教会に行く度に思い出す話

ある村での話。長年村のために尽力している村長さんの永年勤続のお祝いをしよう、という話になって、村人達から、村長に何かプレゼントをしようということになりました。決して裕福ではない村で、あまり高価な記念品を買うこともできそうになく、皆で話し合った結果、ワインを贈ろうということになりました。

村の広場に、空の樽がひとつ置かれました。つまり、皆が家のワインを持ち寄ってこの樽に入れていき、樽が一杯になったら、栓をして、村長にプレゼントすればいいだろう……という考えだったわけです。しばらくして樽は一杯に満たされ、数人の村人がこの樽を村長の家まで運びました。

樽を贈られた日の夜。村長は、早速ワインをいただくことにしました。樽の中身をカップに注ぎ、にこにこしながらそれを口に含んだ次の瞬間、村長が顔をしかめました。彼の口に入っていたのは、ただの水だったのです。

これは、道徳の授業などでも教材にされることのある、よく知られた話である。皆ワインを入れるんだし、自分だけ誤魔化しても大丈夫だろう……村人全員がそう思っていた。その結果として、樽は水で満たされていた、という話である。

所属教会のミサに行く度に、僕はこの話を思い出さずにはおれない。とにかく、この教会の会衆は、祈りの言葉も、聖歌も、悉く自らの意志を以て口にすることがない。だから、統制は取れないし、いつもモヤモヤとした感じで、何を言っているのか判然としない。歌に至っては、ちゃんと声を出して歌っていると奇異の目でみられる程である。

このような状況になってしまう理由は何だろうか。それは簡単な話である。皆唱えるんだから、皆歌うんだから、自分だけがそれを声にしなくとも大丈夫だ……皆がそう思っているからである。しかし、日曜の朝、普通の人が家でブランチでも食べているような時間に、こうやって一堂に会しているのは何の為なのだろうか? この人々は、一体何をしにここに来ているのだろうか?

それは、聖体拝領のときに明らかになる。あれ程主体性をみせず、怠惰であった人々が、聖体拝領のときだけは皆並び、ホスチアを口にするのである。なるほど、彼等にとってミサとはホスチアを食うことで、彼等はホスチアを食いにここに来ているのであろう。そうに違いあるまい。

しかし、そんな人々に聖体の霊性なんてものが本当に齎されるのか? 僕には到底そうは思われない。だから、僕は周囲に奇異の目で見られながらも、祈り、歌い、そして聖体を戴く。周囲の連中がどんなであったとしても、僕は断じて、ホスチアを食いに教会に来ているのではないのだ。彼等に迎合していたら、自分が駄目になってしまう。樽に水を入れるような真似だけは、僕はしたくはないのである。

must と have to の違い

先日の「えーっと」問題の中学生に、今度はこんなことを聞かれた。

must と have to の違いがよく分かりません。
うーん。普段だったら「自分で調べろ」とか言うところだけど、これに関しては、結構大人でもちゃんと分かっていない人がいるものなあ。ということで、教えたのだけど、その内容をここにも書いておくことにする。

まず、must と have to の話、というと、英語を使う人にこんなことを言われそうな気がする:

いや、今日日 must なんて使わないでしょう。
うーん。そうかなあ。まあ確かに、現代英語、特に会話においては、義務に関して言うときにはほとんどの場合 have to を使うだろう。しかし、だからといって must が不要だというのは、これはあまりに暴論に過ぎる。

まず、ここにはっきり書いておかなければならないけれど、must は have to の古い表現、ではない。これは以下の文例を考えたらすぐに分かるだろう:

  1. You have to study English hard.
  2. You don't have to study English hard.
  3. You must not study English hard.
最初の英文は、「あなたは英語を懸命に学ばなければならない」という意味である。いわゆる「義務」を表す文というやつだ。しかし、義務(……しなければならない)というのは、実は結構厄介な代物である。そのままのときはまだいいのだけど、これを否定しようとすると、実は義務の否定には2種類あることに気付くわけだ。つまり、「……しなければならない」の否定は:
  • ……しなければならない、というわけではない
  • ……してはならない
の2つが存在するのである。

英語の場合、この2者の区別は明確だ。「……しなければならない、というわけではない」が don't have to ... で、「……してはならない」は must not ... なのである。すなわち、最初の例では:

  1. You have to study English hard.(あなたは英語を懸命に学ばなければならない)
  2. You don't have to study English hard.(あなたは英語を懸命に学ばなくともよい)
  3. You must not study English hard.(あなたは英語を懸命に学んではならない)
となるのである。2. と 3. が全く違う意味なのに関しては、多くを書く必要もないだろう。

では、肯定文では must と have to は同じ意味になるのだろうか、というと、実はこれも微妙に異なる。つまり、

  • You have to study English.
  • You must study English.
のニュアンスは微妙に違うのだ。

たとえば、この話の you の英語の成績が悪かったとする。この場合、彼もしくは彼女が「英語を勉強しなければならない」ということは、誰から見てもその必要・義務があると思われるものだ。このような客観的な必要・義務を表すときには have toを使う。

また、客観的な必要・義務ということは、それが客観的でないと思われるのならば従う必要がない、つまり拒否権があるということである。だから、have to を使う方が表現としてはややマイルドな感じになる。

では、彼もしくは彼女の英語の成績が非常に良く、周囲からは「この子は英語が無茶苦茶できる」と思われているけれど、僕から見て、彼もしくは彼女の英語が僕の満足するレベルに達していない、とする。この場合、僕が彼もしくは彼女に「英語を勉強しなければならない」と言うということは、客観的に言う必要があるのではなく、僕の主観でそう言うわけだ。このような主観的な必要・義務を表すときには、have to ではなく must を使う。

主観的な必要・義務というのは、他に比較するようなものがあるわけではないから、これを言われた相手が判断したり拒否したりする権利を認めない、つまり非常に強い強制のニュアンスを持つことになる。だから、相手に義務を負わせ、ときには服従を強いる命令・勧告として must は使われるのだ。

他にも、must は過去形がなく、また助動詞なので will と共に使えないので、must は現在形でしか使えないのに対し、have to は現在・過去・未来のいずれの場合も(完了形ですら)使うことができる。まあ、こういったことが must と have to の違いということになるわけだ。

しかしなあ……これを説明するのは一苦労だよなあ。どうしたものだか。

おかしいのかなあ

昨夜、所用で某所に赴いたときのこと。

そこは構内が土足禁止なので、入口で上履きに履き替えることになっている。僕はいつも、そこにある上履きで目についたものを履くことにしていた。そうして下さい、と言われてそうしていたわけだが、今回に限って、いつも履いている上履きが見当たらない。下駄箱を見ると、小さなクロックスが何足かあったので、その中の一足を「窮屈だなあ」と思いながらも履いて、中に入った。

しばらくして、入口の方で何やら人の話す声が聞こえる。よく聞いてみると、

「……がない」

と言っているように聞こえる。ん……もしや、と思い行ってみると、

「アタシの上履きがない!」

と訴える女性と、あれーおかしいねえ何処にあるんだろう、と辺りを探している数人の人がそこにいたわけだ。

「あのー、ひょっとして……これのこと?」

と、おずおずと足を示すと、あー、それー! と声が上がる。どうやら犯人は僕だったらしい。参ったなあ。

当然だが、まずその女性に事情を話し「ごめんなさい」と言う。それから、下駄箱の奥の方に押し込まれていたいつもの上履きを発見したので、それを履き、小さなクロックスを揃えて彼女の前に置いた。

こういうときは、関西に長く住んでいた者としては、ただ置くだけでは済まされない、と思うものである。関西エリアにおいて、笑いというものは、こういうときに人間関係がギスギスしないで済むための一種の安全装置なのであって、場の緊張を解す一言というのが、暗黙のうちに求められるものなのである。だから僕も、当然、何と言おうかなあ、と考え、

「……温めておきましたので」

と言ってみたわけだ。しかし、次の瞬間、そこにいた僕以外の全員が爆笑したのである。

うーん。オヤジギャグだと厭がられるのを警戒していたのだが、そういうことにはならずに済んだらしい。しかし、

「いや Thomas さん面白過ぎだわ」

……そ、そうかなぁ。うーむ、僕ってひょっとしておかしいのかなあ。

尖閣防衛にオスプレイ?

世間には、奇妙なことを言う人が大勢いるようである。最近、「オスプレイ配備は尖閣防衛の切り札」などという記述をネット上のあちこちで目にするのだが、おいおい、本気でそんなこと言ってるのかね?

