こんな音です

昨日書いた12弦ギターだが、どんな音がするのかをちょっと公開しておこう:こんな感じである。朝一に寝ぼけて録音したので間違ってるのは何卒ご容赦の程を。

弦を張り替える

今日はアコースティックギターの弦を張り替えた。あまりアコースティックギターのことを書いたこともないから、今日はちょっとその話を書こうかと思う。

まず、12弦ギターの話を。おそらく12弦と聞いても普通の方はあまりイメージできないかと思うので、僕が持っている Takamine PT-010-12 の写真を Takamine の1982年カタログから引用する:

Takamine PT-010-12

ペグが12個あるのがお分かりかと思う。通常のギターの弦は6本で、それぞれ E-A-D-G-B-E という高さにチューニングして使う(稀にオープンチューニングとかあるけどまあそれはそれ)のだが、このギターは、弦が12本ある。クラシックギターの場合は、音域を広げるために弦の数を増やす(ナルシソ・イエペスとホセ・ラミレスによる10弦ギターなんかはこれ……と書いたけれど、実際のところイエペスはリュートの共鳴弦みたいな効果を期待して弦を増やしたんだという話なので、ちょっと訂正しておきます)という試みが行われている(ロックの場合でも、低音弦を1本増やした7弦ギターというのがある)のだけど、この12弦ギターの場合は、従来の6弦ギターの6〜3弦にオクターブ上、1〜2弦に同じ音高の弦を追加している。要するに2本の弦が6対張られていて、各々の対が6弦ギターの各々の弦に対応すると考えていただくと分かりやすいだろう。

欧米のギタリストの中でも、この12弦ギターの名手と言われる人が何人か存在する。たとえば僕みたいに Beach Boys が好きな人間だとグレン・キャンベルロジャー・マッギンを、もう少し後のウエスト・コーストの音楽を知る人ならばグレン・フライなんかを連想するだろう。ハードな音楽を好む人だったら、Gibson SG のダブルネックを持つジミー・ペイジの姿を連想するかもしれない。まあでも、いわゆるコーラスみたいなエフェクターが作られる前のロックの世界においては、実は12弦ギターというのは目立たないかたちで結構多用されている。皆さんも、 The Beatles のジョージ・ハリスンが多用したリッケンバッカー・360/12なんかはご存知ではないだろうか……先のロジャー・マッギンもこれだし、The Beach Boys のカール・ウイルソンもこれを多用している。

で、僕の持っているこの PT-010-12 というのは、Traffic(スティーブ・ウインウッドが在籍していたバンド)のギタリストだったデイヴ・メイソンが使っていたモデルらしい。エレアコというのは大体デッドに作られていることが多いものなのだけど、僕の手元のこのエレアコは塗膜も薄く、響きも悪くない。特筆すべきなのはネックのコンディションの良さで、弦の数が多い12弦ギターでいつも問題になる部分なのだけど、反りの兆候は全くみられない。電池ボックスが腐食していたとはいえ、これを3万で売っていたコメ兵もいかがなものか、と思うわけだ(まあそのおかげで今僕はこのギターを持っているわけなんだけど)。

で、だ……そう、弦、弦の話でしたね。このギター、ひとつだけ問題があって、弦の張替えが面倒なのである。なにせ一度に12本張り替えるわけだから……ああ、そうそう、弦の話をする度に、

「Thomas さんは1本弦切れただけで全部張り替えるんですか?」

とか聞かれることがあるんだけど、そりゃそうですよ弦がどれか切れる頃には他の弦も音濁ってるし。だから今回も12本、張り替えるんです。

出先で楽器屋に入って弦を探すが……ん、いつも使う Martin の弦(僕はエレキもアコギも普通はダダリオを使うのだけど、12弦は Martin を使うことが多い)がないなあ……と、店員に聞いてみると、古株らしい人が出てきて、ダダリオとエリクサー(この会社の弦は樹脂でコートしてあって寿命が長いのだけど、音に特有の癖があるので僕は使わない)しかない、という。はいはい……しっかし、ちと高いんじゃないのこれ?はあ……選択の余地なし、ですか……ということで、ダダリオの6弦と12弦のセットを買って帰ってきた。

