オリンピックの選手のインタビューなどでも感じたことがあるけれど、自分に責任のないことを謝る必要はないのに、人は何故謝ってしまうことがあるのだろうか。
今日はチリの地震に伴う津波が来ていて、気象庁もその情報に関する記者会見で大変だったようだけど、記者の
「この津波の影響はいつ頃まで続くのでしょうか」
という質問に対して、担当官がこんな回答をしていた。
「えー皆様に多大なご迷惑をおかけしまして誠に申し訳ありません」
いやそれ謝る必要ないでしょう、気象庁悪くないですから!
どうも、人は差し迫ったところにいるとおかしくなるもののようだ……
浅田真央選手と金姸兒選手のフィギュアの演技を観たのだが、僕の率直な感想は、この標題に記した通りだ。勿論、僕は歴史に残るのはアートの方だと信じているわけだけど。
僕はいわゆる自称民族派の連中のお先棒担ぎをしたくはないのだけど、特に韓国における金姸兒選手と、それ以外の女子フィギュアスケート選手に対する報道・風評は「あまりにひどい」の一語に尽きる。どうひどいのか、は、以下をご覧いただければお分かりかと思う。
【ニコニコ動画】【改良版】ヨナ爆笑!韓国の浅田真央中傷コント2
勿論、これはあくまで二次資料ではあるのだけど、朝鮮日報等の日本語サイトを見ていても、金姸兒選手に関しては偏向的なコメントが散見されるのが現状である。
自国の選手を讃えることは一向に構わない。しかし、その行為と、他国の選手を貶める言動は明らかに別次元の代物であって、後者は唾棄されるべきものなのだ。これは僕が右だろうが左だろうが、おそらく何の変わりもなく主張し得ることであろう。
まあこの手の話は書き出したらキリがない。男女差がない ISU のジャッジングシステムにおいて、あのプルシェンコよりも金姸兒選手の方が演技構成点が高いのは何故なのか?とか、どうして ISU の審判講習会が韓国で行われたのか?とか、そんなことだらけなのだ。ただし……点を取るための演技、エンターテインメントのための演技が、アートとしての存在意義を問う演技を超えられる筈はないし、たとえオリンピックのメダルがそれを証明しなくとも、歴史がそれを証明することだろう。物言えば唇寒し……の心境なので、これ以上書かないけれど。
國母選手の問題に続いて、スケルトンの日本チーム監督である高橋宏臣氏の blog が炎上している、という。女子スケルトンの小室選手のそりのブレードに、連盟公認のシールが貼付けられていなかったために、小室選手が失格となり、その責任を問う書き込みが殺到しているのだ。と、このように書くと全うな objection のように思われそうだけど、実際のところ、その blog のコメントを見てみると「国の損失の責任をとれ」というようなものが多数を占めているようである。
前々回に國母選手の一件について書いたときに「シャツをズボンから出した位で損なわれるような国の品格など唱えている者こそ国賊である」と僕は書いた。これは思考停止して吠えているわけではなく、国家の品格などというものをそう簡単に振り回されたら、国家の品格を背負う場に居合わせることのあった者の端くれとしては迷惑千万だ、と思うからである。そう。世間で(品格品格と、気軽に)吠えている連中は、実のところ自らが国家の品格を負うことがないからこそああも気軽に吠えていられるのだ。
手前だけコタツにぬくぬくと潜り込んで、バンクーバーの雪や氷の中で力を尽くしている人々のことをどうこう言おうというだけで、僕から見ればそういう連中は「恥知らず」だと思う。おそらくそういう連中はこの言葉を知らないんだろう:
Ask not what your country can do for you,but what you can do for your country. この言葉は、あのジョン・F・ケネディ元アメリカ大統領が言った言葉の中でもおそらくは一番有名なものである。訳するとこんな感じだろうか:
国が何をしてくれるかを問うのではなく、国のために何が出来るかを問おうではないか ここで言う「国が何をしてくれるか」「国のために何が出来るか」という二つの問いが、オリンピックというものと国の品格という文脈でなされるならば、國母選手や高橋監督を口汚く罵ることに血道をあげることと、黙して国の代表として試合にのぞむこととが、この二つの問いのどちらに相当するか、猿でも少し考えればわかるんじゃないだろうか。そして、国の品格を主張するならば、先のケネディの言葉を実践もできずに、何事か他者に矛先を向けられるものだろうか。平気で矛を振り回す人のことを「品格を尊ぶ者」だ、などと、どこの誰が思うものだろうか。僕の知る限り、このような手合いは、日本語で表現するならば「恥知らず」「卑怯者」という単語で表記すべきだし、実際そういう手合いだとしか思えないのだ。