オスプレイが何のために使われるのかを、まず考えていただきたい。オスプレイは主に兵員を運ぶための輸送機である。それが投入されるということは、米海兵隊が人民解放軍と交戦状態になる、ということである。アメリカがそんなことをするか?否。それは何がどうなってもあり得ない。

抑止力としての効能を主張しているのかもしれないけれど、じゃあ C-130 があるからって抑止力になるだろうか? 空挺部隊や強襲部隊を投入する輸送機があるからって、それがプライマリーな抑止力にならない、という、そんな簡単なことも分からないのだろうか? いくら海兵隊が「斬り込み部隊」だと言っても、一定の制空権・制海権を確保しなければ、投入されることは有り得ない。つまり、海兵隊が動く前段階があって初めて、彼等は投入されるのだ。湾岸戦争が、イラク戦争が、海兵隊の投入で始まったかどうか、まず調べてみればいいのに、そんなことも分からないのだろうか。

もし尖閣周辺で米軍がプレッシャーを感じる程の事態になったとして、米軍がまず何をするかと言えば、当然空母の展開であろう。彼等はプレッシャーに応じて、相手に相応のプレッシャーを返すように、将棋の駒を置くが如く、海軍、特に空母のような航空機を即時展開できるものを配置する。なにせ人民解放軍は空母をようやく手に入れたばかりなのである。そんな相手に、どうしてオスプレイなのか。ここでその名が出てくることは「馬鹿の一つ覚え」以外の何物でもあるまいに。

いや、本当に、馬鹿は消えてくれよ。

玄米食礼賛

普段食べる米を玄米にしてからもう大分経つ。子供の頃、剣道の道場で一緒に練習していたT君の家で玄米を食べていて、一度T君のお母さんから握り飯を貰って「うわーこれはよぉ食わんわ」と思ってしまったのが、唯一の玄米へのトラウマだったのだが、これはもはや完全に払拭されている。

あの日T君のお母さんから貰った握り飯がマズかった(ああ、はっきり書いてしまったけれど)のにはいくつかの理由がある。あの味から推測される、そして「玄米食はマズい」と思われている人が大抵陥っている問題は、

  • 保存が悪かった
  • 吸水が不十分だった
  • 炊き方が悪かった
の3つである。これを改めれば、冷や御飯であっても玄米は美味しく食べることができるのだ。

まず、味云々の前に、ひとつ考えてみていただきたいことがある。どうして米は、玄米として流通するのか、ということである。最近は籾を付けたままで、お米屋さんで脱穀からするケースも多いけれど、そうなる以前、お米屋さんで仕入れる米はたいがい玄米のかたちで流通し、お米屋さんは精米からの処理を行っていたものである。なぜ、米は精米した状態で流通されなかったのか。

答は簡単で、糠を付けておくことで米の味の劣化が防げるから、である。皆さんご存知の通り、米糠には油が含まれている。この米糠の脂質には、抗酸化作用を持つ成分が豊富に含まれている。これらの成分が内部の酸化を防ぐ(身代りになって自ら酸化されてしまうわけだが)ので、米は糠を付けた玄米の状態で流通していたのである。戦時中まで米が一種の通貨のような機能を果たしていたという歴史的事実は、米糠のこのような効能があってこそのことなのである。

しかし、その米糠も一緒に食べるとなると、糠を犠牲にするわけにはいかなくなる。糠を含めた米の酸化を防ぐためには、それ相当の貯蔵をして、脱穀後あまり経たないうちに食べる必要がある。また、脂溶性の物質が残留しやすいということを考えると、農薬に関しても、白米よりは気を遣う必要があることは想像に難くない。

最近は、日本における米の貯蔵は冷蔵保存が当たり前になっている。だから、後は農薬と、脱穀してからの時間の問題、ということになる。こういうことを考えると、玄米を食するならば、脱穀を行っていて、米の生産状況を把握しているお米屋さんで購入するのが、最も望ましい、ということになる。最近はスーパーでも玄米を売っていることが多いけれど、こういう問題があるために、僕の場合は近所の米穀店で減農薬栽培の米を買うことにしている。

玄米を食べている、という話になると、「炊き方が大変で」という声をよく耳にするのだけど、ここで声を大にして言いたい。玄米を炊くのは非常に簡単である、と。いやそんなことないでしょう、うちの炊飯器では……とお思いの方。あれにダマされてはいけないのですよ。

近頃は、何でも付加価値というものが要求される。白物家電の中でも最も歴史の長いもののひとつである炊飯器でもこれは同じことで、そのために「玄米モード」として設定されているもののほとんどが、いわゆる発芽玄米を作って炊くためのコースになっている。そりゃあ、発芽するまで待たなきゃならないなら、確かに玄米を炊くのは大変である。市販の炊飯器の説明書にも、水を入れて12時間……とか書いてあるんでしょう。しかし、そんなことでは一般家庭で玄米が炊ける筈がないのだ。

困ったことに、一般社団法人日本発芽玄米協会 なる組織があって(ああ、農水省の天下りの臭いがプンプンしますねえ)啓蒙活動に励んでいるおかげで、発芽させない玄米にメリットがないかのように思い込んでいる方すら見かけるのだけど、それで玄米食に手を出しかねている、というのでは本末転倒である。ここに断言するけれど、発芽させなくとも、ビタミン B と繊維質を豊富に含んでいるだけで、玄米を食べるメリットは十分過ぎる程あるので、発芽にそう拘らないでいただきたい。

では、どうやって炊いたらいいのか。実は、圧力鍋を使うと非常に簡単に炊くことができる。以下に炊き方を書いておくことにする。

まず洗米だが、白米と違って糠を除く必要がないので、そう神経質にする必要はない。玄米には籾が混入していることがよくあって、これが口に触ると強い違和感を感じるので、白米より多めの水を入れ、攪拌し、水流がゴミを捉えている状態で水を捨てる、というのを、2、3回行えばよろしい。あまり神経質に米を研いでも意味がないので、簡単に考えていただきたい。白米の場合は、最初の水を米が吸水するので、最初に研ぐときには気をつける必要があるわけだけど、玄米だから(米が糠を吸っても一向に構わないのだから)何らそういう配慮も必要ない。

洗米が終わったら、米全体が十分浸る位のぬるま湯(夏なら普通の水で何ら問題ない)を張り、そこに塩をひとつまみ入れて攪拌し、完全に溶解させ、そのまま1時間放置して吸水させる。時間のないときだったら、3、40分でも大丈夫だろう。

吸水が終わったら、一度笊で水を完全に切り、これを圧力鍋に入れる(僕は無精なので、ここまでのプロセスを圧力鍋の中でやってしまうわけだが)。そこに、米の体積の1.3倍(僕は少し多めにするのが好みである)の水を入れ、蓋をして火にかける。蒸気が出てきたら、弱火で 13 〜 14分程度炊いた後、火を止めて、そのまま安全弁が開くまで蒸らしておく。圧力が抜けたら蓋を開け、全体を切るように軽く混ぜ、更に数分蒸らせば出来上がりである。

唯一面倒なのは、米を1時間吸水させるということだろうか。しかし、12時間とか24時間とかいうのに比べれば遥かに簡単だし、米を研ぐのはむしろ白米よりも簡単である。水の割合だけ覚えておけば、あとは時間調理だから、圧力鍋とクッキングタイマーさえあれば誰でもできるのである。

こうやって炊いた玄米は、全然パサつかないし、冷えても臭いなどが気になることはない。保存する場合は、冷蔵・冷凍時に水分が抜けやすいので、ジップロックの容器やラップなどできっちり密閉して、食べる直前に電子レンジで温めるだけでいい。

本当に、これだけのことなのである。是非皆さん、もっと玄米を食べてみていただきたい(特にカレーとの相性は絶妙である)。僕はもう、「えー、玄米食べてるんですかぁ?」と言われるのに、すっかり飽きてしまったのだ……

難問奇問

某所にて、中学三年の子に、どうしても分からない問題があるので教えてもらえないか、と言われた。見せてもらうと、大体こんな感じの問題だった。

以下の英文を読み、カッコ内に入る語を答えよ。

A Japanese tourist stood in front of the ticket counter at Santa Clara station. He wanted to move to San Francisco by Caltrain. He thought carefully, and said to clerk "To San Francisco." The clerk received money, and exchanged for two tickets.

The tourist thought that's the result of his poor English, and then said to clerk "For San Francisco." The clerk received money, and exchanged for four tickets.

The tourist was surprised by those unexpected results. He tried to calm down himself, and said "Well..." At that moment, he gave ( ) tickets from the clerk.

