそこ推測できそうなものなのだが、愚かなる彼等は、今度はたっぷりと封筒を印刷させ、名簿の最初から全員に書状を発送し直した。だから、僕のところには書状が二通来ていたのである(そうだよね、Thomas の名字は「う」から始まるからね!)。

だいたい、封筒の枚数から類推して、たとえば200人位には送っていそうだから、190番目辺りから送り直しましょう、なら、まだ分からないでもないのだが、二回目に発送するとき、愚かにも(嗚呼! 何度この言葉を使えばいいのか)、最初っから送り直す、というのはどういうことなのか。てんで理解不能である。

それに、料金別納郵便のマークというのは、各郵便局があのマークのゴム印を用意していて、発送時に局でペタペタ捺せば済むものなのだから、わざわざ印刷業者に発注して封筒に印刷する必要などはなっからない。そりゃ何千とか何万とかいう数なら印刷した方がいいだろうけれど、たかだか数百である。最初から多めに、住所だけ印刷した封筒を作っておきさえすれば、たとえ余っても汎用の封筒として使えるのに、そういう頭も彼等にはないらしいのである。

さて。で、今度は件の冊子を封筒に入れて、宛名を貼って発送しよう、という段になったわけだが、日曜の午後に、事前協議も何もなしで、いきなり宅配便業者に電話して、さあ集荷して下さい、と言ったらしい。ひとつやふたつならともかく、数百もある、という話に、さすがに業者も「いきなり言われても無理です」と、集荷を拒否したらしい。そうですか、仕方ない、では今日はこの辺で……と、彼等はその封筒を山にして、信徒会館に置いたまま帰ったらしい。おいおい。封筒に書かれた宛名は個人情報なんじゃないの? それ守るのに、数十万も出してソフト作らせて、とかいう話だったんじゃないの?

……というグダグダぶりなわけだが、僕はそれがグダグダだというだけで怒っているのではない。

  • 書状封筒印刷(おそらく2、300枚だろうから四千円位?)
  • 書状封筒印刷追加分(おそらく7,800枚だろうから七、八千円位?)
  • 書状封筒送料(おそらく重複分込みで7,800枚だろうから六万円前後?)
  • 冊子送料(クロネコメール便として1通160円、800部と仮定すると十二万八千円也)
……つまり、この一連のグダグダだけのために、下手をすると二十万円近くの金が浪費されたことになるのである。しかも、冊子を買った人も買わない人も、問答無用で送りつけられるのだ……自分の金で官製ハガキを買って断りを書かない限りは! 二十万使ってこの始末とは、一体どういうことなのか。

僕はハガキを書かなかったけれど、こんなことには法的拘束力も何もないだろうから、手ずから冊子を持って信徒会幹部に突き返すつもりだ。そもそも、こんなグダグダな事態のために、あのクリスマスイブのミサで献金していた人々が、あの丸めた札束や重い100円玉の袋を献金しているのではないのだ。そんな罪深い浪費に与するわけには、何としてもいかないのである。

そもそも、この冊子の何が問題だったのか……それは簡単な話である。この冊子にちゃんと定価をつけて、最初から売ればよかったのである。世間には、自分のところで印刷した書籍を amazon などで代行販売してくれる業者だってあるのだ。納税を面倒がって、寄付と引き換えの冊子ですよ、ということになると、これはおおっぴらに売ることもできないし、貰いっぱなしで一文も払わずとも、何も責めを負う理由がない。寄付もしない非道いやつだ、と言っても、自分はその分普段から献金しているんだ、とか、その分は東日本大震災に寄付しました、とか言われたら、反論はできない。なぜならば、この冊子は販売物ではないからだ。つまりは、そういういい加減な体制で、中途半端に金のかかる冊子を作った連中が、教会に対しても、そして信徒に対しても、これ以上はないという程の背信行為をした、というだけの話なのである。

dress code

教会に行くときにどんな格好で行くか。いわゆる dress code の問題なわけだけど、僕が子供の頃でも、できればスーツで行くべきだ、というのが暗黙のルールになっていたと思う。女性も、腕や肩などを出さないような格好で、という感じで、子供の僕でも、洗礼式のときにはブレザーを着させられたものだ。

