TeX Live 入れ直し

先日入れた TeX Live 2011 だけど、どうも動作がアヤしい。いや、TeX Live のせいではなくて、僕が不用意にシステムの領域に OTF パッケージ等を突っ込んだせいかもしれない、と、自分を疑ったのである。

で、思い切って、

$ sudo rm -rf /usr/local/texlive/2011
あ゛ぁ゛〜という感じではあるが、もうさっぱりとやり直すことにする。以下メモ。

$ rm -rf ~/.texlive20*
$ cd ~/texlive/trunk/Master/
$ sudo ./install-tl
("I" 入力でインストール開始。終了後、)
$ cd /usr/local/texlive/texmf-local/tex/
$ sudo mkdir -p platex/misc
$ cd platex
$ sudo cp /usr/local/texlive/p2009/texmf/ptex/platex/misc/* ./misc/
(青空文庫 PDF 化用ファイル他の私用スタイルファイル・クラスファイルの cp 完了)
$ cd /usr/local/texlive/p2009/texmf/packages/
$ tar cf - ./otfcurrent | (cd /usr/local/texlive/texmf-local/tex/latex ; sudo tar vxf -)
(ptexlive の OTF パッケージをそのまま TeX Live 2011 に移植、以下フォントのリンク)
$ cd /usr/local/texlive/texmf-local/fonts/tfm
$ sudo ln -fs ../../tex/latex/otfcurrent/tfm ./otfcurrent
$ cd ../vf
$ sudo ln -fs ../../tex/latex/otfcurrent/vf ./otfcurrent
(もし「いや俺ぁ otfbeta がどうしてもいいんだ」という方は、
$ export PATH=/usr/local/texlive/p2009/bin/x86_64-unknown-linux-gnu/:$PATH
などとしておいて、ptexlive のバイナリを利用して makeotf を実行すればよろしい)

$ sudo mkdir -p ../map/dvipdfm
$ cd ../map/dvipdfm
$ sudo cp /usr/local/texlive/p2009/texmf/fonts/map/dvipdfm/ptexlive/aozora.map ./
小塚フォントを埋め込むフォントマップをコピー。Mac ユーザの方は、こっちのヒラギノフォントを埋め込むフォントマップを使われると便利だろうと思う。これらのマップは、日本語縦書きルビ付きの文章においても完全対応させる目的で書いたものである……尚、老婆心ながら書き添えておくけれど、これらのフォントを埋め込んだ PS / PDF は内々に印刷に使用する分には問題ないと思うけれど、そのまま配布すると非常にマズいと思われる。詳細は各フォントの著作権条項等を参照して頂きたい)
$ cp /usr/local/texlive/p2009/texmf/fonts/map/dvipdfm/ptexlive/*.map ./
(pTeXLive 添付のフォントマップをコピーしておく。これをしておかないとフォントを埋め込まない PDF ファイルの生成が面倒なことになるので、やっておく方がよろしい)
$ sudo mkdir -p /usr/local/texlive/texmf-local/fonts/opentype/public/kozuka
$ cd /usr/local/texlive/texmf-local/fonts/opentype/public/kozuka
$ sudo ln -fs /opt/Adobe/Reader9/Resource/CIDFont/Koz* ./

(上記青字は Linux で小塚フォントを使用する場合。Mac の場合は以下赤字の通り)
$ sudo mkdir -p /usr/local/texlive/texmf-local/fonts/opentype/public/hiragino
$ cd /usr/local/texlive/texmf-local/fonts/opentype/public/hiragino
$ sudo ln -fs "/Library/Fonts/ヒラギノ明朝 Pro W3.otf" ./HiraMinPro-W3.otf
$ sudo ln -fs "/Library/Fonts/ヒラギノ明朝 Pro W6.otf" ./HiraMinPro-W6.otf
$ sudo ln -fs "/Library/Fonts/ヒラギノ角ゴ Pro W3.otf" ./HiraKakuPro-W3.otf
$ sudo ln -fs "/Library/Fonts/ヒラギノ角ゴ Pro W6.otf" ./HiraKakuPro-W6.otf
$ sudo ln -fs "/Library/Fonts/ヒラギノ角ゴ Std W8.otf" ./HiraKakuStd-W8.otf
$ sudo ln -fs "/Library/Fonts/ヒラギノ丸ゴ Pro W4.otf" ./HiraMaruPro-W4.otf

$ cd /usr/local/texlive/2011/bin/x86_64-linux/
$ sudo ./texhash

このままだと、babel を使うときに "japanese.ldf がないよー" と文句を言われるので、CTAN から japanese.zipを取得して適当なディレクトリに展開した後、

$ platex japanese.ins
$ sudo cp ./japanese.ldf /usr/local/texlive/2011/texmf-dist/tex/generic/babel/
$ sudo texhash
としておく。

おお!変な warning が出なくなったではないか!やはり local に入れないとダメなのかねえ(後記:これは僕の勘違いで、こうやっていても dvipdfmx が "** WARNING ** 1 memory objects still allocated" を出すのは変わらない……けれど、まあやはり local に入れた方がまし、でしょうね )。

貧困者支援パスタ

ちなみに、この貧困者というのは多分に自嘲を込めて使っているわけだけど、懐具合が寂しいときなど、安く健康に、腹一杯食べたい!というときにお薦めのレシピである。

用意するもの(2人分):

  • パスタ(ペンネ) 200g
  • トマト缶 1缶
  • ぶなしめじ、えのき 各1株
  • 玉ねぎ 1/4〜1/2個
  • にんにく 1かけ
  • 鷹の爪 1〜2本
  • 肉類(ベーコン、ツナ缶、コンビーフ、鶏肉など、お好みで)
  • コンソメ(ブイヨン、中華スープの素でも可。鶏ももなどダシの出るもので作る場合はなくても可)
  • 塩、こしょう
  • エキストラヴァージンオリーブオイル
  • ハーブ(後述)
……と、まあ、こんなものかな。

まず材料の下処理。ぶなしめじは下部の菌床の部分を切り取り、ほぐしておく。えのきも菌床の部分を切り取ってから、フォークの先を根本に刺し、菌床のあった方にしごくようにしてほぐし、根本の細い株を除いて(これは後でソースに入れてしまってかまわない)から、長さが半分づつになるように切っておく。

前に何かのときにも書いたけれど、きのこ類を美味しく食べるコツは「洗わないこと」。もし汚れが気になる場所があるようだったら、刷毛、あるいは濡らして固く絞った布巾かペーパータオルなどで除去する。くりかえすけれど、きのこは決して水で洗わないこと

玉ねぎは頭と根を落としてから半分に割ったものを薄く串切りにしておく。にんにくは包丁などで叩き潰してからみじん切りにしておく。鷹の爪はヘタに近いところを切って種子を抜いておく。

次にパスタを茹でる。パスタを茹でるときは、パスタ 100 g あたり 1 リットル位の水を鍋に汲み、重量比率で 1.5 % 程度の食塩を加えて、煮立たせる。ここにペンネを投入し、時々かき混ぜながら規定の茹で時間茹でる。ペンネの場合だと大体10分程度だと思う。

パスタを茹でる間にソースを作る。まず、辛いのがお好みの方は、あらかじめフライパンに多めのオリーブオイルを入れ、鷹の爪を入れて極弱火にかけ、鷹の爪の色が黒っぽくなってきたところで引き上げる。もっと辛くしたい方は、鋏で細く輪切りにした鷹の爪を使って、オイルに入ったままの状態で以下の工程を行えばよろしい。鷹の爪が黒っぽくなったときに、オイルに赤く色が付いていれば OK である。これも補足しておくけれど、唐辛子の辛味成分は油に溶け易いので、必ずこのようにして辛味成分をオイルに抽出すること。後からたくさん入れても全体の辛味はつかない。

そこまで辛くないのがお好みの方は、鷹の爪とにんにくを冷たいフライパンに入れ、上から多めのオリーブオイルを垂らし、弱火にかけて香りを出す。先の工程を経由された方は、オイルが若干冷めたところでこの工程をやっていただければよろしい。この際に、にんにくと共にハーブを使うとぐっと味に深みが出るのだが、ベーコンやコンビーフを使う場合はローズマリー、ツナ缶や鶏肉を使う場合はタイムをメインに使われるといい。ドライで粉砕されていないものを買うか作る(特にローズマリーは鉢植えで簡単に栽培できるのでお薦めである)かして、鷹の爪やにんにくと一緒にオイルに香りを移すわけだ。

オイルに香りが移ったところで、玉ねぎを投入し、全体に油がまわるまでかきまぜる。ちょっとしんなりしたところで、肉類を投入し、さっと火を通したところで、きのこ類を投入する。きのこを炒めるときは必ず強火で炒めること。軽く塩を振って炒め、表面に水気が出てきたところで、トマト缶と、空になったトマト缶の中を水ですすいで、その水(缶に 1/4 位?)も一緒に鍋に投入する。水気が足りないと思ったら、パスタの茹で汁で調整する。そこにコンソメ(僕は化学調味料無添加のコンソメか、同じく化学調味料無添加の中華がらスープを使うことが多い)を適量加える。ここで味見をして、こころもち控え目に塩味を決め、こしょうを振ってから、ソースのとろみが出るまで中火で煮詰める。

そうこうしているうちにパスタが茹で上がるので、ザル等で湯から取り出してソースの中に投入し、鍋を煽ってソースを絡める。この際に水気が少ないようだったら、やはりパスタの茹で汁で調整すること。ソースを絡めながら3分程加熱し、ソースを十分にパスタに行き渡らせる。

これで出来上がり。仕上げにバジルやミントを刻んだものをかけて全体になじませ、粉チーズをかけていただく。

……というわけで、簡単でしょう?コンビーフ(最近は馬肉入りのは『ニューコンミート』というそうだけど)を使うと、肉の繊維が解れたのがペンネに絡んで、いい感じになる。勿論ツナ缶で作っても美味しくいただけると思う。

あきれて言葉が出ない

「線量計つけず作業、日本人の誇り」 海江田氏が称賛

海江田万里経済産業相は23日のテレビ東京の番組で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の作業に関連し、「現場の人たちは線量計をつけて入ると(線量が)上がって法律では働けなくなるから、線量計を置いて入った人がたくさんいる」と明らかにした。「頑張ってくれた現場の人は尊いし、日本人が誇っていい」と称賛する美談として述べた。

番組終了後、記者団に対し、線量計なしで作業した日時は確かでないとしたうえで、「勇気のある人たちという話として聞いた。今はそんなことやっていない。決して勧められることではない」と語った。

労働安全衛生法では、原発で働く作業員らの健康管理に関連し、緊急作業時に作業員は被曝(ひばく)線量の測定装置を身につけて線量を計るよう義務づけられている。作業員らが被曝線量の測定装置をつけずに作業をしていたのなら、法違反にあたる。厚生労働省は、多くの作業員に線量計を持たせずに作業をさせたとして5月30日付で東電に対し、労働安全衛生法違反だとして是正勧告している。

(2011年7月24日0時15分, asani.com)

線量計を外して作業に行くのが勇気?ほー。じゃあ、あんたらはその勇気とやらのおかげでのうのうとしていられるんか?え?線量計を外して作業に行く人達の心境が、全然理解できていないだろう?え?