ニッパとラジオペンチ(弦交換の必需品)を出してきて、まずは12弦の張替え。僕はいつも .010-.047 のセットを使うのだけど、G 弦の複弦が .008 と非常に細い(僕が普段使っているエレキの弦でも、一番細いのが .010 だから、とにかく細いのだ)ので、変な癖をつけないように、注意しながら弦の緩みを取っていく……終わったときには、なんだか嫌な汗をかいている。そんなに緊張する必要はないんだが……まあいい。チューニングを合わせて、とりあえずはお約束のミスター・タンブリン・マンのイントロとか、5カポで『やさしさに包まれたなら』のイントロとかを弾いてみる(これはもう儀式のようなものだ)。では1日寝かして、明日あたりからまた使ってみましょうかね。

で、ついでに FG-152 の弦を張り替える。僕はアコギもこのところずっと .010-.047 の弦を張っていたのだけど、今日は .012-.052(アコギでは一番ポピュラーなセットで、ほとんどのメーカーではこれを「ライトゲージ」と称して販売している)を張ってみる……ううむ、やっぱしこれ位太い弦じゃないとガッツが出ないなあ。こちらも明日辺りから色々使ってみることにしましょう、と。ということで、お盆休みを前にして、色々と仕込みが続くのであった……

知らない人は哀しさすら解らない

ニコニコ動画を覗いていると、現在の音楽というものに関して、つくづく考えさせられることがある。ほんの少し、新しさの希望を感じることがあるかもしれないけれど、多くの場合、感じることといえば絶望の方が圧倒的に多い。

たとえば、この間の『俺の妹が……』のときのこと。他の人々がどんなデモを出しているのか、試しにいくつか聴いてみて、結局ほんの3、4本でやめてしまった。かなりの割合で、vocaloid(いわゆる『初音ミク』のような人工発声ソフト)を使っているし、歌を入れている場合でもほとんどが autotune で補正をかけていたからだ。

autotune というのは、いわゆるピッチチェンジャーの登場と共に概念的にはあったようで、ブラックミュージックなどで密かに使われていて、「あれこれヴォコーダーじゃないよね?」などと思ったことがちょこちょこあったのを記憶している。で、そんな風に、もともとはあまりポピュラーなものでなかった autotune が世間で広く認知されるようになったのは、おそらく Cher の "Believe" が最初だろうと思う。

Cher という人は大変にキャリアの長い人である。元旦那の Sonny Bono とのデュオ "Sonny & Cher" でデビューしたのが1964年、しかもそれ以前は Sonny Bono がかの Phil Spector の Gold Star Studios で働いていたのが縁で、あの "Be My Baby" をはじめとする数多くの Phil Spector のプロデュース曲でコーラスをやっていたのだという。歌唱力に関しては何も問題はない。いや、実際うまいんですよ、この人は。本当に。

そんな彼女がシンガーとしてやや低迷していた90年代の終わりに出たこの曲は、実はアメリカに先行してヨーロッパで発売されている。欧州各国でトップチャートを記録してから、アメリカで堂々のトップを獲得しているわけだ。これはこの "Believe" を今聴くと実に真っ当なやり方であることがよく分かる。要するに、ヨーロッパのクラブ寄りの人々を起爆剤と位置づけて、実際見事に火をつけることに成功したのだ。

Cher が autotune を使ったのは、勿論稚拙なヴォーカルを補正するためなどではなく、autotune による「不自然さ」をアクセントにするためだ。日本でも、当初は実際そういう使われ方をしていた、はずだった。それがどうもおかしくなりだしたのは、おそらく中田ヤスタカがプロデュースする Perfume が売れ始めてからだ、と思う。

Perfume における中田ヤスタカの方法論は実は明快で「Perfume の3人のヴォーカルラインをエレクトロニカ的視点で楽器とシームレスに扱うこと」である。要するに、autotune をがっつりかけたあの3人のヴォーカルは、オケの上に乗る歌ではなくて、エレクトロニカ的論法(音楽の構成要素をマテリアル化するような処理を施し、配置する)に則って配置された、オケを構成する音ともはや区別されない要素として扱われているのである。