実は、教会での、おそらく最古のものであろう dress code にこんなものがある。

あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。
……これは、新約聖書の『コリントの使徒への手紙 一』11章 2-16 節のくだりである。

これを以て「だからキリスト教は男尊女卑で」とか何とか言われるのもアレなので、一応補足しておくけれど、聖書の時代において、男性が頭髪を奪われるということは、何物にも勝る恥辱だった。旧約聖書を読むと、恥辱のシンボルとしての「髪を剃り落とす」というフレーズをあちこちで目にするし、子供に「はげ頭」と罵しられた預言者エリシャなどは、罵った子供を惨殺している:

エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。

列王記下 2:23-24

この記述は、聖書のトンデモな記述としてよく例に挙げられるのだが、この「虐殺行為」は、神の言葉を伝える預言者を通して、神に対してこれ以上ない程の恥辱を向けたことへの報い、と解釈すべきなのだろう(聖書を読まれたことのない方はえーっ? とか思われるかもしれないが、旧約聖書はこの手の神の怒りによるスプラッターな描写がてんこ盛りなのである)。

先のパウロ書簡の記述は、女性がヴェールを被る論拠になっているわけだ。しかし最近は、ヴェールを被らない女性信者がほとんど、という状況になってしまっている(「自分で判断しなさい」って書いてるからいいんだ、とか仰る方もおられるようなのだが、それはちゃんと読んでないよなあ……このパウロの言い分があまりに女性蔑視だ、と現代の女性が思うことには何ら反論するつもりはないけれど)。

まあでも、ヴェールを被らない、なんてのはまだいいのだ。僕だって彼女達のことをどうこう言えはしない。ジーンズに裾を出したシャツで教会に行くことも多いから(勿論、何かハレのときには相応の格好はするけれど)……しかし、最近はどうも、そんな僕から見ても「それはないでしょう」みたいな格好をしている人が多過ぎる。

たとえば、ホットパンツにノースリーブで教会に来る若い子達がいる。せめてショールでも一枚肩にかければいいものを、そのままで、堂々と聖書朗読をしたりするので、さすがの僕も気になってしまう。昔だったら年配の信者やシスターに追い出されていると思うのだけど……

拙 blog『暗黙のマナー』で丁度一年前位にも書いたけれど、ガールスカウトの子達の帽子も相変わらずだ。一応その子達も指導者(親らしいのだが)も信者らしいのだが、あの指導者達、一体、子供の頃にどんな風に教わってきたんだろうか……と、まあこんな感じで、ミサに行く度にイライラさせられて、精神衛生上、非常によろしくない。普段でもこんな状態なのに、今日のミサでは、見たくもないものを見て、非常に不快な思いをさせられたので、記録がてら書いておくことにしようと思う。

僕の座る席のふたつ前(ひとつ前は空席だった)に、若い男性が座っていた。体格は小太り、というか、全身に均一にムチッと肉が付いているというか、そんな感じである。この男性、Tシャツにジーンズという格好で椅子に座っていたのだが、立ったり座ったり跪いたりしているうちに、見るともなくこの男性の腰の辺りに目がいった。

腰の辺りが、どうも妙なことになっている。うん、これはいわゆるローライズというか、股上の短いジーンズを履いているんだろう……と納得しようとしたのだが、どうしても何か引っかかる。

普通、見せパンというとこんな感じであろう:

misepan-1.png

それが、どう見ても、こんな感じに見えるのである:

misepan-2.png

……これって、ひょっとして T バックってことか?

