知らざる者の傲慢

なんか僕の mixi のアカウントにわざわざリンクを張ってまでさらされていた(一応魚拓も取っておいた)のに objection を。

まず、この手の輩は、人が何事かに対して答える上で、相応の責任を負い、労力や時間も(些少ではあるかもしれないけれど)消費させられるものだ、という視点が欠如している。これに関しては、Linux 業界で有名な生越氏の(これはもうかなり前に書いているはずだけど)『我々は十分か』:

http://www.nurs.or.jp/~ogochan/linux/5.html

でも読んでみればよろしい。生越氏の言葉を借りれば:

それは、ここでの対象となっている「タコども」が、あまりに「お客さん」であり「感謝を知らない」ために、文句を言っているので ある。
……まあ、この手の質問に20年近くも答え続けていれば、誰でもこの心境に至るものだよ。僕もしばしばRTFMという言葉を使うけれど、本当に、今の「質問者」の多くに対して、僕はこの言葉を堪えながらコメントすることが多いのだ。情報交換のメディアにおける、流通する情報の「質」がいつまでたっても向上しないことに苛立ちと諦観を抱えつつ、ね。

次に、上リンク先の人物が言うところの「やさしさ」に関して。これももう言い古された話で、僕も何度か open な場所で指摘しているけれど、この人物のいう「やさしさ」というのは、明らかに従来の「優しさ」ではない。知らないことを他者に教示してもらうよう乞うときに、そこに hospitality を要求する、というのは、これは「やさしく教えろやゴルァ」と言っているに等しい。先にも書いた、教える側の事情を何も斟酌していない態度だとしか言えない。

じゃあ、彼らの求める「やさしさ」が何なのか、というと、これは精神科医の大平健氏が言うところの「やさしさ」(彼は記号的に、このやさしさを平仮名で表記する)だと言えるだろう。この「やさしさ」に関しては、大平氏の『やさしさの精神病理』に詳細に記述・考察されているので、興味のある方はそちらをご一読いただきたい。

いやはや、しかし、上リンク先の人物、こういう風に書いている:

で二つ目は、mixiのTeXのコミュニティ。TeXもマイナーなんで、同じ原理で(?)優しい人が多いんだけど、正直http://mixi.jp/show_friend.pl?id=546064の人はどうかと思った。荒れるってわけじゃないけど、傲慢さよく出てる・・・というか、自意識過剰な感じが良くない方によく出てる。なんか・・・全裸説教強盗って感じ?
いや違うでしょう。むしろあなたみたいなのを居直り強盗というんだよ。

【追記】

またしつこく書いてるなこの人。一応リンク、そして証拠保全のために魚拓。

先方の引用部でなぜか以下の部分が消されている:

僕もしばしばRTFMという言葉を使うけれど、本当に、今の「質問者」の多くに対して、僕はこの言葉を堪えながらコメントすることが多いのだ。情報交換のメディアにおける、流通する情報の「質」がいつまでたっても向上しないことに苛立ちと諦観を抱えつつ、ね。
一応ここは重要なところなんだけどなあ。僕の心の叫びみたいなものだからねえ。

しかも僕の書いているところの「優しさ」と「やさしさ」の違いをまるっきり理解しようとしていない。それに、ある人物のモラルを以て(社会的規範を損なわない限りは)他者を断罪すべきものではない、ということもどうやら理解していないようだ。僕は書き言葉ではカタい言葉を使うので、しばしばこのような「込めてもいない悪意」を感じて悪意を以てこのような書かれ方をする経験があるけれど、自分の書いたことをちゃんと読まずに、しかも恣意的引用(ととられて然るべき引用の仕方)をして、原文が net 上で open なのにリンクもしない……なんて輩は、本当にたちが悪い。

そしてこれがこの人のドグマなんだよな:

で、この人(筆者注:原文ママ)場合、この文章の「人に教えを乞う」という表現から傲慢さがよくわかる。
僕は「人に教えを乞う」という定型句なんか書いていない。僕はこう書いたのだ:
次に、上リンク先の人物が言うところの「やさしさ」に関して。これももう言い古された話で、僕も何度か open な場所で指摘しているけれど、この人物のいう「やさしさ」というのは、明らかに従来の「優しさ」ではない。知らないことを他者に教示してもらうよう乞うときに、そこに hospitality を要求する、というのは、これは「やさしく教えろやゴルァ」と言っているに等しい。先にも書いた、教える側の事情を何も斟酌していない態度だとしか言えない。
要するに、この人が言うところの「やさしさ」(平仮名表記であることに注意)を冒していると僕を非難する行為は、この人の「やさしさ」のドグマで僕を断罪しているだけの行為だ、と僕は言っているのである。そもそも、「教えを乞う」って、そんなに屈辱的な言葉なのだろうか?まあたしかに「乞」は「乞食」の「乞」だけど、そもそも「乞」という字は「神仏に対して願う」という意味を帯びているので、何ものかを貶めるものではなくて、求める側の謙譲の意が入っているだけなんだけどね。屈辱なんて意味は、そもそもこの字にはないんですよ。

一応自然科学者の端くれとして書いておくけれど、僕は何事か、より reasonable なものに近づけるのだったら、相手が三歳児だって教えを乞うだろう。そして僕のそういうスタンスは、僕が出会ってきた、僕の関わった研究領域での権威と呼ばれる人達に学んだものだ。彼らは、当時学生だったり、学位を授与されたばかりの新米研究者だったりした僕に対して、権威の威光を振り回すなんてことはなかった。実にフランクに、僕の意見を聞き、自らの見解を僕に示してくれた。けれどそれは、相手の見解に対して相手が負うのと同等の責任を負うことの必要性を暗に僕に感じさせて、僕はいつでも冷や汗をかきながらそういう人達とディスカッションをしたものだ。

だから、教えを乞う/乞われるときに、どちらが上でどちらが下だ、などということは、そこに何の関わりも持ち得ない。求められるのは、必要な情報を得る上で真摯に問うているか(自力で調べられることは調べて……勿論人間だから力及ばないこともあるだろうけれど、聞くことをちゃんと分からないなりに整理して、何がどう分からないのかを伝えるように努めているか)、そしてそれに対して必要な情報を十分な確かさで、そうでないならエラーバーも含めて真摯に提示できているかどうか。それが全てだ。目線の上下なんてのは、そういうやりとりには何も関わりがないし、何も影響しないし。勿論僕はそんなものをこういうやりとりに導入したことがない。

それにしても……この人、まるで「『上から目線』過敏症」みたいだよなあ……あるいは過去に何か「教えを乞う」という文脈において、何か大きな大きな負の記憶でも抱えているんじゃなかろうか。抱えていようがいまいが、それは個人の勝手だけど、それを振り回すなんて、これこそが傲慢なんだっての。

知らないと恥をかくけど、知っていると恥ずかしい

世の中には、知らないでいると恥をかくけど、知っていても恥ずかしい思いをする……そういうことがしばしばあるものだ。

たとえば、こんなことがあった。日本で web 日記が流行りだした1990年代半ば頃、日記書きのコミューンの中に一人の女性がいた。その女性は人文科学系の大学院生で、colon という handle(何度もしつこく書くけれど、「通り名」の意味で使われるのは "handle" で、"handle name" という語は存在しないし、ましてや "HN" などという略語も存在しない……日本の jargon としてはどうかわかりませんけれどね)を使っていた。「コロン」だから女性っぽいし、お洒落な感じでいいじゃないか、とか考えたそこのあなた。何かおかしいと思いませんか?

そもそも「コロン」が何故女性っぽい、お洒落なイメージを喚起するのか、考えていただきたい。おそらく、この「コロン」から香水とかをイメージするので、そういう風に考えるということなのだろうか?だとしたら colon というのはおかしい。そもそも「香水」を意味する「コロン」という言葉は存在しない。え?フランス語?それを言うなら「パルファム」Parfum だろう。

僕も別に偏屈親父を気取っているわけではない。おそらく「香水」から「コロン」を連想する方が、正確には「オーデコロン」という単語を経由しているのだろう、ということは分かっている。「オーデコロン」は、フランス式にちゃんと書くと Eau de Cologne だけど、まず、これ式で「コロン」を連想するなら Cologne と書くべきだろう。そして、そもそも Cologne という語には(辞書ででもひいてもらえばすぐに分かることだけど)「香水」というような意味はない。フランス語でも英語でも、Cologne と書けば、これはドイツの都市であるケルン(ドイツ語では Köln と書くけれど)を指すのである。