トータルとしての音楽制作においては、これはまあ一手法としてオッケーなんだろうと思う。しかし、もし Perfume を世間の多くの人々が思っているようなポップアイドルとして捉えようとすると、この方法論は実に大きなパラドクスを生んでしまう:あの3人の女の子は「アイデンティティを主張する」のではなく、「アイデンティティの喪失によるポップなキャラクター化」を以て差別化されているのである。じゃあ、あれがあの3人の女の子である必然性は何処にあるのだろうか?こんなことを書くと Perfume のファンの人達には申し訳ない気がするんだけど、Perfume があの子達である必然性すら、実はとっくの昔に喪失しているのである。

僕も、決して上手い方ではないけれど、一応は自分の曲は自分で歌う。歌う以上は自分が歌うんだから、そこにアイデンティティを主張することすらあれ、それを消すようなことをするわけがない。だから僕は、autotune を使うくらいなら、喉から血が出てでもリテイクを重ねて自分の歌を録音するのである。しかし、どういうわけか、世間ではいまや僕のようなのは少数派である。

個性をコントロールできないなら抑制した方がいい、という、世間の方法論の行く先は、ちょっと考えれば想像がつく。もはや人が歌う必要すらないのである。だから「初音ミク」がこれほどまでに普及したに違いない。mixi などで音楽関連のコミュニティに入っていると、初心者を自称する人のどうしようもない程愚かな質問に嫌気がさすものだけど、実際、彼らのほとんどは「初音ミク」を使っている(使えているかどうかは怪しいところだけれど、少なくとも「持っている」「使おうとしている」のは間違いない)。まあ、世間の現状は、こんな感じなのである。

時々、僕もそういうものを使うことがあるのだろうか?と考えることがある。しかし、どう考えてもそういう気にはなれそうもない。僕が「歌」という言葉で思い浮かべるのは……古いところだったら藤山一郎とか、少年時代から死ぬ程聞いている山下達郎とか、吉田美奈子とか、大滝詠一とか、あまり知らない人が多いかもしれないけれど小坂忠とか、西岡恭蔵とか、いや永ちゃんでもクールスでもシャネルズでも、何でもいい。歌ってそういうものなんじゃないの?僕にとって「歌」ってのは、機械なんかなくったって、風邪ひいてガラガラの声でも絞り出すことがあって、それが自分の何かを表出するのに重い重い意味を持つものなのだ。そうじゃない「歌」なんて、僕には到底考えられない。

ふとこんな言葉を思い出した:「仏作って魂入れず」いや、Perfume の曲に魂がこもってない、とまでは言いませんよ。でも、もしこもっているならば、それはあの3人の女の子の魂じゃないと思うんだよな。だって、あんなフィルタリングされた声にこもる魂がもしあるならば、手法としてのフィルタリングを駆使「している」人のものであって、素材に成り下がった声の主のものじゃないと思うもの。僕のこういう考えって、何かおかしいんでしょうかね?

『夏なんです』に関して

先日録音した『夏なんです』だが、Vo. のオーバーダブはまだ行っていないので、今しばらくお待ちいただきたい。

で、歌録りの前に、あの『夏なんです』をどう録ったのかを書いておくことにしよう。ニコニコ動画の方のコメントは、毎度おなじみ(結構アクセスがあるのだけどコメントは少ない)の状態である。まあそれはそれでいい(むしろあの曲に何千もコメントがついたら、それはそれで異常事態であろう)のだけど、数少ないコメントは概ね好意的なもののようで、正直ちょっとだけほっとしている。

先日も書いたけれど、『夏なんです』は、僕が弾き語りをするときのレパートリーのひとつである。曲的には結婚式などで歌うことはないのだけど、こんな夏の休みに飲み会とかあったときに、もしギターを弾ける環境で飲むとすると、ああいうものを弾き語るわけだ。で、それにはちゃんとした理由がある。

