大阪にモトヤという印刷関連の会社があるのだが、ここはフリーで良質なフォントを提供している。『TeX Live を使おう――Linux ユーザと Mac OS X ユーザのために――』で書いているけれど、良質な日本語フリーフォントというのはなかなか入手し難いものなので、実に貴重な存在である。
モトヤは、
- NFモトヤシーダ1
- NFモトヤバーチ1
- NFモトヤアポロ1
の計3書体を、グリフの制限なし(ただしウエイトは各々1種類のみ)で無料公開している。公開 URL を知るためにはメールマガジンへの登録が必要だが、これはダウンロード後に速攻解除することもできる(おそらくは、メルマガ配布のためというよりも、どこの誰がフリーフォントを使用しているのか、ある程度把握していたいのだろうと思う)。
ただし、これらのフォントはあくまでも `Preview & Print' use only ということらしい。紙に印刷したものを公開するのには問題ないと思うが、PDF に埋め込んだものを公開するのは許諾条項的にはグレーのようだ。
……という話を『TeX Live を使おう……』に書いていたところ、 blog の方である方が教えて下さったのだが、モトヤは一昨年の秋から、Android プロジェクトに「モトヤLシーダ3」と「モトヤLマルベリ3」の2種類のフォントを Apache License で公開している。これは、ダイナラブ・ジャパン株式会社が、電子書籍用に DF パブリフォントを提供しているのにちょっと似ているけれど、Apache License ということは、フリーで提供していると言っていい状況なわけだ。
https://github.com/android/platform_frameworks_base/tree/master/data/fonts からダウンロードして調べてみたけれど、`Preview & Print' use only ということは変わっていないようだ。Apache License だから、元のこういう条項はそのまま保持されるという解釈でいい……はずだ。だから、モトヤが自社サイトで公開しているフリーフォントと基本的には同じ取り扱いをするべき、ということになるのだろう。
しかし、重複している「モトヤLシーダ3」を除いても、実に4種類(明朝っぽいのが1種類、ゴシック系2種類、デザイン系?1種類)のフォントを、グリフの制限なしでフリーで入手・使用できる、というのは、これは本当に有り難いことだと思う。フォント自体も高品質だし、Linux や TeX を使われない方も、ぜひモトヤのフォントを使用していただきたいと思う。使う価値のあるフォントだと思うからだ。
論理的思考力の養成、という、ちょっと煩わしい仕事ができてしまった。教材をどうするか、目下悩んでいるところである。
そもそも、僕自身は理系なわけで、今迄の人生イコール論理的思考のトレーニング、みたいなものである。誰もやったことのないことである見解を示さなければならないときに、そういう論理的思考力は大事な武器になる(決定打にはならないことが多いんだけど)。だから、そういうトレーニングを、最初は教官から、やがて自分で、厭という程してきて今日に至るわけだ。
僕はどちらかというと実験系なわけだけど、それでも記号論理学位は齧っている。だけど、今回の「論理的思考力の養成」なるオシゴトは、そういうトレーニングを積んでいない人が対象なのである。さて、どうしたものか。
たとえば、「国際論理思考試験模擬試験」なんてのがある。これは P&G 社が社員の能力判定用に使用しているものらしいけれど、中学生の数学位の範囲で、論理的思考をはかるというもののようだ。しかし、今回の目的は判定でなくて養成なので、この手の問題ばかり解かせていても、退屈されておしまい、ということになりそうである。
ネット上で「判断推理問題集」なんてのを見つけたので見てみると……
次の各命題:
- 猿が好きな人はトラが好きである。
- 犬が好きな人は猿が好きである。