「Thomas さん、答を見ると eight って書いてあるんですけど、どうしてこれが eight になるのか、僕には全く分かりません」

……いや、分かりますよ。英語の問題に少しは面白さを加味したいんだ、という、その思いはね。でもね、これは分からないでしょう。

「……これは、分からないだろうなあ」
「はい。全く分かりません」
「……あのさあ、サンフランシスコ行きの切符を買うとき、カウンターで何と言ったらいいと思う?」
「え? ここに書いてあるみたいに To ... とかですか?」
「ああ、いや、単純に行き先だけ言えばいいのさ。だから、前置詞がどうとか考える必要はないんだ」
「はあ」
「だけど、この話に出てくる日本人旅行者は、考えないでもいいことを考えて to をつけてしまった。だから to を two と聞き取られて、切符が2枚出てきたわけだよ」
「はあ」
「で、I need only one. か何か言やいいところを、ああこれは自分の英語がマズかったんだなあ、と要らぬ知恵を巡らせて、彼は For San Francisco. と言う。で、For を Four と聞き取られて、切符が4枚出てきた。ここまではいいよな?」
「はい」
「で、この "Well..." ってのがあるよな。これは本当は彼は日本語で呟いてるんだよ。『えーっと……』ってね」
「はあ……」
「うーん、分からんかな。『えーっと』って、何に聞こえる? Eight に聞こえないか?」
「はあ」
「だから、『えーっと』で出てくるのは八枚だろう? だからここは eight になるんだよ」

悔しさに満ちた声をあげる中三の子に僕は言った。

「まあ、"Well..." から『えーっと』はさすがに出てこないよなあ。それに、これは英語の問題じゃなくて、トンチの問題だよ。だから、問題の方に問題がある。出来なくてもメゲることなんかないからな」

出題者は、少しでも解く者に面白いようにと作ったのかもしれないが、いくら何でもこれじゃあ答には辿りつけないだろう。僕だってこの話を知ってるから分かるのであって、元ネタを知らずにこれがテストに出たら、そりゃあ出題者を恨むよな。いやはや、中学生稼業も楽ではないことよ、と思わされたのだった。

足し算・引き算

中国で大騒ぎになっているのは、勿論皆さんご存知のことと思う。ニュースなどでも報道されている通り、日本から中国に進出している小売業、製造業において、デモ……もとい、暴動による破壊行為のために、とんでもない被害を既に被ってしまっている。

青島のイオンは、表のガラスが全て割られ、店内も甚大な被害を受けた。また、平和堂も大きな被害を受けている。僕は彦根の某大学と一緒に仕事をしていたことがあるので、彦根駅前の平和堂を頻繁に利用していたのだけど、いわゆる近江商人の典型で、極めて良心的な営業活動を行っている会社である。こういう会社の店舗が、何故あんなことにならなければならないのか。とにかく理解不能だとしか言いようがない。

この暴動で、イオングループは青島だけで20数億の被害を受けたといわれている。平和堂に関しても、数十億の被害を受けたといわれている。これらを誰が賠償してくれるのか。平和堂は、保険に望みをつないているようだけれど、このような暴動は免責事項に入っている可能性もあるので、やはり中国側の公が賠償しなければ、このまま彼等は泣き寝入りすることになりかねない。

しかも、こういうときはとかく責任の所在がいいかげんにされるものだ。中国政府も地方行政の方も、おそらくは不可抗力だ、と、責任を負わずに逃げるであろうことは想像に難くない。ではどうしたらいいのだろうか。

僕は、今回の被害額を耳にしたときにピンときたのだが、来年度の ODA で中国に振り向けられた予算を、そのままこの賠償に充当したらどうだろうか。2010年の実績で、中国向けの ODA の無償供与額は1300万ドル、現行レート換算で約10億円である。これでもまだ弁済分には程遠いが、政府貸付の6億3000万ドル(いわゆる円借款の返済残高?)、あるいは技術供与分の3億4700万ドルから残りを充当する手がある。特に、政府貸付に関しては、問答無用で今回の弁済分を貸付額に上乗せするという手だってあり得る。当然中国側は猛烈に反発するだろうけれど、だったら貸した金をすぐに返せ、と迫るのも一法である。

まあ、今回のポイントは、踏み倒しようのないところを活用して、踏み倒すことが容易に想像される相手にどのように弁済させるか、ということになるだろう。こういう方策を早いところちゃんと決めておかないと、この問題は日本国内でもうやむやにされかねない。僕は、平和堂のような会社がそんなメに遭わされるのは、正直見るに耐えないのだが。

w3m からテスト

今、Linux にいつも mount している NTFS のパーティションを unmount して defrag をかけているところなのだが、このパーティションにあるいくつかのフォント(誓って書くがこれらは全てフリーのフォントである)を使えないと X Window System に影響が出るので、今は X を使わずに、コンソールで fbterm を起動している。そんな状態でblog が書けるのか、という話なのだけど、Emacs + w3m mode でこれを書いているところである。

やはり、マルチバイト文字の表示で一部乱れるところがあるのだけど、ctrl + L で十分補正できる範囲なので、とりあえずこれを書いて post してみる。果たしてどうなりますことやら。

と、ここまで書いて、今度は Mac OS X 上で Safari を起動してこれを書いている。どこでどんなシステムを使っていても書ける、ということですな。まあ、10年以上前にドイツに行ったときもネット越しに blog 更新してたものなあ。

三毛猫のオスが生まれない訳

昨日、某所で猫の話になったとき「三毛猫のオスはまず生まれないし、生まれたとしても非常に稀少である」という話をしたら、そこに居る人が皆このことを知らずに一同騒然となって、逆にこちらの方が吃驚させられたのだった。

三毛猫を決める因子はいくつかあるのだが、「白猫になる遺伝子」が劣性、「茶色になる遺伝子」がヘテロ、そして「ぶちになる遺伝子」を持つ、という3条件が揃ってはじめて三毛になる、ということが分かっている。

この3因子のうち、ヘテロになることが必要な茶色の遺伝子は X 染色体の上に乗っている。いま、通常の性染色体を X, Y とし、茶色の因子が乗った X 染色体を小文字の x と書くことにする。このとき、xX で表わされるときだけ三毛になるわけだ。このように、性染色体によって性別以外の形質が遺伝するのを伴性遺伝という。

上の例では、X 染色体がふたつなければ三毛が発現しない、ということになる。つまり、オスの三毛は存在しない……ということになるのだが、自然というのはしばしば例外が存在するもので、この三毛の場合もそうである。誤解を恐れずに単純に説明すると、xX を持ち、なおかつ男性を規定する Y 染色体を持てば、その個体は三毛、かつオスということになり得るわけだ。いやそんなの無理でしょう、と思われるかもしれないが、この例で言うと xXY という染色体を持つ個体が実際に存在していて、実際に三毛のオスはこのような染色体異常を持っている。

人間の場合だとこれは「クラインフェルター症候群」の名で知られている。人間の場合、クラインフェルター症候群の発現率はおおむね 0.1 % 程度で、多くの場合、その男性は十分な生殖能力を有しない。ネコの場合、クラインフェルター症候群の発現率は 0.003 % 程度とされているので、三毛のオスがいかに希少な存在なのかは想像に難くない。そして、このようなオスの三毛は血統的に保存され得るものではない。

実は、この日記を書くにあたって、ネコの毛色に関する遺伝形態を調べてみたのだが、これが実に複雑怪奇である。実際、まだ完全にその形態が解明されたわけでもないらしい。たとえば、うちにいるネコは茶色の虎縞と白が混じっているメスなのだが、このような茶白のネコのメスはかなり珍しいらしい。俗説であるが、この柄のネコはネコとしては珍しいことにかなり社交的、というか、人懐っこいというか、と言われているのだが、たしかにその通りで、うちに宅配便などの配達がくると、このネコは玄関に出迎えに出たりする。まあそんなわけで、ネコには色々と謎が多い、というのは、日々実感させられているわけである。

この記者の活動目的は?

昨日、たまたま石原東京都知事の尖閣諸島問題に関する緊急記者会見を観ていたときのことである。記者との質疑応答で、実に奇妙なやりとりがなされたのだ。以下、その箇所を聞き取ったものを引用として掲載する:

【記者】キューバの、グランマー通信社の、日本人特派員やってる稲村です。あのー、2、3日前、大阪維新の会の……あのー、メールを打ったんですけれども、ま、今の、尖閣問題で、そのー、竹島だとか北方領土だとか、日本の、とにかく、領土問題というのは、何か、大変、火がついたような感じで、あのー、中国との衝突、は、その活動を(一部判読不能)必至だと思うんです。まー、あのー、それで、えー、この、えー、沖縄領土問題から日本を救うには、そのー、大阪維新の会が道州制言ってるわけで、やはり、終戦直後のように、えー、琉球という感じで、奄美と沖縄は、米領に復活させて信託統治領にして、した方が、いいんじゃないかと、いう風な、案を、出したんですけど。

【知事】誰が? 君が?

【記者】はい。

【知事】君は何人だね。

【記者】私は、2、3代前までは琉球人です。

【知事】今は何人だよ。国籍は?