『夏なんです』は、細野晴臣が書いた曲である。細野氏自身が弾いているアコースティックギターを聞いてみると、ベーシストならではのポイントを押さえた演奏がされている。例えばイントロでは、ペダル・ノート(ベースが動かずに上ものの和音構成音が動く)を使ったオンコード(いわゆる分数和音)の進行が使われていて、そこから入るAメロの部分では、今度は逆に上ものが動かずにベースが動くかたちのオンコードが使われている、という具合である。転調する部分でも、ベースノートとメロディに実に気を配った進行で書かれている。こういう曲を演奏するときには、6〜4弦の開放弦をうまく使ったかたちで演奏するように工夫するものだが、『夏なんです』は、実はそういう工夫をすると曲の構造がよく見えてくるようになっている。ベーシスト(もっとも細野氏がベースに専念するようになったのは「エイプリルフール」以降のことらしいのだが)が書いた曲だということが実感できるのである。

そんなこともあって、僕は大学時代あたりからこの曲をレパートリーにしている。しかし、よくよく考えてみると、ちゃんと録音したことがないのだった。他にも、結婚式で何か一芸を……というときに歌う曲とか、酔っ払っていい気分のときに歌う『ピンク・シャドウ』とか、そういう曲がいくつかあるのだけど、どれもこれもちゃんと録音したことがない。よし、では、自分の弾き語りをちゃんと録音してみよう、ということで、まずは(何分暑かったので)この曲を録音したわけである。

僕は今、アコースティックギターを6本持っている。そのうちの2本はガットギター(ジャパニーズヴィンテージのギターで二束三文で売られているものをヤフオクで購入し、現在調整中)、1本は「ギグ・パッカー」(黒澤楽器がちょっと前に出していた、アパラチアン・ダルシマーみたいなかたちのギターで、『なんでか?フラメンコ』の堺すすむ氏が使っている)、1台は12弦ギターで、残りがタカミネの PT-108 とヤマハの FG-152 である。

PT-108 は、エレアコなので今ひとつ鳴りが鈍重というか、良くも悪くもがっちりした感じである。問題なのは、音のピエゾ臭さが結構あることで、正直言って録音にはあまり使いたくない。ということで、ヤマハの FG-152(僕とあまり年齢が変わらない、いわゆるジャパニーズ・ヴィンテージである)で録ることになる。このギターには自分でコンタクト・ピエゾを入れてあるのだけど、出力はあまり高くないのだが、音は結構使える。本当はアコギはマイクを立てたいところなのだけど、今回はこのコンタクト・ピエゾだけで録音することにした。

録音してみると、やや低音域が弱いのと、3 kHz 辺りにピークがある(これはコンタクト・ピエゾの特性である)のが気になるので、パラEQで補正をかける……と、おお、なんだ、このまま全然問題なさそうじゃないの。ドレッドノートのアコギでガッツリ弾いた音よりはややナローレンジだけど、このまま録音することにして、3テイク位録ってみる。勿論、メトロノームだけを鳴らしておいて、「せーの」で録り始めて、一気に最後を弾き切るまで録り続け……を3回位行ったわけだ。ミスタッチが気にならないものが録れた時点でオッケーとする。

これにオーバーダブして、はっぴいえんどのテイクと同じようなアレンジにすることも考えたが、せっかく弾き語り用にアレンジしてあるのだから、と、低音とリズムの補強のために、ベースを小さめにオーバーダブするに留めた。ベースは、これも2、3回通しで録ってオッケーである。

歌うのには時間が遅くなってしまったために、とりあえずはギターでメロディラインを入れることにする。これは少しコンプをかけて、オベーションとかを弾いているときに似た状態(オベーションの場合は、おそらくギターのプリアンプが飽和してあんな感じになるのだと思うけど)を作ってやる。これは一発録り……へろへろなのはご愛嬌ということにする。

ミックスはオールドスタイルで、3つの楽器を全て中央定位として、深めのプレートエコーで立体感を出してやる。普通にこういうエコーをかけるとわんわん言ってどうしようもない状態になるのだが、そこはとある手法でそうならないようにしてある(どうやるかは秘密)。で、、入道雲の写真をつけて動画にして、ニコニコ動画で公開……と、こういう流れであれは出来上がったわけである。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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