- 猿が好きでない人は猫が好きでない。
- キリンが好きでない人は猿が好きでない。
が成り立つとき、確実にいえるものはどれか。- キリンが好きでないかまたはトラが好きでない人は犬が好きでない。
- トラが好きな人は犬が好きでない。
- 犬が好きか猫が好きな人はキリンが好きである。
- キリンが好きな人はトラが好きである。
- 猫が好きな人は猿が好きである。
……うーん、これは論理学の初歩的問題だなあ。愚直にやれば出来るけれど、論理的に高度だというわけではない。
……とか書くと「え? そんなん言ってて Thomas さん出来ないんじゃないの?」とか言われそうだから、解いてみましょうか。まず、上の各命題をよりシンプルに書くために記法を定めることにして、猿・トラ・犬・猫・キリンをそれぞれ M, T, D, C, G (老婆心ながら書いておくけれど、キリン = 麒麟は日本語で、英語では giraffe と言います)と書くことにする。「好き」を l、「好きでない」を d と書くと、上で前提として与えられた各命題は、
- 命題 1: M l ⇒ T l
- 命題 2: D l ⇒ M l
- 命題 3: M d ⇒ C d
- 命題 4: G d ⇒ M d
と書ける。同様に、これらの対偶:
- 命題 1': T d ⇒ M d
- 命題 2': M d ⇒ D d
- 命題 3': C l ⇒ M l
- 命題 4': M l ⇒ D l
も成り立つ。
先の問での各項目は:
- G d ⇒ D d and T d ⇒ D d
- T l ⇒ D d
- D l ⇒ G l and C l ⇒ G l
- G l ⇒ T l
- C l ⇒ M l
と書けるわけだが、
- 命題 4 と命題 2'、命題 1' と命題 2' から成立
- 命題 1' と命題 2' から不成立
- 命題 2 と命題 4'、命題 3' と命題 4' から成立
- unknown
- 命題 3' から成立
ということで、1.、3.、そして 5. が答、ということになる。
……しかし、だ。こんな問題が解けるからって、論理的思考力が豊かだ、というわけではないだろう。論理学の初歩で習う所定の手続きを愚直にこなすことができれば、機械的に答を選択することができるからだ。
さぁ、それではどうしたもんかな……結局、一から自分で教材を作成しなければならないのだろうか。
この何年か使っている眼鏡のレンズはプラスチック製なのだけど、これにかなり傷が入っている。おまけにここ最近、コーティングの剥離が気になってきて、ちゃんとしたものを買うまでのつなぎに、と、今日某所の激安眼鏡店なるところに行ったのだった。
この店は、まずフレームを選び、伝票記入、視力測定を行った後、30分程で出来上がりの眼鏡を渡すのが売りの店である。僕もまずフレームを選び、一応視力の確認をしたが、レンズの度数の変更はしなくても済みそうであった。
「当店では非球面レンズのバランスの良いところを使用しております」
と、自信満々の店員に、
「そのレンズなんですけど……」
「はい」
「プラスチックですか?」
「はい、当店ではプラスチックレンズをお薦めしておりますが……」
僕は諸々の事情から、レンズに傷を生じ易いものを色々扱わなければならない。今使っているレンズのこともあるので、プラスチックレンズは避けたい、と思っていたので、
「レンズはガラスにしたいのですが……」
と言うと、「はぁ?」と聞き返された。店員、机の下の方からレンズのデータシートを引っ張り出してあれこれチェックし出して……
「……三週間程お時間を頂くことになってしまうのですが」
と言う。はぁ? と、こちらが聞き返したいのを抑えつつ、まあ今使っているのがあるんで、待てないこともないんですがね……と言うと、この店員、
「あの、お客様は今迄ガラスのレンズをお使いになられたことはおありですか」
と、剣呑な顔で聞いてくる。はいありますが? と返事をすると、
「……少々調べさせていただきたいので、そちらにかけてお待ち下さい」