【記者】今は、あー、残念ながら、同化政策で、えー、日本の国籍を取りますが、子供と孫はアメリカ人です。

【知事】ああ、かなり違う日本人だね。君の言うことは全く通じないよ。早くこの国から出てった方がいいんじゃねぇか。

その発言内容のムチャクチャさもさることながら、そもそもこの稲村なる人物は記者としての姿勢がおかしい。記者会見というのは、記者が個人の考えを会見参加者とたたかわせる場ではないのだから。ここだけ取っても、この稲村なる人物が本当に記者なのかどうか、実に疑わしいと言わざるを得ないのだが、そもそもその肩書「キューバのグランマー通信社の日本特派員」というのは何なのだろうか。調べてみると、これはキューバの Granma International という新聞(キューバ共産党中央委員会の機関紙)のことらしいのだが、その特派員が何故日本の領土問題に、それも大阪維新の会に提言をした云々、などという話を持ち出すのだろうか。

この稲村なる人物に関して調べてみると、http://www.tourism.co.jp/ なるサイトに行き着く。このサイトの主宰者であるところの稲村宏史なる人物が、先の記者会見の稲村氏の正体らしい。

上サイトの profile を見てみると、「霞が関通信社・大使館新聞社 社主 (CEO) 兼 編集主幹」と書かれているのだが、「大使館新聞」なるものの存在の痕跡は、少なくともネットワーク上ではなに一つ確認できなかった。では「霞が関通信社」の方はどうか、というと、中国のニュースポータルサイトである 中国網 (China Net) 上のこんな記事が引っかかってくる。「霞が関通信社の白髪頭のベテラン記者」というのが、この稲村氏のことらしいのだが……

この稲村氏、今回の記者会見の前にも、石原都知事に何度となく記者会見で絡んでいる。一例として、2012年4月27日の都知事定例記者会見の際の映像を以下に示す(16分25秒位から):

少なくとも、ネットで散見されるこれらのやりとりを見る限り、この稲村氏が一記者として報道に携わる目的で会見に臨んでいるとは到底思えない。明らかに、自らの主張を披瀝する場として、石原都知事の会見に食いついていて、そういう場で他の国の記者と記者然として交わした言葉が、上にリンクしたような場所で「日本の(マトモな)ベテラン記者の言」として引用されてしまっている。これは、僕のように右でも左でもない人間から見ても、有害極まりない行為だとしか思えない。

時々目にすることがあるのだが、リタイアした後に自分の組織(研究所だったり財団だったり会社だったり、まあ色々なパターンがあるのだが)を興して、自分はある組織を主宰しているんだ、と、しきりにその肩書を披瀝する人がいる。機関誌をあちこち送りつけたり、定期的に懇話会やら講演会を開いてみたり、と、熱心にやるのだが、どういう訳か、その組織の本来のミッションと思しき分野において、その活動の形跡を窺うことができないのである。何故そうなるか、というのは簡単で、そういう組織の主宰者の目的は、その組織で何らかのミッションを果たすことではなく、そういう組織の主宰者であることそれ自体が目的だから、である。

そもそも、この稲村氏は本当に Granma の日本特派員なのだろうか? そうならば、署名記事のひとつも出しているに違いない、と "Cuba Granma Inamura" という検索語でググってみると、Granma の記事はただのひとつも引っかからないのである。Granma では、海外特派員の記事にはちゃんと名前が入るようなので、これはとても奇妙なことだとしか言いようがない。

そして、上の検索では、2011年4月7日の外国人特派員向け記者会見の議事録が引っかかってくる。この会見は動画も公開されているのでそちらの URL を示しておく(1:11:10 辺りから):

http://nettv.gov-online.go.jp/eng/prg/prg2075.html

この会見も実に奇妙だと言わざるを得ない。日本語、英語、双方ともオーケーの会見なのに、稲村氏は英語で質問している。しかし「犠牲者」を意味する victim という単語が出てこない、って、一体どういうことなんだろう? 前置詞とかも無茶苦茶だし、およそ英語で教育を受けた人の英語とは思えない。上の方にリンクした profile によると、この人は UNC の大学院中退、とあるんだけど、ノースカロライナ大学チャペルヒル校と言ったらアメリカでもかなりの名門校なんだけど。そういうインテリジェンスが、上のやりとりからは欠片程も感じられない。まあ、そういう人でも推薦があったら UNC に入ることはできるかもしれないし、入れれば「中退」を名乗ることはできるわけだから、嘘をついているわけではないのかもしれないけれど。

いすれにしても、こういう暇人は、己の内部だけで完結して時を楽しんでいただきたいものだ。記者面をして、識者面をして、表に出てこられると、現役世代の一人としては有害極まりないとしか言いようがないのだ。いや、本当に、早いところ「完全に」リタイアしていただきたいものだ。

キーボード交換

メインの端末として Dell inspiron 1501 を使い出してもう大分経つ。dual core であることと、メモリを最初から奮発して 4 GB 積んでおいたおかげで、このご時世でも尚使用に耐えているのだが、さすがに消耗部品に関してはガタが出てきている。その中でも一番ガタが来ているのがキーボードであった。

ノートパソコンのキーボードが交換可能だ、という話をすると「え?」という顔をされることがあるのだけど、ほとんどの場合、ノートパソコンのキーボードは簡単に交換できる。キーボードはアルミ板をベースにした独立ユニットになっていて、メンブレンコネクタで本体に接続されていることがほとんどだから、隅の辺りを固定しているネジを外して、あとはケーブルをメインボードの基盤のコネクタから外すだけで交換できる場合が多いのだ。

キーボードをヤフオクで探したところ、新品、それも US ASCII 配列のものが安価に出されていたので、早速購入手続きをした。品は今日 DHL で送られてきたのだが、以下に取り付けたところを示す。

us-key.png

取り外した古いキーボードを示す。

jp-key.png

Enter キーが汚く見えるのは、割れたのを補修するために、ティッシュペーパーを小さく切ったものを瞬間接着剤で貼り付けてあるからだ。こう見てみても、日本仕様のキーボードがいかに無用なキーが多いか、よく分かろうというものである。

Enter キーの大きさが変わったのに慣れる必要があるだろうけれど、バックスラッシュが大きくなっていたり、僕にはこちらの方が色々といい点が多そうで、今後が楽しみである。

【追記】キーボード交換が初めての方でここをお読みの方がおられるかもしれないので補足しておくけれど、US ASCII 配列のキーボードに換装した場合、キーマップの変更が必要になる。Windows の場合は、レジストリの:

HKEY_LOCAL_MACHINE\SYSTEM\CurrentControlSet\Services\i8042prt\Parameters
を以下のように変更する:
  • "LayerDriver JPN" : kbd106.dll を kbd101.dll に変更
  • "OverrideKeyboardIdentifier" : PCAT_106KEY を PCAT_101KEY に変更
  • "OverrideKeyboardSubtype" : 2 を 0 に変更
Linux の場合、最近の多くの distro だったら /etc/default/keyboardXKBLAYOUTjp から us に変えるだけでいいはず。これで変わらなければ適宜キーマップを設定すればよろしい。

ロータリーポンプの思い出

僕の稼業では、よく真空ポンプというものを使う。真空ポンプと言ってもピンからキリまであるのだけど、僕等の業界では、真空度の低い方だったら油回転ポンプ(通称ロータリーポンプ)、高真空だったら油拡散ポンプ(通称ディフュージョンポンプ)、二者の間で高速排気が必要ならスクロールポンプ、ディフュージョンより高い真空度が必要ならターボ分子ポンプを使うことが多い。油拡散ポンプとかターボ分子ポンプというのは、基本的には単体ではなく、より低真空度のポンプと結合して使うものなのだけど、そういうときにはロータリーポンプを使うことが多い。だから、真空デシケータを引くようなちょっとしたことから、XRD の回転電極管を引くような時まで、このロータリーポンプはありとあらゆる所に転がっているものだ。

あれはまだ大学院生の頃のことだけど、あるときこのロータリーポンプを動かさなければならないことがあった(そういうことは日常的にあるものだけど)。で、たまたまそのときは急いでいて、何十キロもあるポンプを台車に載せるのに、えいやっと力任せに持ち上げた、そのときだった。

「ピキ」

という嫌な音がどこかしらかで聞こえて、僕はその場に崩れ落ちた。身体を曲げようとすると、腰に激痛が走る。何だ、何が起こったんだ?