うーん。女性がジーンズを履くときに、パンティラインが見えないように T バックを履くというのは、聞いたことがあるような気がするのだけど、男性が、しかも見せパンとして T バックを履く、というのは、聞いたことも見たこともない。しかも、よりによって教会ですよ? ……ったく、一体ぜんたい何がしたいのやら。とりあえず迷惑なので、本当にこういうのは勘弁していただきたいのだが。

実は僕が思っているより……

先日書いた『5つの書体』の件だけど、僕はどうしても不思議に思えて仕方ない。「(OTF パッケージの基本5書体のような)基本的な書体をフリーフォントで確保しよう」という話が、どうして今に至るまで出てこなかったのか、ということが、である。

過去の TeX Wiki のアーカイブとか、TeX / LaTeX 関連でアクティブな人々の公開しているコンテンツなどをちらちら見ていると、こと日本語のフォントに関する話は、Microsoft Windows、それも Office 等にバンドルされている HG フォント込みでないと成立しない話が多過ぎる。いや、僕も手元に Microsoft Office の入った Windows があるけれど、しかし HG フォントなんて正直言って使ったことがない。どうして世間ではこうも皆 HG フォントに familiar なんだろう、と奇妙に思われてならない。

これが、PDF の登場以前だったら、あまり問題になることはなかったのかもしれない。ビットマップ展開された PS ファイルや、それが印刷された紙媒体というかたちで日本語の文書がやりとりされるのならば、フォントの問題に関してあまり頭を痛める必要はなかったろう。しかし、PDF が登場し、フォントが埋め込まれることが多くなってきたこの何年かの間ですら、フリーフォントの確保という問題に関して、皆アクティブに声を上げようとしなかったのは、これは実に不思議なことである。

日本語におけるフリーフォントとして、もはや拠り所とも言えるような存在である IPA フォントにしたって、これはもともとフォント単体でそのように活用されることを企図したものではない。IPA が、たまたま自分のところで成果物として公開するアプリケーション用に確保したフォントがあって、これ欲しさにソフトをダウンロードする人が増え(IPA フォントは当初、フォント単体での配布が行われていなかったためにこんなことになった)、やがてフォント単体の配布とライセンスの整備が行われて、今や IPA はフリーフォントのパイオニアみたいな風情だけど、元々 IPA も、そしてその周囲の人々も、そんなことを望んでこういう状況に至ったわけではないのだ。これは、たまたま、実に幸運なことにそうなったのだ、というだけのことである。

いや、僕は、別に杓子定規な法の適用をよしとするわけではない。しかし、社会の中で我々が、大きな資本力、政治力を持つ存在に言論の自由を脅かされないためには、我々がものを書き、配布するにあたって、そのフォントは不正使用だ、などという茶々を入れさせる隙のない手段を持っているべきだ、と思うのだ。フリーなフォントは、確実にそういう手段の一部として求められるべきものなのだ。

ある日、警察や弁護士がしれっとした顔でやってきて、「オタクが公開されてるあの文書、フォントの不正使用の疑いがあるんですよねえ」と言われる。いやこの程度で逮捕されるようなものではないでしょう……しかし、しつこくつきまとい、周囲には聞き込みと共に「不正使用の疑いのある輩」という風説を流布される。こういうことを聞いた人は、あの人がそういうことをするわけがない、とは思ってくれない。こんなこと言われてて、それが 100 % その通りではないかもしれないけれど、でも 1 % 位は何か悪いことがあるんじゃないのぉ? と思いがちなものだ。そしてそれと風説が相俟って、あなたは色眼鏡で見られるようになる……そんなことの起きないという保証がどこにあるのだろうか。低次元な話だと思われるかもしれないけれど、言論の自由というのは、こういう次元で辛くも守られるような危うさがあるということを、我々は忘れてはならないのだ。

そんなこともあるので、僕は自分が必要に応じてフリーなフォントが使えるような体制を整えようと思ってきたし、これからもそう思い続けることだろう。これを書いているバックでは、今 FontForge が動いている。私用のフォントを生成中なのだ。普段は専らヒラギノフォントを使っている僕だけれど、ほとんど使わないものでもこういう事情で整備をしているのである。まあ、過敏だと思われる方が大半なのだろうけれど、僕にはこれが過敏だとは思えないのだ。

Linux-3.5-rc1

手元の環境のリフレッシュ作業が終わったところで、kernel を 3.5-rc1 にしようと build して reboot したら、ネットワークに接続できない。何? どういうこと? 慌てて前の 3.3.7 で reboot すると、何も問題ない。僕は未だに有線 LAN を使用しているので、メカニカルトラブルじゃないか、と思って焦ったわけだけど、どうも kernel に起因するものらしい。

configuration を精査して、再度 build してみたけれど、状況は変わらない……それらしい話も聞かないし、今日の午後にでもちゃんと調査してみることにしよう。

