消費税のカラクリ

前回の blog にも書いたけれど、参院選の争点として消費税問題が注目されている。しかしながら、その内実に関して正面から論じられることが、残念ながらほとんどないように感じる。

そもそも、消費税をなぜ上げなければならないのか、ということを考えてみよう。民主党は「日本がギリシャのようになる」と主張している。そうならないために、税率引き上げが必要なのだ、と。しかし、ここにそもそもの嘘があることを、果たしてどれだけの人が分かっているのだろうか。ギリシャの債務というのは、いわゆる国外を相手にした債務が多かったわけだけど、日本の債務、すなわち国債による債務高というのは、これはそのほとんどが国内の債務である。だから、万が一、日本の格付けが下がったとしても、日本の債務が経済破綻に直結することはない、と言っていいだろう。

もちろん、たとえ国内債務であっても、あの莫大な債務額は問題なのは事実である。しかし、そもそも、消費税の税率を上げることでこの債務を減らすことができるのだろうか。国債による債務は1000兆に迫らんとする額である(もし地方債を含めたら、もう1000兆を超えているかもしれない)。対して、消費税率を 10 % にして得られる税収増はたかだか数兆である。こういうのを形容する日本語としてよく知られている言葉を探すと……そうそう、これですよ:「焼け石に水」。要するに国の経済的構造の改革なしには、こんな額の債務を小手先で返せるはずがないのだ。

よく消費税問題で言われるのが「ヨーロッパは税率がもっと高いじゃないか」というフレーズである。確かに消費税率だけ見たら、欧米は日本の倍近くの税率である。しかしここには、実は二つの嘘が内在しているのである。

ひとつは、消費税が「愚かな間接税」であるということ。欧米は数種類の課税対象を定めて、生活への必要度に応じて各々の対象の税率を変えている。水や食料品、医薬品、出版物などに関しては、たとえばイギリスは「無税」だし、他の欧州の国でも極めて低い税率(おおむね数 % 以下)に抑えられている。つまり、ぜいたく品を買うときに高い税を負うように税率が設定されているわけである。これと比較して、日本の消費税は一率同一課税率だし、項目別課税という話がそもそも民主党などから一言も出ていない。このまま税率を上げれば、欧米と比較して明らかに「貧乏人に過酷な」税制となることは自明の理である。

もうひとつの嘘は、消費税の税制全体における割合が適正なのか、ということである。これを簡単に検証するには、税収全体に対する消費税収入の割合を見ればいいのだが、日本の租税・印紙税収入に対する消費税の割合はおおむね 23 % であり、この値はスウェーデンとほぼ等しい。誤解なきよう強調しておくが、これは現状、つまり消費税 5 % のレベルでの値である。要するに、日本は消費税以外の税率を低く抑えようとするあまりに、このような歪んだ税制になってしまっているわけだ。

いや、所得税を上げたら高額所得者の海外流出を、法人税を上げたら企業の海外流出を招くだけでしょう、としたり顔でおっしゃる向きがありそうだけど、じゃあ経団連に加盟している企業が本社機能を海外に移転することがあり得るだろうか?ヨーロッパにおけるモナコのような、地続きで言語の問題なく所得税率が低い国が存在しないこの日本で、金持ちが皆どこかに移住するような事態が発生するだろうか?まあ企業の方は必ずしも確率ゼロとは言えないかもしれないけれど、それにしても、この「したり顔な人々の主張」が、あまりに automatic に受容されてしまうのはいかがなものかと思う。日本は、消費税以外の税収をもっと模索しなければならないのだ。これは実は欧米でも行われている(新聞に課税するとか、ポルノに課税するとか、このご時世にあえてガソリン車に乗る人々に課税するとかね)。

要するに、何が言いたいかというと、消費税率アップは中長期的には必要かもしれないけれど、それ以前の議論……国の債務をいかにして減らすか、とか、税収内訳構造の健全化とか……が何もまともになされないこの状況で、唯々諾々と消費税率だけ上げるのに首肯して本当にいいんですか?ということである。もう少し、裏のカラクリというものを考えなきゃだめなんじゃないの?