線量計をなぜ外して作業に赴くのか。それは、いくら線量計がピーピー鳴って、積算線量的にもうこれ以上作業が許されない状況になっても、自分達がやらなきゃ誰も代わりにやれないから、なんですよ。そして、線量上限を超えても、今すぐに何かどうこうなるというわけじゃないから、まあ仕方ないか、という「感覚の鈍麻」が起こっているからなんですよ。何故そのような「感覚の鈍麻」が起きるのか。それは過重労働の場に置かれるからだし、そこで何がどうあっても「これ以上被曝させるわけにはいかないんだ」と頑張る管理者がいない、つまり、まっとうな線量管理がなされていないからなんですよ。なぜまっとうな線量管理がなされないのか。それは、監督官庁やその上の為政者がちゃんとしていないから、でしょう?他にどんな理由があるんですか?

こういう発言を平気でするような人間は、国政に携わる資格などない。菅共々、さっさと消えてくれ。いっそ死んでくれたっていい。さっさと消えてくれ。

北川氏の patch を試す

先回の blog で書いた TeX Live 2011 であるが、一部を除いては問題なく使えている。以前に書いた『誰も教えてくれない聖書の読み方』新共同訳ガイド をタイプセットしようとすると、jsbook.cls を使った場合に、整形内容が紙の外に大きくはみ出してしまうのが、目下の悩みのたねである。まあこれは何となく理由は分かる……12 pt で整形しているので、TeX と dvipdfmx の内部処理的には、一度大きな整形結果を作成し、その後に紙の大きさに合わせて縮小をかけて配置しているはずである。おそらくそのプロセスで何かしら問題が発生しているのだろう。

日本語化 TeX の進化は未だ進んでいる。奥村氏の「TeX フォーラム」でも、日々あれやこれや情報が飛び交っているのだが、e-pTeX でおなじみの北川氏が、TeX Live 2011 に向けた日本語化 patch を公開している。現在 make 中なのだが、特に問題も発生せず、うまくいっている模様だ。

で、早速使ってみたのだが……うーん。何か足りない模様。時間のあるときに原因究明を行うことにして、今は TeX Live 2011 を普通に使うことにしておく。

TeX Live 2011 に移行する

まあ昔から、文書をタイプセットするのに LaTeX を使っているわけだけど、この何か月か、僕はふたつの TeX 処理系を併用していた。ひとつは Mac OS X 上で動作する TeX Live 2010、そしてもうひとつは Linux 上で動作する TeX Live 2009 + pTeXLive である。

2010 以降の TeX Live は pTeX / pLaTeX を内包しているので、実は pTeXLive はその使命を半ば終えたと言っていい。この1年程の間にも、ptetex3 から pTeXLive に移行していたものを、更に新しい処理系に移行するのは少々面倒で、あまりちゃんとしていなかったのであった。しかし、Mac 上でヒラギノを使って PDF を作成すると、これの品位の高さには少々驚かされた。いつも使っていた小塚フォントも決して悪くはないのだが、特に教育目的で使用する文書などは、少々癖のある小塚よりもヒラギノの方がスムースでいいのかもしれない。というわけで、処理系を含めて、フォントの問題をちゃんとしよう、と重い腰を上げたのだった。

実は、最新版の TeX Live の tree は、subversion で常に更新された状態で手元に置いてあった。先頃、ついに正式に TeX Live 2011 が出てきたので、これを機会にそちらに完全移行することにした。

TeX Live で日本語を扱う上で問題になるのは、フォントの問題と、旧字の処理の問題だ。特に後者は、pTeXLive では標準装備であったOpen Type Font用VF(いわゆる OTF パッケージ)を自力で入れなければならないのだが、(当然)TeX Live 2011 付属の ovp2ovf は ver. 2.1 であり、makeotf による VF 作成作業がうまくいかないのである。これを解決するのが面倒なので、今迄手をつけずにいたわけだ。

で、今回は少し考えを変えて、ad hoc にやってみることにしたわけだ。以下手順を示す。

まず、TeX Live 2011 の tree 入手法に関しては、他をあたっていただきたい(単純に書くのが面倒なので……以前に一度 tree を消したときのことが、拙 blog のどこかに書いてあるかもしれない)。TeX Live 2009 + pTeXLive と TeX Live 2011 がインストールされていることを前提に、話を進める。

何をしようとしているのか、既に皆さんお分かりだろうと思うけれど、要するに pTeXLive の OTF をそのまま TeX Live 2011 に移植してしまおう、というわけである。まず、pTeXLive の OTF パッケージの在処だが:

/usr/local/texlive/p2009/texmf/packages/otfcurrent
このディレクトリである。これを tar して、
/usr/local/texlive/2011/texmf-dist/tex/platex/
に展開する。あとは、
$ cd /usr/local/texlive/2011/texmf-dist/fonts/tfm
$ ln -fs ../../tex/platex/otfcurrent/tfm ./otfcurrent
$ cd ../vf
$ ln -fs ../../tex/platex/otfcurrent/vf ./otfcurrent
$ cd ../ofm
$ ln -fs ../../tex/platex/otfcurrent/ofm ./otfcurrent
……と、これで ad hoc なフォント設定は完了したわけだ。かなりアヤしいけれど。

次にフォントマップを設定しておく。僕は印刷用に dvipdfmx で小塚明朝を埋め込んだ PDF を作成・使用することが多いので、こんなマップファイルを作って、

/usr/local/texlive/2011/texmf/fonts/map/dvipdfmx
内に aozora.map などという名前で置いておく。この名前は、このマップを作成したのがもともと青空文庫の PDF 化のためだったからなのだけど、まあ他の名前でもいいだろうし、場合によっては、同じディレクトリ内にある cip-x.map を書き換えてもいいだろう。ただし、このファイルを直接書き直すと、tlmgr で TeX Live のアップデートをかける度にこのファイルが元に戻ってしまうことになるので、別名で作成されることをお薦めしておく。

次に、

$ cd /usr/local/texlive/2011/texmf-dist/fonts/opentype/public
$ mkdir kozuka
$ chmod 2755 ./kozuka
$ cd kozuka
$ ln -fs /opt/Adobe/Reader9/Resource/CIDFont/*.otf ./
のようにして、小塚フォントを TeX Live のシステムが参照できるようにしておく。最後に、
$ /usr/local/texlive/2011/bin/x86_64-linux/texhash
を実行しておく。

platex 使用時には、普通のままで特に何も問題はない。dvipdfmx 使用時には、

$ dvipdfmx -f aozora.map foo.dvi
のように、明示的にフォントマップを指定してやる必要がある(勿論、cid-x.map をじかに書き換えた場合はこれは不要だろうと思うが)。
thomas@shannon:~/documents/test$ dvipdfmx -f aozora.map foo.dvi
foo.dvi -> foo.pdf
[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19]
738735 bytes written

** WARNING ** 1 memory objects still allocated

thomas@shannon:~/documents/test$
……ちょーっと引っかかる(これ何なんだろう? EPS 貼り込みのときに dvipdfmx の version によってこういうメッセージが出るバグが……云々、という話は聞いたことがあるのだけど)が、PDF は何も問題なく正常に作成される。OTF パッケージを使用してコードで指定した旧字等も、問題なく表示される。

……と、ここまで Linux 上で確認したところで、Mac OS X 上でも同様のことをする。ただし、小塚フォントの代わりにヒラギノフォントを用いるわけで、フォントマップもそれに合わせて作り直しているのだが、基本的には、上の手続きと何も代わるところはない。そして、問題なくヒラギノを埋め込んだ PDF が作成できたのだった。勿論、OTF パッケージの使用も、縦書きも、問題なくできる。

かくして、Linux、Mac OS X 共、基本的な TeX / LaTeX での環境は TeX Live 2011 ベースになった(一応バックアップに TeX Live 2009 + pTeXLive は残してあるけれど)。これで今後は書きものをしていくことになるだろう。

いわしの梅煮

昨日、手頃な大きさの鰯が安かったのでまとめ買いして、いわしの梅煮を炊いているところである。

梅煮のレシピを読んで最初に作ったのは、確か「辻留」の辻嘉一氏の随筆だったと記憶している。鍋の底に竹の皮を敷いて炊くそのレシピは、今でも辻氏の本を御一読いただければ再現できると思うけれど、ここ最近僕が採用しているのは、『上沼恵美子のおしゃべりクッキング』で濱本良司氏が紹介したこのレシピである。関西の料理らしい、丁寧なレシピである。単純に、ここに書いてある通りに作ればいいわけだが、いくつかコツがあるので、それを書いておくことにする。