なぜこんなことになっているのかは、Eau de Cologne の歴史を調べてもらえればすぐ分かる。Eau はフランス語で「水」、あるいは水のような液体を指す言葉だから、Eau de Cologne を直訳すると「ケルンの水」とでもいう感じになるわけだけど、世界最初の Eau de Cologne は、ケルン在住のイタリア人香水職人 Giovanni Maria Farina(イタリア式に読むと「ジョバンニ・マリア・ファリナ」だけど、ドイツ式に「ヨハン・マリア・ファリナ」と呼ばれることが多いらしい)が 1709年に製造したものとされている。ファリナは自分の第二の故郷であるケルンの街の名を冠して、この新しい香水を Echt Kölnisch Wasser(= original Eau de Cologne)と名づけたのだが、1794年にケルンに進駐したフランス軍の軍人が、これを自国に持ち帰り、それ以後はフランス語の Eau de Cologne が世界的に用いられるようになったと思われる。ちなみにケルンでは、この当時の区画整理番地に由来する "4711 Echt Kölnisch Wasser" が現在も製造されている。

……いや、単なるケアレス・ミスでしょ?何をそんなに全力で否定しなきゃならないの?とお思いの方が多いと思う。だから先の colon なる単語に戻るけれど、これを英和辞典ででもひいてみてもらえたら、ここまで駄目を押す理由がお分かりになるかもしれない…… colon は英語では ":"、つまり句読点のコロンを指すか、小腸と直腸の間の部分(日本語で言う「結腸」や「大腸」)を表す言葉なのだ。そして、何の前触れもなしに colon と出てきたら、おそらく連想されるのは「腸」の方である。知らなかったであろうとは言え、handle が「結腸」というのは、これはあまりにケッタイな話なのである。

前に blog で書いたことがある話だけど、僕が大阪に住んでいたときに、近所に開店したケーキ屋の看板に "Taste of Mammy" と書かれていて、これをどうしたものか、と悩んだことがあった。これも「お母さんの味」という日本語が、正確には「お母さんの手になる味」「お母さんによる味」を表すことを深く考えずに、安易にそのまま英単語に置き換えた(もちろんこういう置換を「訳」とはいわない)結果、恥ずかしい看板が出来上がってしまったわけである。 "Taste of Mammy's Cooking" と書けば、何もおかしくないんだけれど……まあこれも、知らないと恥をかくけど、知っていると恥ずかしい一例である。

……で、今日、どうしてこんな話を書いているか、なんだけど……以下、若干シモネタがかった話になることを、どうかご容赦いただきたい。実は前々からおかしい、おかしい、と思いつつも、おおっぴらに話したり書いたりできずにいたことがあるのだ。今日こそは、それをここに書いておこうと思う。

ニコニコ動画のコメントとか2ちゃんねるの書き込みとか、あるいはアダルト関連の情報一切の中で、よく「肛門」の意味で「アナル」「アナル」と書かれているのを見かけるのだけど、これっておかしくありませんか?僕の言語感覚では「アナル」というのは anal だとしか考えられないんだけど、これはいわゆる形容詞格ってやつで、anal という言葉単体では意味を成さないはずなのだ。これは anus「アヌス」じゃないんだろうか?

Anus というのはおそらくラテン語由来の単語だろうと思ったらその通りで、もともとラテン語で「環」を意味する言葉なのだそうな。まあ「肛門」という単語が単体で使われることは非常に少ないわけだけど、あたかも単体で「肛門 = アナル」というのが正しいかのように世間に定着しているのが、僕にはどうにも気持ち悪いのだ……『さよなら絶望先生』の木津千里じゃないけれど、どうにも「イライラする!」。皆さん、もしこの単語を使われる際は、形容詞格との使い分けに注意しましょう、ええ。どうにも気になるんです(自分で使うことはないんですけど)。

執行設備公開

まず最初に書いておくけれど、今日は僕の誕生日である。もう誕生日をにこやかに祝うような歳でもないけれど、さすがに今日のニュースを観たときには「何も今日でなくたって」と思ったものだ。2010年8月27日……今日、おそらく日本で初めて、死刑執行に関わる設備がマスコミに公開されたのだ。