参院選投票に行ってきた

本当は昨夜に行くつもりだったのだけど、ひどい雨だったので、今日の昼前に、参院選の期日前投票に行ってきた。

今回の選挙のポイントを以下にまとめておく。これは僕がどこに投票するかを考える過程でまとめたものなので、あくまで参考資料として皆さんのお役に立てば幸いである。

まず、宗教的問題から、僕は公明党と幸福実現党を除外した。しかし、参院選においていつも思うのは、公明党が、実は福祉と医療に関しては、結構な数の「まともな」法案を通してきた実績を持っているということである。創価学会のタレントによるあの醜い応援演説には、相変わらず反吐が出る思いがするけれど、民主党があの体たらくでは、公明党の清い一面が余計に光って見えて、どうにも困るのである。

民主党に関しては、もう皆さん忘れているのかもしれないが、普天間問題に関しての最終見解が未だに出ていない、という事実を思い出さなくてはならない。もちろん、僕は普天間を国外・県外に移設すべきだと軽々に言うつもりはない。問題なのは、この問題が、民主党政権成立後、可及的速やかに着手しなければならない案件だったにも関わらず、真っ当なことを何一つ進めず、5月からのひと月であれだけ迷走した挙句、鳩山元首相は自分のポストと一緒に責任を放り出したのである。これは政治家鳩山由紀夫一人の問題ではない。これは民主党という政権与党に問われるべき問題なのだ。

あと、今回何人かの候補が公約として掲げている「子宮頸がんワクチンの公費投与」という話であるが、これはそもそも、先の衆院選における民主党のマニフェストに書かれていた公約である。民主党は、この件に関してまともな施策を何一つしていない……公費投与が実現している地方自治体では、自治体レベルで費用を負っているのだ。仁科亜季子氏が小沢元幹事長に面会してこの件を陳情したとき、小沢はその場で周囲の部下に指示をした、と報じられたけれど、そもそも仁科氏に「マニフェストの実現が進捗はかばかしくなく申し訳ない」と謝るべきだったのではないか。女性諸氏は、この問題に関してもっともっと怒るべきなのだ。

そして消費税問題。遊説先を移るほどに、口にする還付対象者年収が上がっていく、というおマヌケな醜態を演じた管首相であったが、そもそも消費税増税を口にするにもタイミングというものがある。まず、景気対策を可能な限り行い、それでも財源確保ができないとなったときに、「増税分の収入は債務補填に決して回さず、特に短期の景気対策に集中してあてる」という公約をなした後に、はじめて増税を口にしなければならないのである。この確約なしには、いくら増税したって景気はよくならない。景気がよくならないと、中長期での債務減には至らないのだ。

ではなぜ、管首相らは消費税増税に言及したのか?ひとつは、よく知られているおマヌケな理由……自民党がマニフェストに明記したから、というものだろう。しかし、これだけが理由ではない。財務省主計局サイドとしては、実は消費税は 20 % にしたいという思いがある。欧米諸国と同じレベルにしようということだけど、今回の民主党の「消費税 10 % を超党派で協議したい」というコメントの後ろには、10 % は 20 % への布石だ、という考えがあるのだろう。しかし、こういう政治展望みたいなものは、党なり政治家なりのフィロソフィーが反映されるべきもので、こういう automatic な話になってもらっては困るのである。何が困るって、このことは、彼らにフィロソフィーがない、ということを露呈させているわけであって、フィロソフィーのない者が政治家であっては困るのである。

まあこういうわけで、僕は、公明党でも幸福実現党でも、そして民主党でもない候補・比例に投票してきたわけだ。それがどこなのかはないしょにさせてもらうけれど。

Golden Lady

僕はここに今まで Stevie Wonder の話を書いたことがないんじゃないか、と思う。というのも、あそこまで楽曲と歌の独自性が強い人の音楽に浸ってしまうと、そのフォロワーから脱せなくなりそうな気がして、聴くにしても結構距離を取ってきた、という経緯があるためである。

とは言っても、さすがに僕でも、"Talking Book" とか "Innervisions" 辺りはマストアイテムにしている。特に "Innervision" の "Golden Lady" は、ちょっと特別な思いのある曲である。この曲を YouTube で聞いていたら、その音源のコメントに「この曲のベースは誰が弾いているんだ」と書かれていて、Wikipedia で調べたらしき人が、これは Stevie のシンセベースだ、とフォローしていたけれど、このベース、ベーシストが聴くとニヤリとさせられる。導入部のフレージングなんか、明らかに James Jamerson の影響が見て取れるのだ……さすがは Little Stevie Wonder 時代からの Motown の秘蔵っ子である。そして J.J. はこんなところにまで、エレキベースの先駆者としての影を残しているのだ。

さて、そんな "Golden Lady" のライブテイクをあれこれ聴いてみたけれど、実のところ、出来のいいものはほとんどない。やはりこのちょっと難解なコード進行が、他のプレイヤーのフレージングを縛ってしまっているところがあるようだ(これは Stevie のこういう曲全般に言えることなのだが)。うーん……とあれこれ探していたところに、絶妙のカヴァーを発見した。いや、さすがに The Doors やジミヘンからストーンズまで、何でもプレイしてしまうだけのことはありますね、José Feliciano さん。

「バンドの花形=ベース」に異論続出

アメーバブログのユーザーにブログネタを提供する『クチコミつながり』に「バンドで好きなパートは何?」という質問が出されたが、そのアンケート結果が、ネット界で話題を呼んでいる。