まず、いわしの下処理だが、いわしは身が傷付きやすく、味も抜け易いので、真水に触れさせてはならない。このレシピでは塩水で洗うように書かれているが、海水と同じ位(重量濃度で 3 % 程度)の塩水をボウルに作って、その中で洗う。市販のいわしで、よく頭が落とされて内臓が抜かれた状態のものがあるのだけど、これを使う場合でも掃除は必要である。腹に鱗があるので、これをそうっと包丁などで除去して、腹を肛門のところまで切り開く。腹腔には黒い腹膜が被っているのだが、これがいわしの臭みの源になるので、内臓(頭ごと除去されていても、肛門に腸の一部が残っていたり、卵巣や精巣が残っていたりすることが多い)共々、ボウルの塩水の中で、親指の腹の指紋を使ってやさしく擦り取る。このレシピでは酢水で下茹でするので、水気を拭き取らずにそのまま鍋に並べてもらって構わない。

そして酢水で下茹でをするわけだが、僕はここでは純米の米酢を使っている。いわゆる合成酢の類でも、その後味を付け直すので問題がない、と言われそうだけど、調味料には少し贅沢をした方が、こういう料理は美味しくなる。醤油共々、あまりケチらないようにした方がよろしい。

酢水を切った後、酒と水を等量入れた中に調味料を加えていくわけだが、僕はここでは料理用清酒を使っている。いわゆる料理酒は、酒税法対象になるのを回避するために塩が添加されている上に、基になっている酒の質が著しく悪いので、手元にちゃんとした日本酒のない方は、たとえば宝酒造の「料理のための清酒」などを購入されることをお薦めする。できれば(淡麗辛口ではない)純米酒を使われると申し分ない……たとえば「美少年」とか。醤油も、脱脂大豆やアルコールを使用していないものがお薦めである。何か僕が贅沢でこういうことを書いていると思われそうだが、こういう料理だからこそ、調味料に少し贅沢をすると差が大きい。貧乏人(僕もこの範疇だ)はむしろ調味料でケチるべきではないのだ。

そして、おそらく一番問題になるもの……それが、梅干しである。これに関して書きたくて、今日こうやって blog にわざわざこんなことを書いているのである。実は、スーパーで普通に売っている梅干しでいわしの梅煮を作ると、おそらくかなり高い確率で、美味しくない梅煮が出来上がってしまうのだ。残念ながら、それが今の日本の現実なのである。

どういうことか、というのは、スーパーで売っている普通の梅干しのパッケージを引っくり返して、原材料をチェックしてもらえばすぐに分かる。たとえば、今ちょっとググって出てきた、ある梅干しの原材料のところを見てみると、こんな風に書かれている:

原材料: 梅、漬け原材料〔食塩、還元水飴、砂糖、発酵調味料〕、調味料(アミノ酸等)、酸味料、ユッカ抽出物、 ビタミンB1 (原材料の一部に大豆を含む)
……残念ながら、これが今の日本の梅干しの現実なのだ。先日、某量販店に行ったときに、試しにそこで売られている梅干しの原材料を全てチェックしたが、この手の添加物を使用していない梅干しは、残念ながらひとつも存在しなかった。

梅干しを作るときは、まず熟した梅の実を食塩で漬け込む。浸透圧で、梅の水分とクエン酸等が外に出てくる。これを白梅酢と言うのだが、これが十分上がってきたところで梅を取り出して天日干しする。白梅酢に塩で揉んで色を引き出した赤紫蘇を漬け込んで赤梅酢を作り、この赤梅酢に再び梅を戻す。これを1か月程寝かせてから、梅を天日で3日間干す……いわゆる「土用干し」というやつだ。土用干しが終わったところで、赤梅酢の中に再び漬けて熟成をかけ、ようやく梅干しが出来上がる。

このような作り方をした梅干しは、20 % 以上の塩分を含んでおり、梅酢に起因する酸味や香りも強い。昨今の減塩ブームや、この強い酸味や香りを敬遠する向きがあるので、梅干しの生産者は、せっかく作った梅干しを流水に何日か晒して、塩と酸味を抜く。その梅に、先の調味料を沁み込ませたものが、スーパーなどで売られている梅干しの正体である。

いわゆる JAS(日本農林規格)法では、このように塩抜きをした後調味料を沁み込ませたものを「調味梅干」、昔ながらの梅干しを「梅干」と表示することが義務付けられている。和歌山名産の南高梅などの、大粒のものを店頭でよく見かけるけれど、そういう(世間では「高級」だと思われているであろう)ものも、ほとんどがこのような「調味梅干」である。おそらく皆さん、甘酸っぱくて美味しい、などとよく買われているのかもしれないが、いわしの梅煮のように、梅の酸味と香りを調味料として使う場合、この「調味梅干」では十分な味や香りが出ない。それらは塩分と共に、梅干しの外に流れ出てしまっているのだ。いわしのような、味も匂いもキツい魚に、こういう梅干しでは太刀打ちできない。

僕は茨城・水戸で生まれ育ったわけだが、水戸は偕楽園の梅で作った梅干しが比較的容易に入手できたこともあって、調味梅干というものには十二、三歳位までお目にかかることがなかった。しかし、他所で何かのときに梅干しを食べることがあって、口に入れた途端に「こりゃ駄目だ」と吐き出したのを覚えている。明らかにグルタミン酸や甘味が足されたそれは、どう考えても僕にとっては「梅干し」とは違う食べ物だったのだ。

しかし、現時点において、JAS 法で言うところの「梅干」はもはや絶滅の危機にあると言ってもいい状態だ。大阪に住んでいた頃、某百貨店で「梅干」を探していて見つからず、店員に、

「なるだけ塩分濃度の高いものはありませんか」

と聞いたときの、あのまるで異形のものにでも遭ったかのような表情は、未だに忘れることができない。

名古屋の金持ち連中の間で有名な割烹に、ちょっと用事があって飯を食べに行ったことがあるのだけど、そのとき、店主に講釈を垂れている客に出喰わしたことがある。その人物は、店主の出した鱧の湯引きに添えられた梅肉が気に入らなかったらしく、

「いいか、お前はまだ若いから知らないかもしれないけど、梅肉ってのはもっとこう味があって、まろやかじゃなきゃいけないんだよ」

などと説教めいたことを言っていて、僕は、あーなるほどな、と思ったのだった。その客が帰ってから、店主に、

「この店で梅肉に使ってる梅干しはどんなものですか?」

「え?……はいはい、これはですね、うちの母ちゃんが漬けた梅を使ってるんですよ」

あー、やっぱり。グルメぶってこの店で飯を食っている客も、もはや本当の梅干しの味を知らないということか、と、暗澹たる気持ちになったのだった。まあでも、それが日本の食文化というものの現実である。

……さて。いわしの梅煮の話に戻ろう。ネットで探してもらうと、梅干しの直販をやっている農園などで、昔ながらの漬け方をしている「梅干」を見つけることは、まだ不可能ではない。目立たなくなってはいるけれど、原材料に「梅、食塩、赤紫蘇」位しか使っていない梅干しがきっとある筈だ。このような「梅干」を使っていただければ、梅煮はきっと美味しく作れると思う。

勿論僕も、そういう梅を探してストックしてある。普段こういう「梅干」を食べるのはちょっと……という方も、こういう「梅干」は本来の梅干しとしての長期保存が可能で、乾燥や高温多湿さえ避けてもらえれば、使う頻度が少なくても問題なく保存できるので、もし梅煮を作られるのであれば、事前に確保していただければ、きっと満足していただけると思う。逆に言うと、いわしの梅煮を美味しく作るのに気をつけるのは、これ位のことで十分なのだ……ああ、勿論いわしは鮮度の良いものがいいと思うけれど、それはスーパーとかで買われても、あまり問題ないと思うので。

人工甘味料に見る日本の食の貧困

以前にも書いたことがあるかもしれないが、僕は人工甘味料が嫌いである。特に、最近使われていることの多い、アセスルファムカリウムスクラロースの組み合わせが、何よりも嫌いである。甘味は一見控えめであるように見えて、食品が口から姿を消しても延々と続く。それは後味というものを、そして食後の口内の感覚を根底から破壊してしまう。僕にとっては許されざる大敵なのである。

最初のうちは、清涼飲料水等に入っている程度だった、と思う。しかし、この二つの甘味料は、どんどんその適用範囲を拡大していった。そして現在、その適用範囲には、そんなものまで?と思うようなものまで含まれている……まず、飴である。のど飴等の多くには、この甘味料が使われている。そしてアイス。果実系のジュースも例外ではない。バヤリースのジュース等にまで入っているのだ。

そして現在、この甘味料は、それが使われると我々が想像し得ないものにまで使われている。たとえば、先日発売されたウイルキンソンのジンジャーエールにも入っている。カルピス系のほとんどの商品にも入っている。現在市販されているほとんど全てのマッコリにも、この甘味料が使われている。先日 U が買ってきたノンオイルタイプのドレッシングにも入っていたし、某大手量販店で売られている梅干しの多くにも入っている。そして今日、ついにもずく酢にまで使われているのを発見してしまったのだ(後記:昨日買い物のときに改めて見てみたけれど、実は現在売られているもずく酢の中の結構な割合の商品が、この甘味料に手を出してしまっているようだ……)。もう、なんでもあり、の世界である。

では、何故、ここまで広範囲にこの甘味料が用いられるのか。おそらくその理由は、砂糖をケチるためである……え?と思われるかもしれないが、アセスルファムカリウムとスクラロースの組み合わせは、砂糖の数百倍の甘さを得ることができる。つまり、少量で強い甘味をつけることができるので、甘味料としてみた場合、砂糖を使うのよりもコストを低く抑えられるのである。しかも、「カロリーオフ」という宣伝文句をつけることもできる。

しかし、僕が一番恐怖を感じているのは、こういう状況が無批判に社会で受け入れられていることである。僕にとって、あれ程不自然に感じられるものを、どうして皆何とも思わずに飲み食いしていられるのか。舌が腐ってるんじゃないの?とか、頭にスでも入っているんじゃないの?と言いたい気分だけど、こういうことでどうのこうの言う僕は、おそらく現代社会で極めて少数派に属しているに違いない。