と、店内の椅子を指差される。はいはい……と、数分待つと、別の店員が僕を呼び、再び「三週間程……」の件を聞かされるが、僕はもう待つことに決めていたので、その旨伝えてから、
「……別途費用とかかかるんですかね」
と聞くと、いいえそのようなことはございませんが……と、まるで珍種の生物でも見るような目で見られながら、料金を払い、店を後にしたのだった。
要するに、こういうことなのだろう。この店では、プラスチックレンズだけを店頭で扱う。そうすれば、フレームに合わせる加工等を極めて速く行うことができる。だから客数を捌くことができて、単価を下げることができる……で、そういう店の経営構造において、僕のようにガラスレンズを希望する客は、まさに珍種の生物のような存在であって、店の勝手を理解せずに面倒なことを要求してくる、そういう客だということなのだろう。
三月上旬、僕があの店に行ったときに、店員にどういう風に扱われるのかが楽しみだ。ひょっとしたら、ガラスレンズにろくな在庫がなくて、牛乳ビンの底みたいな代物を押し付けられるかもしれないが……まあ、そういうことはないですよね。僕もそう思いたいのですが。
コンピュータの操作では、しばしば「間違えたら取り返しがつかない操作」というのがある。困ったことに、そういうことに限ってやってしまいそうだったりするのだが、たとえば、バックアップのないアーカイブ foo.tar を展開しようとして、
$ tar xf ./foo.tar
としなければならないのを、
$ tar cf ./foo.tar
あ゛〜っ! と気付いたときにはもう手遅れ。勿論、こうすると foo.tar は(444 とかにしていない限り)上書きされてしまう。寝不足でバックアップ作業を行っていて、時間をかけて作成した巨大なアーカイブをチェックしようとして、
$ tar tf ./foo.tar
としたつもりが cf だった、などという他人の話を聞いただけでも、ブルーな気分になってくる。
シンボリックリンクも、慣れていない人が root で作業していたりすると悲劇を生むことがある。ターゲットとリンクの区別がついていなかったりして、
$ ln -s /foo/bar/baz ./
を、
$ ln -s ./baz /foo/bar/baz
などとやった日には……ああ、こうやって書いているだけでも憂鬱な気分になってくる。
実は、Windows でもシンボリックリンクというのは可能で、リンク作成のための MKLINK というコマンドがあるのだが、僕はこれを使うときは今でもひどく緊張させられる。何故かというと、MKLINK は UNIX 系の ln と引数の順序が逆なのだ。
$ ln -s /foo/bar/baz ./
に相当する操作を MKLINK で行う場合は、
> MKLINK baz.exe C:\foo\bar\baz.exe
と書かなければならない。もし逆にしようものなら……ああ、考えただけでも厭になる。
取り返しのつかないことをしないために、我々は経験を積む(しばしば大きな代償を払いつつ)わけだけど、この例の場合、UNIX 系に習熟していればいる程、Windows で MKLINK を使うのは危険だ、ということになる。僕は未だに、Windows のコマンドプロンプトでこの操作をする必要に迫られたときには、自戒の意味を込めつつ、
> MKLINK /?
として、確認するようにしている……取り返しのつかないことを、そうそうしていられる程、僕には物事の余裕というものはないので。
昨日、Linux-3.3-rc3 がリリースされたので、早速アーカイブを取得した(これを今書いている端末ももう 3.3-rc3 で動作している)。例の kernel.org 騒動があってから、アーカイブを取得するのは Linux Torvalds の github から取ってくるのだけど、そのページに Linus がこんなことを書いていた:
Linux 3.3-rc3 .. the number of the half-beast?
