料理とエサの違い
今日、たまたま家に居たときに、よみうりテレビ制作の『ミヤネ屋』を観ていたのだが、毎週火曜のこの番組では、かつて『探偵!ナイトスクープ』で人気を博した林裕人氏の料理コーナーというのが放映されている。林シェフが、料理に悩む主婦の家を訪問して料理を伝授する、という内容なのだけど、あまり何も考えずに、それを観ていたのだった。
今日登場した主婦は、あさりの入った海鮮塩焼きそばが上手く作れないのだ、と言う。まずその主婦に作らせて試食し、それから料理の伝授に入る、という構成なので、まず、その主婦が焼きそばを作るのだが……これを観ていて、僕は絶句してしまったのだった。
おそらくこの主婦は、料理はあまり得手ではないのだろう。だから料理にも力が入らない。まあそれは分からないでもないし、それを責める気は毛頭ないのだが、フライパンに材料を投入するその手つきが、どうにも他に言い様がない程に「ぞんざい」なのである。麺を入れるのにも、まるでフライパンの底面に叩き付けるが如く「放り込む」のだ……これを観ていて、何か、哀しくなってしまったのだった。
僕は別にグルマンを気取っているわけではないのだけど、まあ自分でも普通に料理を作る。おそらくUよりも僕の方が料理は上手いと思うのだが、しかし、Uも、こんな作り方はしない。もしそんなことをするようだったら、おそらく一緒には居られないと思うのだ。僕自身も、勿論そんな作り方はしない。したことがない、というよりも、そういう作り方をするなど、考えもしなかった。
料理を作るということは、作ったものを食べる、ということである。主婦だったら、その料理を旦那と一緒に、そして子供と一緒に食べるのだろう。誰かと一緒に食べるものは、それを食べるということが、ほんの少しでもよりよい生き方に繋がるように作る。そういうものとして食べてもらえるように、そして自分でもそういうものとして食べられるように作る。そういうものだと思うし、そうでないのだったら、そもそも作る意味がないと思うのだ。
たとえば、最近僕は料理にかける金をケチっていて、今日は出先でたまたま覗いたスーパーで、1個の 1/4 になった冬瓜が見切り品78円の値札が付いていたのを買ってきた。で、皮を剥いて、ワタを外す。身はちょっと大き目に切って、鶏肉を叩いたものを炒りつけたものと一緒に鰹出汁で煮て、醤油と塩、生姜の絞り汁で味を整えて餡を引いた。皮は千切りにして、胡麻油と鷹の爪を入れたフライパンで炒めて、醤油と味醂で味をつける……要するにキンピラである。ワタは、切り分けてからワカメと合わせて、土佐酢で和える。冬瓜のそぼろ餡掛け、冬瓜の皮のきんぴら、そして冬瓜のワタとわかめの土佐酢和え。冬瓜のフルコースである。
鶏肉にしても、他の調味料にしても、まあ金額は知れたものだ。本当に、今夜の料理には金がかかっていない。けれど、この残暑厳しい折に、こういうものを食べて、暑さの中を元気に生きていきたい。そう思うから、こういうものを作るわけだ。食べるものには、ほんの少し先の未来への思いがこもる。だから、ぞんざいにしたくないのだ。
かつて僕が共同研究をしていた某大学の OB に F 君という人がいる。彼は今アメリカで仕事をしているのだが、最近の彼は冷凍のアジフライを揚げて、タルタルソースとウスターソースをかけて食べるのがささやかな楽しみになっているらしい。彼は少し恥ずかし気に、そのことをブログに書いていたけれど、人が心を保つ上で、こういうささやかな行為は無視し難い程に意義深いものだ。ソウルフードとはよくも言ったもので、人は、ささやかな食の支えがあれば、過酷な状況においても魂が折れることを避けることすらできるのだ。
今日、テレビで観たその主婦が、まるでゴミをゴミ箱に放り込んでいるようなぞんざいさで、フライパンに蒸し麺を放り込んでいる光景を目の当たりにして、そういう食の機微とでもいうようなものを根底から否定されたような気がした。この国が、金の多寡の問題ではなく、ここまで貧しくなってしまったのか、と、ただただショックを受けたのだった。