日本では死刑というと絞首刑を指す。なぜかというと、これは刑法11条1項にその旨定められているからなのだが、この絞首刑の執行は、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島そして福岡の拘置所で行われることになっている。しかしながら、今まで法曹関係者以外に執行施設が公開されたことは、記録されている限りは1回しかない。「死刑廃止を推進する議員連盟」の申し入れに対して、当時たまたま改装されたばかりであった執行設備が公開されたのだ。

社民党の元衆院議員である保坂展人氏は、このときに執行設備を見学し、後にそのときのことをドキュメンタリー作家の森達也氏のインタビューで述べている(詳細は『死刑』森 を参照のこと)。そのときの話を『死刑』で読んだとき、僕は「同じだ」と思ったものだ。何が「同じ」なのか?まずはこのパイロットフィルムを見ていただきたい:

この、大島渚氏の『絞死刑』を、僕はビデオで観る機会があった。この映画では、死刑執行に関わった人などから徹底的な取材を行い、死刑執行の一切を忠実に再現しているのだが、この『絞死刑』冒頭部における描写と、保坂氏の証言は、ほとんど死刑執行の実情が1960年代から変わっていないことを示していた。

これを今日お読みの皆さんは、おそらく今夜のニュース番組等で取材された東京拘置所の死刑執行設備を観ることができるだろうから、まずは『絞死刑』冒頭部をぜひ観ておいていただきたい。保証してもいいけれど、この2010年になっても尚、死刑執行の設備というものはほとんど変わってはいない。あえて変わっているところを指摘するならば、昔はハンドルを回すことで外されていた床板が、現在はボタンを押すことで外れるようになっていること位であろう。

東京拘置所の現在の死刑執行設備においては、床板の設置されている部屋からカーテンを隔てたところに、3つのボタンが設置されている。これは、どのボタンが実際に機能するかを変更できるようになっていて、3人の刑務官が一斉にこのボタンを押すことによって、誰が実際の死刑執行を行ったのか分からないようにするためである。しかし、仮にこのボタンが巧く作られていて、本当に誰が押したために床板が抜けるのか分からなかったとしても、3人の刑務官は、自分が押したために1人の死刑囚が縊死したのではないか、という念を抱くことになる。これはもう、間違いのない事実である。

刑務官という職の本来のミッションは、死刑という刑罰のそれとは著しく異なるものである。日本における刑罰は、一般的には教導的な意味合いの強いもので、刑務官のミッションは「受刑者に罪を悔い、償うよう教導すること」なのである。死刑制度を簡単に肯定する人々は、おそらくはこの辺から分かっていないのだと思う。「受刑者に罪を悔い、償うよう教導すること」をミッションとしている刑務官が、受刑者の命を奪うことを職務として実行しなければならない。こんな矛盾に満ちた話はないのである。

僕が聞いた話では、死刑執行による臨時手当で、刑務官は皆したたかに酔ってこの念を逃れようとする、という話だった。しかし、実際には、その手当を持って寺院を訪れ、死刑囚の供養を依頼する刑務官もいたのだという。これらもまた、死刑執行設備と同じく、おそらくは何十年を経ても尚、変わらない現実なのだろうと思う。

今までも何度か書いているけれど、僕は大阪教育大附属池田小学校の隣で働いていた。あの宅間守元死刑囚が牛刀を持って侵入し、8人の子供達が殺されたとき、僕は前日遅くまで職場で働いていたために、遅めに職場に出た、丁度その頃だった。その日のことは、今までにも書いたことがあるから省略するけれど、ここで書かなければならないことは、宅間元死刑囚の刑が執行された後に遺族から出されたコメントが「虚しい」というものであったことである。特に、宅間元死刑囚は、獄中結婚を経て、自らの罪に対してわずかながら後悔の念を抱き始めた、まさにその頃に刑が執行された……哀しみにケリをつけるために望んだ早期刑執行は、結局は永遠に悔罪の念をもたらさないという結果に至る。結局、周囲の人の人生の一部も、永遠に死んだままに終わってしまう。