健康に配慮しているようでいて、実はコストカットの為に乱用されている甘味料に対して、これ程までに、羊のように唯唯諾諾と受け入れている日本の社会を思うに、これ程までにこの国の食が貧しくなってしまったのか、と、ただただ悲しい。こんな現状なのに、テレビをつけるとグルメ企画ばかり垂れ流されているのだから、もうお寒い限りである。こんな状況が続いてしまったら、日本人は正常な甘味の感覚を失ってしまう……いや、もう既に失ってしまっているのかもしれない。懐だけでなく、舌も頭も貧しいなんて、どうしてこの国はこうなってしまったんだろうか。

まあいかにもお役所的な発想だけど

最近、僕の知人連中の間で、こんなものが話題になっている:

『平成23年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(不正確情報対応)』一般競争入札に関して

……これが何かというのは、仕様書を御一読いただければお分かりかと思うのだけど、事業目的が:

ツイッター、ブログなどインターネット上に掲載される原子力等に関する不正確な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害を防止する。
とあり、具体的な事業内容は以下の通りである。
  1. ツイッター、ブログなどインターネット上の原子力や放射線等に関する情報を常時モニタリングし、風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報を調査・分析すること。モニタリングの対象とする情報媒体及びモニタリングの方法については、具体的な提案をすること。
  2. 上記 1. のモニタリングの結果、風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報及び当庁から指示する情報に対して、速やかに正確な情報を伝えるためにQ&A集作成し、資源エネルギー庁ホームページやツイッター等に掲載し、当庁に報告する。
  3. Q&A集の作成に際して、必要に応じて、原子力関係の専門家や技術者等の専門的知見を有する者(有識者)からアドバイス等を受けること。また、原子力関係の専門家や有識者からアドバイス等を受ける場合には、それらの者について具体的な提案をすること。
  4. 事業開始から1ヶ月程度で30問以上、事業終了時までには100問以上のQ&A集を作成すること

「これは情報統制である!」とか、脊椎反射のような感じで言われそうだけど、ちょっと待っていただきたい。上の事業内容の骨子は、

  • インターネット上の原子力や放射線等に関する情報を常時モニタリング
  • 誤解を招くおそれのある情報に対し、正確な内容を伝えるための Q&A 集を作成・公開
の二つなわけだけど、これだけでは情報統制とは言い難い。「誤解を招くおそれのある情報」源への干渉がなされた段階ではじめて「情報統制」だと言えるわけで、この段階では、円滑な広報活動を支援するシステムの構築・運用、という域を逸脱するところにまで至ってはいない。

たしかに、Q&A 集の作成で「対抗」する対象として「風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報及び当庁から指示する情報」と書かれているところには、いささかうさん臭い匂いを感じないでもない。また、このシステムによって得た情報によって、得た側がどのように行動するのか、という問題……つまり運用のポリシーの逸脱という問題は考慮されなければならないだろう。

しかし、だ。そもそも「公開する」というのはどういうことなのか、皆さん、よーく考えていただきたい。公開する、ということは、その内容を衆目に晒すことである。そして、ひろく衆目に晒す以上は、それを誰に見せるか、ということに関して、その相手の選択をある程度放棄しているはずなのだ。

もちろん、HTTP というプロトコルや、コンピュータネットワークにおけるポートの仕組みを用いたフィルタリングを行うことは技術的には可能で、たとえば、不穏な内容を書いたのを ".go.jp" ドメインから見ることができないようにする、などということは、そう難しいことではない。しかし、それは同時に、.go.jp ドメイン内の誰かが、その晒している情報に触れるチャンスを失う、ということでもある。公開する以上は、それに付随するリスクを負うのは、これは当然のことなのである。これに関しては、もはや古典になっていると思うけれど、拙コンテンツ『WWW ページでの個人情報公開について考える』中、『見せるということ、見せないということ』に書いてあるので、これ以上ここに書く必要もあるまい。

たとえば、反原発の情報を記述・公開していたものが、プロバイダ等に圧力がかかって、アクセスできないようにされてしまった、とする。そうしたら、表現の自由に対する抵触であることを以て社会にその行為の不当性を訴えるか、日本の公的権力の及ばない海外のサーバで公開するか、いっそ WWW に拘らずに他のメディアで訴えるか……手は、いくらでもある。自分が世間に晒しているものが、自分の望まないような受け入れられ方をしているのならば、その不当性は自ら主張し、社会に認知してもらうしか術はないのである。そこを他者が保証してくれるべきだ、と、いかに手前勝手なことを言っても、たとえば前述した(国際法や憲法21条における)表現の自由の保障のようなものの域を越えては、何者も保障してはくれない。そして、社会においては、その公開し、主張するところの情報の正当性や文責のようなものを果たしているかが、当然問われるだろう。

たとえば「みなさんの子どもが、原発地域で育った女の子と結婚したいと言ったらどうしますか? / 年頃の女の子は、奇形児を産む可能性が高いから結婚できないのです。」とか「「放射線によって傷ついた遺伝子は、 / 子孫に伝えられていきます」と、柳澤桂子さん。」とかいうことを軽々に書く、ということが最近散発しているけれど、前者を書いた『ゆいわ の きほくのわ』関係者や、後者を見出しとして掲げた『クロワッサン』が、自らの主張の内実に関して、何がどのように問題があるのか、ということを、きっちり総括しているだろうか。むしろ「反原発のためなら何を言っても許される」という、実に尊大な驕りがそこに感じられてならない。そして、これらの言葉に傷つけられる人達に、おざなりの謝罪告知など何の救いにもならないのである。

こういう問題の一番根本にあるものは一体何なのだろうか。僕はこう思うのだ……人はしばしば、身辺の何人かの他人が自分に賛意を表明していることを以て、「自らが正しい」と安易に誤解する。そして人は、自らの言論や主張というものが、自らの望むように受容されるべきものだ、という驕りを捨て切れない。かくして、この二つの「未成熟な社会性」に依り縋って生きる自分達の正当性を確認するために、身辺の知人との相互確認に励むのである。

そして、その想定範囲外から思いもしないことを指摘されると、まるで頭の上に人工衛星でも落ちてきたように、その特殊性と理不尽さ(実のところ、それは特殊でも理不尽でもないことがほとんどなのだけど)を声高に主張するのである。僕達は、何事かを主張して社会の中に存在し続けようと思うならば、このような「未成熟」というエゴを振り回すことからは、もう卒業しなければならないと思うのだが、夏目漱石以来、この国の民衆のなかにそういう成熟がみられたことは、残念ながら一度もないのかもしれない。

先の資源エネルギー庁の入札がかかっているシステムは、正直言って税金の無駄遣いだと思うし、現政権が、このようなシステムのアウトプットに対してどのような干渉を行うか、ということに対しては、我々は常に警戒を怠らないようにしなければならないとも思う。しかし、このようなシステムの構築が即、言論弾圧の行為なのか、という話に関しては、僕は NO と言わざるを得ないのである。

Thomas はこんな風に晩飯を作っている

ごそごそと買い物に出かけ、人参、じゃがいも、玉葱、鶏手羽元、野菜ジュースを購入し、帰宅。

まず、生のローズマリーたっぷり、にんにく1かけすりおろし、しょうが2かけすりおろし(しょうがは皮を剥かずにすりおろすのがポイント)、タイムをガラスボウルにとり、エキストラヴァージンオリーブオイルをたっぷり注いでから、鶏手羽元を入れて手で揉み込み、常温でマリネしておく。この間に、人参、じゃがいも(皮を剥かずに使うのがポイント……こうすると胸焼けしない)、玉葱(たっぷり2個使う……ひとつは繊維に沿って細切り、もうひとつは具になる程度の大きさに切る)を洗い、切り分けておく。あと、冷蔵庫にあったぶなしめじを一株、菌床のおがくずを除去してから手でばらしておく(絶対に洗わないこと……これは茸を使うときの基本である)。

深鍋にエキストラヴァージンオリーブオイルを多めに入れて火にかけ、マリネしていた手羽元のボウルの中身を全て投入して炒める。にんにくが焦げ易いので、底を木べらでこそぐようにしながら炒めるといい。手羽元の全面が白くなったらたまねぎを入れ、全体に油がまわったら他の野菜も入れ、ざっくり混ぜる。全体に油がまわったら、ホールトマト1缶をつぶしながら入れ、野菜ジュースを具がひたひたになる位まで、酒(僕は料理用の日本酒……料理酒ではないので念の為……を使ったが、白ワインがあればそれを使うのが順当だろう)を 100 cc 程度投入する。一煮立ちしたところで、ローリエ(葉は2つに折って入れるとよい)とブイヨン(僕はマギーの化学調味料無添加のものを使っているが、中華の鶏ガラスープなどでもいいだろう……できれば化学調味料の入っていないものをお薦めしておく)を入れておく。

今日は暑いし、しっかりした味にしたいので、ホールのカルダモンを数個、皮を剥いて、中の黒い種子を乳鉢であたって粉にしてから、鍋に投入する。同じように、クミンシードも小さじ1〜1.5程度を乳鉢であたって粉にしてから、鍋に投入する。

じゃがいもが透き通ってきたら、カレー粉、塩で味を整える。少しクッとくる感じにするのには、醤油やソースを好みで加えるといい(ソースはデーツや甘草が入っているので、こういう目的に向いているのだ)。好みの感じまで煮込んだら、火を止め、ガラムマサラを入れてひと混ぜすれば完成である。

このカレーのポイントは、水を使わないことと、カルダモンをがっつり効かせることである。カルダモンは、効かせるのと効かせないのとで差が実に大きい。この味を覚えておくと、カレー屋に入ったときに、そこがスパイスをケチっているかどうかがよく分かる(カルダモンは結構高いので、手抜きするときにはおそらく真っ先にケチられる)。そういう意味でも、是非一度お試しを。