このアンケートには、ブロガーから計1万3257件の回答が寄せられ、結果はなんとベース(28.6%)が1位に。以下「2位 ボーカル(23.6%)」「3位 ドラム(21.5%)」「4位 ギター(18.4%)」だった。ベースに寄せられた声を見てみると、

「自分がやるなら断然ベース」
「だってかっこいいバンドはベースがかっこいいもん!」
「あの重低音めっちゃ大好き」
「『ベース』の良し悪しが好き嫌いの分かれ目になることが多い」

などの意見が。

しかし、どちらかといえば「縁の下の力持ち」的な存在のベースが一番人気という結果に、意外性を覚えるネットユーザーも多かったようで、議論の的に。2ちゃんねるの「芸スポ板」にこの件に関するスレッドが立てられると、

「ベースなんてギターが弾けないヘタクソが仕方なくやるもの」
「ジャンケンに負けた奴が担当するもの ベース キャッチャー ゴールキーパー」
「人気があっちゃいかんパートなんだが」

と、アンケート結果を疑う声や

「地味なところに目を付ける俺カコイイ」
「目立たず堅実にって感じか」
「ベースって草食系のにおいがするな」

と、冷静に分析する意見、さらに

「けいおん信者の組織票だろ」
「澪ちゃん(編集註:『けいおん!』のキャラ。ベース担当)効果だな」

と『けいおん!』の影響も指摘され、この「1位ベース事件」は700件以上の書き込みを呼び込んだ。

なお、この調査で一番不人気だったパートはキーボード(3.8%)。「キーボード」を選んだ人は、ほかのパートとは異なり「自分が弾けるから」という理由が圧倒的に多かった。

(『「バンドの花形=ベース」に異論続出』, web R25 より引用)

……ううむ。時代も変わったということなのだろうか。

僕はベースを弾く前にギター(よくあるパターンで、親父のガットギターが最初に触ったギターだった)を弾いていて、今も弾いているのだけど、ベースを弾き始めたのは、高校時代に ALFEE(ん?もう THE が付いてたかなあ)のファンの同級生がいて、彼が持っていたベース(プレベの PU をフロントとリアに積むという何ともヤクザなベースだった)を貸してもらったのがきっかけだった。この同級生と、もう一人、当時テクノとニューロマンティックにどっぷり浸っていた同級生(しかし、はっぴいえんどやミカバンドを僕に聴かせてくれたのは彼である)とバンドをやろうということになって、僕はマクドナルドでバイトしてジャズベを買ったのだった。

正直言って、ベースという楽器には、いいイメージも悪いイメージもない、という感じだった(これは今もあまり変わっていない)。あまり表に出ることはないわけだけれど、当時の僕は既に細野晴臣という人の存在を知っていたので、ベースという楽器にはインテリジェンスが要求されるんだ、というプライドのようなものを持っていた。当時の僕の教科書は、荒井由実・松任谷由実のアルバムと山下達郎のアルバムで、ティンパン時代から大仏時代までのユーミン、そして、細野晴臣→岡澤章→田中章弘→伊藤広規と至る山下セッション、と、スタジオミュージシャンのまさに黄金期の演奏をなぞりながら、なぜここではこの音なのだろうか、というのを考え、そして和声とか対位法とかをかじるようになっていった。

四人囃子を聴き始めたのは、丁度大学に入る前後だったと思う。この頃は四人囃子の音源を入手するのは容易でなかったけれど、主に森園氏が参加していた頃の曲を聴いていた。一枚目の録音直後、あの『空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ』が録音された時期以降、四人囃子のベースはずっと佐久間正英が弾いているわけだけど、なにせ僕の高校〜大学入学の頃というのはビートロック全盛期で、BOφWY なんかを死ぬ程コピーしている連中と顔を合わせることが多くて、そういうときには「四人囃子が好きで……」と最初に言っておくと面倒なことにならずに助かることが多かった。なにせ佐久間氏は BOφWY のプロデューサーだったから……しかし、ユーミンと達郎を聴きつつ四人囃子も聴き、ベースは指もスラップもピックも弾く、という感じで、まさに今思い返してみても得体の知れない奴だった。

で、この頃から7、8年程の間は、山下達郎のファンのセッションと、大学で組んだバンド、そして大学の関係のトラ、という音楽生活をおくっていた。その後はいくつかのセッションに参加して、最近は自分の曲ばかり弾いている、という状態なのだけど……そういう僕が、バンドの花形だった記憶というのは、残念ながらほぼゼロである。