簡単に「応報意識を持つことは正当だ」とか「死刑囚の生活費を何故公費で負担し続けるのか」とか「命は命で償われるべきである」とか言うのは、誰だってできることである。しかし、そういう人々は「罪と罰」というものを、本当にちゃんと考えたことがあるのだろうか?僕は、そんな放言乱発の輩は、きっとそういうことをまともに考えたこともないのだろうと思う。そして、何よりも当たり前のこと「命は命で償えない」ということを理解していないのだろうと思う。加害者を殺して、被害者が生き返りでもするというのか?そんなことも分からないような連中は、きっと他の償いも満足に果たしたことのないような輩に決まっている。

空間喪失

今年、2010年という年は、プロで音楽に携わっている人にとっては記憶に残る年なのかもしれない。というのも、ソニーがテープを用いたデジタルレコーディングシステムの保守を打ち切るのが今年なのである。

ロックに代表される、マルチチャンネルレコーディングの現場にデジタル化の波が押し寄せたのは、1980年代初頭のことだった。1978年に 3M 社が開発したデジタルレコーディングシステム(The Digital Audio Mastering System = DMS)が、今はなき田町駅前交差点のアルファスタジオに設置されたのだ。このシステムで、YMO や CASIOPEA(なんか時々指摘されることがあるから書き添えておくけれど、バンドのカシオペアは何故かこう書くことになってるんです……僕もさすがにギリシャ神話のカシオペアを Cassiopeia と書くこと位は知ってるのでね)がレコーディングを行っている。

このシステムは 16 bit 50 kHz のサンプリングレートで 32 ch. の録音が可能で、それをマスタリングするための 4 ch. のシステムも付随していた。音質に関しては、日本では主に YMO のファンが中心となってこれを酷評しているのだが、それは YMO 以外の音楽を知らないからなのだろう、としか僕には思えない。僕のような人間にとっては、何と言っても Donald Fagen の "The Nightfly" のレコーディングにこのシステムが使われた、ということが記憶に鮮明だし、実際、"The Nightfly" は多くのレコーディングエンジニアがリファレンスと位置づけているのだから。

ただし、この 3M のシステムは、やはり機械的には無理のあるものだったと言わざるを得ない。当時入手が比較的容易だった1インチ幅のビデオテープを媒体に使えるとはいえ、そのテープ走行速度は毎秒 45 インチ、つまり毎秒 114.3 センチというとんでもないものだった。ヘッドやキャプスタン等の消耗は当然激しい。そしてこのシステム、デジタルで重要になるエラー訂正に弱いところがあって、現場ではかなり神経を使わされるシロモノだったらしく、登場から数年で姿を消すこととなった。余談であるが、現在動作する 3M のシステムは世界中探してもほとんどない状態らしく、当時このシステムでレコーディングした音源を抱えている人々は大変困っているのだそうだ。

3M 以後のデジタルレコーディングシステムとしては、三菱が中心となって提唱したProDigiと、ソニーが提唱したDASHが登場した。ProDigi システムによる録音例としては、松任谷由実の "ALARM à la mode"(三菱の X-800 シリーズが用いられている)が挙げられるけれど、業界標準はソニーが一手に担うことになる。

今回、これを書くためにソニーのデジタルマルチに関して調べていたら、1979年には既に PCM-3224 なる 24 ch. デジタルマルチが存在していたらしいのだが、いわゆる業界標準の流れを形成したのは、1982年に発表された PCM-3324 である。この PCM-3324 で録音して、PCM-1610 でトラックダウンする、というのがソニーのシステムで、ソニー傘下での音源制作がこのシステムで完全デジタル化されたのが1984年のことらしい。しかし、当時のデジタルメディアは非常に評判が悪くて、その悪評が払拭されたのは1986年の PCM-1630、そして1989年の PCM-3348 の登場以降のことである。

当時は、デジタルの音はとにかく薄っぺらいとよく言われた。これは AD・DA 変換とフィルタの特性に問題があったことと、トラックダウン〜マスタリングの過程での音圧管理(音の強弱を、人間の聴感に対して美味しいところにもってくる処理)という概念が未発達だったことに起因している。実際、この問題が克服されてからは、アナログ 24 tr. でのレコーディングは激減したのだ。