太陽光利権

僕は一応、お国のお金をいただいて、世間で言われている代替エネルギーに関わる研究に従事してきた。最初の職場だった某研究所での時期を加えると、結構な年数、代替エネルギーに関わってきたことになる。

その立場として言わせていただくけれど、この日本という国は、代替エネルギーに関して何もしてこなかった、ということでは断じてない。それどころか、この国で研究・提案されてきた新エネルギーのビジョンというものは、少なくとも、最近雨後の筍のように出てきた「自然エネルギー万歳」みたいな人々のような非現実的なものでは決してない。彼等のうちの誰一人として具体的なビジョンを示さない、エネルギーの貯蔵という問題に関しても、たとえば水素エネルギーとかフライホイールとか、そういう次世代メディアに関しての研究開発を行ってきたのである。ぽっと出の素人に、彼等の知らないものがこの世に存在しないものであるかのように言われることは、専門家の端くれとして耐え難い。

だいたい、最近は皆さん「太陽光発電」と「スマートグリッド」があれば万事解決だ、みたいな、実に安易なことを平気で思ったり口にしたりしているようだけど、本当にそうなのか。そしてそこには利権は存在しないのか。

ここを読まれている方々は、日本やドイツが太陽光発電のトップを行く、と思われているかもしれない。しかし、まず頭に入れておいていただきたいのだが、日本は太陽電池の生産において、到底世界のトップには及ばないのが現状である。少なくとも、世界の企業別生産シェアにおいて、日本の企業はトップ3には入っていない。では国別ではどうか、というと、これはドイツとほぼ並んでいるのだが、日独の生産量を大きく上回っている国がある。それは、中国なのだ。

中国の太陽電池生産は、2009年の値で世界シェアの 30数 %、2010年の予想値でも30 % に達している。ちなみに同年の日本のシェアは中国、ドイツ、そして台湾に次ぐ第4位で、その量は 10 % あるかないか、というところである。日本はコスト面での太刀打ちができずに太陽電池の生産を縮小しており、それとは対照的に、中国は貪欲なエネルギーソースの開発を行っていて、国家的規模で太陽電池の生産量を拡大しているのである。

太陽光発電を積極的に導入して成功していると言われているドイツではあるが、実はその太陽電池の大部分を中国で生産している。ドイツには Q-Cells AG という世界最大の太陽電池製造メーカーがあるのだが、国別で言うともはやドイツですら中国の半分程度の製造量しかない。特に中国の Suntech 、Yingli Solar、そして JA Solar の3社は凄まじい勢いで製造量を増している。Suntech に関しては、去年の生産量が 1572 MW というのだから、凄まじいの一語に尽きる。

実は、このように中国の太陽電池の製造量が拡大した背景には、欧州、特にドイツで2001年に施行された Erneuerbare Energien Gesetz(EEG、再生可能エネルギー法)による自然エネルギー由来の電気の固定買取制度がスタートしたことがある。これによって、この10年程の間に急激に太陽電池の需要が拡大したわけだが、コスト的に国内生産では折り合わず、中国での生産に依存するようになったわけだ。

つまり、日本がこの先、急激に太陽光発電に向けて舵を切った場合も、同じように、日本は太陽電池の供給を中国に依存することになる。まあ、エコに関心がある人は、化合物系や酸化物系の太陽電池があるんだ、と言うかもしれないが、技術革新というのはそう簡単にいくものではない。おそらく、この10年、20年のタイムスパンでは、中国の太陽電池生産の優位性が揺らぐことはないだろう。

もし、政治レベルでこのような舵が切られることになれば、中国が受ける経済的利益は、これはとんでもなく大きい。当然そこには利権があるはずだ。菅直人氏や孫正義氏の周囲にそういうものがあるのかないのか、今後、我々は注意しなければならないだろう。土建屋と田中角栄どころではない話が、実は密かに進んでいるのかもしれないのである。

アルム石について

僕は交感神経・副交感神経のバランス維持がうまくいかないので、この季節には汗が止まらなくて往生するときが多い。そんなわけで、いわゆるデオドラント問題に関してはそれなりに気を遣っている方だと思うのだけど、この何年かは、あるモノのおかげで非常に楽をしている。

それがアルム石と呼ばれるものである。これは何かというと、早い話がミョウバンの天然結晶である。タイ等で産出するものなのだそうだが、タイではこれが昔からデオドラント目的で使われている、という話を、僕はたまたま知っていた。で、日本でこれが商品化されたときに速攻で購入して、今もこれを使い続けている。

使い方は極めて簡単で、シャワーの後等に、水をかけて濡らしたアルム石を、腋の下などにこすりつけるだけである。ミョウバンは収斂作用と殺菌作用があるので、汗腺を引き締めつつ汗による雑菌繁殖を防いでくれる。朝これをしておけば、その日一日は大丈夫である。

日本では、僕が最初に見かけたときからずっと、デオナチュレ(株式会社シービック、現在は株式会社ミロットが販売元となっている)というブランドで販売されている。この会社では派生商品をいくつも出しているのだけど、他に何も細工をしていない、そのものずばりのアルム石……この会社の商品で言うと、「デオナチュレ クリスタルストーン」「デオナチュレ 男クリスタルストーン」がお薦めである。何年も使えるので、決して損な買い物にはならないと思う。

夜盗虫

この一月ばかり、鉢植えのバジルの葉が何者かによって食い荒されていた。虫を探したが、特に目につくこともなかったので、ぶつぶつ言いながらも、それ以上の具体的な措置はしていなかった(バジルの性質上、農薬は使いたくないので)。

で、先日の夜のこと。洗濯をするついでに、大木に成長したトマトが水不足でしおれかかっていたので水をやり、ハーブの様子を見ていたのだけど、そこに U が、カプレーゼを作るのでバジルの葉を収穫してくれ、と言う。窓際のペン立てに刺さっている鋏を出してきて、新芽を切らないように注意しながら葉を切り取っていると、一枚の葉の輪郭が妙に薄黒く、幅をもっているように見える。ん?と思い。角度を変えて見てみると……あああああ、これぁひょっとしたら!大声で U を呼びつけ、葉の裏を確認してもらうと、一目見るなり U は悲鳴をあげた。「なんかいるー!」あー、やはりそうでしたか。

葉の輪郭に沿うようにいたのは、大きな芋虫だった。葉ごと切り落とし、U が持ってきた割り箸で摘んで処理したが……うーん、これは何者なのだろうか?で、調べてみると、どうもヨトウガの幼虫らしい。夜盗虫(ヨトウムシ)と俗に呼ばれるもので、無農薬野菜を使っている人は、おそらく何度かお目にかかったことがあると思う。しかし、バジルまで食害するとは思わなかった……というわけで、とりあえずバジルの近くに防虫効果があるとされるローズマリーの鉢を移動させて、日々経過を見守っている状態である。

権力依存構造

平野新大臣も超ゴーマン!!福島原発に行った有名識者を「逮捕しろ」

恫喝めいた暴言で辞任した松本龍前復興担当相(60)に替わって就任、「堅実な実務家」との評もある平野達男復興相(57)に意外な“裏の顔”があった。内閣府副大臣だった4月、初めて福島第1原発に入り実情を調べた独立総合研究所の青山繁晴氏(58)に対し、権限もないのに圧力をかけたうえ、警察に逮捕までさせようとしたというのだ。

政府の原子力委員会の専門委員も務める青山氏が福島第1原発に入ったのは4月22日。津波で破壊された構内や吉田昌郎所長へのインタビューの映像はテレビや新聞などで世界に報じられ、青山氏は「事故の多くは人災による」と訴えた。

その後、内閣府の官僚から青山氏に対し、「なぜ、こんなことをしたのか」と問いただす電話があった。青山氏が「東電の許可も吉田所長の許可も得ている」と反論すると官僚がわびて収まったが、数日後に同じ官僚から「内閣府の原子力委員会担当の副大臣がお怒りだ」と電話があった。その副大臣が、元農水官僚で今年6月まで内閣府副大臣(その後に復興担当副大臣)を務めた平野氏だった。

そのとき、平野氏は官僚の隣におり、官僚に代わって電話口に出た。青山氏は「何の法的根拠と権限があってこういうことをするのか」と抗議した。専門委員は原子力委員会にアドバイスをする立場であり、「副大臣や委員会に指図を受けるいわれはない」(青山氏)ためだ。

平野氏は「権限はない。ただ副大臣として聞いておきたいから聞いている」と説明。「法的根拠も権限もなく役人を使って圧力をかける。強権的だ」と怒る青山氏に「ご不快ならおわびするが東電には話を聞く」と話し、青山氏が「このやり取りはすべて明らかにする」と言うと「何でもやってくれ」と応じた。

青山氏は「私も怒鳴り声だったが、平野氏は非常に高圧的で、東電への圧力もにおわせ“恫喝官僚”そのものだった」と振り返る。

さらに驚くべき展開があったのはその後だ。青山氏は「平野氏を含む首相官邸側から、警察に『青山を逮捕しろ』と圧力をかけた事実があった」と明かす。

災害対策基本法は警戒区域への立ち入りを制限しているが、青山氏は東電や吉田所長に許可を得ており、同法に抵触することはあり得ず、警察は逮捕を拒否した。「閣僚クラスにも(逮捕に)反対する声があった」と青山氏は言う。

それにしても松本前復興相にせよ平野復興相にせよ、なぜ恫喝や圧力をかけたがるのか。青山氏は「民主党は民主主義の普遍的価値に関心が薄い」と同党の体質の問題を指摘している。

(ZAKZAK, 2011.07.08)

民主党関連のこの手の「恫喝」騒ぎは、別に今に始まったことではない。震災直後には、海江田経産相が放水作業を準備していた東京消防庁職員に対して「言う通りにやらないと処分する」と恫喝した、と石原慎太郎都知事が明かし、海江田経産相が陳謝の意を発表したし、菅首相が東電等に怒鳴り散らしたというのは何度も報道されている。