当時の指導教官T氏が部屋にやってきて、床に転がっている僕に気付いて、どうした、と声をかけてきた。脂汗を流しながら事情を話すと、

「アホやなぁ、こういうときは腰を折らずに膝を曲げて持ち上げんと……」

しかし、T氏は妙にニヤニヤしている。

「T先生、これ、一体、どうしちゃったんですかね?」

「どうって……分かるやろう。これがギックリ腰ってやつや」

そして、そうかぁ、Thomas 君初めてかぁ、いやいや、ついにやってしまったなぁ……と言いながら、妙にニヤニヤし続けている。こっちは痛くて、脂汗を流しつつ、近くの壁に身を寄せているのだが、そのうちに、ボスのH教授が上がってきた。

「ん、何や、どうした?」
「ああ、H先生、Thomas 君がね……」

T氏はニヤニヤしながら、

「腰イワしたみたいで。初めてらしいですよ」

これを聞くと、H教授の口角がきゅん、と上がった。

「何、腰か? 何や Thomas 君初めてか、あーそうかそうか、ついに Thomas 君も腰イワしたか……」

二人顔を見合わせてニヤニヤしながら、妙にしみじみしたような口調で「いやぁ」「いやぁ」と言い合っているのを見上げながら「アンタら鬼か」と思ったのは、今でもよく覚えている。これが僕の「初ギックリ」で、このときは治癒までに1週間程かかった。最初の何日かは、トイレでいきむのにすら苦労したものだ。

その後も、何年かに一度腰を痛めるようなことがあって、現在に至るわけだが、この十何年か、自分のも他人のも含めると、結構な数のギックリ腰に遭遇してきた。しかし、どうして、誰かがギックリ腰で倒れると、皆ああもしみじみした様子になってしまうのだろうか。仲の悪い人達ですら、顔を見合わせ口々に、自分の過去の経験を交えた「養生訓」をしみじみと語り合ってしまうのだ。

あの「初ギックリ」以来、僕はロータリーポンプを見るとその体験がフラッシュバックしてしまい、ポンプを運んだりメンテナンスで分解したりするときには、妙に慎重になってしまう。「Thomas さんどうしたんですか」と聞かれることも少なくない。いや、でも、あの初ギックリのときの記憶は、おそらく一生忘れることはないだろう。

あれは30になって間もない頃のことだったと思うけれど、某研究所でやはり腰をやってしまい、早退して近所の整形外科に受診した。腰のレントゲン写真を何枚か撮影して、シャーカステンを前にドクターと二人向い合うと、

「Thomas さん……腰ですけどね」
「はぁ」
「まあ……一口で言うとですね……」
「はぁ」
「……もう、若くはないということですよ」

ハァ? と思わず聞き返してしまったけれど、あのときのドクターの妙に嬉しそうな顔ったらなかった。どうして、腰を痛めた人を前にすると「こちらの世界にようこそ」みたいな反応をするんだろうか。次の日、出勤時に上司に報告がてらこの話をしたら思いっ切り笑われてしまったのだった。

「まぁ、皆やっとるんや。君だけやない、ということや。そうか……しかし、そうか……『もう若くない』か……プププ」

プププちゃうわ。まあそういう経験をしたので、自分より若い者が腰を痛めたときは、そういう対応だけはしないように心掛けている。

いや、なぜ今日こんな話を書いているか、というと、実は今日、教会で椅子を運ぼうとして、腰を痛めてしまったのだ。もうさすがに慣れたし、周囲の人にそういう風に扱われるのが嫌だから、帰宅するまで一人耐えていたけれどね。

ウヨウヨ

僕は、世間の人達にどういう風に思われているのだろうか。ああ、いや、人間性とか資質とかいう話ではなくて、政治的スタンスの話である。

クリフォード・ストールという天文学者がいる。彼は一時期カリフォルニアのローレンス・バークレー研究所で admin(コンピュータシステムの管理者)として職を得ていて、そのとき偶然侵入者を発見、ヨーロッパまでネットワークを追跡して捕まえさせた(この顛末は彼の著書『カッコウはコンピュータに卵を産む』で読むことができる……もはや古典と言うべきなのだろうけれど)。この本の中で、彼がこんなことを書いていた記憶がある:「自分は、天文学者にはコンピュータの専門家だと思われていて、コンピュータの専門家には天文学者だと思われている」と。

これは僕にも似たような経験がある。僕はもともとバリバリの実験屋だと思っているのだが、自分の仕事の関係で、分子動力学計算や熱力学計算、あるいは複雑な金属間化合物結晶の Rietveld 解析、あるいは FDTD 法による電磁界計算、といった、計算機を使う仕事もやっていた。これらは皆、その計算だけを専門に行っている人々が各々存在しているのだけど、僕の場合は本当に必要に迫られてやっていたわけだ。

ソフトだけではない。修士時代は、研究室の隅に転がしてあったデジタイザを使って、金属単結晶の背面反射 Laue 写真を解析するシステムを組んだし、最初の職場では電子天秤とパソコンで熱天秤の自動計測システムを組んだりしていた。まあでも、それらは本当に必要に迫られてやったことで、僕は実験装置のスペシャリストというわけではない。

要するに、

  • 電子工作が好きだった
  • コンピュータに慣れていた
  • 機械工作が好きだった
  • アマチュア無線をやっていた
……ということが、たまたま仕事の面で役立ったに過ぎないのだが、同業の材料科学の専門家の中で、僕は「計算に詳しい」「コンピュータを用いた数値解析に詳しい」あるいは「実験装置のスペシャリスト」などと言われることがちょくちょくあった。しかし、僕はそれらを必要に迫られてやっていただけだし、その過程で、本当にそれらの分野で飯を食っている「凄腕」に接触したことがあるから、彼等に比べたら自分なんてちょいと器用なだけだ、ということが骨身に沁みて分かっているのだ。

この件で僕が学習したのは、人は、ある局面での印象を以て誰かのことを規定してしまいがちなものだ、ということである。たまたま誰かの目前で、僕がコンピュータを走らせていたり、旋盤を回していたり、半田付けをしていたりすると、それが強調されたかたちで僕という人間が規定されてしまう……そういうことを知ったわけだ。いやまあ、自分の書いたり作ったりしたものはそれなりに価値はあると思うけれど、それを以てその道の……と言われるのは、これは正直言って申し訳ないような気持ちになる、ということである。

さて、「人は、ある局面での印象を以て誰かのことを規定してしまいがちなものだ」という経験則を、最初の僕の問いに適用するとどうなるか。僕は不安になるのである。僕は政治的にどういうスタンスだと思われているのだろうか、と。

たとえば僕は、民主党政権成立以来、一貫して否定的なことを書いているわけだ。こういう論調を以て、僕はネトウヨだと思われているのかもしれない。しかし、僕はミンスとかチョンとかいう言葉を使うことは(今回のように、その言葉それ自体に言及する必要のある場合を除いて)まずないし、Twitter のアイコンに日の丸を入れている輩をこきおろして、多数のコメントをいただいたりもしている(僕は別に日の丸入れるのを否定しているんじゃなくて、入れるならどうして堂々と、でっかく、オースティン・パワーズのクルマのユニオンジャックみたいに入れないのか、と言っているのだが)。

僕の blog で文句なしに一番アクセスが多いエントリは、『レイテ島からのハガキ』である。これを読むと、僕が太平洋戦争を礼賛しているかのように思う人がいるかもしれない。しかし僕はこの中で、

こんな手紙を書き、こんな歌を詠み、こんな思いを持つ人が、一兵卒として勝ち目のない戦場に投入され、妻やまだ見ぬ我が子を思いながら死んでいったのか、と思うと、ただただ胸が痛む。戦争というものは、人のこういう機微をいともたやすく蹂躙し、破壊してしまうのだ。
と書いているわけだ。そもそも、僕は靖国神社に関してもあまり良い感情を抱いていない(カトリックの信者としては、問答無用であそこにカトリック信者の戦死者が合祀されていることには理不尽さを感じずにはおれないのだ)し、「英霊」なんて言葉を軽々に使う輩を見ると反吐の出る思いがする。あの時代の中で、あの苦しみを自ら負ったわけでもない我々が、軽々にそんな言葉で戦死者を賛美することは、あの愚かな戦争の中で理不尽に死んだ人の存在や、その思いを、上辺だけの安っぽいヒロイズムに問答無用で置換しているだけの行為だと思うから、僕は「英霊」なんて言葉をとてもじゃないが自分の口から吐くことはできないのだ。

では僕はサヨクなのだろうか。そういうわけでもないような気がする。竹島や尖閣諸島の問題に関しては、政治的な妥当性は日本の方にあると考えているし、日本がその領有権を主張することは、国土というものが国のアイデンティティとして極めて重要なものである、という意味からも、妥当な行為だと考えている……と、ここまで書くと、ネトウヨな人々が「うん、うん」と首肯する姿が連想されるけれど、竹島に関しては、いわゆる金鍾泌による独島爆破提案について、現在これ程までに揉めるなら、いっそ本当にやってしまっていればよかったかもしれない、と思うこともあるわけだ。