あーやっぱり欧米文化の人ってこんなことを考えるんだなあ……などと思いながら見ていたのだった。
「獣の数字」というのは、新約聖書の最後にある『ヨハネの黙示録』13章に出てくる。この章は、神を冒涜して民を支配する獣、そして、その獣の後を受けて民を支配し、獣の偶像を拝むことを強制する獣について書かれているのだが、その「第二の獣」が偶像崇拝以外に強制したことに関して、以下のように記されている。
また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。
――『ヨハネの黙示録』13:16-18(新共同訳より引用)
聖書根本主義者達は、ティモシー・ラヘイの『レフトビハインド』よろしく、もはや偏執と妄想としか言いようのないこじつけに精を出すわけだけど、そういう人々はきっとクスリでもやっているじゃなかろうか、と思う。実際、この『ヨハネの黙示録』は、ニガヨモギの麻薬成分による幻覚の産物なのではないか、という説もある位なのだけど、クスリの助けを借りたかどうかはさておき、この「幻」として書かれた文書を、そのまま現実にリンクさせようというのは、あまりに想像力を欠いた教条主義的行為だとしか言いようがない。だって、ヨハネも書いているのだ:「ここに知恵が必要である」と。
上に引用した 666 という数字に関わる記述を読むと、記者が読者に一種の謎かけをしている、と取るのが自然であろう。その刻印なしに社会活動がみとめられなかった、という、この 666 という数字。そしてその数字を刻印した「獣」の行為を見ると、「獣」の強制した行為はキリスト教やユダヤ教でタブーとされる偶像崇拝であり、そして当時キリスト教を迫害したローマ皇帝ネロこそが「獣」の正体だと考えるのが、一番無理のないところだろう。
皇帝ネロ (Nero Caesar) をギリシャ語で書くと Νέρων Καίσαρ (Nerōn Kaisar)。これをヘブライ語で書くと נרון קסר (Nrwn Ksr) となる。ヘブライ語はローマ数字と同じく、文字が数に対応しているので、文字と数字の対応関係をみると、50 + 200 + 6 + 50 + 100 + 60 + 200 = 666 ……ということで、皇帝ネロ → 666 ということになる。
Linus は Linux-3.3-rc3 → 333 → "the number of half-beast" と連想したわけだけど、Linus は暴政の挙句王朝を滅ぼしたネロ程暴君ではないだろう……と、誰かツッコまなきゃいけないと思うんだけどなあ。
実は、僕の手元の Mac には morisawa passport が入っている。U の業務用なのだけど、正直言って、年間五万円の維持費(そう、morisawa passport は購入しても所有できるわけではない……あくまでも一年間の使用権を持てるだけに過ぎない)は楽ではない。しかし、プロレベルでの組版作業では、やはりこの水準のフォントセットが必要になってくるわけで、つい先頃、一年間のライセンスアップデートを済ませたところである。
僕の方は、普段はこのフォントセットを使うことはない。Mac にはヒラギノがバンドルされてくるし、この Mac には Adobe の一連のシステムが入っているので、これに加えて小塚フォント(明朝・ゴシック各6ウエイト)も入っている。僕に関しては、これで何ひとつ不満はないのである。しかし……まあ、せっかく使えるんだったら使わない手はないかもしれないなあ、ということで、font map をちょこちょこと書くことにする。
実際にリュウミン等のフォントを使用してみると……あれー、意外と痩せた感じになるんだなあ。勿論、小塚のようにいっぱいいっぱいのフォント、例えば「新ゴ」等を使えば、そういう感じでない組版も可能なのだけど、少なくとも僕にとっては、手元の既存のフォントだけでも十分なようだ。もし、camera-ready な原稿を自分で組版する場合でも、ヒラギノと小塚フォントだけで十分間に合いそう……なのは、僕が広告媒体などの組版をしないから、なのだろうけれど。
ターミナルソフト等で使うフォントを何にするか、というのは、実はなかなか悩ましい。これでいいかな、と思っていても、文字幅とか読み易さとかで少々不満が残る。だから半年位で、他に何か選択肢がないか探すのが習慣化してしまった。