The Knack のヴォーカル Doug Fieger が、脳腫瘍と肺がんのため死去したとのことだ。僕が The Knack の名前を出すというのはおそらく意外な印象を受ける方が多いのかもしれないが、やはり僕位の年(本当はもっと上の方ということになるのかもしれないが)だと、あのリフを聴くだけでムズムズしてくるのである。
……と書いて、あーそうか、あのリフとか書いても知らない世代が多くなっているのかもしれないなぁ、と思ったりしたのだが、やはり "My Sharona" という曲をご存知でない方は多いのだろうか。一応参考のために Youtube のアーカイブにリンクしておくことにする。
http://www.youtube.com/watch?v=kVdnqEyToqg (埋込み不可能なので上記リンク先を御参照のこと)
しかし、このクリップを観ると、ファッションはむしろモッズとかに近いのかなぁ。そういう時代だったということか……
スノーボード・ハーフパイプ代表の國母選手に関して、このところ世間では騒ぎになっているようだけど、僕には何が何やらてんで分からない。
まず、なぜ彼の服装や言動が「日本の品位」に関わるのか、という話。そもそも JOC の服装規定というのが実に曖昧なのだ。なんでも、JOC が定めた「日本選手団公式服装着用規定」というのがあって、
(着用の規定) 第2条 日本選手団に認定された者(以下「選手団という」。)は、自覚と誇りを持って公式服装を着用しなければならない。 との一文があるのだそうだが、あの國母の服装は、おそらく國母本人にとっては「自覚と誇りを持って」ああしているのだろうと思う。もちろんドレスコードというのはああいう場には暗黙のものとして存在するわけだけど、だったらなぜ飛行機を降りる前に彼に一言かけなかったのか。そもそも彼がああいう服装をすることは十分予測し得るわけだし、降りるときに誰かしらか彼の姿を視認しているはずなのだから、そこで指導者や監督者が「ドレスコードってのがあるから、プレスの前で選手団の公式服装を着るときはこうしてくれ」と言えばいいだけの話だ。そもそも「自覚と誇り」なんていう主観的感覚で統一を問うこと自体、ナンセンス極まりない。こうさせたい、というものがあるなら、それをコードとして明示すればいいだけの話なのに、なぜそれをしないのだろうか?
いい歳の大人が……云々、という話が出てくるのだろうけれど、彼の着崩し方は実に違和感のないものだった。なにせ、あのピーコが「上手い着崩し方をしている。普通の人があんな着方をしたら総崩れになっちゃうのに」と感心していた位だ。そもそも、空港のロビーという場所でそんなに厳密なドレスコードが問われるものだろうか?スポーツ選手が試合の地に入ってくるときというのはリラックスしているべきだと思うし、あんな格好をしているのならむしろリラックスしていることに安心すべきなんじゃなかろうか。
いやそれでは日本の品位が損なわれる、とかいう人がいるのだろうか。そんなこと位で損なわれるような国の品位だったら、さっさと捨ててしまえばよろしい。 自分の話で恐縮だけど、僕は国際会議とか外国人相手のディスカッションとかで何事かを主張しなければならない場に何度となく身を置いたことがある。しかし、日本人としての品位を損なわない、ということは、少なくとも服装なんかでどうこうできるような話ではない。どんな綺麗な服をどんなに上手く着こなしていたって、どこそこの国で女を買って……みたいな話で汚らしく笑っているような日本人を、僕は何度か見たことがある。彼らはいずれも社会的ステイタスというものを持ち合わせている人達だったけれど、僕はああいうときには、自分があいつらと同じ国の人間だと思われるのか、と考えただけで、この上なく汚らわしく感じたものだ。繰り返すけれど、ズボンからシャツを出したくらいで損なわれるような品格など、主張するだけで有害だから、そういう品格を振り回す人は自分が国賊であることをまず認識していただきたいものである。