つまり、僕の政治的な立場は「左」か「右」か、という二元論では規定し切れない微妙なものだ、ということになる。そしてそんな二元論で自分を規定されたくはないのである。

しかし、世間ではどうしてネトウヨと呼ばれる人々がこれ程増え、そういう人々は容易く自分達をステレオタイプな行動で簡単に規定し、「自認」してしまえるのだろうか。ミンスとかチョンとか書き殴っている人々や、子供がロッテのアイスに手を伸ばしたら怒鳴りつける主婦に出会ったりすると、どうしてこの人達には、自分が抱えるような「二元論では片付けられない」微妙な思想がないのだろうか、と不思議に思えてならないのだ。いや、こういう感想も、あるいは僕が先に書いた「ある局面での印象を以て誰かを規定する」行為に過ぎないのかもしれない。しかし、どうして彼等は、ネトウヨならネトウヨ同士で、お互いの微妙な立場の違いを論じ、その認識を深める、という方向には行かずに、声を合わせて罵詈雑言を並べる方に行ってしまうのだろうか。

昔の右翼は、「一人一殺」[一殺多生」に代表されるような過激な思想の下、暴力闘争を展開する人々もいたけれど、もう少し議論というものをちゃんとしていたような印象がある。たとえば「一水会」の最高顧問の鈴木邦男という人がいるが、この鈴木氏の論調などはまさに「論ずる右翼」の好例であろう。この鈴木氏自身も認めているけれど、たとえば新右翼と新左翼の接近などというのも、お互いの微妙な立場の違いを論じ、その認識を深めた結果であると言えないこともない。

しかし、ネトウヨと呼ばれる人々の中で、こういう微妙な議論が醸されない、という辺りに、僕はその存在やその必然性に強い疑義を感じずにはおれないのである。この blog にも、あるいは何か罵詈雑言めいた書き込みがされるのかもしれないけれど、その元気があるのなら、思想的に僕が納得する程に成熟した論を、どうか聞かせていただけないものだろうか。

Moonies?

韓国人は、どうも自分の名前を英語風に読まれることを好むような印象があるような気がする。かつての職場で一緒に仕事をしていた人で、皆に「ジョンさん」と呼ばれていた人がいるのだが、彼に、名字は漢字で何と書くのか、と一度聞いたことがある。彼は(彼の国に関してはネットで色々言われているけれど、本当に教養のある人は……一握りかもしれないけれど……本当に高い知性を身につけているんですよ)すぐに「鄭」と答えてくれた。なるほど、昔だったらテイさんだね、と言うと、でも今は日本でもジョンですよ、ジョンと呼んでやって下さいね、とやんわりと言われたのだった。それ以来、彼のことはいつでもジョンさんと呼ぶようにしている。

僕は小学校の頃に、同じ名字の同級生の女の子がいて、彼女に色々在日韓国人のことを教えてもらったおかげで、あまり韓国人との間に垣根を感ぜずにいられる(とは言っても最近の大韓民国の暴走ぶりにはさすがについていけないのだが)のだけど、彼女も今ではジョンと名乗っているのだろうか。韓国では結婚しても女性の名字は変わらない(これは別にフェニミズムの面での男女別姓ではなく、女性は家に入れない、ということなのだけど)から、きっと今もどこかでそう名乗っているのだろうけれど。

さて。標記の件である。まずは洪蘭淑という人の説明から始めなければならない。洪蘭淑は、文鮮明の長男である孝進の妻だった女性である。文孝進は、ちっとも格好良くない「セックス、ドラッグ、ロックンロール」への耽溺の挙句、今から4年前に心筋梗塞(彼が十数年間常用していたコカインに起因するものと思われる)で死んだのだが、父の意向で妻合わされた洪蘭淑との結婚を望まない、と公言しつつも4人もの子をなし、DV に走り、1995年に妻と子が脱出、訴訟を起こされてそのまま離婚したのであった。で、その洪蘭淑は1998年、“In The Shadow of Moon”という暴露本を出版した。

僕はこの本の存在を知っていたのだが、実物を手にしたことはなく、えらく詩的なタイトルだなあ、としか思っていなかった。しかし、最近、アメリカで原理研究会(日本の大学で耳目にする「原理研」と同じものである)が問題化したときのことを書いた文章を読んでいて、そこに原理研に嵌っている人々を称して "Moonies" と書かれていたのを読んで、あれ、ひょっとしたら、と気がついたのだった。

最近はメディアでも、朝鮮語でのファンダメンタルな発音に倣うようになっているので、文鮮明の訃報を探してみると、ちゃんと彼の名前の本来の読みが書いてある:「ムン・ソンミョン」と。これはアルファベットで "Moon Sun-myung" と書くのである。

なるほど。洪蘭淑の本の題名はダブルミーニングだったわけだ。そして、Moon にかぶれた lunatic のことを "Moonies" と言うわけだ。こんなことにすぐに気付かないなんて、少し頭が錆びついているのかもしれないが。

統一教会に関わる哀しい思い出

僕は、自分がカトリックの信者であることを公言しているわけだけど、日本において、ほとんどのカトリックの信者は、必要ない限りはそういうことを公言したりはしない。それは信仰に関わる問題のためではなく、周囲との無用な摩擦を避けるためである。

僕自身も、そういう摩擦を経験したことがある。たとえば、大学に入って間もない頃のこと……当時、銀座の外れに住んでいた友人Yの家に遊びに行くと、一人の男が訪ねてきた。中学時代の同期だ、と言うのだけど、僕はどうにも思い出せずにいた。Yと話もあるだろうし、僕は移動の途中にYを訪ねたに過ぎないので、そのときはしばし歓談した後に辞去した。

それから程なく、僕が再びYに会ったときのことである。

「あのときは酷いめに遭ったよ」

とYがこぼすので、何があったのか、と訊くと、

「あのとき本人が言わないので黙っていたけれど、あいつは一家揃ってのガチガチの創価学会員なんだよ」
「……うん」
「あのとき、お前がカトリックだとかいう話になったろう」

そう言えば、そんな話をしたかもしれない。

「お前が帰った後に、あいつ、キリスト教がいかに不完全な宗教か、ということを滔々と俺に語ってなあ」

それは災難だったろう。なにせYは倫理学専攻で、カトリックの神学者にして倫理学者であるスピノザの倫理学を研究していたのだから。

「で、な。俺はもうあいつの弁にうんざりしてしまって、論破してしまったんだ」
「……うん。そうしたら?」
「そうしたら、あいつ、俺は帰るけれどこれを置いていく、読んでくれ、って」

そう言うと、Yは一冊の文庫本を僕に差し出した。青春文庫、と表紙にある。裏を返すと、聖教新聞社と書かれている。著者は……池田某。中を見ると、あちこちに線が引かれている。なるほどねえ。知らなかったとは言え、Yを酷いめに遭わせてしまったのには、僕にも責任の一端はあったのかもしれぬ。

こんなこともあった。やはり大学時代のことだが、大学に NeXT というコンピュータが導入されて、ネットワーク接続され、モリサワフォントや Mathematica がインストールされ、400 dpi の PostScript レーザープリンタが使える UNIX ワークステーションが24時間好き放題に使える状態になって、2年程が過ぎたときのことだ。

当時、端末室に入り浸っている面々は仲良くなって、深夜に皆でファミレスに行ったりしていたのだけど、その面々のひとりに、「ユンカース」というハンドルを使っている下級生がいた。彼は僕に、自分は木根尚登のファンだ、としきりに言う。僕が音楽をやっているからだったのかもしれないが、別に僕は TM Network のファンというわけではなかったので、正直持て余していた。彼は、木根氏の『ユンカース・カム・ヒア』をしきりに賛美し、学内の電子ニュースにおいても、木根氏に関する宣伝を延々と書き続けていた。

当時の僕は、中学以来の読書量を落としておらず、大学の最寄り駅の近くにある古本屋で毎日のように本を買っては読む、という生活をしていたので、あまり自分が読む価値も感じない単一の作品を毎回毎回賛美されることにうんざりしていた。まあそんなことがあって、彼とはそのまま疎遠になっていったのだが、誰かが電子ニュースで、彼と彼が宣伝している木根氏に関して批判的なことを書いたときに、逆上した彼が「罰が下る」と書いたことを、僕は妙に鮮明に記憶していたのであった。

それからしばらくして、木根尚登という人が熱心な創価学会員であるという話を聞いて、彼の「罰が下る」という言葉の意味が分かった。おそらく彼は「仏罰が下る」と書きたかったのであろう。この言葉は、創価学会員が自分達に批判的な意見に対して使う常套句である。つまりは、彼もまた熱心な創価学会員だったのだろうと思う。