丁度、今はそんな時期なのだけど、『プログラミング用フォント Ricty』というページにふと目がとまった。最近流行りの合成フォントというやつで、Inconsolata と migu を合成した、いわゆる等幅フォントである。ライセンス上の問題から、フォント本体ではなく、フォント合成用のスクリプトのみが配布されている。
Inconsolata は、大抵の distro ではパッケージ化されているだろうし、TeX Live にも収録されている。migu フォントは、上記配布元から取得できる(僕の場合は最初から入れている)。さくっと合成処理を行うと……ほー。正直言ってあまり見た目が美しいとは言い難いのだが、非常に実用的なフォントである。全角空白が破線になった "○" で表示されるところといい、ソースなどで厳密に文字数を揃えるような用途を意図しているであろう作りといい、使いやすそうな印象を受けた……ので、手元のターミナルソフトと GNU Emacs のフォントをこれに変更。まあ、しばらくはこれを使ってみることにしましょうかね。
前に何度か、イターい売り文句のケーキ屋の話を書いたことがある。御記憶の方もおられると思うのだが、もう一度書こう。
大阪に住んでいた頃のことなのだが、近所に新しいケーキ屋がオープンすることになった。僕は酒飲みなのに甘いものも好きなので、機会があったら買いに行こうかなあ、などと思っていたのだが、ある日そこに通りがかったら、看板にデカデカと "Taste Of Mommy" と書かれていたのだった。
よく、こういう話をすると、いやその店やってる人が込めている心ってのがあるだろう、それを踏み躙るように嘲笑するんじゃないよ……みたいなことを言われるのだけど、いやーこれはちょっとマズいんですよ。おそらく、このお店の方は「おふくろの味」みたいなフレーズを探していて、"Taste Of Honey" からの連想で "Taste Of Mommy" と書いたんだろうと思うけど、僕の知る限り、"Mom's Taste" とか "Mother's Taste" ならそういう意味になるけれど、"Taste Of Mommy" だったら、幼児プレイ好きの mother-fucker とか、マザコンの果ての人肉嗜食者みたいな奴しか連想し得ないのだ。日本人はしばしばこの手の間違いをするけれど、これはちょっといただけないパターンだ。せめて誰かネイティブに聞いてみればよかったのに……と、今でも思う。
さて。あまり人をあげつらいたくはないのだけれど、今日の新聞に入っていたミニコミ紙をペラペラとめくっていて、妙なタイトルのコラムを発見したのだ。『エシカルでいきましょ』というタイトルなのだけど、その横に『※エシカル = 「思いやり」』と書いてある。
僕が知る限り、英語の場合は ethical = 「倫理的」であって、思いやり、などという意味で用いられたのを聞いたことがない。このコラムの筆者は JICA の関連施設で外国語での絵本を読むイベントなどを主宰されているらしいのだが……うーん。どうなんですか、それって。
僕が英語以外にかじったのはドイツ語位で、他にはラテン語の宗教関係の語彙が少し……位である。僕があまり知らないフランス語ではどうだろう……と調べたけれど、たとえば "sentiment chaleureux" とか、そんな感じになる、らしい。ラテン系の言語でも、「エシカル」という発音で「思いやり」という意味になる、という話は、残念ながら聞いたことがない。
外れていたら非常に失礼なのを、あえて書かせていただくけれど、この方は英語圏で ethical consumer とか ethical jewellery とか言うのを、何か誤解されているのではないだろうか? あの ethical というのは、社会規範を尊重するとか、(倫理的行動によって)環境に配慮する……という意味であって、「思いやり」なんてニュアンスはどこにもないのだけど。何をどうしたら、ethical という単語から「思いやり」なんて日本語に至るのだろうか。僕の勘違いだったらそれでいいけれど、どうも僕にはそうとは思えないのである。