「無理が通れば道理引っ込む」という諺の通り、こういうときに無理を通そうとしたら、道理を無視してかかることになる。道理が通っていなければ、当然納得し難いという話になる。そういうときに、擦り合わせようとか、相手の言わんとするところも貪欲に取り込んでベストな道を模索しようとかいう心がなければ、「俺の言う通りにしていればいいんだ」という話になって「黙ってやれ!」もしくは「こんなことはするな!」という恫喝に至る。まあ、こんなことは小学生でも理解できそうだ。

このようなことになってしまう背景には、やはり「政治主導」という言葉があるのだと思う。いや、勿論、「ちゃんとした」政治主導、なら問題はないのだ。問題が生じるのは、「政治主導」という言葉が「為政者に絶対的専決権能がある」という意味だ、と、愚かにも誤解しているからである。

こんなことを今更書くのも苦痛なのだけど、そもそも日本の行政体制というのは、官僚が実働部隊として動くようにできている。これは明治の昔から何も変わっていない。もし官僚の代わりに政治家が実働部隊となるならば、これは国の行政体制を根本から組み替えなければならない。そして、政治家が実働部隊たり得るスペシャリストにならなければならない。

たとえば、菅首相は、自分が東工大の応物を出ているから「自分は原発はよく分かっている」などと思っているそうだけど、これが本当だとしたらとんでもない話だ。核分裂反応に関して学部レベルの講義を取った位で、原子炉や原子力発電システムに関して理解しているなど、こんな思い上がりはない。原子炉はひとつの巨大なシステムで、たとえそれに関わる一分野のスペシャリストであっても、原子炉全体に関して把握している人などまず存在しないだろう。何十年も原子力関連一筋に研究や実務を重ね、その過程で学位を貰ったりしている人達ですらそうなのだ。それが、学卒でその分野の研究経験もろくにないような輩が何を思い上がっているのだろうか。

そもそも、政治家の為すべき仕事は、その管理対象に直接触れることではない。管理対象を中心とする、多くの人が関わるシステムを、そのシステム内のコンシステンスを維持しながら望むべき方向へ導くことこそ、政治というレベルで行われるべき仕事なのだ。「俺は原発に詳しい」?ハァ?って話である。

まあ、そういう思い上がった人の場合、結局自分に理解できないことが進行している気配を感ずると、不安になる。それを内包した全体をある方向に導くことに専念していればいいものを、内奥に不穏な気配を感じたところで、それのチェックや是正を信頼する者に任せることができない。スペシャリストの職能を(勿論これを盲信していてはいけないのだけど)疑い、コキおろすことだけに執着しているものだから、自分がそこに対して何らかの影響を与えなければならない、と焦る。その結果、自らの権限を以てこの話のように圧力をかける、ということになるのである。

これも今更書くことが苦痛なのだけど、こういう輩は、結局管理能力がないのだ。管理職失格なのだ。そういう人間は、小さな会社等でも厄介もの扱いされるのに、国政などに関わっていたら大迷惑である。権力に依存することでしか事を進められない為政者など、いるだけ有害なのである。

柳澤桂子氏に、一言

今日、ひょんなことから見た『クロワッサン 7月10日号』の表紙の一文に、僕は心臓が止まりそうな心地がした。

「放射線によって傷ついた遺伝子は、子孫に伝えられていきます」と、柳澤桂子さん。これからの「いのちと暮らし」を考えます。
いや、ちょっと待って下さいよ、柳澤さん。

http://red.ap.teacup.com/kysei4/627.html などを一読すれば分かるけれど、これは反原発に酔っている「だけ」の人々(誤解なきように書き添えておくけれど、僕自身は原発推進論者ではないので念のため)にしたらうってつけの文句である。そういう人々が、自らを「穢らわしい」放射線の源から遠ざけて「清い心身」を維持する(もちろんその内実は、現実から目を背け、苦しむ人々を差別的な視点から俯瞰しているだけのことである)上で、こんなに便利な引用句はない。しかも、柳澤桂子と言えば、闘病生活の中で生命科学者として数々の文章を発信し続けている人として、世間ではつとに有名である。まるで権威に依り縋らんその様は、都合の良いことを言う地震学者を厚遇してきた原発推進側と、実のところ何も変わらないロジックで動いている。

僕は、生命科学を専門分野としているわけではないけれど、あくまで一般常識の範疇で、この文句の危うさをここに主張しておかずにはいられない。放射線が簡単に DNA を「書き換え」それが親から子に「継承され得る」ものである、というこの言葉には、僕は自然科学に関わる者として断固「それは違う」と言わざるを得ないのだ。

柳澤氏がアメリカに行っていた頃というと、丁度アメリカでは「スペース・オペラ」と呼ばれる SF の小説や映画が流行っていた頃である。「オペラ」と言うと何か凄そうな印象を与えるかもしれないけれど、この言葉はおそらく soap opera という言葉と相似的に使われるようになったものだと思う。つまり、粗製濫造され、玉石混淆の態をなしていた SF の作品群を指して、このように称するわけだ(勿論、玉石混淆という言葉の示す通り、それらの中には素晴しい作品が数多く存在していることを書き添えておかねばならないが)。

この「スペース・オペラ」は、やはり時代をある程度反映していて、放射線や放射性物質によって突然変異を来した、いわゆるミュータントの類がよく登場する。勿論これは、当時の冷戦構造と、そこで行われていた核競争を反映したものであるわけだけど、実際に我々はそのようなミュータントにお目にかかれるものなのだろうか?

たとえば、独立行政法人農業生物資源研究所という研究所がある。もともと農水省傘下にあった研究所なのだけど、この研究所は茨城県内に「放射線育種場」という施設を持っている。ここは、その名の通り、放射線による突然変異を利用して新しい品種の植物を作ることを試みている。茨城県・常陸太田には、60Co を線源として、その周囲を囲むように畑がある、いわゆるガンマフィールドがあって、ここで有用品種の開発が行われている(ちなみにここも、東日本大震災以降、稼動中止している。)

突然変異というものが容易く継承・定着するならば、このガンマフィールドで活発に様々な新品種が開発されるはずだろう。しかし、実際には、このガンマフィールドで開発された新品種は数十品種程度なのだ、という。ここでは植物それ自身、もしくはその種子に対してガンマ線照射を行っているわけだけど、照射した植物は多くの場合何も影響を受けないか、枯死するかする。変異が継承されることは極めて少ないのである。

では、動物の場合はどうなのか。チェルノブイリでも、事故の後数年位の間、牛などに奇形が報告されているけれど、そのような奇形が継承される、という事例は、僕の知る限りは存在しない。その理由は簡単で、奇形で生まれてきた生命は極めて生存能力に乏しく、その多くが生まれて程なくして死んでしまうからだ。

そもそも、生殖細胞というものは、全ての細胞種の中でも最も放射線に対する感受性が強いもののひとつだが、変異が安定に継承されることはまずない。先にも書いたけれど、変異種は弱いから、自ずと死んでしまうのである。これは自然が遺伝子のコピーミスを継承させないための、ひとつの巧妙なメカニズムであるとも言える。

ネクローシスとかアポトーシスとかいう言葉を挙げるまでもなく、自死というのは、生命において重要な仕組みである。それがコピーミスを防ぐ、その強力な機構に関して、生命科学者である柳澤氏が知らない筈はない、と思うのだけど、どうしてこういう軽々な言葉を雑誌に掲載されてしまうのか。僕はただただ理解に苦しむ。氏のサイトのコンテンツを眺めると、エッセイこんなことが書いてある:

前回の原稿で、「白血病で亡くなった子供」と書きましたら、
杉浦さんとおっしゃる主婦の方から、この中には大人も入っているのではないかとご指摘をいただきました。
確かにアリソンの原著には、大人も子供も区別していないので、
子供とはかぎりません。訂正させていただきます。
アリソンの論文には、これは広島、長崎のデータだと書いてあるのですが、
原爆が落ちたあの混乱のなか、どうやってこのようなデータをとれたのかと不思議に思っていました。

これは、広島、長崎の原爆投下後の生存者にアンケートを取ったり、
直接問診したりして集めたものです。
アメリカは、このようなデータを取ることに初めから積極的でした。
のちには日本と共同で膨大なデータを作りました。
それは人類の貴重な財産です。
けれども私は、何か引っかかるものがあって、
素直に喜べないのです。
あれだけひどい目に遭わされて、
その上データまで取られた!
そういう考え方は心が狭いと思うのですが、
やっぱり悲しいです。
皆さんはどう感じられますか?

広島や長崎でアメリカの ABCC(原爆傷害調査委員会)がどのようにデータを集めていたかは、被爆者の数々の証言、たとえば『はだしのゲン』などを読んでも書いてある、よく知られている話だ。それを知らない人が、人間の被曝に関して、あんなことを軽々に雑誌に書かせては、これはいけないんじゃないでしょうかね?