スウェーデンは遠い

スウェーデンには一度だけ行ったことがある。それも2時間だけ。

ある国際会議がフィンランドで開催されたのに参加したのだが、この国際会議が、一日目と二日目がヘルシンキ工科大、三日目と四日目が、ヘルシンキとストックホルムを結ぶ船上、つまりバルト海上で行われたのだ(なんでも、その船上で会議をするのが北欧では流行っているとか何とか、そんな話だったが)。で、セッションの合間にストックホルムで2時間だけ時間ができて、上陸したのだった。

正直言うと、ストックホルムの印象はあまりいいものではなかった。カフェの店員に間違えてフィンランドの札(嗚呼、あの頃はぎりぎりユーロ前だったのだ)を出したら、うんざりしたような顔で "This is not Swedish money." という言葉と共に投げ返されたりしたせいかもしれない。天気はまさに霧咽ぶ中、という感じで、でもあの店員の応対が良かったら、この印象は全然違ったものになっていたのかもしれない。

しかし、スウェーデンはオンラインでは結構縁のある場所だった。僕が熱力学計算に使っていたあるデータベースが、スウェーデン王立アカデミーにサーバーがあったり、他にもいくつかのソフトでスウェーデンにはお世話になった。当時(いや、そんな大昔じゃないんだけど)も、ネットワークはそんなに重く感じなかった記憶があるのだが……

実は、今丁度、Debian GNU/Linux の sid(いわゆる不安定版……僕はこれを常用している)のインストーラーをダウンロードしているのだが、これの最新版(いわゆる daily-build image)が、1か所のサーバでしか供給されていない。しかもそのサーバがあるのはスウェーデンらしい……いや、それはそれで全然構わないのだが、このサーバの回線がとにかく細いのだ。数十 MB のファイルを落とすのに数十分かかる……毎分 1 MB って、今時そんな回線なんてあるのだろうか? 個人で xDSL(いや、今メタルの回線で xDSL を使っている方はかなり少ないと思うけれど)で接続していたって、こんなに遅くはないだろうに……しかもスウェーデンって言ったら、フィンランドと並んで、北欧の IT 先進国なんじゃないの? どうしてこんなに細いのか。

ftp や http だから遅いのか、と思って、BitTorrent や jigdo を試してみたけれど、一向にダウンロードできない(だから供給がここ1か所だけだ、と言えるわけだが)。今は ftp で落としているのだが、これは本当になんとかならないものだろうか…… Ubuntu ユーザが増えたと言っても、あの老舗にしてカタいことで著名な Debian なんだから。まあ、でも、とにかく今は待つしか術がないのだった。

5つの書体?

某氏からメールでご質問いただいたので、改めて書いておくことにする。

日本語のフォントを選ぶ際に、何が「標準的に用いられるセット」なのか? という問題は、実のところ、これが答です、というものが確立しているとは言い難い状態なのかもしれない。たとえば欧米の場合(少なくとも TeX / LaTeX の世界では)、まず:

  • Serif (roman)
  • Sans Serif
  • Typewriter Type
の種別があって、これを font family という。次いで:
  • Medium(標準の太さ)
  • Bold(いわゆる太字)
という種別があって、これを font series もしくは font weight という。そして、
  • Upright(標準の書体)
  • Italic(いわゆるイタリック、イタリア風デザインの斜体)
  • Slanted(Upright をそのまま斜体にしたもの)
  • Small Caps(小文字が小さな大文字で表わされる書体)
という種別があって、これを font shape という。

ではどういう風に字体が決まるのか、というと、まずあるフォント……ここでは Palatino を例とする……を選ぶ。Palatino は Serif のフォントなので、このフォントを選ぶということは、Serif に Palatino を割り当てる、ということになる。そして、この Serif のフォントとして選ばれた Palatino には Medium と Bold、2つの series があって、それらには各々4つの shape がある。だから、あるフォントを選択する、ということは、ある family にそのフォントを割り当て、それに対応する合計8種のバリエーションが規定される、ということになる。