最後に……そもそも國母選手はプロのスノーボーダーで、ワールドシリーズにも参戦している人物である。プロ選手にとって最も大切なのは、己のポテンシャルを主張する場としての、つまりはプロとしての試合であるに決まっているのだ。そして、そのためには他国に行くことだって彼らは厭わない。必要であるならば、その国に帰化してでも、彼らは戦うのだ。それがプロスポーツプレイヤーというものだ。プエルトリカンの大リーガーも、日本のナショナルチームでプレイしていたサッカー選手も、年寄株の取得を目指す外国人力士も、皆そうしているし、社会はそれを受容しているではないか。
國母選手だって、アメリカやカナダでプロとしてのキャリアと生活を両立できる、となれば、そういう国で生活するかもしれない。場合によっては帰化することだってあり得るだろう。日本が國母を見限る前に、きっと國母が日本を見限るに違いない。 それは日本のスノーボード界、そして広くスポーツ文化というものにおいて、大きな大きな損失になるに違いないのだけど。
この問題に関しては面倒なので書かないでいようと思ったのだが、トヨタ擁護の論者をあちこちで散見するので、ここにはっきりコメントを掲載しておくことにする。
まず、工学的視点から。今回のプリウスのブレーキの問題は、ABS に絡んだ問題だ、という報道がなされているが、その内実を詳細に書いたものがあまりないようだ。そもそも ABS というのが何か、という話から始めなければならないのだが、アンチロック・ブレーキ・システム、つまり、ブレーキのロックを抑制する装置、ということである。どのように抑制するか、というと……クルマに乗られている方は、ポンピングというのをご存知だと思う。ブレーキをかけるときに、ロックしたら踏力を抜き、グリップが回復したらまたブレーキペダルを踏む、というのを、ポンポンと繰り返すのがポンピングなのだけど、これを自動的に行うシステムが ABS である。一般的な油圧ブレーキの場合、油圧を弁の開閉でかけたり抜いたりすることでこのような制御を実現できるのだけど、実際の ABS はこのポンピングの周期が非常に短かい。アスファルトのブレーキ痕を見ると、タイヤ痕が切れ切れになっていることがあるけれど、これが ABS の動作していた証拠のようなもので、クルマのスピードから考えても、その周期の短かさがよく分かる。
ところが、ハイブリッド車のブレーキは、この油圧ブレーキだけではない。ハイブリッド車の場合、回生発電という機構で車の運動エネルギーを回収するからだ。この回生発電というのは、減速時にモーターを発電機として動作させることによって、クルマのブレーキとエネルギー回収の双方の役目を担わせるというもので、今回問題になっている新型プリウスの場合は、実際のブレーキングの大部分はこの回生発電によって行われている、という。
つまり、ハイブリッド車の ABS というのは、油圧ブレーキと回生発電というふたつの異なる機関の組合せで行っているブレーキングにおいて、高速でポンピングを行う必要がある。その際、ポンピングしながら、回生発電と油圧ブレーキ制動の切り替えも行わなければならない。今回のブレーキの問題というのは、この制動機構の切り替えと ABS の作動のかねあいで起こるものと言われている。
ここであまり話に出ないのは、回生発電ではポンピングしているのかどうか、という話だ。回生発電制動でポンピングすることは原理的には可能で、これは負荷比率をロックする境界線の各々に設定し、二つの負荷設定を高速スイッチングで切り替えればいい。しかし、実際にはこのようなスイッチングは決して簡単ではない。低摩擦路での制動試験における映像を見る限りでは、新型プリウスでは、回生発電をタイヤロックを来さない負荷領域で行い、制動負荷が大きくなる止まりかけの領域で、回生発電から油圧制動への切り替えをして、その後にポンピングを行うような制動を行っているようだ。
このような制動を行っていれば、ふたつの制動機構の切り替わるときに人間が違和感を感じることは容易に想像できる。なぜならば、回生発電はフットブレーキに影響を及ぼさないが、油圧ブレーキのポンピングは、ペダルの踏力の反力となっている油圧を高速で上げ下げするわけだから、ペダルの踏力がガクガク変化するようなフィードバックをもたらす。このふたつの状態が何の予告もないままに切り替わると、ブレーキペダルの踏力で制動力の情報を得ている人間は当然混乱するのである。
だから、工学屋としては、今回のプリウスの問題は、