ちなみにこの件に関しては、『クロワッサン』サイトでお詫びが出ている。しかし、毎度毎度この手の話を見聞きする度に思うのだけど、「何」が「どのように」問題なのか、という検証なしに、真の謝罪などあり得ないと思う。「総括せよ、自己批判せよ」とまで言う気もないのだが、でも、こういうことはちゃんとしないとね。たしか、『クロワッサン』って、1999年10月10日号でも差別的表現を用いたことが問題になったんでしたよね?またか、と、皆思ってますよ。

英語は難しいなあ

先回の blog に書いたので、ふと聴きたくなって、納戸の奥から Phoebe Snow の "Never Letting Go" を出して iTunes / iPod に入れた。余談だが、もともとこの Phoebe Snow という人は、ニューヨークでブルース等の弾き語りをギターでやっていた人で、そのギターが聴ける 1st solo の "Phoebe Snow" の方がお薦めです(僕の持っているのは初期のデモも入っていて非常によろしい)……ただ、僕の大嫌いなロン・カーターがベースを弾いているのがちょっとアレなのだけど。まあそれはさておき、Phoebe Snow の "Never Letting Go" を聴き返していて、ん?と引っかかったのだった。

更に納戸の奥を漁ると、Stephen Bishop の "On and On" というベスト盤があるわけだが、これも今迄入れていなかったのを iTunes に入れ、聴き返す……うーん……なるほど。いや、何に引っかかったのかというと、歌詞の一節に、

I'm crazy about you, but I can't live without you.
というのが出てくるのであるが……日本人がもし同じことを書くならば、
I'm crazy about you, and I can't live without you.
と書いてしまいかねないなあ、と思ったのである。日本の学校の英語の授業でこの but / and が空白になった問題が出たとしたら、but という回答に自信を以て×をつける先生がいそうな気がする。しかし、だ。英語的に考えると、ここではむしろ but を使う方が正解なのである。

何故かというと、単純な理屈で、「単純肯定の文と単純否定の文をつなぐ」ときは but を使うことになっているからだ。日本語の上で考えると、「君に夢中なんだ」→「君なしでは生きていけないんだ」の→は「だから」なわけだけど、"I am crazy about you."→"I cannot live without you."の間の→は "and" ではなく "but" になるわけ。もちろん意味は日本語で「だから」をつないだ場合と何ら変わらない、ということになる。

Never Letting Go ―― あんな引き合いに出してほしくない

松本龍氏の今回の顛末は、まあお粗末としか言いようがない。まあ彼が宮城県知事相手に不機嫌になることに、三分の理がないこともない……宮城県の復興計画立案には、野村総研が深く深く食い込んでいて、復興計画を討議する会議の委員は、十数名のうち、宮城県内在住者がわずかに二名、という状況である。なんでも、第二回の会議のときは「委員のほとんどが東京近郊に在住のため」、県知事達の方が東京に出張して、東京都内で会議が行われた、という。まあこんな風な、ちょっとにわかには信じ難いような状況になっているのだ。それに苛立っている、というのなら、まあ分からないでもない。

しかし、実際のやりとりがどうだったかは、報道されている通りである。トドメはあの「オフレコ」発言である。書いたところはそれで終わり、なんて言われたら、そりゃメディアは全力でネガティブな報道をするに決まっている。そんなことも分からない人があの震災の復興をやり仰せるとは、ちょっと思えないのだ。

まあ、それはさておき、僕が引っかかったのは、彼が会見で、カズオ・イシグロの "Never Let Me go"(邦題『わたしを離さないで』) と Phoebe Snow の "Never Letting Go" を引き合いに出したことだ。そもそも、あの文脈で何故なのか、どうにも分からない。朝日新聞の記事『「岩手でキックオフ、3日でノーサイド」復興相会見全文』から該当部を引用すると:

いろいろ言いたいことはあるが、謎かけをしようと思ったが、今日、これからいなくなるから。私はこれからは、4月に亡くなった歌手でフィービー・スノーというのがいる。また、5、6年前に出たカズオ・イシグロの本ではないが、これからは子どもたちのためにネバー・レット・ミー・ゴー。私は被災された皆さんたちから離れませんから。粗にして野だが卑ではない松本龍、一兵卒として復興に努力をしていきたいと思っている。
たしか、僕の記憶に間違いがなければ、『わたしを離さないで』っていうのは、ドナーになることを運命付けられ、人工生殖によって生まれ、育まれてきた子供達の話だったはずだ。まあ、「あまりに短い人生を、人はどのように人として生きるのか」という主題から、過酷な運命にある被災者の子供達の生きる姿を想起した……とかいうなら分かるけれど、「私は被災された皆さんたちから離れませんから」ってところからの想起……はぁ?って感じだ。本当に『わたしを離さないで』を読んでるんですか、松本さん?

Phoebe Snow にしたってそうだ。"Never Letting Go" ってのは、彼女の同名アルバムに入っている曲だけど、Stephen Bishop(シンガーソングライターで、フィル・コリンズが歌った "Separate Lives" を書いた人)の手になる曲で、もともとは Stephen Bishop 自身が Phoebe Snow のアルバムの出る前年にリリースした 1st solo に入れたのが初出だったはずだ。二人のテイクを聞くと、まるで The Isley Brothers が James Taylor の "Don't Let Me Be Lonely Tonight" をカヴァーしたときの二者の関係みたいに感じられる。まあ、あれ程アレンジを変えているわけではないんだけど、どちらの場合にも言えるのは、初出、カヴァーの双方とも、いずれ劣らぬ名曲である、ということだ。

この歌詞を読むと……うーん。切ない切ない詞なんだけど、やはり、松本さん、アンタまともな思考じゃないって。それか、題名だけで平気な顔して作品を語ってるのか。到底、彼のようなシチュエーションで引き合いに出すようなものではないと思うんだが。

まあ、でも、これもひとつのチャンスなのかもしれない。Phoebe Snow、そして Stephen Bishop に、この機会にスポットライトが当たってくれれば、それでいいことなのかもしれないしね。それに、あの愚にもつかない発言で、この曲の価値にいささかの瑕疵が生じることもないし。

ケータイを拾う / ニギス

夕方、と言っても午後7時過ぎのことだけど、近所のイオンで買い物をしていた。この季節は、沿岸で獲れる地の魚が出ているのだが、足の速いものが多いので、この時間帯には半額の札が貼られて投げ売りされていることが多い。見ると、ニギスが数尾入ったのが二桁の値段。まあこれを買っておきましょう、と籠に入れた。

で、レジで会計を済ませ、荷造りをしようと台のあるところまで歩いてきたとき、目前の台の上にケータイが置かれていることに気付いた。周囲を見回すが、持ち主らしき人の姿はない、目を上げると、その台で荷物をまとめたらしき女性が歩き去って行くのが目に入ったので、そのケータイを抱えて慌てて走る。女性に声をかけると、驚いたような顔で「わ、わたしのじゃ、ない」……そんなに怖いんですかね、僕。

しかし、これ、本当にケータイなんだろうな……開いてみると、確かにケータイである。うーむ。しかしなあ。最近の人達って、ケータイ依存というか、極端な話、自宅の電話番号もケータイなしでは分からない、という人が結構いるみたいじゃないですか。これなかったら、冗談じゃなく、日常生活に支障を来すに違いない。

スーパーには、煙草のカートンとか進物を扱っているサービスカウンターが大抵あるものだ。ここにも……と辺りを見回すと、あったあった。そこのオバサンにこのケータイを渡し、事情を説明する。あのオバサン、「有り難うございます」だけで、僕の身分確認も何もしなかったけれど、あれでいいのだろうか。まあとにかく、ケータイはちゃんと渡したから、もう後はイオンに任せることにする。

帰宅後、ニギスの調理にかかる。この魚は身が非常に柔らかいので、包丁でおろすと結構大変そうだなあ……と、ネットで検索してみると、手開きしている人の存在を確認。では、ということで、包丁で腹の掃除をしてから、指を突っ込んで背骨を抜き出してみると……できたできた。身を崩さないように気をつける必要があるけれど、手開きで簡単に骨を除去できる。これに衣をつけて、今日はニギスと舞茸の天麩羅を作る。うんうん。コストパフォーマンスは極めてよろしい。

所属教会の子供達へ

布池教会の小中学生の皆さん、今日は「子供のミサ」ご苦労様でした。ボーイスカウトの人達は、朗読もやったのですね。

ところで、皆さんにいくつか聞きたいことがあります。そして、話しておきたいことがあります。どうでもいい話と思うかもしれませんけれど、大事なことです。少なくとも、私にはそう思えることなのです。

まず、この「子供のミサ」ですけれど、皆さんはこれが本当に「子供のミサ」だと思うでしょうか?私には、どうしてもそうは思えないのです。そもそも「子供のミサ」は、普通のミサと何が違うのでしょうか。「子供のミサ」という日本語は「子供が運営するミサ」の意味か、「子供のためのミサ」の意味か、どちらかだろうと思います。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、おそらく「子供が運営するミサ」のつもりで、この「子供のミサ」を行っているのだろうと思います。では、このミサで子供、つまりあなた達がしていることは何でしょう。具体的には、ミサ中の朗読、共同祈願、そして献金集めを皆さんが行っているのですね。

今日のミサでもそうでしたけれど、「子供のミサ」で朗読をする子達は、読んでいる最中に必ずつっかえてしまったり、文章の区切りが分からずに、覚束ない調子で読んだりしていますね。皆さんを指導する大人達は、それでも何も注意しないのだろうと思います。けれども、そんな風に朗読をするのは、いけないことなのです。少なくとも、そういう風に朗読をする人は、カトリックのミサでの朗読の意味が分かっていないのです。

キリスト教というものが世に定着してきたのは、もちろんキリストが死んだ後のことですよね。具体的には、紀元1世紀の後半から、現在に至るまで、2000年程の年月を経ているわけです。キリスト教が出てきた頃、世の中には今の皆さんが通っているような学校はありませんでしたから、世の中のかなりの割合の人は文字を読み書きすることができませんでした。一説には、初代教父と呼ばれるシモン・ペトロも読み書きができなかったと言われているのです。それなのに、キリスト教は文字を欠かすことのできない宗教ですよね……聖書、詳しく言うならば、旧約の各文書、そして新約の福音書、使徒書、パウロらによる書簡、と様々な文書がありますけれど、これらは全て文字のかたちで広まったわけです。では、文字を読めない人達は、そういったものに触れることができなかったのでしょうか?