誤解しないでいただきたいのだが、僕は何も創価学会だから何もかも悪だと言っているわけではない。社会との折り合いを付けて暮らしている創価学会員がいることを、僕も知らないわけではないからだ。僕が豊中・晴風荘に暮らしていた頃、隣に暮らしていた年配の女性は創価学会員で、一度だけ「聖教新聞を取ってくれないか」と来たことがあるけれど、それ以外は実によくしていただいた。そういう方も、いないわけではない。しかし、皆がそうだというわけでもない。社会においてしばしば耳目にし、僕も実際に目の当たりにしたことのあるトラブルが、そういう「社会と折り合いを付けられない」ものの存在を裏打ちしてしまっているのだ。

まあ、それでも、創価学会に関しては賛否両論あるところと言うべきなのかもしれない。しかし、標記の統一教会(世界基督教統一神霊協会)が反社会的存在である、ということに関しては、おそらくほとんど反論される方はおられないであろう。カトリック、というか、クリスチャンとしては実に迷惑な話なのだけど、未だに統一教会がキリスト教の一種であると思われている方がおられるようだが、統一教会はキリスト教ではない。ここは何が何でも強調しておかなければならぬ。

なにせ、統一教会の教義によると、文鮮明はキリストの生まれかわりなのだ、という。冗談ではない。僕等の知るキリストは、あんなに現世利益に塗れた存在では断じてない。文鮮明は、自らがキリストの実現し得なかった地上の理想の世界を実現する、と言っていたそうだけど、自分の息子をコカインの常用による心筋梗塞で死なせるような輩にそんなことを言われたかぁないのだ……と、まあ批判するとキリがないのだけど、大学というところに居たときには、僕の身近にもこの統一教会の気配があったのだ。

先の、端末室に入り浸っていた面々の話である。この面々というのが、下は学部の2年生位から上は院生まで、結構な幅があったのだけど、その中にひとり、電気系の学科に所属する大学院生がいた。この面々の根城になっていたのが、その電気系の学科に隣接した端末室と、理学部にある端末室だった(事実上24時間開放された状態だった)のだが、寮からの距離は前者の方がやや近い。そこで毎夜のことく過ごしているうちに、その院生と顔見知りになったのである。

あるとき、彼からメールが送られてきた。共同購入で、光磁気ディスクを買う計画があるのだけど乗りませんか? という内容だった。当時、まだ光磁気ディスクは普及する前だったのだが、僕等が使っていた NeXT には 5インチの光磁気ディスクドライブ(容量 256 MB)が付いていた。まだこの頃は、数百 MB もの容量のディスクを持ち歩くなど、普通の生活をしていたら考えもしなかった頃で、数千円という価格でそれを実現できるというのは、まさに夢のような話だった。当然、僕は二つ返事でこの話に乗ることにした。

それから一月程後だったろうか。端末室で、彼から光磁気ディスクを受け取った。丁度5インチの FDD のケース位の大きさ(そりゃそうだ、同じ5インチなんだから)で、厚さは1センチちょっと位だったろうか。このディスクはリード / ライトが非常に遅かったのだけど、ゴトゴト音を立てながら NeXT cube にこのディスクをマウント / イジェクトしているだけでも、何やら特別なものを掌中にしたような興奮を感じたものだ。

これが縁で、その院生(以下H氏と称す)と、オンラインでもオフラインでもちょこちょこ話をするようになったのだが、あるとき、H氏が1週間程姿を見せなかったことがあった。学会にはまだ少し早い時期だったので、どうしたのだろうか、と思っていたところに、

「ちょっと旅行に行っていました」

と、学内の電子ニュースに書き込まれていた。へー、俺なんかとても旅行に行く時間も金もないのに、そういう余裕のある人もいるものなんだなあ、と、そのときはそのまま納得していたのである。

ところが、そのうち妙なことに気がついた。H氏が左薬指に指輪を嵌めているのである。指輪といっても、普通の結婚指輪より妙にゴツい感じの、金色の指輪である。目敏い連中が、

「あー、Hさん、もしかして結婚したんですかぁ?」

とはやしたてると、H氏は笑うだけで、それ以上何も答えない。

「じゃあ、婚約したんですか?」

と水を向けてみたが、やはり笑ってそれ以上何も答えようとはしなかった。

そのうち、端末室で、顔見知りの学生から妙な話を聞いた。H氏が、デスクトップに女性の顔写真らしきものを貼り付けているというのである。当時……まだ Windows 95 の出現する前の話である……、僕等が使っていた NeXT の GUI システムでは、画像をデスクトップに置くこともできないわけではなかったけれど、ほーHさんもなかなか大胆じゃないですか……と、早速見物に行った。H氏が何か書きものをしているのを後ろから見てみると、確かに女性の顔らしきものが貼られている。しかし、解像度が今一つだったので、どんな感じなのかはっきりとはしなかった。他の学生達はその件で盛り上がっていたけれど、僕はあまりその話には深く踏み込まない方がいいような気がした。どうも、何か普通と違っているような気がする。あの指輪にしても、その妙に不鮮明な画像ファイルにしても、何か、何かが普通ではないような気がしていたのだ。

実は、その指輪がどんなものだったのか、検索で見つけることができた。こんな感じである:

http://p.twpl.jp/show/orig/UBgeW
僕の感じた違和感がどういうものだったか、皆さんにも伝わるのではないかと思う。

そのうち、ひょんなことから、僕はバンドを組むことになった。このバンドのドラム(ドラムだからD氏とでもしておくか)が、なんとH氏と同じ電気系の学科に所属しているという。あれ、じゃあHさんって知らない? 端末室でよく会うんだけど……と言うと、D氏は、ああ、はいはい、同じ研究室ですよ、と言う。

当時、僕等は箕面市の公民館(さすがに高級住宅街で有名なだけあって、簡単なレコーディングの設備も付いた十分な広さの練習スタジオが、なんと半日500円で借りられた)で練習をすることが多かったのだけど、練習の帰り、D氏のクルマの助手席で、ふとH氏の話になったのだった。すると、

「あのさあ、Thomas 君ってクリスチャンとか言ってたよねえ」
「え? ああ、そうそう。うちは祖父の代からのカトリックでね」
「カトリック? カトリックって、旧教のこと?」

えらく珍しい言葉を聞いたなあ、と思ったのだが、考えてみれば、キリスト教と縁のない人にしてみたら、まあそういうことになるのだろう、と思い、

「旧教……まあ、歴史の教科書とかにはそう載ってるねえ。そうそう、その旧教だよ」

すると、D氏は少し考えてから、

「じゃあ、Hさんとどうして知り合いなの?」
「え? ああ、ほら、NeXT 使う連中が、君の研究室の近くのあの端末室に集まってるだろ。あそこで会うことが度々あって、そのうち光磁気ディスクの共同購入とかで誘われて、それで、ね」

D氏は、クルマを路肩に寄せて停めた。そして、うーん、と、やや混乱したような表情で、

「…… Thomas 君は、Hさんの件を知らないんだね」

と言う。

「Hさんの件?」
「うん…… Thomas 君、Hさんが指輪してるの知らない?」
「ああ、知ってる知ってる、皆が結婚指輪かエンゲージリングか、って騒いでたんだけど、あの指輪、あまり見ない形だよね」
「……うん。あと、今年の8月末位に、1週間位休んでたのも知ってる?」
「ああ、そう言えば、旅行に行った、とか何とか」

D氏は溜息をついてから、こう話し始めた。

「Hさんってね、統一教会の信者なんだよ。今年の8月に旅行に行った、っていうのは、あれは合同結婚式に行ったんだって」

それを聞いた途端、それまで違和感を感じていたことに合点がいった。

「じゃあ、デスクトップに貼ってた女性の顔は……」
「うん、それはその合同結婚式で結婚した相手だろうね。ただし、結婚してから、しばらくは一緒に暮らせないとか何とか言ってたけど」

僕は、次にH氏と会ったときに、どんな顔をしたらいいんだろう、と、考え込んでしまった。

「……しかし、Thomas 君、本当に知らなかったの?」
「そりゃそうだよ、今ここで初めて聞いたんだから。それに、僕に対して宗教的に攻撃してくる、とか、布教しようとかいう風でもなかったしね」
「……まあ、そういうことでね。ほら、Hさん、D4 だろう? あれも、その件で揉めて学位論文が遅れてるらしいよ」
「なるほど……今、ようやく、全てが頭の中でつながったよ」

……その後、僕は別にH氏を遠ざけたわけでもないし、どちらかがどちらかを攻撃したということもなかったのだけど、彼とは疎遠になってしまった。今はどうしていることだろうか。

一説によると、合同結婚式で結ばれたカップルの8割が、その後壊れてしまうのだという。人と人の縁というものを、まるでブリーダーが犬を交配でもするように貶めてしまった結果がこれだ。幸せは、人が人にモノのように与えることなどできはしない。神を騙った、汚れたヒトが他人の幸福を無責任にも粗製濫造することが、どれ程罪深いことなのか。ここにこれ以上書くまでもなく、それは明らかなことであろう。