そして、個々の字体を表す際には、これらの情報がその名前に包含されていることが望ましいわけだが、これは Karl Berry によって命名規則参考:日本語による解説)として体系化されている(正直、これを使いこなすようにはなれそうにないけれど)。

では、日本語の場合はどうなのか……これが、実のところ、どうもいい加減なのである。旧来の TeX / LaTeX では、まずフォントは「明朝」「ゴシック」の2 family のいずれかに割り当てられ、その下に Medium もしくは regular と Bold の 2 series がある。その下に shape も指定できるのだが、基本的に shape は1種類しか使わない。まあここまではいいのだが、旧来の日本語 LaTeX では \gt (ゴシック) と \bf(ボールド) は混同してもかまわない、ということになっていた。通常の記述と強調部とが表現できればいいんだし、こうしておけば、欧米文字の部分で bold で強調した部分が日本語でも強調されていいよね! という発想だったんだろうけれど、これはよくよく考えると、family と series が混同される「仕様」だったわけだ。じゃあなぜ \gt なんてものがあんねんな? と、TeX / LaTeX を使い始めた頃は不思議に思っていたのだが、要するに、日本語のフォントに関する初期の扱いはこの程度だった、ということなのだろう。

複数種のフォントの扱いが不可欠な出版の現場において、たとえば旧アスキーで日本語フォントがどのように扱われていたのか、ということに関しては、残念ながら僕は知らないし、そういうことが文書化されたものの存在も知らない。ひょっとしたら、『日本語LATEX2eブック』(中野 賢 著、アスキー、1996)などにそういう記述があるのかもしれないが、残念ながら今手元にない(古書で買おうかなあ)。ただひとつだけ言えるのは、UTF 改め OTF パッケージが使われるようになってから、「混同する仕様」が(僕からすると何の前触れもなかったように思えるのだが)さくっと変更されている、ということだ。

この件に関して、実はあまりいい感情を抱いていないことがある。それは、OTF パッケージと uptex / uplatex による多書体化というものが、いわゆる CJK 拡張と常に寄り添うようなかたちで進展してきたことである。いや、多書体化というものが、日本と同じく縦書きと横書きをする CJK 圏内に等しく恩恵を与え得る拡張であることは理解できるし、そのことがユーザ数の確保につながり、それが長期的・安定的なアプリケーションの存在位置の確保、そして将来の進展につながる、という効用も理解できる。しかし、さー日本語使いましょ、という人がいきなり、ハングルや簡体字、繁体字の、聞いたこともないようなフォントが列挙されたフォントマップと格闘しなければならない、というこの状況って、ちょっとおかしいんじゃありませんかねえ?

僕の場合のことを恥ずかしながら書くと、このフォントマップを見たことで、僕が OTF パッケージや uptex / uplatex を使い始めるのに若干の期間を要したのは事実である。で、ええい俺はそんなもの使わないんだ、日本語に関わらんものは全部消してしまえ! とやり始め、それをするにはどれが中国語のフォント、あるいは朝鮮語のフォントなのか分からなければならないということに気付いて、あ゛あ゛あ゛! と苛立ちながらも消していった結果、何となく分かったのは、たとえば OTF パッケージのフォントマップの場合、

(フォントメトリック)(文字コード)(family)(series)(縦横)
となるように個々の字体が記述され、それに対して対応させるフォントを assign するようになっている、らしい……ということだった。しかし、これでは、実際に文章を書くときのフォント指定との間の関係が非常に掴みにくいし、そもそもどれだけの数のフォントを用意すればよいのかも分かりにくい。

いや、「他に何かいい方法あるなら書けやヴォケェ」とか怒られそうだけど、実際に僕もあまり良い方法を思いつかない。ただし、一エンドユーザとしては、こういう記述のひとつひとつよりも、実際に使う字体の数がどれだけで、それと何を対応させてフォントマップを書けば、実際に組版するときにそれらが「使える」のか、という方が遥かに重要だ、ということだけは、確信をもって言える。