"palliative" というのは、医学領域でよく使われる言葉である。日本語では「姑息的」というのだけど、たとえば、末期の食道がん患者に対して、がんの治療目的でなく、食事の通り道を確保する目的で手術を行うような処置のことを「姑息的処置 palliative procedure」と言う。「姑息」というと、とかく悪いイメージがつきまとうけれど、「姑息」という言葉自体にはもともと悪い意味はない。「姑」は「暫く」という意味で、「息」は「休息」と同じ、つまり「息をついて休む」という意味だから、「姑息的」は「(本質的ではないけれど)一時的な対処として」という位の意味である。
とは言うものの、「一時しのぎ」という言葉には、やはりあまりいいイメージを喚起されることはないものだろう。本質的な問題解決ができることをサボった挙句の「一時しのぎ」なんじゃないか、と考えるからだ。進行したがんと戦う医師達にしてみれば、「姑息」という言葉にそういうイメージを付加されるのはいい迷惑に違いないのだが、残念ながら、世間にはこの誤謬を定着させるに十分足るだけの数のサボリ野郎が存在するのである。
毎度おなじみ TeX フォーラムやTeX Q&A では、年が明けた頃から質問の数が急増する。その質問の多くは、概ね以下のような特徴を有する:
- 「〜に書いてあることができません」と書かれることが多い。
- 使っているシステム構成や、「うまくいかない」ことが再現される記述例が添付されない。
- 文末が、
- 以上です。失礼します。
- どうすればよいでしょう。
- よろしくお願いします。
- 一体どうすればいいのでしょうか?
- 何が原因でしょうか。お手数をお掛けいたします。
……まあ、良くて「御教授下さい」。「御教示下さい」という言葉も知らないらしい。 - 質問に対する答が出ても、阿呆な質問への苦言が出ても、半分位はそのまま質問者が消えてしまう。
なぜ、こういう質問が多発するのか。まあ、その時期を考えると何となく想像はつく。おそらく、卒論や修論(さすがに学位論文でこんな泥縄野郎はいないと思いたいのだが)で TeX / LaTeX での論文作成が義務付けられていて、年明け位に「そろそろやらないとマズい」とか思うのだろう。そして、奥村氏の『美文書作成入門』を買って、何も考えずに巻末の DVD でシステムのインストールをする。そして、迫る締切に泡を食いながら書き始めるのだろう。
こういう手合いは、統合環境があるとまず間違いなくそれに飛び付く。統合環境は確かにユーザーフレンドリーに見えるけれど、システムがユーザーに対して返すメッセージに、ユーザーの注意が行きにくくなる、という弊害がある(誤解しないでいただきたいが、これはシステムのメッセージを注意しないユーザーのせいであって、統合環境それ自身やその開発者のせいではない)。書いてある通り(と本人は信じ込んでいるだけ、ということがほとんどなのだが)にやったのにできない。自分では原因特定ができない……と、こうなるわけだ。
最近は google という便利なものがあるから、極端な話、エラーメッセージを検索欄にコピー & ペーストして検索をかけるだけでも、対処法に辿り着ける可能性が高い(同じように卒論や修論で苦しんだ先達のブログとかね)。しかし、そもそもエラーメッセージを見よう、という、その意識すら彼等にはない。「書いてある通りにした」ということが「うまくいく」という結果を保証してくれる(と彼等は信じ込んでいるわけだが)はずなのに、その結果が得られない。どこに質問(というか、彼等にしてみればクレームという意識なのかもしれないが)を投げかけたらいいのか。そうして彼等は、奥村氏の TeX Wiki 傘下のページに到達するのであろう。
しかし……大学での研究というのは、少なくとも、まだ誰もやっていないことをやる、とか、既に誰かがやったことでも、異なる着眼点からやり直す、とか、そういうことなわけで、目前の事象を解析的な眼で見つめて挙動を探り、そこに法則性を見出して理解する……そういう行為である。ほとんどの事が文書化され、google でも使えば簡単にその文書にアクセスできるようになっている TeX / LaTeX において、そういう姿勢が欠片程も窺えない、ということは、大学で研究して論文を書く、という本分において、果たしてどういうことになっているのだろうか、と、心配になってしまう。無論、僕がその心配を晴らす義理など、何もないのだけれど。