ただ、山下達郎のファンのセッションでは、とにかく僕は重宝がられていたらしい。というのも、達郎の曲のベースが弾ける人というのがあの頃はあまり多くなくて、「この曲やるね、スタジオテイクのオリジナルキーで」と言われてその場で「せーの」で弾けるのは僕位しか居なかった、らしい。ここでひとつだけ確かに言えることは、いわゆるバンドの編成で演奏するときに、ベースなしでアンサンブルを構築するのはほぼ不可能である。特にスラップは、シンセベースなどでは代用できないものだから、そういう曲を演奏しようとすると、ベーシストがいないと、これはもうどうしようもない。まあ、僕が重宝がられていたのは、おそらくそういう事情からなのだろう。

しかし、僕はこのセッションに顔を出すのを止めてしまった。もともと僕はベースしかプレイしないわけではなかったし、ベースに専念していたのは、自分がベースを弾かないとアンサンブルが成立しない、という事情があったからだった。しかし、他の人々は、Thomas はあれだけベース弾いてるんだからもういいだろう、という感じで、僕が他のパートを演奏したい、そしてその曲を弾けるベーシストが他にいる、というときも、したくない遠慮をさせられるはめになったのだ。弾けないから我慢するのではなくて、弾けるのに我慢する、いや、弾けるから我慢する、という妙な話になってきて、僕は無用なストレスを散々蓄積させることになってしまったのだ。

当時、セッションの面々で一部の人達はこのジレンマに気付いていて、そういう人達は僕にそれとなく配慮してくれていたのだけど、カラオケ感覚で参加している多くのメンツは、自分が充足するために平気で人をカラオケの機械扱いする。そりゃないだろ、と僕が言うと、連中は、Thomas はベース弾いてるからいいじゃん、私はこの曲これしかできないんだから、と反駁する。結局僕は、そういう配慮なき反駁に疲れ果ててしまって、山下家セッションに参加するのをやめたわけだ。まあその頃には、僕以外にもベース弾きが何人か参加していたから、僕が居なくなっても彼らは然程困らず、そして何故僕が居なくなったかを考えもしなかったのだろうけど。

で……世間で、ベーシストのファンを自称する人々で、自分がベースを弾かない人、というのに何度か出会う機会があったけれど、本当の意味でのベースの重要性を理解していた人があの中に存在しているとは思えない。特に経験上、ベーシスト信者度が高いなあ、と思ったのは、とりわけ以下のベーシストのファンだった:須藤満、鳴瀬善博、青木智仁……まーだから、フュージョン系「だけ」を聴く人々と僕は相容れないのかもしれない。鳴瀬善博氏や、故人だが青木智仁氏のプレイが嫌いというわけではないのだが、彼らを「語る」人々、そして彼ら以外にベーシストが存在しないかのようなことを平気で言う人々のことが、僕は嫌いなのだ。

あと、ベースはギターの弾けない下手な奴がプレイするんだ、みたいなことを言う奴は、特に下手なギタリストに多いのだけど、こういう輩は自分がまともにベースを弾いたことがないからそういうことが言えるのだ。ベースがアンサンブルの中で縦の軸を合わせてプレイできないと、そのアンサンブルの提示するリズムは呆気なく陳腐化する。音響の悪いホールで耳がおかしくなるような音量でプレイし続けるなら知らないけれど、まともな音量でプレイしているとき、そしてそれを録音しているとき、ベーシストのプレイに求められる正確さはギタリストのソロより遥かに高い。ギタリストでも、ファンクとかでカッティングとかミュートしてパーカッシブなプレイをする人なら、このことは骨身に沁みて分かっていただけるだろう……実際、ギターを弾くベーシストはあまり珍しくないけれど、ベースを弾くギタリストというのは(ゲストで演るとかは別として)まず皆無に近い。最近だと、スガシカオは自分でベースを弾くけれど、彼は自分の限界をちゃんと知っていて、ベーシストの弾くプレイが求められるときはちゃんとベーシストを呼ぶ。

あと、バンドをやっている人が、オリジナル曲を作って演奏しよう、という話になったときに、ベーシストがいかに重要なのかがはっきりするのだ。フレージングをどうするか。和声が分かっていないとどの高さの音を出すべきかも分からない。他の楽器の演奏を理解できないと、たとえば対位的なアプローチもできない。そんなベースのフレーズを、誰が決めるのか?他のパートの人が曲を書いてきたとして、その人が書き譜でベーシストに指示してくれることはまずない。あるとしたら、曲を書いてきた人がベースを弾いた経験があるとき位だろう。で、大抵の場合はベーシストがフレージングを決める。その場合はベーシストが自己判断することが必要で、その場合は必然的にベース以外の楽器のプレイを知らなければならない。それも、リズムとハーモニーという二つの側面から、フレーズを決定しなければならないのだ。だからベーシストで編曲を行う人は非常に多い。

こういう事実から言うならば、ベースはバンドの花形、というよりも、バンドの「裏番」とでも言うべきなのだと思う。前でキャンキャン言ってるのは誰でもできる。でも総体としてのありようを支えているのは、誰が何と言ってもベースなのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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