では、僕が自分の頭の中でどういう風にそれを認識しているのか、というと、

  • 基本的に字体は「明朝」と「ゴシック」に大別される。
  • 各々の字体には「標準」「太字」があり、これに加えて「丸字」「細字」「極太字」が指定できる。
……という、甚だいい加減な認識になっているわけだ。しかし、これをあてはめると、たとえば、
  • rml → 明朝標準
  • gbm→ゴシック標準
  • hminb→明朝ボールド
  • hgothb→ゴシックボールド
  • hgotheb→ゴシック極太
  • hmgothr→ゴシック丸字
  • hminl→ 明朝細字
と言いたいんだなあ……という位は理解できる。あとはこれらやそのバリエーションに対して、対応するフォントを assign して、必要な場合は CID と Unicode の仲立ちをする /AJ16 オプションや、TrueType Collection 内の n 番目のフォントを指定するための ":<n>:" を明示的に追記すればいい……という話になるわけだ。恥を忍んで書くけれど、この整理を付けるのに、確か半日位を要したのではないかと思う。こんなこと当たり前じゃーん、と、フォントマップに習熟した人々は言うのだろうけれど、このような解釈ができなければ、そしてこのような指針が示されていなければ、世間の人々が TeX / LaTeX でお望みのフォントで……というのは、いつまで経っても無理なことだろう。

いや、僕が危惧しているのは、むしろ「余計なことはせずにこちらの御仕着せに黙って従っておけばいいんだ」というようなことを言う人が、日本の TeX のコミュニティに存在する(まあどこでもそういう人の一人位はいるものだろうけれどね)、ということである。かつて僕も、いかに ls-R データベースが有害か、というのを、W32TeX を普段使っているらしい人にきつくきつく御忠告いただいたことがあるのだけど、いやー、tetex や TeX Live を Linux や Mac OS X 上で使っていて、Windows 上での TeX / LaTeX 事情の方も少しは分かる僕としては、そんな議論は何の意味も持たなかった。はぁ。W32TeX では ls-R データベースは不要なのかもしれないけれど、TeX Live の場合はちゃんと生成しておかないとどうにもならないんだけど……しかし、何故 W32TeX が世界を全て覆っているかのような、こういう姿勢になってしまうのだろうか?(いや、W32TeX に関わるほとんどの人達はそんなこと言いやしないんだが) あーこの人はいわゆるタコにアホな質問をされ続けて、律儀に(愚直に?)もそれに答え続けているうちに「馬鹿は黙って俺らの整備したシステム使っとけや」的な境地に至ってしまったのかしらん……と、邪推すらしてしまったのだった。

こういう手合いに出る頭を叩かれ続けた人が、そのうち「TeX Live ではとりあえず黙って IPA フォント使っとかないと何言われるか分からないよー」とか言い出しかねない。これは誰にとっても何の益もない話である。誤解されると困るのではっきり書くけれど、僕は、システムが complicate になることが悪いと言っているのではない。complicate であるなりに、タコでも少々根気があれば手繰れる「蜘蛛の糸」を垂らしておいてあげるような配慮が、少しはされてもいいのではないか、と言っているのだ。

だから、僕は『TeX Live を使おう──Linux ユーザと Mac OS X ユーザのために──』の中では、誤解を恐れずに、日本語の字体の基本は、

  • 明朝
  • ゴシック
  • 太明朝(明朝ボールド)
  • 太ゴシック(ゴシックボールド)
  • 丸ゴシック(ゴシック丸字)
の5つですよ、それに対応するフォントはこれですよ……というような書き方をしている。『美文書作成入門』で \ebseries に関する記述があるし、フォントマップを見る限り、OTF パッケージでは「細明朝」の存在を意図しているようだから、それらをこれに追加してもいいのだけれど、
  • LaTeX の各種スタイルファイルで普通に組版したときに必要なフォントをまず列挙すべきだろう
  • (埋め込みに関しては様々な意見・議論があるけれど)誰にツッコまれても埋め込みを行って問題ないフォントを確保できる字体を列挙すべきだろう
ということで、上の5種類を列挙しているわけである。まあ、一エンドユーザでも、それなりに気にしていることもあるんですよ、と、そういう話である。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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