あの頃、僕は丁度プライベートでも色々あって、純粋な出会いとか恋とかいうものに飢えていた時期だった。そんな時期にこういうことを知ってしまい、何とも言えず哀しい気持ちになったことは、今でも鮮明に記憶している。文鮮明が死んだ、というニュースを聞いて、ふと、そんなことを思い出してしまったのだった。

デジタルリマスタリング

デジタルリマスタリングの話は、正直言ってあまり書きたくない。世間で(特に一部の愚かな山下達郎ファンの間で、ね)誤解されていることなのだが、デジタルリマスタリングをするのは、音を良くするためではない。音の夾雑物を除き、ダイナミックレンジや EQ を整えるために過ぎない。

ちょっと考えてもらえば分かると思うのだけれど、処理前より処理後の方が情報量が増えるはずがない。処理を行えば、情報量は減る。これはこの世の理なのであって、デジタルだろうがアナログだろうが、この事実を引っくり返すことはできない。ただし、高分解能でデジタルに変換した情報は、任意の情報を、他の情報に対して影響を最小限に留めるように間引くことができる。だから、ノイズを減らしたり、音圧を上げたりすることがより効果的にできる、というだけのことだ。だから、デジタルリマスタリングは「修正」技術に過ぎないし、ましてやそうやって修正した音源でも、FM で放送されたら、その瞬間に 15 kHz から上の情報は削られる。だから、山下達郎が手持ちのレコードからデジタルリマスタリングした音源を、たとえば Rhino が reissue した CD の音源より有り難がる輩が存在する、という、この理由が僕にはとんと分からぬ。このことに関しては山下氏も何度かコメントしていると思うのだけど。

僕がデジタルリマスタリングを行うのは、主に以下に示す3つの音源の場合である。

  • 自分で制作した音源
  • CD に収録されていたもので、あまりにマスタリングが酷い音源
  • CD 以外のメディアに収録されていた音源
僕は、音楽は基本的には WAV フォーマットで iPod に入れ、ヘッドフォンで聞くのだけれど、iPod に音源を入れる前に、これらの音源の場合にはごちゃごちゃと作業をすることになる。

最初の場合は、これはリマスタリングではなくてマスタリングである……僕の場合は Steinberg Cubase で録音を行っていて、マスタリングはミックスダウンと不可分に行われることが多いのだけど、トータルエフェクトを集中して吟味したいときには、一度高分解能で出力したファイルを再度 Cubase に読み込み、マスタリングの続きを行って仕上げる。具体的に何をどういじっているかというと、

  • EQ
  • コンプ
  • リミッティング
の3つである。

基本的には、後で EQ を調節しなければならないようなミックスダウンはしないのだけど、もし必要なときは、Cubase 付属の4帯域のパラメトリック EQ を使うことが多い。この Cubase の EQ はフィルタの効きが鋭いので、エフェクトとして使うときにも、このようなトータルエフェクトのときにも重宝している。これではちょっと、アウトボードっぽくなくて作業しづらい、というときは、昔清水の舞台から飛び降りる覚悟で買った SONNOX Oxford とか WAVES SSL 4000 Collection Native とかを使うことになる。

トータルコンプとリミッターで行うのは、いわゆる「音圧を上げる」作業である。これに関しては、僕の場合はかなり控え目にしているつもりだ。音圧なんてのは、潰して持ち上げようと思ったらどうとでもなるのだけど、いくらロックでもあまり潰れていたら台無しである。それに、自分の音源だったら、潰す必要のあるものはミックスの段階で潰している(スネアとかね)ので、トータルで補正する必要はあまりない。むしろ、レベル合わせに相当する作業で、ああでもないこうでもない、と悩むことになるわけだが、まあここではそういう作業をするわけだ。ちなみにこの作業は、今は専ら Oxford Dynamics Native で行っている。

最終的な作業が終わったら、iPod に突っ込めるようにフォーマットを整える。僕の場合、44.1 kHz / 16 bit で出すことが多い。別に 96 kHz でも 32bit float でも出せるんだけど、僕の持っている iPod(いわゆる第五世代)はあまり妙なフォーマットだと読めない。読めないとどうなるか、というと、読み込みかけたところで再起動がかかるので、HDD を壊すのが怖くって、ちょっとあまり冒険したいとは思えない。

というわけで、自分の音源だったらこれでよろしい。では、CD を買ったけれどあまりに音源が酷い、というときにはどうするか、というと、基本的には上と同じプロセスである。ただし、アナログの劣化した音がそのままデジタル化されていて、さすがにこれはちょっと……と思う場合のために、Nomad Factory BBE Sound Sonic Sweet に収録されている D82 Sonic Maximizer を使うことがある。これはもう、本当に、軽ーく当てるだけなのだけど、うまくいくときには本当に効果的な音源補正をしてくれる。まあエキサイターの一種として考えれば、存在しない音域をある法則に従って足している、とも言えるのだけど、これも決して情報を増やしているわけではない。あくまでも補正である。

そして、CD 以外のメディアに収録されていた音源……というと、まず最初に問題になるのが SACD である。SACD の録音フォーマットは PCM ではなく、ΔΣ変調 を用いた 1 bit / 2.8224 MHz サンプリングである。だから、iPod に入れる際には何らかの方法で PCM に変換しなければならない。困ったことに、僕は SACD は持っていてもプレイヤーを持っていない。以前、某所で、自分の所有する音源を rip させてもらった(SACD のプロテクトはもう破られてしまっているので)のだが、これも何らかのソフトで変換する必要がある。

この変換には、みんな大好き foobar2000 を使っている。ほとんどの場合、これ以上の処理は必要にならないのだけど、ごくたまに、高分解能の WAV に落とした後で、Cubase でディザリングをかけて再度 16 bit / 44.1 kHz サンプリングに変換したりすることもある。

そして、それ以外の場合……ようやくここまできた。これの話を書きたくて、延々ここまで説明をしてきたのである。実は最近、今迄入れていなかった The Police の音源を iPod に入れることにしたのだが、どうしても入れたい音源があった。これがちょっと問題ありの音源で、色々とバタバタやっていたのである。

この音源というのが、1978年10月2日、BBC の音楽番組 "The Old Grey Whistle Test" に The Police が出演したときのスタジオライブ音源である。この伝説的な番組で、The Police は "Can't Stand Losing You" と "Next to You" の2曲を演奏しているのだけど、これが実に演奏がいい。まだ彼等が戦略としてパンク色を濃く出していた頃の演奏なのだけど、正直言ってスタジオテイクよりも演奏はこちらの方がいいかもしれない、とすら思える。

これを Youtube で耳にしてから、何としても、少しでもいい音で聴きたい、と思って、あちこち探したのだけど、"The Old Grey Whistle Test" の CD や DVD には "Can't Stand Losing You" だけしか収録されていない。うーん……ああそうか、とThe Police が出していたビデオや DVD をあたったら、そちらには二曲とも収録されている、ということで、”Every Breath You Take”という DVD を入手したのであった。

彼等のビデオクリップ(と言うよりフィルムと言った方がいいのだろうか)などには目もくれず、ISO マウントした DVD の中から、"The Old Grey Whistle Test" の映像のファイルを抜き出して、そこから音声だけを WAV フォーマットで吸い上げた。まずは FFT(高速フーリエ変換)でスペクトルをチェックすると……このようになる:FFT-result.pngあー、なるほど。これはいわゆる Hi-Fi でないビデオ由来の音源の典型だ。高域は 11 kHz 辺りからカットされていて、15.75 kHz にノイズが乗っている(これは水平走査の信号が音声にクロストークしているものと思われる)。当然だが、音声はモノラルである。

まあ、とりあえずノーマライズ(ダイナミックレンジを合わせる作業)をしてから、BBE で音を修正して……おそらく放送媒体では、送出時に歪まないように結構がっつりとリミッティングしていると思われるので、コンプはかけず、甚だしく飛び出しているところだけをリミッターで抑えて、16 bit / 44.1 kHz サンプリングで出力する。これを iTunes 経由(最近は GNUPod で Linux から放り込むケースもあるのだが)で iPod に放り込めば、作業は終了である。

それにしても……世間では配信サイトから MP3 でダウンロードしてきて聴く、というのが一般的になっているんだろうに、こういうことをしているのはアナクロなのだろうか。でも、MP3 等の圧縮フォーマットは音楽を無惨に変質させてしまう(ハイハットやシンバル、そして残響をチェックしたらすぐにバレてしまう)。だから、結局はこういうことをしないと、音楽を聴いても憩いにならないのである。つくづく損な性分だと思うけれど、仕方のないことである。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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