ふたつの異なる制動機構の切り替え それに伴う運転者へのフィードバックの変化 というふたつの問題をきっちり追い込んでいなかったためだと「容易に」推測できる。お粗末極まりない、としか言いようがない。
そして、企業としてのトヨタのありように関して。そもそも、横山裕行常務役員のはじめのコメントがダメダメである。
私どもは、お客様の感覚と車両の挙動が少しずれていることによって、お客様が違和感を感じられるという問題だと認識していた このコメントは、読みようによっては「客がずれているんだ」と取られても仕方がない(実際、この横山常務は本当にそう思っていたんでしょうな)。しかし、クルマを動かすのは人間なのだ。だから人間の感触がおかしいなら、そう感じさせるクルマの方がおかしいのだ。自社製品を顧客の反応の基準とする、など、思い上がりもはなはだしい、としか言いようがない。よくもまぁ、国交省に(しかも、その新型プリウスに乗って!)顔を出して、リコールの書面をメディアの前で渡せたものだ。恥知らずにも程がある。
現在、アメリカではカローラの電動パワステが時速60キロ代で運転者の意思と無関係に左右にふらつく、というとんでもないクレームが相次いでいる、という。先のブレーキペダルの件も合わせれば、トヨタはクルマの最も基本的な3要件、すなわち「走る・曲がる・止まる」の全てにおいて不具合を出している、ということになるわけだ。これはユーザーからオアシを頂いて、しかも命すらあずかっている会社が断じてすべからざることなのではないだろうか。逆に言うと、そんなことを平気でする会社ってどうなのよ?そういう話なのである。
相も変わらず聖書関連の書きものをしているのだけど、あーそう言えばこんなものあったなぁ、と興味深く聖書を読み返す日々である。
『誰も教えてくれない聖書の読み方』(ケン・スミス 著、 山形浩生 訳、 晶文社、 2001年) にも書かれている有名なものに、こんなのがある。
サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。
歴代誌上 21:1
主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。
サムエル記下 24:1
この旧約聖書の異なる2箇所は、同一の内容が書かれていなければならないのだけど、片方の主語は「サタン」、もう片方は「主」=「神」。こういう不可解な記述は、実は聖書を読んでみるとあちらこちらに転がっている。
『誰も……』に引用されている部分でおそらく最も笑いを誘うのはこれだろう。
エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。
列王記下 2:23-24
……いや、本当に、こう書いてあるんですよ、聖書には(上引用部はいずれも新共同訳から引用)。そういうものなのですよ、聖書というのは。これが受容できるかどうか、を、僕はカトリック信者の教条主義に毒されているかどうかの判断にしばしば用いているのだけど、世の中にはこういうことに脊髄反射的拒否反応を示すカトリック信者のなんと多いことか!受洗して30年以上、祖父の代から3代続いたカトリックとしては、こんなこと位でキャンキャン吠える連中にはさっさと消えていただきたいと思うのだけどね。
最近、ちょっと旧約聖書の記述を整理している(これに関しては後で web で公開する予定)のだけど、ちょっと引っかかるものを見つけてしまった。
日本語の聖書というのは何種類か存在するのだけど、カトリックや一部プロテスタントにひろく使用されているのは「新共同訳」と呼ばれるものだ。これは財団法人日本聖書協会というところが編纂・発行しているものである。この「新共同訳」が出る前に、日本聖書協会は口語訳と文語訳の聖書を出している。また、プロテスタントでも福音派等の先鋭的な人々で、この日本聖書協会の訳に不満を持つ人々は、日本聖書刊行会(現 いのちのことば社新改訳聖書センター)訳、いわゆる「新改訳」というのを使っていると思う。
で、僕が引っかかったのは、以下の記述である。