そして、1990年代末辺りから DigiDesign の ProTools が普及すると、一台数千万もの価格で、毎秒 30 インチ(毎秒 76.2 センチ)のテープ走行速度で消耗品扱いのヘッドを定期的に交換する必要のある PCM-3348 は徐々に駆逐されていく。音質の問題から PCM-3348 を使い続けてきたミュージシャンも、冒頭に述べたソニーのサポート打ち切り予告の前に、ProTools に移行していった。そして今年……おそらく今年以降は、過去の音源のトランスファー以外に PCM-3348 が用いられることはなくなるわけだ。

今までの話が、一体表題と何の関係があるのか、と思われる方が多いかもしれないが、実はこの ProTools の普及に伴って感じられるようになったのが、音場における空間を感じさせるものが失われた、という感覚なのである。いやそんなの単なる懐古趣味でしょう?と言われるかもしれないが、勿論そんなつもりで言っているわけではない。

たとえば……今、僕の iTunes に入っている、中島愛(めぐみ)という人の楽曲を例に挙げよう。この人は『マクロス F』や『こばと。』等のアニメで有名な声優さんなのだそうだが、僕は別にアニメマニアではないのでそんなことはどうでもいい。この中島愛氏のシングル『ジェリーフィッシュの告白』に入っている二つの曲(特に2曲目の『陽のあたるへや』という曲)とアレンジ、そしてそれを手がけた宮川弾という人物に興味があるから入手したのだが、この『陽のあたるへや』という曲は宮川氏のピアノと弦(元 G-クレフの落合徹也氏が主宰する「弦一徹ストリングス」が弾いているらしい)、フルート、金管(おそらくチューバ)のベース、ティンパニとスネア(元シンバルズの矢野博康氏が叩いているらしい……ちなみに宮川弾氏はシンバルズの Vo. だった土岐麻子氏の元夫なのだそうで)、あとはマリンバ、かな……大体そんな辺りでオケが形成されている。

こういう編成だったら、弦の響きの面からも、少しライブな(反射音とか残響音を感じさせる)音場を形成する……というのが、僕の認識なのだけど、このオケが、実に見事なまでにべたーっとしている。弦も木管も、もう空間じゃない。面上に共存しているようにしか聞こえない。これはどういうわけなのだろうか。

実は、このような「空間喪失」とも言うべき現象は、ProTools でレコーディングが行われるようになってから特に指摘されるようになってきたものである。じゃあ ProTools が悪いのか……というと、実はそういうわけでもない。たとえば僕は Cubase(レコーディングの現場で用いられている ProTools HD よりは大分音質は悪いけれど)でデジタルレコーディングしているわけだけど、この間公開した『地球はメリー・ゴーランド』:

の coda (大体 2:30 以降の部分)を(できればヘッドフォンで)聴いてみていただけるとお分かりかと思うけれど、かなり空間的には深い感じを出している。勿論、単純にリバーブを深くかけるだけではこうはならなくて、色々小技をきかせる必要はあるのだけど、HD レコーディングで空間の感じが出なくなる、とよく言われるのは、どうも違うような気がする。

おそらく、諸悪の根源は、現在の音楽が圧縮フォーマットで聞かれる頻度が高いことにあるのではないか、というのが僕の印象である。実は上の『地球は……』も、手元の WAV ファイルと上のフラッシュ(これの音声部分は 320 kbps の CBR MP3 フォーマットである)では空間描写が大分変わってしまっている。本当はもっともっと音場は深いんだけど、MP3 で圧縮がかかると、この音場を描写するのに重要な、高音域の情報が間引きされてしまうのだ。

この音源はカバーとは言え自分の音源なので、遠慮することなく、該当 coda の部分を20秒位、WAV と MP3 で比較試聴できるようにしてみた。

上の WAV(44.1 kHz / 16 bit)と MP3(320 kbps CBR MP3, winlame で作成)をヘッドフォン等で聞き比べていただくと、この違いは分かりやすいかもしれない。

このような空間処理は、もともとレコーディングエンジニアにとっては腕の見せどころだったのだけど、最近はトラックダウンまで自力で行うミュージシャンが増えて、その辺の処理の技術が稚拙な上に、そこで頑張って空間描写をしても、MP3 とか AAC にされたらどうせこうなっちゃうんだから……という事情があって、先に指摘したような「空間喪失」現象が頻発しているのだろうと思う。これは、一音楽愛好者としても、音楽を作るアマチュアの一人としても、とにかく哀しいことなのだけど……

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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