答は勿論、「否」です。この時代から、教会では、文字を読み書きできる人達が、共同体の信者全体のために、聖書や書簡を、皆の集まっているところで読み聞かせていたのです。そう、これこそが、ミサでの朗読のはじまりなのです……と、こんな話を聞くと、皆さんはこう思うかもしれませんね。「今の世の中は皆文字を読めるんだから、そんなことどうだっていいじゃないか」って。でも、本当にそうでしょうか?私達がミサのときに手にしている『聖書と典礼』は、どうしてサイズの小さいものと大きなものがあるのでしょう?あれは、御高齢で視力が衰えた信者の方が多く、そういった人達が読めるように、と配慮されて、あの大きなサイズのものが用意されるようになったのです。つまり、教会には今でも、朗読を聞くことを必要としている人達がいるのです。そういう人達も、ミサにあずかることができるように、私達は朗読をしなければならないのです。

皆さん、今朝のミサのことを思い返してみましょうか。読み間違ったり、文章の区切りが分からずに覚束ない声の調子になったりしていたあなた達は、おそらく、ミサの前に朗読の練習をしていなかったのでしょう。あなた達は、国語の時間に教科書の音読が当たったとき、あんな風に読みますか?先生は、そんな風に読んだあなた達に、何も言わないのですか?そんなことはないんじゃないでしょうか。学校の先生は、皆の前で代表して音読するんだから、もっとちゃんと読みなさい、読めないなら練習しなさい、そう言うと思うのです。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、学校の先生のように言わないのかもしれません。でもそれは、その大人達が優しいから言わないのではありません。あなた達に言うことが面倒だから、言わないだけです。あなた達の指導というものを、あの大人達がいい加減にしているだけのことです。

そして共同祈願ですけれど、いつもいつも、同じ内容が二つ三つと重なりますよね。今日も「暑くなりますが……」という内容の祈願が三つも連続しましたね。あれも、皆さんが共同祈願というものの意味を分かっていないから、ああいうことになるのです。

共同祈願というのは、そのとき当たった人が自分のお願いを言う場ではありません。「共同」と頭につくんですから、皆で共に祈願すべきことを、当たった人が皆を代表して言う。それが共同祈願なのです。少し難しい言葉かもしれませんが、「共同」ということばを聞いたカトリック信者は「共同体」ということばをすぐに連想します。教会に集っている皆の集まりを、このようなことばで言うのですが、共同祈願というのは、共同体全体で、そのような願いを皆で言葉を合わせて祈願するのです。

皆で共に祈願すべきこと、と書きましたけれど、もっと噛み砕いて言うならば、「みんなで神様にお願いすること」のことですね。それは、本当はたくさんたくさんあるはずです。でも、ミサの時間は限られていますし、その中の共同祈願の時間は更に限られたものです。ですから、祈るべき対象と、その祈りの内容をよく考えて、当たった人達皆で同じことを言わないように調整をして、限られた時間の中で、少しでも広く、そして深くなるように注意をして、祈願を行う。それが、共同祈願というものに求められることなのです。では、皆さんの今日の、そして今までの共同祈願はどうでしたか?冬には新型インフルエンザのお祈りがいくつも重なりましたよね。春には東日本大震災のお祈りがいくつも重なりましたよね。重なることが絶対にダメというのではありません。大切なのは、祈願する人達が、共同体のために、そしてひろく世のため人のために、皆でお祈りできるように配慮することなのです。

限られた時間で、そのようなお祈りの配慮をするためには、何が必要でしょうか。少なくとも、その日当たった人達が皆で持ち寄ったお祈りを事前にチェックして、今日は誰が何を祈願するのか、をちゃんと調整する必要がありますよね。でも、今まで皆さんは、そういう調整をしたことがあったでしょうか。おそらく一度もないんじゃないだろうか、そうとしか私には思えないのです。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、こういうことを言わないのかもしれません。でもそれは、その大人達が優しいから言わないのではありません。あなた達に言うことが面倒だから、言わないだけです。あなた達の指導というものを、あの大人達がいい加減にしているだけのことです。

私は「子供のミサ」の歌も良くないと思っています。典礼聖歌集やカトリック聖歌集の歌が難しいから、子供にも親しみやすい歌を歌うようにしよう……という配慮なのかもしれません。しかし、私には不思議に思えてなりません。皆さんは、あの歌が親しみやすい、と思っているのでしょうか?ああいう曲調の歌は、1970年代辺りに流行った、いわゆるフォークソングの体裁をそのまま使っています。そういう歌は、メロディにシンコペーションと呼ばれる独特の節回しがあるので、当日いきなり譜面を見て歌うのが難しいのです。事前に練習をしているのならいいのかもしれませんけれど、皆さんが大きな声で、会衆を先導して歌っている姿を、私は教会で見たことが一度もありません。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、こういうことを言わないのかもしれません。でもそれは、その大人達が優しいから言わないのではありません。あなた達に言うことが面倒だから、言わないだけです。あなた達の指導というものを、あの大人達がいい加減にしているだけのことです。

「子供のミサ」について、私が気になっているいくつかの問題を指摘しました。日曜学校やボーイスカウト、ガールスカウトであなた達を指導している大人達は、こういうことを言わないのかもしれません。でもそれは、その大人達が優しいから言わないのではありません。あなた達に言うことが面倒だから、言わないだけです。あなた達の指導というものを、あの大人達がいい加減にしているだけのことです。もしあのミサが「子供が運営するミサ」であるというならば、運営に関する指導をしない大人達は、いい加減な結末に至ったミサの責任を、あなた達子供に押し付けているだけです。こんなひどい話はありません。もしあのミサが「子供のためのミサ」だと言うならば……もう、あなた達にもお分かりでしょう。あんなミサが、あなた達子供の「ためになる」なんて、そんなことがある筈がないのです。

ずれ(2)

前回の blog に書いた問題だが、もう少し検証を行うために、Mac に ptexlive をインストールした。皆さんご存知かと思うが、Mac OS X にはヒラギノという極めて高品位なフォントが付属しているので、このヒラギノを PDF に埋め込むようにフォントマップを書いてセッティングを済ませた。

うーん……しかし、ずれるんだなあ。縦書きでいい例が見当らなかったので、中学生の国語のテスト問題を LaTeX で版組みしてみたのだけど、左が PDF をそのまま Adobe Acrobat で印刷したもの、右は一度 pdf2ps で Postscript に変換した後「プレビュー」で変換・印刷したものである。

20110702-pdf.JPG20110702-ps.JPG

まあ、先にも書いたけれど、横書きしている分には、このような問題は何も発生しない。だからいいいと言えばいいんだろうけれど……でもなあ。一応 pLaTeX だからなあ……

ずれ

私用で使う文書を LaTeX で作成しているのだが、どうにもおかしなことがある。

LaTeX って何よ? と聞かれそうなので補足しておくけれど、これは「ラテフ」とか「ラテック」のように読む。Donald E. Knuth というコンピュータ科学者が作った組版ソフトで、主に論文とか、数式の入った文書などを体裁良く印刷するのに非常に便利なソフトである。僕はもう20年程、この LaTeX を公私共に使い続けている。

LaTeX を使うときは、文書に整形用のコマンドを挿入したようなテキストファイルを用意して、これを LaTeX に食わせる。すると LaTeX は DVI (DeVice-Independent) ファイルという中間出力ファイルを吐く。これを、昔は dvips というプログラムに食わせて PS (PostScript)形式のファイルを吐かせていたのだが、今は dvipdfmx というプログラムに食わせて PDF ファイルを吐かせている。PDF ファイルというのは、皆さんもご存知だと思うけれど、この十数年程の間、体裁を整えた電子文書の形式のスタンダードとして使われている。Acrobat Reader 改め Adobe Reader を使えば、無料で閲覧も印刷もできる。しかもセキュリティと暗号化の概念が規格に盛り込まれているので、たとえば閲覧はできるけれどコピペや印刷はできません、というようなファイルを生成することもできる。まあ、便利な代物である。

Adobe Reader は Linux で動作するものもあるし、もしそれがなくても Ghostscript があるので、Linux 上で PDF を扱うのには何も問題はない。しかし、僕が使っている CUPS のプリンタドライバで印刷をかけた場合、手元のインクジェットプリンタでは印字位置がずれてしまうので、生成した PDF ファイルを U の仕事用の Mac に送り込んで印刷するようにしている。

U の Mac には Adobe Creative Suite がインストールされているので、PDF の扱いには何も問題ない、はずだ。なにせ本家本元の Adobe のソフトである。PDF の印刷なんて Adobe Acrobat でさくっと……いけるはずなのだ。なのだが、どういうわけか、これがうまくいかない。まあ横書きの場合は何も問題なくいくのだけど、僕はしばしば pLaTeX を使って縦書きの文書を印刷することがある。これを Mac の Adobe Acrobat で印刷すると、もう目も当てられないような状態になってしまうのだ。

何が問題なんだろう……と、しばし考えてから、僕は Adobe の標準フォントを PDF に埋め込むことを考えた。Adobe の標準フォント、と言うと、何やねんそれは? という話になりそうだけど、要するに、Adobe Reader に標準添付されている小塚明朝と小塚ゴシックを明示的に指定して、これを PDF に埋め込んでやる。このファイルは、そのまま配布するのはフォントの版権上ちょっとマズいかもしれないのだが、こうやって印刷するためにだけ使うのであれば、特に問題はないだろう……ということで、LaTeX 側にちょこちょこっとマップファイルを書いてやって、改めて PDF を作成してやる。印刷すると……うーん。ずれる。ずれるんだが、まあ見られないこともない、と言える位の感じなので、これでやりすごしていた。

しかし、今日のファイルは強敵だった。もうずれまくりで、どうしようもない。かくなる上は……と、 Linux 上で昔ながらの PS ファイルを作成した。ただし、この PS ファイルは PDF ファイルを基にして、いわゆるビットマップ展開をかけたものである。これを Mac に送り込んで「プレビュー」で表示させると……うん、表示は問題ないな。では印刷は……と、見ると、今迄あれ程悩まされていたずれが、嘘のように解消されているではないか。

しかし、どうにも解せないのである。LaTeX / dvipdfmx で吐かれる PDF というのは、そんなに変なファイルではない筈なんだけど、どうして Adobe 純正のユーティリティできっちり印刷できないのだろうか。結局この謎は今に至るまで解けていない。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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