(新共同訳)重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。 (新改訳3版)患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。【第三版訂正個所】患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。 (口語訳)患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。 レビ記 13:45 どうして「らい病」(この記述は歴史的経緯によるものであることをご理解いただきたい)をわざわざ「重い皮膚病」と書き直す必要があるのか。これって「臭いものに蓋」しているだけじゃないんだろうか。聖書は何千年も前に書かれたもので、現在の視点で見たら不適切な記述があって当然なのだけど、だからといってそこを「書き直す」というのは、どうなんでしょうねぇ。僕がカッコで書いたような断りを入れて、該当記述を残す方が文献としては本来あるべき姿なんじゃなかろうか。
どうも、最近、え?こんなこと分からんの?みたいな発言をしてしまうことが多くて困る。普通にできるはずのことが出来ない人というのが、僕の予想を超えて世の中には多いものらしい。
標記の件だが、チャイなんて簡単なものだと思っていたのだけど、わざわざフォートナム・メイスンのフレーバリー・ティー(ええ、たしかに「チャイ」という商品がありますけどね)を買わないとチャイを淹れられない、などという人も存在するらしい。あーそう言えばいましたね。ベンツ乗るのにシルバーなんて愚の骨頂、みたいなことを誇らしげにブログで書いていた、かなり太めの女性。また逮捕されたようだけど、彼女はシルバーがドイツのナショナル・カラーだという「基本」も知らなかったらしい。まぁ世の中、そういう手合いが増殖しているんでしょうな。
さて、チャイ(正確には、ここで言っているのは「マサラ・チャイ」という)だけど、そもそもインドで貧富の別なく飲まれているんだから、そう特殊なものが必要なわけではないのだ。必要なのはこんなところだろうか:
茶葉(いわゆるセイロンで結構、贅沢するならアッサム等でもいいだろう) シナモンスティック(ちょっと大きな食材店にはあるものだけど、タイ食材を扱う店で安価に入手できることが多い) クローブ(ホール、普通に市販されているもので一向に構わない) しょうが(これもいわゆる土生姜で構わない) カルダモン(ホール) ここで重要なのはカルダモン。おそらく「うまくチャイを淹れられない」という方はこれが抜けているのだと思う。
僕が今使っているカルダモンはこういうもの。東急ハンズなどで入手できる。以前は明治屋や成城石井などでも入手できたのだけど、最近このホールのカルダモンを置いている店はどんどん減っているようである。数百円で購入できるので、見かけたら買っておくことをお薦めする。
作り方……こんなもの書かなきゃならんのかね……
ミルクパンに牛乳を入れる。焦げるのを防ぐ目的で牛乳は等量の水を加えるのが一般的らしいけれど、濃厚なものをお望みの方は水なしで。 シナモンスティックは手でねじって軽く砕いて入れる。二人分で3本位が目安か。 クローブは頭をほんの少し火で炙ると香りが立つけれど、煮出すのでその辺はあまり神経を使う必要はない。二人分で5個位が目安か。 しょうがは水洗いして、皮は剥かずに スライスしたもの(強く香りを出したい人は更に細切りしてやるとよい)入れる。二人分で4枚が目安か。新鮮なしょうがは牛乳を凝固させることがあるので、その場合はやや控えめに。 カルダモンは、緑の表皮を剥いて、中の黒い粒を包丁で軽く刻んで加える。二人分でホール3個が目安。 ミルクパンを弱火にかけ、スパイスの香りを牛乳に移していく。この際、砂糖は絶対に加えないこと 。 十分に香りを移したところで茶葉を入れて軽く沸騰させ、抽出する。茶葉の量はティースプーン(人数プラス1)杯より多めにし、時間もやや長めにとる方がよい。 抽出できたところで、精製度の低い砂糖(三温糖やきび糖、茶色いざらめなどがいいだろう)をたっぷり加えて完全に溶かし、火を止めて、茶漉しで漉しながら注ぎ分ける。 ちなみにカルダモンは健胃作用と匂い消しの効果が非常に強いスパイスなので、肉料理、特に煮込み系の料理などに利かせるとすっきりしてよろしい。特にカレーは、カルダモンの利かせ具合が味と胃へのもたれ具合に直結する。たとえば、僕はインドやネパールのカレーを食べることが結構あるのだけど、良心的な店は大概カルダモンをケチらず使っているものだ……だから、そういう店のカレーは食べた後に胸焼けしたりすることがない。そういう意味でも、このスパイスの香りは一度意識して味わうことを是非お薦めする。